2013年9月19日木曜日

死者数、および他人の死というものへの態度







 ネット上でも容易に見られる情報によれば、いろいろな説があるとはいえ、第二次大戦における日本人の戦死者数は、軍人230万人、民間人80万人、あわせて310万人ほどという。アメリカの戦死者数は、軍人29.2万人、民間人はほぼ0であり、日米のみで比較すれば、日本の人的被害が桁はずれであったのがわかる。
アジア全体では日本を含め2000万人の死者が出たといわれるが、アジアとアメリカでのこうした人的被害の差が、経済力や軍事力における差とともに、戦後のアメリカの圧倒的なアジア支配を招来した一因になったであろうことは、容易に推測される。

 多くの死者を出した他の国々にも目を転じれば、ドイツでは軍人285万人、民間人230万人、あわせて515万人の戦死者を出しており、中国では軍人1324万人、民間人1000万人、あわせて1132.4万人の戦死者、ソ連では軍人1450万人、民間人700万人以上、あわせて2150万人以上の戦死者を出している。ポーランドも多い。軍人85万人、民間人5778万人、あわせて6628万人の戦死者が出ている。
ちなみに、やはり悪名高いナチスによるホロコーストの犠牲となった人々の数は、ニュルンベルク裁判では400万人と告発されたが、ユネスコによる現在の推定では120万人前後となっている。


普通の一個人にとって、大量死を発生させる戦争、紛争、災害などで報告されてくる死傷者数の扱いというものは難しい。
数字化というメタレベル化作業は、構造や法則性の発見に繋がるため、立場や職種に応じては、純粋に数字的に扱うべき場合も多いだろう。しかし、死傷という事態が人間にとって最大関心要件のひとつであり、戦争や紛争が地球上での共同生存にあたっての危機の発現事例であり、災害も内自然ないし対自然生存の危機の瞬間を示すものである以上、――つまり、一個人の生に現実的かつ具体的に襲いかかってくるテーマ群の総合体である以上、戦争や紛争や災害などで発生した死傷者数を、一般的な生活を送っている一個人の意識や思考は、単に数字としてのみ扱うわけにはいかなくなる。倫理的な問題という以前に、現在から未来にかけての実生活上での生存がかかっている問題とみるべきで、多量の死傷者数を前にした場合にそれらを単なる数字の羅列としてのみ処理しうる個人は、自らの生存継続というテーマを蔑ろにした非現実的な頭脳運用をする人間と見なしうるかもしれないし、こういう人間が周囲の他者たちに及ぼしうる将来的な悪影響も少なくないと考えれば、社会的に特別に監視されるべき対象と見なすべきであるかもしれない。


とはいえ、それではどのようにして、厖大な死傷者数に対したらいいというのか。
たとえば、第二次大戦での日本の戦死者310万人という数字の途方もない大きさに、とりあえずは茫然となってみることから始めてみるとしても、現代芸術にありそうな行為のように、大きなホールを借り切って米粒を310万個並べてみる作業を黙々と続けて、310万という数を体感してみたらよいのか。さらには、米粒でなく、そのかわりに小さな人形を拵える(一個人の出生から生育の際に注がれる他者たちの配慮を疑似体験するモデル行為)ところから始めて、それを日本やアジア各地、太平洋上の島々や海上の様々な環境の中に置きに行き、それらが様々に朽ちていくさまをありありと想像し続けるような活動をしてみるべきか。
しかし、ここでさらに、アジア全体の戦死者数2000万人に範囲を拡げてみたり、ドイツの515万人、中国の1132.4万人、ソ連の2150万人などにも意識を向けていってみるとなれば、単に第二次世界大戦の戦死者を扱おうとするだけでも、何世代にもわたる専門的な鎮魂アーティストの系統が必要となってくるに違いない。戦争や紛争、災害での死傷者数は時代とともに増え続けるばかりだから、遠からぬうちに、人類の主要な活動は鎮魂ばかりともなってしまいかねない。


統計学上はどこまでも単なる1であり、医学的見地からはいかなる死もパターン化され分類されうるに違いないにせよ、終焉に到るまで心身を動かし続けてきた個々人の「死」は、出生時点での素質や個性の差に加え、そこに到るまでの環境や経験のインプットの総合様態の独異性のゆえに、ひとつとして同じものはない。そのうえ、死の場面における衣類、携行物、その他の物品、建築物、光源の種類や明暗の状態、集まった他者たちの有様や彼らによる死者の扱い方などは当然ながら多様であるため、それらをすべて含め収めた出来事、ないしは事件としての死の全容は、誰のものであれ、歴史上唯一無二のものとしてしか起こらない。
こういうものとしての死への理想的な対処のあり方は、おそらく、死者個人とその人物の死の現場について可能なかぎりの情報を集め、それをこちらが意識と記憶に取り込み続けた上で、その死者個人の生前の人生と密接に結びついたかたちでの唯一無二の死を、無限のイメージ化努力や固定させないあり方での表象化や構造化作業を含めつつ、総体的に意識化するということ以外にはありえない。死をこのように扱おうとする場合、ひょっとすると我々は、あたかも芸術作品のように死を扱う方向に進んでいく、ということになるのだろうか。
たとえば、いま目の前に、ルーヴル美術館所蔵のあの小さな至上の逸品、フラ・アンジェリコの天使画の一枚『礼拝する天使Ange en adoration』があるとする。これは芸術であり、絵画であり、宗教画であって、これを芸術1、絵画1、宗教画1してリスト上に整理するのはもちろん可能とはいえ、「芸術」「絵画」「宗教画」といった概念や単語をどう用いてみたところで、フラ・アンジェリコのこの作品そのものを指し示すことはできない。この作品において発生し、現象している出来事、事件は、「芸術」「絵画」「宗教画」という概念や単語の使用によってはまったく把握できず、たとえそれらの概念や単語によって作品の前に初めて導かれるにせよ、フラ・アンジェリコ作『礼拝する天使Ange en adoration』という出来事、事件の現場では、そうした概念や単語はほとんどなんの用もなさない。鑑賞者は、作品そのものの印象の物自体に触れようと試みるところから始めて、構図や様々なバランス、線の描かれようや色の選ばれぐあい、彩色のぐあいなどのすべてをありのままに見ようとし続ける他にはなく、ようやく全体像を認識したと思った次の瞬間には、その認識の修正をはやくも迫られるというような内的作業を延々と続けていくということになる。
しかも、この作業には、鑑賞者の精神的エネルギーが費やされるのはもちろんのこと、肉体的エネルギーや時間も多量に費やされる。エネルギーはもちろんのことだが、それにもまして時間は、しばしば見過ごされがちだが、生命の大きな一部をなしており、見方によっては生命そのものでもある。ある作品の鑑賞にあたっては、鑑賞者の生命そのものが大きく費やされるわけで、生命のこうした消費を死の成長や死の完成過程と言い換えるならば、鑑賞者はまさに、鑑賞=死に行くことという多義的構造の経験を甘受するのである。
もし、あるひとりの身に起こった死を、統計学上の単なる死者1いう扱いに譲り渡してしまわずに、他の誰でもないその人だけの唯一無二の死として維持し続けようとするならば、個々の芸術作品の鑑賞と同じ態度で接する他はない。これは、情報収集から始まって、たえず更新され適切に整理されねばならない記憶の運用や、現実にはいまだに得体の知れない機能である想像力の活用に到る大がかりな知的内的作業であるが、これに留まらず、芸術作品に対する際と同じ条件をも受け入れなければならない。それは、我々の側において、刻々、新たに完成へと進行し続ける未だ不完全な死の成長過程をもって、他人の唯一無二の死に向かい続けるという条件である。


生は、行く先として死と消滅しか持たない徹底した一方向性を属性とし、この性質からしかエネルギーを発生させ得ないし、経過としての時間は死の成長しか意味しない。こういう条件でのみ存在し活動しうる芸術作品の鑑賞者と同じように、他人の死の情報を扱おうとする者も、自分自身こそが生死という出来事の現場、事件の現場に今まさしく居り、その事態への全体的な対応を現に迫られている以上、戦争や紛争、災害の厖大な死者数については、いたしかたなくも、統計学的な数字という認識上の倉庫に収めておくという措置を採らざるをえない場合が確かにありうる。
しかし、その場合、扱い者の意識は自分自身の生死の現場に封じ込められ続けることしかできず、それを観察し評価し、時には変更していくための多様な視点を、次々と開発していく可能性を閉ざしていることになる。
他の出来事が他のありようで起こっているということ、質・量の異なった他の事件の現場が無数にあるということの知への、いわば別の審級への意識の拡大・溶出の可能性を、本性的に強く求める性質のまさった意識が存在する場合には、こうした意識は、戦争や紛争、災害で発生する厖大な死者数の一人一人について、おそらく、不可能は承知で、それも気の遠くなるばかりの限りない徹底的な不可能を承知の上で、それでも、死の現場を事細かに想像しようとし続けてみるに違いない。


話は少し逸れるが、「想像力は死んだ。想像せよ」というベケットの言葉は、この地点において非常にリアルな意味を持ってくる。想像は、努めて今なされる時にのみ力として在り、効果を持つもので、この際に生じたり創られたりした表象や認識が物質的ないし概念的に残ったとしても、肝腎の想像の「力」は全く残存せず、消滅していて、再利用できる「力」として手もとにはあり続けるわけではない。つまり、先ほどまであった「想像力は死ん」でおり、そればかりか「想像力は死」に続けるのであり、それが必要であるかぎり、次の「想像」を人は続けるしかない。全身で「想像」の現場にい続けた人ならではの、現実的な認識であろう。
「想像せよ」という時に、やはり意志の機動なしには「想像」は点火されないのか、どうか。あるいは、「怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウスの呪うべき怒りを…」*という叙事詩人の呼びかけに反応し、答えて、叙事詩人自身の意識に流入し憑依するようにして歌が始まっていく時のように、受け手側の意志の機動なしに、または、変容したかたちでの意志のみを以て、「想像」は起こるのか。これは、文芸想像論上の興味ある問題に分け入ることになるが、この文を始めた時点でのテーマと密接に関連するとはいえ、考察上は大いに外れていくことにもなるので、ここではこれ以上踏み込まない。

*ホメロス『イリアス』冒頭。岩波文庫の松平千秋訳を変更して使用。








0 件のコメント: