2013年9月19日木曜日

グレゴリー・J・ライリーの〈河〉モデルと断続平衡説






   
 キリスト教史家グレゴリー・J・ライリーは、その著書『神の河 ―キリスト教起源史』*において、キリスト教の起源を考えていくにあたり、〈河〉のモデルを使って思考の道筋を鳥瞰しようとしている。そうしながら、今ではいかにもキリスト教的なものとして聖書中に編み込まれている「悪魔」(ペルシア起源)や、「死」(カナン起源)、「竜」(メソポタミア起源)などといった表象やイメージの出自へと遡り、一神教や三位一体、悪魔、霊肉の分離、救済者などといったキリスト教的概念の発明されていく過程をほぐしていこうとする。
これらの表象への意味づけやアレンジメントぐあいの差違により、初期キリスト教には多数の分派が発生し、「様々なる意匠」というべき多彩な思念上の創作現象が発生したわけで、そこのあたりもあわせて語りほぐしてくれれば、もちろん読者の側としては嬉しいものの、ライリーはこの著書において、そこまでは手を広げ過ぎずに、前史と現行旧新約聖書との関連を示すに留めている。限られた紙数の著作にあたっては賢明な態度というべきだが、読者としてはいささか残念でもある。そもそも、現在にまで伝えられている四大福音書の存在は、少なくとも初期キリスト教に異なる有力な四集団があったことを如実に示すものだが、現在の聖書学の想定によれば、初期キリスト教会の作り出した福音書の数は80以上はあったというのだから、「神」や「悪魔」や「死」や「竜」などの表象のアレンジメントの多様さはおそらく想像を超えているはずで、まさに途方もないと評すべき世界観が披歴されていたに違いないからである。


それはそれとしても、キリスト教の起源を考える上で彼が出してきている〈河〉というモデルは、一見したところでは、いかにも生彩を欠いているかの感がある。〈河〉なら誰もが自分なりに知っていると思っているし、それがどのようなものか、今さら言われるまでもないと感じる。さまざまな支流を集めながら水量を増やし、滔々と流れ続け、やがて海に出て終わっていくさまは、誰にでもわかりやすい通俗な人生の比喩として頻繁に使われ続けている。そんなものを今さら思考モデルとして出してくるとは、なんと素朴な、と思わされる。
しかし、ライリーの出してきている〈河〉は、そのような単純なものではない。海へと達するあたりで「何百平方マイルにも及ぶ」ような巨大なデルタを形成するたぐいの大河を彼はイメージしており、当然ながら河口のイメージにしても、ゆっくりと静かに海の水に合流していくようなものなど考えてはいない。大きな広いゆるやかな水のかたまりが海に流れ込んでいくような河口ではなく、「大河が最後に作り上げた巨大な水の塊を、今度はデルタがたくさんの支流に分岐させ、無数の小さな流れに変える」河口を彼はイメージしているのである。
彼が例に出すのは、おそらく個人的に親しんでいるためだろうが、こちら側から対岸が見えないようなミシシッピー河の河口である。ルイジアナあたりの「デルタの中を流れる細流」では、オハイオ渓谷からの石炭の炭塵、ウィスコンシンからの人形、金を含むノース・ダコタからの沈泥、モンタナからのプラスチックコップなどが、よく目につくという。これらは、河口のデルタに入り込む以前の中流の大きな流れの中では、ふつう、流れに飲み込まれていて目にとまらない。しかし、「ひとたび河がデルタに入ると、あたかも時間が逆流したかのように、河は再び無数の小さな流れに分かれ、それが海へと向かうことになる」。
あまりに多量のもの、多様なものが、さまざまな源流からたくさんの上流支流を通って流れ下り、水量の多い太い中流へと集まって、表面からは見えないかたちで水中を下っていった後に、厖大な堆積物で浅くなった河口付近に来て、ふたたび上流の時のように、無数にできた細く浅い小さな流れを通っていくことになる。あちこちで引っかかって止まったり、また流れ出したり、とうとう海には到達しないままにデルタの泥の中に埋もれていったりと、各様の経過を辿ることになる。興味深いのは、ある種のものは特定の細流をしか流れようとしないといった現象が発生したり、―ということは、他の種類の細流に入り込んだその種のものは、流れのどこかで停滞してしまうことになる―、どのような流れを通っても、ある程度の距離のところで止まって流れなくなってしまうものがあったりする、などということだろう。
ライリーが使っているのはこうした〈河〉のイメージであり、これを彼は宗教上や思想上の無数の概念や表象の生成や展開、変異などの基本モデルとして利用しているのである。
思考モデルは、もちろん、対象そのものを如実に写し取りうるものでもなく、対象の構造を過不足なく抽象して表象しうると保証されたものでもない。対象の特性を効果的に際立たせられればよいものが思考モデルなのであり、そういう観点からすれば、ライリーの〈河〉のモデルは、河口デルタというものが沈殿物や集積物の厖大な堆積場となることや、そのゆえの無数の細流の発生という上流回帰状態の発生、漂流物の再可視化の常態化などを押えているために、独自の使用可能性を持ったモデルに成り得ているといえる。


彼が著作の中で用いようとするもうひとつの顕著な方法は、進化生物学から借りてきた断続平衡説Punctuated equilibriumである。これは、ナイルズ・エルドリッヂとスティーブン・ジェイ・グールドによって発展させられたことで有名だが、この理論にはポイントが二点ある。まず、生物種には、急激な変化を起こす時期と、(多くは急激な変化の後に来るが)ほとんど変化しないきわめて長い停滞期・平衡期があるということ。次に、生物種は漸進的に進化するのではなく、ある区分ごとに突然の進化を起こし、それがさらに形態的な大規模変化を誘発するということだ。
断続平衡説は、系統漸進説と対立する理論である。進化は安定した状態の中で徐々に進行していくというのが系統漸進説で、ダーウィンらがこの説の主張者の代表格である。長く力を保ったこの理論は、進化を考える際の人間の思考に馴染みやすいところがあるが、進化上のミッシング・リンクの存在をうまく説明できない難点があった。安定した状態の中で徐々に生物種の進化が進んだのならば、あらゆる中間段階の化石が発見されなければならない。しかし、現実には中間種の化石は発見されない。ダーウィンらは、中間種の化石は単に未発見であるか、化石化しなかったと説明したが、断続平衡論者は、同じその事実を使って、そもそも中間種が存在しなかったと説く。急激な進化が起こったため、段階的かつ漸進的な進化段階ははじめからなかった、というのだ。
ライリーは、こうした断続平衡説を借りながら、これをさらに、「変化のほとんどない長い平衡状態が、環境内に生じた危機によって起こる急激な変化のために、断続的に断ち切られる情況を述べた言葉である」と言い換えている。
ライリーがこう記す時、彼はじつは、進化生物学における断続平衡説の一般的なプロセスモデルに反転を施したかたちでこの理論を採用している。本来の断続平衡説では、急激な変化→長期平衡状態を多く想定するが、ライリーは長期平衡状態→急激な変化へと強調点を転換して導入している。種が自らの存在を継続させていくために、それまでの様態を急変させていくのを強いられるという点を強調したいものだろうが、他領域の学問概念を導入する場合につねに問題となる個所ではある。概念というのは思考を一定の範囲で変圧・変質させる機能体であるが、その概念にふさわしい適切な機能を果たしうるためには、その概念なりの最低限の独自条件や独自環境を必要とする。断続平衡説にとって一般的な過程モデルを反転させた場合、この概念使用にどれだけの意味が残るかは、なかなか重要な検討対象となるはずである。
ここでは、とりあえず、ライリーの意図に従って見続けていくことにしよう。
強烈な圧力、圧迫、攻撃などを受けて生存環境が劇的に変化し、種の側も否応ない変化を強いられた場合、種としては、死滅するか、新たな環境にすみやかに順応するしかない、とライリーは考えるが、彼がここで照らし出したいのは、ユダヤ教からキリスト教が系統漸進説的に出てきたものではありえないという方向への思考の道筋であり、さらには、長いユダヤ教の歴史の内部においても系統漸進説的な変化があったわけではなく、いちいちの危機において断続平衡説的な変化を遂げ続けてきたのだという推論への道筋である。
ユダヤ教自体や、そこからのキリスト教の発生についてのこうした推論は、まさに断続平衡説というモデルがあってはじめて、そう見えてくるたぐいのもので、断続平衡説は扇の要のような役割を思考において演じている。断続平衡説に無理やりユダヤ教やキリスト教を押し籠めるのではなく、かといって、断続平衡説を頭に置きながら気長に厖大な資料を調査しつつモデルへと帰納していこうとするのでもなく、断続平衡説という光源に照らすことではじめて色彩変化などが起こりマークされ得るかたちになった部分に注目しそれを統合して認識の改編をしていこうとする方法論をライリーは採っているのである。


もちろん、先に触れたように、こうした思考モデルの使用には、どこまでそれを使うか、どの程度の徹底さと曖昧さで使うか、という問題が付きまとう。ある対象を扱って思考する際の方法についての問題は、これは優に別個の大テーマとなりうる問題で、まさにサルトルが1960年頃抱えていた「方法の問題」となる。
先に見てきた断続平衡説的な見方を宗教変化史の領域に適用してみると、ごく簡単な試行をしてみるだけでも、次のような想定をする必要に次々見舞われることに気づく。たとえば、狭い特定環境に大きな変化が加わったとする。ある宗教Aは死滅し、べつの宗教Bは劇的な変化を遂げて存続していく。この場合に、環境スケールをもっと広く取って観察するならば、環境的変化を被らなかった他の場所には、変化を遂げていない従来のままの宗教Aも、宗教Bも、見出されるはずである。ここで次に、広範囲の環境にさらなる変化が襲って来て、これらの宗教の信者たちが移動を促され、特定の場所に合流せざるをえなくなるとする。ここで、宗教A、宗教B、宗教Bの進化形が出会い、それらは相互的に影響しつつ、各々変化を遂げていくと見るか、そういう事態になっていく以前に、移動段階ですでにA、B、B進化形は変化を被って別のかたちになっていると見るべきか…
こういった考察と判断と思考推進上の選択が無数に出現してくるのが現実の宗教変化史だが、こうした現場を切り抜けていくには、もちろん、断続平衡説モデルひとつではどうにもならないどころか、むしろ、それと対立する系統漸進説モデルを適宜用いる必要さえ出てくるかもしれない。



*『神の河 ―キリスト教起源史』(森夏樹訳、青土社、2002年)。本文中の引用はこの訳書による。原著はTHE RIVER OF GOD, A New History of Christian Origins by Gregory J.Riley,  2001, HarperCollins.










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