2013年9月19日木曜日

〈簒奪者〉の起源 ―フランク王国の王たちの「正統性」の基本構造







 振る舞い方、様相、雰囲気、風俗などの点で、どう表現したらいいかわからないほど、あの帝政の世界は時代遅れの老いさらばえたものに見える。しかし、その老いのありようは、正統王朝主義者たちの世界のそれとは異なっている。こちらの後者のほうは、時の経過とともに到来した老衰を楽しんでいる。盲目で耳も聞こえず、虚弱で、醜く、不平ばかりこぼしているが、態度は自然なものだし、杖も彼らの年齢に似合っている。これとは反対に、帝政主義者たちは、外見上、偽物の青春を装っていた。身のこなしの軽さを望みながらも、彼らが実際にいるところは廃兵院なのだ。彼らは、正統王朝主義者のように古めかしいわけでもなく、過ぎ去った流行のように老いているのでもない。投機の失敗や負け戦で破産した出入り業者のようになっているのだ
             (シャトーブリアン『墓の彼方からの回想』、ルヴァイヤン&ムリニエ版、第3620章、
              18329月、ジュネーヴでの執筆部分。拙訳。)




 
 進化の過程をいそいでくり返し直す胎児のように、代々のフランス国王の上には、メロヴィング王朝以来の王権捏造の歴史が凝縮したかたちで表象され続けた。フランス王たちをそのように王たらしめる構造は、クロヴィスからシャルルマーニュまでの間のフランク王たちの時代に、ほぼ出来上がってしまっていたといえそうである。


 496年、フランク族のクロヴィスは、従者3000人とともにランス司教レミギウス(聖レミ)によるローマ・カトリックの洗礼を受けた。これによって最初のキリスト教の王となり、最初のキリスト教国フランク王国が成立する。
 この洗礼の時、天使が現われて、青地に金色の百合の花の描かれた盾を王に与え、また、鳩が聖油の入った小瓶を聖レミに運んできて、聖レミはそこに入っていた聖油で、クロヴィスに塗油儀礼を行ったという伝説がある。
キリスト教への改宗の遅かったフランク族の中核が、こうして一気にキリスト教の正統、三位一体説を奉じるアタナシウス派の洗礼を受けた意義は大きい。ゲルマン人国家として、唯一の、ローマ・カトリックへの改宗だった。
 ガリアで5パーセント程度を占めるにすぎないフランク族がガリア統治を成功させるには、当地の有力者の協力を取りつける必要があった。崩壊した西ローマ帝国のセナトール貴族がこれで、彼らの宗教をまるごと取りこんでしまえば、西ローマ帝国の正統性を引き継ぐこともできる。
セナトール貴族とは、西ローマ帝国の政治混乱を鎮圧したディオクレティヌス帝の時代に現われた新興貴族層である。この皇帝の行ったガリアの二分化、州への細分化に伴う混乱の中で、都市の城塞化が進行した際、農民たちは豪族に保護を求め、かわりに自由を剥奪されて土地に縛られコロヌスとなったが、彼らを支配下において帝国官職に就く豪族も現われた。セナトール貴族とはこうした豪族たちをいう。
西ローマ帝国を失ったこうした貴族たちにすれば、ガリアにおいてフランク族が推進するローマ・カトリックの拡大化に伴い、主要都市の司教職へ進出していくこともできた。
 ゲルマンの中では出自が不明で弱小部族だったフランク族は、統合の象徴として、アタナシウス派キリスト教だけでなく、ラテン語も、すなわち文化もまるごと取り入れようとする。
 旧西ローマ帝国の貴族の側から見れば、この時期、もっと頼りになるのは、ゲルマン人の中でも最も強い西ゴート王国だったが、ゴート族が信奉していたキリスト教は、神の秘儀について厳格性を求めたグノーシス派に近いアリウス派のキリスト教だった(信仰教義のこの生まじめさのゆえに西ゴートは、曖昧に済ませることなしに、イスラムと激しく衝突することになる)。フランク族のクロヴィスの狙いはまさにこの点にある。ローマ帝国から西ローマ帝国に引き継がれた支配の正統性を、アタナシウス派キリスト教を受け入れることで一気に獲得してしまうことだった。
フランク族は、西ローマ帝国まで続いた正統性の継承が問題化した3世紀、はじめて歴史上に出現してきた集団で、コーカサスにいた東ゲルマン人、スキタイ系サルマタイ人、チュルク人、クロヴィスを出したサリー人などが中心となって混入したグループで、文化的統一のない、異質な人間たちの集まりだったらしい。そのため、払拭しがたい相違点を残したまま、振舞い方やマナー、旗などの表面的なもののみを無理やりに統一して、戦闘を効果的に推進しうる政治集団を目指したもののようである。
ちなみに、フランク族がその一員であったゲルマン人は、10万年ほど前にコーカサス地方で、突然変異で集団的に白子化したスキタイ系遊牧民だった。日照に弱くなるとともに、激しい差別を受けたと推測される。彼らがまず北欧に向かったのは日照の少ない地を求めたものだろう
コーカサスに残った東ゲルマン人たち、すなわち東西ゴート族、ヴァンダル族、ブルグンド族は、フン帝国の下でマジャール人(のちのハンガリー人)と並ぶ軍事力を発揮するが、のちにフン族に追われて西ローマ帝国内部に移動することになる。西ゴート族はそれ以前にルーマニアに居住しており、東ゴートは黒海北岸に王国建設をしていたが、ドナウ川のむこうへ追われていくことになった。


メロヴィング朝の弱体化ははやく、おそらく、フランク族が寄せ集めの集団であったことに大きな原因があろうが、歴史学上は、彼らの習俗である男子均分の相続慣行のためだといわれる。
クロヴィスの王国は4人の息子に均等分割され、さまざまな経緯を経て、アウストラシア(東分王国)、ネウストリア(西分王国)、ブルグントに分かれる。
各地の政治においては、ローマ・カトリックとの一体化が維持された。というのも、それぞれの地方の有力な司教が、国王によって都市伯に任命され、統治を任されることが多かったためで、教会組織によって行政も司法も進められた。
代から代への分割相続の継続は、メロヴィング家を弱体化し続ける。ここにカール・マルテルが出現してくる。
アウストラシアの宮宰職カロリング家の当主カール・マルテルは、メロヴィング家の弱体化を機に、三地域の宮宰職すべてを手中に収め、フランク王国の実権を握る。732年には、イベリア半島から北上したイスラム軍をトゥール-ポワチエ戦争で破り、その勢いを駆ってアキテーヌ、プロヴァンス遠征を行った。
子のピピン3世ともなると、メロヴィング王キルデリク3世を修道院に幽閉し、自らが国王として即位し、これを以てカロリング朝の開始となった。ピピン3世はあきらかに簒奪者であり、フランス政治権力において、後に何度もくり返される〈簒奪者〉の原型がここに出現したことになる。
正統性を獲得するために、ピピン3世は高位聖職者より塗油儀礼を受けている。751年には、フランク人たちから王に推挙された際に、ソワソンで司教より塗油儀礼を受けた。754年には、教皇ステファヌス3世をパリのサン=ドニ修道院に迎え、教皇から塗油儀礼を受け直している。『旧約聖書』に現われるイスラエル王の即位儀礼である塗油儀礼は、国王への神の加護と、神意の実現としての王権を示すもので、ピピン3世がこれを受けたことで、カロリング家は正統な王家として認められたことになる。
代償として、いわゆるピピンの寄進が行われた。ローマ教皇にローマの宗主権とラヴェンナ地方の支配権を与えたもので、ローマ教皇領はここに始まることになる。ローマ・カトリックとフランク王国のあいだで、互いに相手の権力の基礎構築をし合ったことになろう。


ピピン3世の子がシャルルマーニュ(カール大帝)だが、精力的に領土拡張を行い続けた彼こそ、ローマ教皇は、自らの後ろ盾とするにふさわしいと判断したらしい。教皇は、東ローマのギリシャ正教との対立やローマでの政治的闘争などを抱えていたのである。
教皇レオ3世は、800年のクリスマスの日、ローマで、シャルルマーニュに〈西ローマ皇帝〉の冠を授けたが、これは、シャルルマーニュという一身に、ローマ・カトリックという宗教的権威と、西ヨーロッパの王権という世俗的権力が統合一体化されたことを意味する。シャルルマーニュの図像は、右手に剣、左手に十字架のついた球体を持った姿で描かれるが、剣はコンスタンティウス帝の剣であり、球体はダヴィデ王の末裔であるのを表わしている。王としての権能と祭祀職の権能の統合を意味する図像である。
シャルルマーニュは王国内を500の伯管区に分け、家臣に統治させて政治的掌握を図ったが、一方、ピラミッド型の教会組織も王国内に張り巡らした。司教を全司教座に据え、大司教にすべての司教を掌握させる。学芸と教育を尊重したシャルルマーニュは、整備された司教制を使って、古典ラテン語を復興させるべく学校を作らせた。これは、建築から戦史、造幣などに到る様々なローマ文化の吸収のためだが、ローマ帝国の権力の正統な継承者としての文化的アイデンティティの発現でもあった。


クロヴィスから始まって、ピピン3世、シャルルマーニュと下ってくるまでの歴史は、ローマ・カトリックと王権の統合の歴史である。塗油儀礼や百合の花の表象なども含め、のちのフランス王の「正統性」の基本的な構造の重要部は、フランク王国時代にすでに出尽くしているといってよい。
興味深いのは、カール・マルテルが体現した〈簒奪者〉性である。既存の権力が混乱し弱体化する時、なんらかの秩序構築や維持のためには、目端の利く者が〈簒奪者〉となって現われ、権力をドライブしていく他ないが、ほとんどの場合、暴力だけを使って自由に無軌道に振る舞えるわけではない。〈簒奪者〉はいっそう敏感に「正統性」に反応し、それを装おうとする。こうした〈簒奪者〉の原型さえもが、すでにフランク王国の時代に現われ出てしまっているのが、フランス王史やヨーロッパ王史の特徴といえる。
ローマ帝国由来の王権であること、それゆえに様々な面でローマ的であろうとすること、アタナシウス派のローマ・カトリックを奉じること、教皇や司教の儀礼を受けること等などの集結がきわめて重要であり、それをわが身において再現し直すことが〈簒奪者〉たちには欠かせない行為となるわけで、どうして最大の〈簒奪者〉ナポレオンが、キリスト教再興から始めて、あのように動いたのか、この観点からは明快に理解できるようになる。時代錯誤でも個人的な趣味でもなく、フランク王国以来の「正統性」のあり方に忠実であろうとしたのである。


もちろん、そもそもフランク族やクロヴィス自体が、他のゲルマン人たちに対して〈簒奪者〉であったこと、西ローマ帝国の残影権力に対しても〈簒奪者〉であったことを忘れないならば、ヨーロッパとはその始まりから〈簒奪者〉の歴史に過ぎなかった。
ヨーロッパばかりでなく、そもそも王権というもの、あらゆる種類の権力というものが〈簒奪者〉としてしか現われ得ないようにも推量しておきたくなるが、もちろんこうした結論にむけては、歴史学的、権力学的に、地道により多くの事例に当たって帰納していくべきではあろう。しかしながら、なにか当面の既存の権力を早急に骨抜きにしたいような場合には、とりあえずは、この推量のままで実験的攻撃をしてみるという選択肢もあるには違いない。




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