2016年1月5日火曜日

一本針の腕時計

     「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な事件」
                        フリードリヒ・ニーチェ
         

 深夜、しばらく湯に浸かろうと浴槽に入ると、脇の桶の中にカード会社の情報誌があったので、温まりながらページを繰った。いつも、妻は雑誌を見ながら入浴する。それが置かれたままになっていたのだ。
 たいていの記事には興味が持てないが、高価な商品の広告は入浴時の暇つぶしには悪くない。カード会社の雑誌にはけっこうな高級品の広告が並んでいるものだし、商品が鮮明な写真や気取ったミニエッセーとともに紹介されているのはなかなか楽しく、場合によっては小さな充実感さえ味わえる。時計にしても、バッグにしても、ハーレー級のバイクにしても、高級品を買う嗜好は私にはないので、自分のための実地の役には全く立たないのだが、仮に買うとするならば…という視点を仮想して眺め続ける。このページのものより、むこうのページのもののほうが自分にはいいようだとか、質はどうだとか、ウィンドウ・ショッピングよりもいい気な誇大妄想ショッピングを脳中で展開するわけで、時計の値段など、数十万円などというのは安いほうで、数百万円はざら、一千万円を超えるものさえ範疇に入れて、ああでもない、こうでもないなどと考えてみるのだから、お気楽この上ない。
 そんなふうに見るうちに、アントワーヌ・プレジウソというデザイナーが作った《シエナ》という時計に目が止まった。デザインはシンプルで、一見、地味である。高級時計としては値段も安く、74万8000円しかしない。はじめは、実は、つまらない時計と感じて、飛ばして次のページに進んだのだが、しばらくしてから戻って見直したくなった。「世界一優雅な時計」とコピーにある。74万程度の値段の癖に、なに言ってんだか、と思ったが、広告文を読み、写真をよく見直してみて、どこが「世界一優雅」なのかわかった。
 針が一本しかないのだ。
時針しかない。分針がない。もちろん、秒針などない。今、何分何秒かなど、この時計ではわからない。はじめから、「大体の時間しかわからない」ようにできていて、さらに広告文に従えば、「この時計を所有できる人は、もはや分刻みのスケジュールから解放された人である。そして、古の時計に夢を馳せ、優雅な時間を楽しめる人」だということになるらしい。
もちろん、この広告文は間違っていて、書き手が、ヨーロッパの有閑階級がどれほど腕時計をしないものか、実地で見知っていないことがすぐにわかる。時計そのものを付けたがらないのだから、いくら時針だけのものを拵えたところで腕に巻きたくなるわけがない。有閑階級ばかりでなく、ふつうの庶民階級であっても、ヴァカンスなどの際、フランス人たちなどは腕時計を捨て去る。それどころか、日常生活の中でも、腕時計などしない人たちが多い。時間など、知りたい時には、街ですれ違う人に聞けばよい。
こんなふうだから、欧米の商品を日本人に紹介するのはなかなか難しい。ちょっと気取った宣伝文句を書こうとすると、すぐに経験の浅さが露呈する。発想が日本人ふうだということなど、すぐに臭う。だいたい、腕時計など、喜んで付けるのは日本人かアングロ・サクソン系ぐらいの隷属趣味の染み込んだ人種なので、この書き手、どうやら、ラテン系の恐ろしいまでのいい加減さを知らないらしい、とすぐにわかる。フランス人など、毎晩、ベッドに入る時には男女とも全裸になることが多いが、とにかく、なるべく体になにも付けたくないというそんな連中が、ちょっとやそっとのデザイン的な小細工を施した程度で腕時計を喜ぶわけもない。
ヨーロッパはフランスばかりではあるまい、などと反論が出るかもしれないが、そういう反論そのものが、実はヨーロッパについての最大の無知を露呈することになる。ヨーロッパとはフランスのことであって、さらに言えばパリのことである。乱暴な話のようだが、パリやフランスを除いてヨーロッパを語り得るかと考えてみれば、すぐにわかる。そんな概算も含めて、外国についての知というものは成立してくるのだ。
この《シエナ》という商品は、神の手を持つ時計師と言われるアントワーヌ・プレジウソが、シエナのカンポ広場に聳えるマンジャの塔の時計に感動して成ったものだという。14世紀、ヨーロッパに機械式時計が広まっていったが、そのうちのひとつで、当時はほとんどが一本針だった。《シエナ》という腕時計は、それを再現しようとしたものらしい。それとともに、一本針で足りていた時代の精神やゆとりをも再現しようとしている、と広告文の書き手は導いていきたいらしく、最古の時計である日時計も針に当たる部分は一本だったし、昔はそれで十分だった、などと書き続けていく。広告文だから、世界に高級腕時計は無数にあるとはいえ、時針一本の格調高い腕時計はこの商品ぐらいですよ、という結論が読み手の頭の中で響くようにできている。
湯船に浸って、いい加減な頭で眺めていると、なるほど、そんな時計はこの商品ぐらいしかないかもしれない、と思えてくる。そういう意味では貴重な一品で、それゆえに欲しがる腕時計マニアも居たりするものなのか、と…

とはいえ、私は以前、これとは別の一本針の腕時計を見たことがある。自分の腕に付けたことはないが、手に取って見たことはあった。今、湯に浸かりながら見ている時計の写真よりよほど繊細な作りだったのを覚えている。時計の持ち主によれば、それは唯一の試作品とのことだったが、中のムーブメントはしっかり作られていて、量産はできないものの、その現物一本だけはずっと使えるはずとのことだった。

懐かしい遠い話である。
青春のみぎり、勤め先を次々替えて生き延びていた頃、ようやく落ち着いた勤め先で奇妙な仕事を頼まれたことがあった。会社に入って数か月後、本業とは全く違うことなのだが…という話で、社長室に呼ばれた。大男で精悍な体躯の社長は、私が文科出身で、しかも殊のほか文芸趣味の強いらしいのを見込んでのお願いなのだ、と言い置いてから、奇妙な頼みを切り出した。
蓼科高原に別荘があり、そこにひとりの老人がいる。元気そうだが、じつは末期ガンに罹っていて、長く保ったとしても数年ほどの余命だろう。その老人の世話を引き受けてはもらえないか。月々の給与はちゃんと出す。それどころか、社で普通に働いてもらうよりも遙かに多めに支払う。おそらく、一年もせずに亡くなることになろうが、そうしたら、また社に戻ってきて、普通の業務に就いてもらいたい。
こういった内容の話だったが、もちろん私は、看護師免許など持っていないし、病気のお年寄りの世話のできるような心得は全く持っていない、と答えた。すると社長は、そんなことは気にしないでいい、ちゃんと看護師が付いているから、身体的な看護はそちらに任せればいい。君に頼みたいのは、精神的な世話とでもいうか、秘書的な仕事とでもいうか、そんなことのほうで、なにも心配するには及ばない。ただ、我儘な老人なので、昼夜を問わず、なるべく頼みを聞き入れて世話をしてやってほしい。睡眠や食事の時間は、もちろん、ちゃんと取ってもらってかまわないが、老人がもし夜中に君を必要とするような場合には、悪いが、うまく生活を合わせて付き合ってやってもらいたい…
頼みのかたちで切り出されたとはいえ、入社して数か月の新入社員にとっては社長命令に等しいもので、私はすぐに受け入れて、その週のうちに下宿を引き払い、蓼科高原に赴いた。
待っていたのは93歳の温和な老人で、私に任された仕事の内の主なものは、彼のために本や新聞の朗読をしたり、彼が執筆するのを補助したり、資料探しをしたり、時には代筆したりという作業だった。老人は作家だったのだ。しかし、全く無名の。彼は一冊も出版していなかったし、仮にどこかの出版社に原稿を持っていったところで、本になるはずもなかっただろう。日本の文芸界の抜きがたい感傷性好みは、世界文学を好む者なら誰でも知っているが、そんな文芸風土には全く向かない作風だった。彼の作品は、しかも、19世紀風の小説の型には収まらないもので、ジョイスやプルースト、フォークナーなどの後で書いているのを強く意識したもので、散文から詩になったり、論文ふうに変わったり、断章が並んだかと思うと、また散文になって、延々数十ページも風景描写が続くといった塩梅で、若かったとはいえ、様々な文学作品を見てきていた私には、現代文学の最前線に果敢に挑んでいる作品と見えた。少なく見積もっても、クロード・シモンの凄みには拮抗しているように感じられた。幾つかを平行して創作していたが、私が到着した時点で、すでにどの作品もドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』より長かったし、一作などはプルーストの『失われた時を求めて』より長いのではないかと見えた。日本のこんな高原で、友もなく、読者もなく、批評もされず、たったひとりの頭脳だけでこんなに大量に書き続けているという事実に私は圧倒され、敬意や脅威を持つというより、壮絶な哀れさを豪雨のように浴びた気持ちになった。彼の書き継いでいるこれらが、どうしようもない下らないものだったら、私はかえって楽だっただろう。その場合、自分の能力の無さや執着の異常さに自ら気付けない老人が、老いの日常を創作という夢に縋って書き継いでいるというだけのことになり、ひとつの症例として見続けていけばいいからである。しかし、すぐに全容を見通すことはできなかったとはいえ、私が目のあたりにした部分だけを見ても、彼の執筆しているものは、決して軽んじ得るようなものではなかった。すぐに惹き込まれるとか、感動するとか、感心するとか、そういった文章ではないが、これは私などを遙かに凌駕した精神から出てきている言葉の奔流だということぐらいはわかった。
老人が、若過ぎた私では到底太刀打ちできないようなレベルの文学者であるということはそれでいいとしても、全く発表もされない厖大なこれらの紙束の増加を、いったいどうしていけばいいのか。社長が言ったように、本当にこの人が数年以内に、あるいは一年以内に亡くなっていくのだとしたら、彼が書き溜めたこれらの言葉はどうなるのか、どう扱われるべきなのか。他人事ながら、それを思うと、ひどく心細い気持ちになり、眩暈がするようだった。
しかも、これはさらに私の能力を超えた話になるが、老人が執筆に用いる言語は日本語だけではなかった。リヒティエン・ムーキェイという名のこの老人がどこの人なのか、じつは私はとうとう聞き出せないで終わってしまったのだが、ヨーロッパ生まれで、長くフランス語で暮らし、英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、ロシア語で物を書き、ラテン語やギリシャ語を理解していたのは、身近にいながら見てとれた。韜晦趣味の深く染み込んだ文学者だったので、「私は何人でもない。私には国籍はない」などと嘯いていて、とうとう最後まで詳しいことは教えてもらえなかったが、ドイツ語の趣のある姓名や、そのわりにはドイツ人らしくない雰囲気、どちらかといえばフランス中心の教養のあり方などから、複雑な背景が想像された。
彼はよく詩も書いたが、日本語だけでなく、フランス語や英語、イタリア語でも書いたので、朗読してくれながら、
「マサキ、君に日本語しかわからないのが残念だ。今日書いたこの詩の響きを君に確かめてもらえたらと思うんだよ」
 そんなふうに、よく私に言ったものだった。私が各国語の習得に強い興味を、というより、衝動を、義務感を、切迫感を持つようになったのは、この人のそばにいたからだった。
 
 私が以前に見た一本針の腕時計というのは、この老人作家、リヒティエン・ムーキェイが持っていたものだった。普段は腕にはしていなかったが、散歩に出る際に腕につけた。
 珍しい一本針なのを自分でも楽しんでいたし、私にもよく見せてくれた。彼の従妹のひとりが、20世紀前半、女だてらに時計職人を志し、変わったデザインの時計をいろいろと試作したうちのひとつだということで、世界にたった一本しかない一本針の腕時計なのだ、と彼は言っていた。
「その従妹は、どうなったんです?」
 こう聞いたことがあったが、
「ああ、彼女はね、マサキ、彼女は…」
 そう言ってリヒティエンは、白樺の林の上のほうを仰いで、言葉に詰まってしまった。話しづらいことも、いろいろあるのだろう。私はその後、それ以上、彼の従妹について聞くことはなかった。
散歩の時、高原の林や、草原の脇を歩きながら、彼は時々、この時計を覗いた。なるほど、リヒティエンは分刻みの生活を強いられていたわけではなく、だいたいの時間さえわかればいい生き方をこの頃はしていたので、持ち主としてはうってつけだったかもしれない。時計など見なくても、空や風景の光の移り行きを見ていれば、だいたいの時間はわかったほどなのだ。時計の文字盤を見る時、リヒティエンは、周囲の雰囲気との一致を確かめるようにしていたのではないかと思う。
アントワーヌ・プレジウソの《シエナ》の広告文には、「実はこの時計では、大体の時刻しかわからない」とあるのだが、実際に何度もリヒティエンの腕の時計で時間を読み取った私の経験によれば、これは全くの嘘であり、大きな間違い、完全な錯誤である。時針一本だけの時計でも、何分かはかなり正確に読み取れる。
文字板には1から12までの時刻表示の間に、たいてい、30分を示す表示が付けられている。そうであれば、時の表示と30分の表示の間の空間の真ん中は15分ということになる。15分の表示となる点や線がなくとも、それを目算するのは容易である。あるいは、時の表示から30分の表示までの間を目算で三等分するのも存外に容易で、現在時が0分から30分の間のどのあたりかを知るのは、実はそう困難なことではない。見慣れてくれば、分単位でかなり正確な時間が直感的に把握できるのだ。

 リヒティエン・ムーキェイのことや、当時の私の生活のことについては、いわば、一本針の時計のような趣で、ここで私は中途半端に語りを止めるつもりである。もののわかりやすさや、ある対象についての最低限の把握を重視するかぎり、これはもちろん好ましからぬ文章姿勢なのだが、一本針の時計について語り出したかぎりにおいては、個人的な人生上の情報について、十分な開示を行ったものと感じる。
しかも、語りを形成するとりあえずの筋の役割を担った一本針の時計に倣って、話の分針に当たるものも秒針に当たるものも意図的に抜いておくというのは、実用文や論文の類を逸れようとする散文行為においては、なにより推奨されるべきものと言われるべきでもあろう。「論文は、書かない」というニーチェの宣言をここでうっかり思い出したりするのは不遜の極みであろうが、ボルヘスやレイモン・クノーの味わいを呼び起こしながら、「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な事件」である『ツァラトゥストラ』を、世間が「一種の高級な文体練習」としか受け止めなかったとニーチェが苦く感じていたことぐらいは思い出しておいてもよいかもしれない。
私は「一種の高級な文体練習」を装いながら、リヒティエン・ムーキェイとの出会いと日々という、あの「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な事件」の片鱗を、今、はじめて言葉に落とし、…そうして、ここでは猶、片鱗以上のことは言うまいと努めなければならないと感じているのだが、それでも、なぜあの会社の社長が、リヒティエン・ムーキェイの世話をしていたのかについてだけは、少し記しておかねばならない。社長の「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な」恋人がリヒティエンの姪だったためであり、このことは社に帰ることになった後に、社長自身の口から聞いた。
もちろん、それ以上のことを今の私は知っているが、それらについて語るには、珍しい時針のみの腕時計をめぐって、たいした準備もせずに不用意に書き出してしまったこの小文とは別の、もっと長い周到な散文を器として準備し直す必要が、どうしてもある。

2015年12月12日土曜日

国立劇場十二月公演『東海道四谷怪談』

この頃、歌舞伎はつまらなくなった気がして、少し足が遠のいていた。それでも、鶴屋南北のものが掛かると、やはり落ち着かなくなる。お岩に引き寄せられたか、国立劇場十二月公演『東海道四谷怪談』に、するすると出かけていってしまった。大好きな狂言、どうせ見るからには、間近で見る他ない。前から二列目に陣取り、じっくりと。南北は昔、舞台際の席をかぶりつきと呼んだが、それは一列目だけを云うのか。二列目あたりも加えていいのか。

冒頭、染五郎が鶴屋南北となってせり上がって来て、導入の口上をするところからして楽しかった。工夫横溢。お岩のお化け姿もたっぷり何度も出てくれて、怪異好きにはうれしい。怪談としては、ずいぶんこってり作ってくれている。せっかく怪談を見に行っても、お化けの出どころが今ひとつ足りないと、がっかりさせられる。2015年の世の中、百鬼夜行の世間に負けないよう演出が頑張ったらしい。
今回のは染五郎歌舞伎というべきで、ひとり三役、早がわりも宙釣りも提灯抜けもあって、くるくるとよく動き、頑張っている。彼のお岩に、父幸四郎の民谷伊右衛門が合わせてくるのが、全編の軸になっている。

とはいうものの、染五郎のお岩、いいのか、悪いのか。
脚本を読む時に自ずとこちらの脳中に動き出すお岩というのは、なかなか簡単な女ではなく、たゞ従順に忍んで伊右衛門を支えるような性格ではない。複雑な意思も覚悟もあっての、伊右衛門との貧困生活を耐える女である。軀がちゃんとあり、江戸の女の肉がある。そういうお岩の顔が爛れ、髪がズルッと抜け落ちるからこその凄みや哀れがこの作品にはあるのだが、染五郎のお岩はどこか抽象的で、生身とはいまひとつ違う空虚な女のまゝ、面倒なほどの生活観もわずらわしくなるような人格も、今ひとつ十分に滲み出ては来ない薄っぺらさがある。
 しかし、これは染五郎だけのせいではない。
我儘に舞台を想像しながら、ひとりで脚本を読む時に立ち現れてくるお岩を超え得るようなお岩など、いろいろ見てきた舞台上の『東海道四谷怪談』において、誰ひとり見せてくれたことはなかった。今は昔、シアター・コクーンでの勘三郎の『東海道四谷怪談』など滅法楽しかったが、お岩のリアルさはどうかといえば、そこは不問に付すのが嗜みというものだった。
こんなふうに舞台を重ねて見ていくうち、不満というのはどんどん溜まっていくもので、いつか、歌舞伎は脚本を我儘に読んで、思うさま舞台を想像していくことこそが最高のつきあい方と思うようになった。役者たちがいけないというのではない。歌舞伎というものに内蔵されている、本質的な欠陥のようなものが気になる。そんなところかもしれない。

うちの母や祖母あたりは四代目雀右衛門や六代目歌右衛門のお岩が怖くて怖くて、夢に見たと言っていた。下谷小学校第一期生だったという曾祖母ともなれば、これはもう、くっきりと明治の女で、江戸時代より下谷にあった大きな筆屋の池田屋のお嬢さんだったが、彼女あたりは、五代目菊五郎の凄いお岩を見ていたかもしれない。
そういう往時のお岩と比べると、1970年代終わりより私が見続けてきた昭和平成のお岩は、どうもペラペラ感が強いような気がする。『四谷怪談』のような劇にどうしても必要な“垢”のようなもの、貧しさと不遇に喘ぐ人間たちから取り除けないはずのくたれ具合、ヨレヨレ感が、バブルの泡沫を通過するあたりでか、それとも平成のコンビニ文化や表層的接客マニュアル文化によってか、やさしく拭いとられてしまった気がする。

とはいえ、今回の『東海道四谷怪談』では、幸四郎演じる民谷伊右衛門とお岩のやりとりの場で、双方のいろいろな思惑や感情が混じりあったまゝ、自然な暗い沈黙がしばらく領する場面が何度かあって、よかった。あゝ、これぞまさに芝居、いい時間を醸し出してくれた、と感じた。架空を超えるどころか、こちら側の生の現実をもしばし超える劇のリアルさが出現する時間で、こういう時間がちょっとでも得られれば、芝居は成功なのである。小説であれ劇であれ、いいもの、成功した瞬間というものは、こちら側の日常の生も、じつはたゞの一片のフィクション程度のものに過ぎない、と思わせる。創作物の功徳は、古来、ここにこそある。
 大詰第四場、「鎌倉高師直館夜討の場」もよかった。雪の降り続ける中での斬り合い、格闘、乱闘の素晴らしさ。こんなに紙の雪をふんだんに降らせる長い演出は、最近では珍しいのではないか。今回の公演では、これこそが最大の成果というべきで、『東海道四谷怪談』という狂言さえ、しばらくどこかに飛んでしまうほどの夢幻境であった。劇の中心軸をなす筋や、人物たちのもつれ合いさえ、どうでもよくなって後景に退いてしまうような瞬間が、歌舞伎の上演中にはしばしば降臨する。あれはいったい、なんであろうか。観客はすでに自分の人生など離れ、かといって、劇中の人生たちからさえも離れ、舞い乱れる紙吹雪ばかりを世界とするのだ。歌舞伎の醍醐味というのは、あらゆる意味や物語のほつれた場所に、こんなふうに連れて行かれてしまうところにこそ、あるのではないか。      
前の方の一列目はもちろんのこと、二列目あたりに座っていてさえ、あの四角い小さな紙の雪は乱れ落ちてくる。舞台上の人物たちと同じ雪を、同時にこちらも受ける時の印象は、ほとんど衝撃といってもよい。夢が、フィクションが、肩に、腕に、降りかかり続けるのである。

2015年8月5日水曜日

どこで「ついて」を捨てるか


 批判ということを考える際には、たぶん、ヘンリー・F・チョーリイがメルヴィルの『白鯨』に下した呵責ない断罪文が、最も深甚な教育的効果を持つ。以下がそれである。

  これは、創作と事実の羅列がごた混ぜになった作品である。多様な要素を集め、結びつけ、ひとつの物語にするつもりだったのだろうが、執筆しながらたびたびそれを試みようとしつつも、諦めてしまっているのが見てとれる。著者の文体は、方々に現われる下手くそな、というより、変な文章で台なしになっており、破滅的な結末の処理のしかたは急ぎ過ぎていて、説得力もないし、わかりにくい。貶すにせよ褒めるにせよ、この呆れた作品については、これ以上言うべきことはほとんどない。メルヴィル氏のおぞましくも大袈裟な作品が、発狂文学とでもいうべき最低の流派に属する完全なゴミとして、一般読者から見捨てられたとしても、自業自得という他あるまい。作家としての技量を身につけられないという以前に、身につけるのを見下しているとしか思えないからである。
週刊文芸評論誌『ロンドン・アシニーアム』より
 
 メルヴィルの大作が世界的な傑作と見なされるようになった現代、チョーリイはあきらかに分が悪い。しかし、長い空の旅の間にちょっと気晴らしに小説でも読もうか、という人々に『白鯨』を手渡せば、いまだに歓迎されない場合が多いであろうことを思えば、チョーリイのこの批評文に現われたのは、小説における趣味の分断の瞬間であり、相容れない流派どうしの截然たる分岐点出現の瞬間である。
メルヴィルが自らの創作を以て否定し去ろうとし、時代遅れにしてしまおうとする古い趣味の系統を、チョーリイは守ろうとしている。詩歌や小説が芸事の世界のことである以上、そういう態度を否定する根拠はない。演劇というカテゴリーの中で、能や浄瑠璃は駄目で歌舞伎こそが新たな総合表現である、という主張は愚かしい。チョーリイが守ろうとする小説群よりもメルヴィルのほうが面白い、そう感じる人はそちらの贔屓になっていくというだけのことだ。
芸術や文芸の鑑賞者たちには、こうした点で物わかりのよくない者たちも多い。こうあるべきだ、そうあるべきだ、とりわけ現代の作品は云々、といった批評に日々あまりに多くの言葉が浪費され続けているが、創作作品は、創りたい人が好きなように、好きなかたちで、好きな内容を、好きなかたちで創ればそれでいいので、出来上がったものを他人がどう好み、どう嫌うか、それもどうでもいいことである。好きだと思い、貴重だと思う、そんな人々が寄り集まって歓談したり、少し気取った難しめの言語を使って交流しあう“学会”なるものを組織してもかまわない。
反対に、作品や作者を批難する集まりが作られてもかまわないのだが、ロラン・バルトもかつて書いたように、最高の完膚無き批難は視線を逸らすことであり、たゞ目を逸らせば済んでしまうのだから、わざわざ言葉を弄したり理屈を捏ねたりしての批難に時間を費やす必要はないだろう。現代も居るであろう多くのチョーリイたちは、わざわざ宿敵メルヴィルを貶す文を書き下ろすより、自分が称揚したい作家や作品の旨味をこってりと書いていくほうが、本人たちもよほど楽しかろうし、すこぶる怪しい表現ながら、いわゆる“建設的”と見えもするではあろう。もちろん、それとて、“土建屋的”であったり、“箱物的”であるかもしれない難は逃れ得ないのだが。
言わずもがなだが、どこまでも他人でしかない作家や他人事でしかない他人の作品について、すなわち、つねに「ついて」越しに書いたり(言語配列をしたり)、想を練ったり(概念配列をしたり概念網を張ったり)するよりも、自ら作品を立ち上げようとするほうが、芸事としてはいっそう足が地に付いた行為である。他人の視線がこちらを向こうが向くまいが、どこで「ついて」を捨てるか、他人や他人事を捨てるか、芸事の真の問題はこの一点にのみある。


“メッセージ”無化装置としての映画


映画『永遠の0』(山崎貴監督、2013)には、潤沢な経費+人気アイドルも含めての思うままの贅沢な配役+日本人の気持ちを揺さぶる感傷的なツボを幾つも狙った巧みさ…等々の点で注目し、四回見直して検討した。
不要なセリフがけっこうあったり、衣装に問題があったり、もう少しブレッソンに学び直すべきではないかと思わせられるほどの説明しすぎのシーンもあったりして、やはり編集し直して決定版に近づけるべきではないか、と思わされはしたものの、それでも、一度だけ見て去っていくような普通の観客相手のものとしては、それなりにうまく出来た通俗商業映画と言える。
 あらゆる作品を分け隔てなく観る決意をしている映画好きのひとりにとってみれば、予期もしない映像的快楽を与えられるシーンがふいに挿入されることもあって、意外な映画的悦楽に恵まれる作品でもある。
 なにより、まだ演技経験も少ないはずの若手の俳優たちが、ベテランの年配俳優たちよりもはるかに滑らかな演技をしている場面が多いことに快く驚かされるだけでも、近未来の日本映画を予想したい者にとっては必見の映画といえる。やはり贅沢な配役で騒がれた三谷幸喜の『清洲会議』などと比べても、はるかに若手俳優のわざとらしくない演技が引き出せている部分が多いのではないか、とさえ思われる。(とはいえ、脇役には下手すぎる俳優たちもやはりいるが…)。

原作小説の作者が現政権寄りでなにかと物議を醸したこともあってか、この映画をあたかも戦争礼讚映画であるかのごとく批評する文が、時おりネット上に散見されるが、歪曲も甚だしい。
 この映画のシークエンス構成の束から発生する説話論的な流れが、あたかもNHKの朝ドラで多用されるがごとき通俗さに堕し過ぎているとか、あまりに手垢にまみれた常套であるとか批評するのならそれなりに首肯もできるが、特攻を称賛しているわけでもなく、特攻隊員たちを英雄化しているわけでもないこの映画を、わざわざ戦争礼讚映画として否定し去ろうという、いわゆる“平和主義者”たちの心理の異常さには驚かされるばかりか、そうした人々が持つ創作作品への鑑賞力や基本的態度のレベルの低さには薄ら寒ささえ感じさせられる。
 こういう人々は、マルクス兄弟の『我輩はカモである』さえも戦争礼讚映画として見てしまいかねないのではないのか。フェルナンデルが主演したアンリ・ヴェルヌイユ監督作品『牝牛と兵隊』などは事実に基づくものらしいが、これも戦争の過酷さを甘く見すぎているとでも批評しかねないのではないか。ロッセリーニの『無防備都市』や『戦火のかなた』は、逆にリアルさのゆえに現代日本では禁じるべきだと主張するかもしれないし、なにより、あの素晴らしい『兵隊やくざ』シリーズをテイスト的に頭ごなしに否定しようとしてしまうのではないか。もちろん、園子温監督の『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』などをお茶の間で息子や娘たちと鑑賞するなどとんでもない、などと叫びかねないだろう。

後から後から膨大な数の映画が作られ続けている現代なのだから、ひとつの映画を、その映画が利用した駒のひとつに過ぎない素材の、それも一面から見ての反射具合にばかりかかずらわって、ご丁寧にも物好きにも、寄ってたかって舌たらずの非難を浴びせている暇があるのなら、同じ時間を使って10や20の別の映画を見てしまうべきなのであり、そうする中で、二度と或る映画には意識が戻らないとか、言及さえしないとかいうことが起こったならば、それこそが、まさにひとつの映画に対する真の断罪であるはずだ。映画を映画的に批評しないで、どうするのか。観客がどう怠惰な鑑賞ぐあいからトボケまくった印象を持とうが、監督がどんな“メッセージ”を潜ませたがろうが、原作者がどんな偏向思想を持っていようが、映画なるものは、あらゆる「作品」と同様、いかなる“メッセージ”をも無化し、予期もしない多様な意味や錯乱を呼び込み続けてしまう、危険きわまりない、かつ、混沌と浄化を同時に発生させ続ける天界的な装置である。或る映画を批難するなら、さらには否定し断罪しようとまでするなら、そもそも映画が、小説や詩歌などと同様、社会的であれ倫理的であれイデオロギー的であれ、いかなる“メッセージ”伝達においても、どこまでも裏切り続けるモノであることを、考察の前提にしっかり置いた上ででなければならない。



2015年3月29日日曜日

ある紀要論文を読みながら



 ルソーJean-Jacques Rousseauの『社会契約論Du contrat social』におけるプランスPrinceという言葉を、概念面からどう捉え、どう翻訳すべきか。このことをめぐって、中江兆民以来の邦訳を検証しつつ書かれた紀要論文*を読んでみたら、なんとも御苦労なことだとは思いながらも、論者の思考法や手続き、フランス語の理解に関わるものまで含めて、あまりに問題点が多く、他人事ながら溜息が出た。

 明治以来の訳語の検討は、もちろん、それ自体で翻訳史の試みとなる。訳語はそのまま理解のしかたの表現だから、近代政治の根幹をなす思想書の考察において、Princeがどう訳されてきたかを調査し検討するのにはそれなりの価値がある。
 しかし、Princeの概念を再考したり、その可能性を考察するという場合には事情は異なる。文学作品の訳と違い、社会思想系の大著の訳においては、新しい訳は過去からの読解や研究の積み上げや訳語の再三の検討や照らし合わせの上でなされることから、Princeという言葉にルソーが込めていた概念的可能性を検討し直すのには、ふつうは、新しめの翻訳を二三参照すればいい。研究や翻訳紹介というのは、人類同朋の便宜を図って最良最新の知見をスマートに提供するというのがそもそもの暗黙の前提なのだから、専門外の人間は、とりあえずは素直にそれに従っておけば済む話である。

 そもそも、Princeという言葉については、ルソー自身が『社会契約論』の第3篇第1章で、「政府」を説明する際に定義している。
「政府」は「民たちと主権者とのあいだに、相互の連絡のために設けられ、法の執行と社会的および政治的自由の維持とを任務とする中間的(中位的・仲介的)団体」であるとルソーは定義しているが、これに続けて、「この団体の構成員たちは、行政官たち(マジストラMagistrats)または国王たち、すなわち支配者たち、と呼ばれる。また、この団体全体はプランスPrinceという名称を持つ」と述べている。
 一般的にprinceという語は、君主、帝王、王子、親王、王族、公爵、大公などとして理解される場合が多いが、ルソーはこの語を行政執行者たちや支配者たちの団体に宛てている。要点は、複数者が一者となった状態に対して宛てている点にある。ここから、ルソーの用語づかいの特異性が指摘されることになるのだが、少なくともprinceについては、彼の定義により、概念上は明快である。
 この語には、岩波文庫版の桑原武夫・前川貞次郎訳でも、白水社版の作田啓一訳でも、「プランス」というルビが振られたり、括弧に「プランス」と表記された上で「統治者」という訳語が宛てられている。『社会契約論』の忠実な読解に立って、ルソーが込めた概念上の構造さえわかっていれば、訳として申し分ないだろう。
 こう見れば、現代の政治思想の創出の場において、ルソーのprinceの訳語を検討し続ける作業にはあまり意味がない。せいぜい、比較文学的な翻訳史に留まっておけばいいので、明治以来の訳語の数々について論評し続けても、衒学趣味に陥るばかりである。当該の紀要論文は、まさにこの衒学趣味の長々とした実践となっており、研究や考察と呼ばれはしつつ、実のところは膨大な時間と労力の浪費と塵労に過ぎぬものになっており、読者にただ溜息を吐かせてやまない。

 他人の衒学趣味につき合う必要はないものの、そこで用いられる思考や視点が誤っており、しかも、それがこちらの関わっている領域にリンクしている場合には、やはり、いささか気になる。この紀要論文に見られたそうしたもののうちのひとつを記しておこう。
 フランス語の主語代名詞tuについての論者の理解についてである。

込み入った箇所に関わることながら、面倒な論述は省いて簡明に述べたい。
ルソーは、『社会契約論』の第2篇第5章「生と死の権利について」で、このようなことを書いている。作田啓一訳を引用する。
「ところで、市民は法によって危険に身をさらすことを求められたとき、もはやその危険について得失を判断する立場にはない。そこで、統治者(プランス)が市民に向かって、『おまえの死ぬことが国家に役立つのだ』と言うとき、市民は死ななければならない。なぜなら、この条件においてのみ、彼はそれまで安全に暮らしてきたのであり、また、彼の生命はもはやたんなる自然の恵みではなく、国家からの条件つきの贈物だからである」**
統治者(プランス)が市民に言う「おまえの死ぬことが国家に役立つのだ」は、原文では、quand le Prince lui a dit, il est expédient à l'Etat que tu meures, il doit mourirとなっている。
二人称単数の相手を指すのに、フランス語ではテュtuとヴvousのいずれかを用いる。基本文法に属する話だが、現代のフランス語では、ていねい語表現で話さないでよい相手にテュtuは使われ、対象は家族や親しい友人などになる場合が多いことから、「きみ」「おまえ」「あなた(日本語の「あなた」は融通無碍である)」などの訳語があてられる場合が多い。他方、ていねい語で話すべき相手、すなわち、敬意をもって、あるいは警戒や敬遠などの別の理由で距離をとって話すべき相手にはヴvousが使われ、日本語では「あなた」「あなたさま」などをはじめとする語で訳される場合が多い。ヴvousは二人称複数も表わし、「あなたたち」「きみたち」「おまえたち」など、ていねい語の有無の両方を含めた意味を持つ。
論者は、ルソーがここで「vousという語でなくtuという語を選択した理由は何か」と問題にしている。なぜ、統治者(プランス)は市民に、「あなた」と訳せそうなヴvousで語らずに、「おまえ」と訳せそうなテュtuで語ったのか、という問いである。
論者はすぐに、「Princeとcitoyenの独特な関係を認識していなければその理由を理解することはできない」と述べ、このふたつの関係の検討に移る。
「Princeとcitoyenの関係は他人関係、他人関係を前提とする上下関係ではない。Princeとcitoyenはassocié***であるmagistratの集合体であるPrinceとassociéであるsujetの関係である。最終的にはassociéとassociéの関係である。それゆえ、親しい間柄のassocié(associéであるmagistratの集合体であるPrince)がassocié(associéであるsujet)に向かって、vousではなくtuという語を選んで呼びかけることに違和感はない」。
こうした面倒な論述がなされていくのだが、ここでの要点は、統治者Princeと市民citoyenは「親しい間柄」同士なのだから、市民に対してテュtuが使われても「違和感はない」という点にある。論者はここで、テュtuは親しい二人称単数に向けて使用されるという概念で、ルソーの表現を理解しようとしている。
統治者たちの団体プランスPrinceと一市民citoyenとが「最終的にはassociéとassociéの関係にある」という理解は、プランスが単数形のassociéではなく複数形のassociésでしかあり得ない点を無視している。ルソー的プランスの形成要件である複数性と単一性の合致を無視しているわけで、根本的な過ちを犯していることになる。
論者はさらに、「Princeとcitoyenの関係を正しく認識していなければ、その前に、Prince概念とcitoyen概念を正しく認識していなければ、tuという語を正しく翻訳することもできないのである」と続け、中江兆民らの「汝」という訳も、桑原武夫らの「お前」という訳も、作田らの「おまえ」という訳も「問題である」と言う。それらは「上から目線の翻訳語」であり、こうした訳語を用いるのは「Princeとcitoyenの関係を他人関係、他人関係を前提とする上下関係と認識している翻訳者たち」だと断じる。
テュtu=「親しい間柄」という考えに基づきながら、こうして論者は、ずいぶんと論の射程を拡げてきたことになるのだが…

しかし、論者には残念なことながら、ルソーがここで用いているテュtuは、基本文法で習うような、親しい二人称単数にむけてのテュtuなのではない。
これは18世紀以前の語法ではたびたび出会うテュtuであり、詩的文体において強い感情の発露を示すもので、「汝」や「御身」などの訳語が十分ふさわしく映るような用法である。
なるほど、強い感情を持たざるをえない相手という意味でなら確かに「親しい間柄」に対して発せられもするだろうが、そうでなくてもよいわけで、そこに意味上の拘束点はない。テュtuは、神や帝王にむけても発せられ、崇拝感情を表すものであるのを思い出せば、論者が、どれだけ狭い限られた概念でテュtuを見、苦しいルソー理解を捏造しようとしていたかが露わになってしまう。
エミール・リトレの仏語辞典(1958)****には、「尊敬表現としてのこのtuの使用は、一人だけの人間に対してvousを用いることのなかった古い話し方への回帰である」との説明も見られる。

どこまで行っても外国語は落とし穴だらけ、それをベースにして行う作業や研究はまことに冷や汗ものの厳粛な綱渡り、とでもいう、わかりきった教訓が、あらためて得られたということになろうか。
粗い思いつきから妙な興奮に駆られて、まるで鬼の首でも取ったかのようにして、過去の翻訳者たちの労苦を濫りにクサしたりすべきでもない、という教訓も、やはり得られたということか。
それよりも、考えるべきことを正しく思考対象とすることのなかなかの困難や、自分の思考法を鳥瞰して、適宜、道筋を修正し続けることの困難をこそ思うべきだろうか。





註

*当該の紀要論文名と著者名はあえて当面掲げないでおく。

**「社会契約論・政治経済論」(作田啓一・阪上孝訳、白水社、ルソー選集7、1986)p.39。
該当箇所の原文は以下の通り。
《Or le citoyen n'est plus juge du péril auquel la loi veut qu'il s'expose, et quand le Prince lui a dit, il est expédient à l'Etat que tu meures, il doit mourir; puisque ce n'est qu'à cette condition qu'il a vécu en sûreté jusqu'alors, et que sa vie n'est plus seulement un bienfait de la nature, mais un don conditionnel de l'Etat.》
(Rousseau, Du contrat social, présentation, notes, bbliographie et chronologie par Bruno Bernardi, GF Flammarion, 2012, p.70.)

*** associé、magistrat、sujetに、便宜的に辞書的な訳語を宛てておく。
associé=協力者・仲間・同僚
magistrat=行政官・司法官・執政官(古代ローマ・ギリシアの)
sujet=臣下・臣民・国民・主体


****Emile Littré, Dictionnaire de la langue française tome7, Gallimard/Hachette, 1958.



2014年12月30日火曜日

川端康成の『波千鳥』



 
『千羽鶴』の続編『波千鳥』をひさしぶりに読み返すと、静かな佇まいながら、冒頭もお終いも衝撃的だった。内容がではなく、文の置き方と姿とがである。
このようであったことは、すっかり忘れていた。あるいは、若い時期のがつがつした読書の一冊として、気づかれないまゝに済んでいってしまっていたのかもしれない。

冒頭はこんなふうに始まる。

「熱海駅に出迎えていた車が伊豆山を通り過ぎ、やがて海の方へ円を描くように下って行った。宿の庭へはいっていった。傾いた車の窓に、玄関の明りが近づいて来た。
 そこに待っていた番頭が、車の扉をあけながら、
『三谷さんで、いらっしゃいますね。』
『はい。』
と、ゆき子が小声で答えた。横づけになった車で、ゆき子の席が玄関に近かったからだが、今日婚礼したばかりの、三谷の姓で呼ばれるのは初めてだろう。
 少しためらって、やはりゆき子が先きにおりた。車のなかを振りかえるように、菊治を待った。
 菊治が靴を脱ぎかかると、番頭が言った。
『お茶室をお取りしてございます。栗本先生から、お電話をいただきまして。』
『はあ?』
 ふっと菊治は低い玄関に腰をおろした。女中があわてて座布団を持って走り寄った。」

 驚くべき文章である。『雪国』の冒頭が日本語として普通ではないとはよく言われ、静かながら、アルベール・カミュの『異邦人』なみに衝撃的な文章として有名だが、この『波千鳥』の冒頭も異様な文章である。駅から宿に向かう、滑り降りていくような車の動きをよく伝えているが、同じ内容を表現しようとする時、川端以外の者であったなら、このように書く勇気は持てないだろう。
「熱海駅で出迎えていた車は伊豆山を通り過ぎていった。やがて、円を描くように海の方へ下って行った。宿の庭へ入ると、傾いた車の窓に玄関の明かりが近づいて来た。」
このようにでも書いてしまうのではないか。
 少なくとも、「熱海駅で出迎えていた車」と書き、「熱海駅に出迎えていた車」という言い方は避けるだろう。避けてしまうだろう。「熱海駅に出迎えにいく」とは言っても、「熱海駅に出迎えていた車」とは言いづらい。
 川端のおそろしいのは、こうしたところで日本語を極限まで酷使するところである。曖昧とか破綻というのとは違う。日本語の口語をふつうに使う人ならだれもがわかること、わかっていなければならないことを前提として、表現の省略や合成をふんだんに行う。文語にして奇異に見えるようでも、恐れない。彼の一文は、見えないところで複数の口語の慣用表現に支えられており、海上に覗いた氷山の頂を飛び移っていくように文を編んでいく。

 終わり方も、まだいくらも続くべき話を途中で投げ出したような姿になっていて驚かされる。
主人公菊治が結婚してからの新居を、はじめて新婦の父と妹が訪ねてくる。ちょうどその日に、菊治の父と関わりの深かった茶の師匠栗本ちか子が来て、結婚の祝いの名目で菊治に贈った因縁の深い黒織部の茶碗のことを言う。菊治には、父の愛人だった太田夫人と、みずからも男女の仲になった過去があり、夫人の娘の文子とも男女関係を持った。栗本ちか子も父と関係を持っていたらしい。太田母娘とちか子と父と、そうして自分との関係の滓が、問題の茶器には染み込んでいる。それを承知の上で、ひととなりの清い新婦ゆき子のいる家に、ちか子は贈る。菊治はそれを売り払い、入った金をちか子に返す。ちか子はその金を受け取れないと言って返しに来るのだが、その際の玄関口でのやりとりが小説の終わりのシーンとなる。

「『どうしてこのお金をいただくんでございます?手切れ金とでもおっしゃるんですか。』
『じょうだんじゃない。僕が今ごろ、あんたに手切れ金など出すわけがないじゃありませんか。』
『そうでございましょうね。手切れ金といたしましても、あの織部を売って、それでいただくのは、妙なことでございますからね。』
『あれはあんたのお茶碗だから、売った金を送ったわけだ。』
『私はさしあげたんですよ。菊治さんが御所望でしたし、御結婚のよい記念だと思いましてね。私にはお父さまのお形見でしたが…。』
『僕にその金で売ってもらったと思えないかしら。』
『そら思えませんわ。いくら落ちぶれても、お父さまにいただいたものを、まさか菊治さんにお売りするなんて、この前もおことわりいたしましたでしょう。それに、道具屋へお売りになったんじゃございませんか。このお金を、どうしても受け取れとおっしゃるなら、私は道具屋から買いもどしてまいります。』
 菊治は道具屋へ売った金を送るなどと、正直に書かなければよかったと思った。
『まあ、お上がりになって…。横浜の父と妹とが来ているのですから。かまいませんわ。
 と、ゆき子がおだやかに言った。
『お父さまが…? まあ、そうでございますか。いいところで、お目にかからせていただきます。』
 ちか子は急にやわらかく肩を落すと、ひとりでうなずいた。」
 
 章の終わりならともかく、一編の小説の終わりとしては唐突な印象が強いだろう。新婚の菊治とゆき子にこのように栗本ちか子が絡まってくれば、何ごとか起こらないではいないのが予想される。その準備が整っていくところで、プツッと断ち切るような終わり方である。
 これには物理的といえるような理由があって、新潮文庫に付された郡司勝義の解題によれば、取材ノートの入った鞄の盗難が大きく影響しているらしい。大分県への取材旅行の際に取材ノートを鞄ごと紛失し、続編執筆が不可能になり、やむなく中絶となったとされてきた話だが、実際は、仕事場としていた東京の旅館で、ちょっと席を立った際に取材ノートの盗難に遭ったためという。昭和二十八年の出来事だが、馴染みの旅館の迷惑とならないように公表されなかった。川端の没後六年して、昭和五十三年に明らかにされた。
 とはいえ、『波千鳥』が書き続けられるにしても、太田文子がひとり旅を続けた大分県のことを長々と書かねばならないとは思えず、中心となる舞台は東京の新居での菊治とゆき子に移っているのだから、大分県についての取材ノートはなくても書き続けられたと思える。中断のような終わりを設けたのは、むしろ内容的な展開に深く関わることを理由としたものだろう。
 自殺した太田夫人やその娘文子との関係への贖罪の意識からか、妻となったゆき子と肉体的な関わりを持たぬまま、菊治は新婚生活を続けていくが、小説の中心はこの新婚夫婦の話になっていく。これが、一般的な小説のテーマになりうるのは明らかだが、川端にとっては、気乗りのしない、息苦しいテーマと映ったのではないか。菊治の贖罪や、心の再生とともに、健全な家庭が作られていくのなど、川端は追いたくなかっただろう。ひそやかなものであれ、背徳や崩壊や虚無への傾斜のないところに、川端の詩学は花開かない。自分にとっての詩の開かない物語を、苦労して書き継ぐわけもないのである。
たとえ、ゆき子との肉体関係の拒絶を菊治に維持させながら、その点で異常な夫婦生活を描き得たとしても、太田母娘との過去ですでに濃い背徳の色を加えてある『千羽鶴』と『波千鳥』の世界においては、あまり鮮やかな異常性ともならない。美しい虚無感をさらに深め得るような物語を興すには、太田文子をどうしても小説の中心に呼び戻し、菊治を飛び越えて、妻のゆき子との同性愛を発生させるぐらいの思い切った物語的飛躍が必要とされるだろう。
しかし、『千羽鶴』を経て、第四章まで書き継いできた『波千鳥』の積み上げと滑走ぐあいでは、そこまでの飛翔はできないと感じていたのではないか。小説は物語や語りの物理学によるのであり、人間関係やエピソードの組み合わせや堆積ぐあいからしか、物語のその後の飛翔距離や高度は導き出され得ない。数章後に失速するのが目に見えているのならば、思い切って途中で放棄するような終わらせ方をしたほうが美しいと思ったのだろう。
男女の愛欲は、それが一対一の男女によって醸成されるのでなく、つねに複数の男女の肉体的な、あるいは観念的な絡み合いのうちに起こり続け、本来的に一個人の主体を弄び、いたぶるものであるゆえに、(いうまでもなく、たとえば、男児が初めて全身を以て経験する膣は母親のそれであり、彼の恋人たちや妻が愛撫する彼の肌は、つねに、あらかじめ彼の母の膣壁によって奪われた肌であるとか、正妻や正夫に落ち着いていく男女の意識内部では、それ以前の無数の他の異性たちとの性愛体験の混泥が煮えたち続け、無限の比較が継続しているとか、そのような意識内の運動性のうちにのみ、全生涯の愛欲経験は構成されていく他ない)、あらゆる人間関係の気味の悪さのうちでも、もちろん、もっとも気味の悪いものであり、川端作品の魅力は、そこのおぞましさに、つかのまの白雪が交じるようなコントラストの表出にこそある。
肉体関係のない結婚を菊治やゆき子に続けさせてみる程度では、交る白雪の鮮やかさの質が落ちる。川端は、あるいは、菊治ではもう、役を担いきれないと思ったのではないか。妻のゆき子にしても、大分県の温泉を次々と経巡って、菊治との関わりを洗い落そうとする文子にしても、登場人物としての菊治のひ弱さを補うほどの働きをしてくれそうにないと思ったのではないか。
作品や、登場人物たちへの冷酷こそが、なにより、『波千鳥』においては美しい、と感じさせられる。こういう冷酷の、精緻な冷たさに接することでのみ生き返るものが、われわれの心の襞にはあるからである。




2014年12月27日土曜日

街灯が灯ってくるのが見えると



 筑摩現代文学大系の川端康成集の月報には、文芸評論家進藤純考氏の「川端さんの客間」という短い文章が載っている。新潮社での編集者時代、原稿を貰いにたびたび通ったという鎌倉の川端宅の印象が記されている。
ひさしぶりに読み直し、大学の一年次で出席した氏の授業の時間が蘇った。大学という空間に初めて接し、馴染んでいく、そんな一年間の季節の移ろいが鮮やかに思い出され、古い青春小説を繙くようだった。
氏の授業は、教える側も学ぶ側も楽なもので、七面倒くさい文学理論のレジュメを詰め込もうとするようなものとは違った。毎週、当番の学生が好きな作家や作品について発表する。それを聞いてから、氏の論評や感想があり、他の学生たちとの質疑応答があり、おのずと歓談に流れていくというふうで、講義というより、どこかの文学サークルの定時会のようなものだった。
これは、じつは教員の負担を軽くする打ってつけの方法で、しかも、学生たちには、なにか実のあることをやったかのような印象を与えられる。逃げとも、誤魔化しとも言えなくもない授業のしかただが、文学の場合はこれでよかった。理屈や知識だけの議論では文学にならないし、ましてや教員からの一方向の語りだけでは、文学からは遠ざかる。世間話や痴話も含め、喜怒哀楽あわせての、しかし流されないで正気に踏み止まり続けようとする意識の繋留の試みを文学というのだから、進藤氏は勘どころはちゃんと押さえていたといえる。ホメロスやアリストテレス以来のレトリックの変遷や文学史を簡便に辿っていくような講義は、一見するとまじめにももっともらしくも映るが、文学という生物の死骸を遠巻きに冷たく解剖してみるようなもので、文学解剖学とか文学死体処理法とでも呼ぶほうがふさわしい。
自分の当番がまわってきた時、私は、高校時代に愛読していたサン=テグジュペリについて話した。堀口大学の訳で主要作品は読み込んでおり、手持ちの新潮文庫はさんざん線を引かれて、ふにゃふにゃになっていた。
『星の王子様』で有名なこの作家は、ヨーロッパと南米やアフリカを結ぶ郵便飛行機の飛行士として長く働いた経歴を持つ。第二次大戦中には、ナチスドイツと戦うために、すでに年齢的に無理があったにもかかわらず戦闘機乗りとして志願し、地中海で撃墜された。作家としての本領は、体験にもとづく『人間の土地』や『戦う操縦士』などのエッセーのほうにこそ発揮されている。地上にいれば様々な面倒事に巻き込まれる他ない人間も、いったん空に上って雲上の長時間の飛行に入ってしまえば、人界を超越した地球の美しくも非情な様相に直面し続け、生の別様のあり方を思い知る。そうした位相で積み重ねられた経験から培われた超越的な世界観や人生観が、サン=テグジュペリの魅力でもあれば真骨頂でもあって、やわらかい叙情味と高原の雰囲気のような澄明さや清潔感が英雄主義に結びつき、今なお、世界的に青年層に人気が高い。
フランス文学科に入ったものの、まだ初級文法もろくに身についていない時だったので、フランス語原文など参考にすべくもなかったが、進藤氏の文学の授業は一般教養科目であり、フランス文学の授業ではなかったので、翻訳を下敷きにしての発表で差支えはなかった。
知り尽くしていたテーマであったのが幸いしてか、発表の出来はよかったらしく、話し終わったところで、進藤氏が拍手をしてくれた。一年の授業を通じて、先生からの拍手を受けた学生など他にひとりもいなかったので、いま思い返しても、これは異例のことだった。授業枠の中での発表に過ぎないとはいえ、大学というところで、単なる先生ではなく、本物の文学者たちとの日常的なつき合いの中に生きている評論家から讃辞を受けたことは嬉しかった。有名な作家たちと顔見知りであり、特に第三の新人たちと昵懇で、「この前の日曜日、吉行(淳之介)が…」とか、「遠藤(周作)がいつも言っていることですが…」とか、「三浦(朱門)がこんなことを言っていた…」とかいった話がすぐ口をついて出る進藤氏が、自分の話のどこを気に入ってくれたのかと訝しくもあったが、学校という場所に巣食っているいわゆる「先生」なるものとは違う「文学者」という種族の一端に触れた気持ちもあった。
進藤氏は1999年に亡くなったらしいが、便利になったもので、いまはネットで氏の生涯の概要も辿れる。芥川龍之介、田山花袋、横光利一、川端康成らが寄稿した『文芸日本』の創刊者を父に持っていたことも知らなかったし、女優の早川十志子を母に持っていたことも知らなかった。東京帝大から学徒出陣で横須賀の海軍に行き、戦後に新潮社に入って川端康成、志賀直哉、石原慎太郎らを担当したことや、いったん会社を退いて大学院で修士号を取ってから復職したこと、カミュ論を書いたことも知らなかった。
亡くなる十年ほど前には、67歳で初の小説を完成させたらしい。編集者や評論家をしながら、特に「一二会」で親交を深めた多くの小説家たちを見つつ、やはり、いつかは小説を…との思いがあったのか。そういえば、進藤氏よりも前に、評論家の中村光夫も、歳長けてからは小説を書いていた。
エルヴェ・ギベールという、フーコーの愛人でもあったという話のある、エイズで死んだフランスの同性愛作家が、「小説という夢…」と書いたことがある。言葉や文に惹かれるあらゆる者たちが、素質としてはむしろ詩歌や演劇や批評のほうにこそ向いている場合でさえ、誰彼となしに「小説」のほうへ惹かれていき、いつかは小説を…と思ってしまう。そんな近代の文学者たちの宿命を端的に表現した言葉で、あの大批評家ロラン・バルトでさえ、小説のほうへ…と考えていたのを思えば、感慨深い。編集者として、また評論家として立派な仕事をしていた進藤氏もまた、自らの手で小説を…という夢に惹かれていたことになるのだろう。
もちろん、小説の現場というのは、作業中も、宴のあとも、過酷で非情なものである。出版社の商売の都合や仲間内での盛り上げ合いで、出版後、しばらくは話題となる小説作品も、時代がひとたび移れば、廃墟となったホテルや宿屋のような姿を晒すことが多い。進藤氏の親しい友人だった作家たち、遠藤周作、安岡章太郎、三浦朱門、庄野潤三、吉行淳之介、島尾敏雄、小島信夫、五味康祐、近藤啓太郎、日野啓三、奥野健男、村松剛などにしても、あれほど有名で、毎月のように作品や対談などが方々の雑誌に載っていたというのに、いまでは、小説好きだという青年の殆どが読んでいないし、名も知らない場合がある。どんな作家が好きなの?と聞けば、東野圭吾や石田衣良としか返ってこない。村上春樹でさえすでに古典で、難しく、扱われている団塊の世代そのものがもう老人世代でもあってみれば、若者には近づきがたい。一時期流行った京極夏彦の名も聞かなければ、獄本野ばらや新井素子の名さえ聞かれない。本は売っていても、今の若者はもう引っかかってこない。何十年か経った後、けっきょく、はるかに寡作だった俳人や歌人の作品ほどにも残らない小説家たちが殆どということになる。
小説というもののはかなさ、恐ろしさ、と、ひとことで済ましてしまっていいのだろうか。
済ましてしまったほうが、いいのか。
小説よりはるかにはやく廃れてしまったかのような感のある「文学」なるものは、どうだろうか。
進藤氏はある日の授業で、やはり友人の作家の誰か、三浦朱門あたりだったように覚えているが、その作家を例に引いて、こんなことを言った。
「急いで仕上げなければいけない作品や文章がいくつもある。締切が迫っている。ところが夕方になって、街灯が灯ってくるのが窓から見えると、気持ちが落ち着かなくなってくる。さびしいような、うきうきするような感じになってくる。飲み屋街の灯が脳裏にちらちらし出す。机に向かって、どんどん書かなければいけない。しかし、紅灯が心に揺れる。夜の街に出て行きたくてたまらなくなる。飲みたいなあ、飲み屋街をふらつきたいなあ。いや、集中して書かなければいけない。でも出て行きたい。居ても立ってもいられなくなってくる。書かなければいけない。飲みたい。出て行きたい。…で、出て行ってしまう、っていうんですね。紅灯の巷をさまよい、飲み屋に入ってしまう。飲みながら、また飲みに出てきてしまった、俺はなんて情けないんだ。そう思って飲んでいる。あの小説もこの小説も仕上げないといけない。あの文章はもう締切だ。こんなところで飲んでいるわけにいかない。…こんなふうに思いながら、それでもね、また朝方まで飲んでいる、と言うんです」
 そうして進藤氏は、仕事を山ほど抱えた作家のこの気持ち、街灯が灯ってくるのが見えると落ち着かなくなり、さびしいような、うきうきするような感じになって、居ても立ってもいられなくなってくるというのが人間であり、文学というものだ、というようなことを言った。
「この気持ちがわからないと、文学なんてわからないんですね」
 さらに続けて、ここでやっぱり、誘惑に負けて紅灯の巷にさまよい出ていってしまうというのが、文学の人間なんです、文学者なんです、と言ったようにも記憶しているが、これは定かではない。
私の勝手な思い込みかもしれない。