2015年8月5日水曜日

“メッセージ”無化装置としての映画


映画『永遠の0』(山崎貴監督、2013)には、潤沢な経費+人気アイドルも含めての思うままの贅沢な配役+日本人の気持ちを揺さぶる感傷的なツボを幾つも狙った巧みさ…等々の点で注目し、四回見直して検討した。
不要なセリフがけっこうあったり、衣装に問題があったり、もう少しブレッソンに学び直すべきではないかと思わせられるほどの説明しすぎのシーンもあったりして、やはり編集し直して決定版に近づけるべきではないか、と思わされはしたものの、それでも、一度だけ見て去っていくような普通の観客相手のものとしては、それなりにうまく出来た通俗商業映画と言える。
 あらゆる作品を分け隔てなく観る決意をしている映画好きのひとりにとってみれば、予期もしない映像的快楽を与えられるシーンがふいに挿入されることもあって、意外な映画的悦楽に恵まれる作品でもある。
 なにより、まだ演技経験も少ないはずの若手の俳優たちが、ベテランの年配俳優たちよりもはるかに滑らかな演技をしている場面が多いことに快く驚かされるだけでも、近未来の日本映画を予想したい者にとっては必見の映画といえる。やはり贅沢な配役で騒がれた三谷幸喜の『清洲会議』などと比べても、はるかに若手俳優のわざとらしくない演技が引き出せている部分が多いのではないか、とさえ思われる。(とはいえ、脇役には下手すぎる俳優たちもやはりいるが…)。

原作小説の作者が現政権寄りでなにかと物議を醸したこともあってか、この映画をあたかも戦争礼讚映画であるかのごとく批評する文が、時おりネット上に散見されるが、歪曲も甚だしい。
 この映画のシークエンス構成の束から発生する説話論的な流れが、あたかもNHKの朝ドラで多用されるがごとき通俗さに堕し過ぎているとか、あまりに手垢にまみれた常套であるとか批評するのならそれなりに首肯もできるが、特攻を称賛しているわけでもなく、特攻隊員たちを英雄化しているわけでもないこの映画を、わざわざ戦争礼讚映画として否定し去ろうという、いわゆる“平和主義者”たちの心理の異常さには驚かされるばかりか、そうした人々が持つ創作作品への鑑賞力や基本的態度のレベルの低さには薄ら寒ささえ感じさせられる。
 こういう人々は、マルクス兄弟の『我輩はカモである』さえも戦争礼讚映画として見てしまいかねないのではないのか。フェルナンデルが主演したアンリ・ヴェルヌイユ監督作品『牝牛と兵隊』などは事実に基づくものらしいが、これも戦争の過酷さを甘く見すぎているとでも批評しかねないのではないか。ロッセリーニの『無防備都市』や『戦火のかなた』は、逆にリアルさのゆえに現代日本では禁じるべきだと主張するかもしれないし、なにより、あの素晴らしい『兵隊やくざ』シリーズをテイスト的に頭ごなしに否定しようとしてしまうのではないか。もちろん、園子温監督の『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』などをお茶の間で息子や娘たちと鑑賞するなどとんでもない、などと叫びかねないだろう。

後から後から膨大な数の映画が作られ続けている現代なのだから、ひとつの映画を、その映画が利用した駒のひとつに過ぎない素材の、それも一面から見ての反射具合にばかりかかずらわって、ご丁寧にも物好きにも、寄ってたかって舌たらずの非難を浴びせている暇があるのなら、同じ時間を使って1020の別の映画を見てしまうべきなのであり、そうする中で、二度と或る映画には意識が戻らないとか、言及さえしないとかいうことが起こったならば、それこそが、まさにひとつの映画に対する真の断罪であるはずだ。映画を映画的に批評しないで、どうするのか。観客がどう怠惰な鑑賞ぐあいからトボケまくった印象を持とうが、監督がどんな“メッセージ”を潜ませたがろうが、原作者がどんな偏向思想を持っていようが、映画なるものは、あらゆる「作品」と同様、いかなる“メッセージ”をも無化し、予期もしない多様な意味や錯乱を呼び込み続けてしまう、危険きわまりない、かつ、混沌と浄化を同時に発生させ続ける天界的な装置である。或る映画を批難するなら、さらには否定し断罪しようとまでするなら、そもそも映画が、小説や詩歌などと同様、社会的であれ倫理的であれイデオロギー的であれ、いかなる“メッセージ”伝達においても、どこまでも裏切り続けるモノであることを、考察の前提にしっかり置いた上ででなければならない。



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