2013年6月20日木曜日

わが握る槌の柄減りて光りけり

 ―松倉米吉の短歌について






若き職工として生き、貧困のうちに二十五歳で死んだ松倉米吉の歌は、巧みとはいえないものの、私の目には、時代を経るにつれ、ますます貴重な作品となっていくように映る。

吾の身の吾がものならぬはかな日の一年とはなりぬ日暮れ待ちし日

どんな労働に作者が従事していたかを知らずとも、現代でも多くの勤め人や労働者が共感しうるのではないか。「吾の身の吾がものならぬ」一日を「はかな」いと感じるのは、世の流れや支配層に追い立てられて労働する者たちの永遠の感慨であり、「日暮れ」にはやくならないかと思いながら過ごすうちに「一年」などすぐに経ってしまう。一日が過ぎて身体を休める夜が訪れるにしたところで、手にしうるのはかつかつの金であり、明日や将来をより豊かに安定したものになしうる資金が積み重なっていくわけではない。

半月に得たる金のこのとぼしさや語るすべなき母と吾かな

投げ出しし金をつくづくと母見居り一間なる家に夕日は赤く

極まりて借りたれば金のたふとけれあまりに寂しき涙なるかも

米吉がこのようにして母ひとり息子ひとりで切迫して生きのびていた頃、短歌の主流派たちは、身のまわりの小さな動植物や季節の変化を敏感に拡大鏡で写し出すがごとくにして作歌に勤しんでいた。彼らのほうをこそ称揚するというのが、近代短歌史に関わる場合には隠然たる作法のようなものとしてあり作法通りに近代の短歌における繊細な美や格調の展開を云々しておけば、先ずは穏当な文化人的身だしなみをわきまえた評者として遇されうるというところがある。
米吉のように、「半月に得たる金」や、畳の上や卓袱台の上に「投げ出しし金」を露骨に歌の言葉の中に紛れ込ませてくるのは、いかに歌語の見直しや刷新がなされた近代とはいえ、詩的格調を損ないやすい作歌姿勢として、容易には認めづらい雰囲気が主流派にはあっただろう。もちろん、「金」や貧困を歌うことが悪いはずはない、それはむしろ短歌の間口を広げ、人間生活の真実を語るものとして進んで試みられるべきだと当時の歌人なら誰もが言ったに違いないが、しかし、彼らがけっして言わなかったこととして、次のようなことがあった。すなわち、短歌的な美、いわく言いがたい韻律的なる美、生活苦や貧困を語りながらもけっして損なわれることのない詩的余裕や浸透してくるような深い魅力、それなしにはいかなる貧困も「金」も歌われてはならぬ、歌う姿勢は尊ぶべきであろうが、そう簡単にいい歌ができるなどと思いあがってはならぬ、若き労働者諸君も先ずは万葉集の勉強から地道にやり直したらよかろう、幅広い古典の勉強も必要であるし、古典文法への習熟ももちろんおろそかには出来まいよ…、と。
米吉の場合、当然ながら、こんな助言を吐けるような同時期の他の著名な歌人たちとは違い、万葉集以来の短歌を読み込むだけの時間も持てなければ、毎日の労働の後では推敲の時間もままならなかっただろう。思いついた歌草をメモする暇さえ取れない時が多かったかもしれない。古典を十二分に吸収した上で悠揚せまらぬ格調を醸し出す作歌が米吉にできなかったとしても、いわば物理的不可能事とでもいうべきことであり、致しかたのないことであった。
詩歌を読むのに、作者の実生活をどこまで同時に考えながら読むかは難しい問題で、読者はつねづね、読解上の姿勢の選択を迫られる。なるほど、実生活を読み込みながらでしか魅力的に見えないようでは歌の価値は低いと言わねばならないのも事実かもしれないが、そのような場合に重視される詩的純粋価値や絶対詩の魅力が過大に評価されるようになったのも、考えてみれば19世紀末のヨーロッパでのことであるとすれば、そうした批評姿勢そもそもが歴史的限定を内包したものとして批評されてから使用されねばならないのも事実である。純粋詩を19世紀末のヨーロッパで推進したのは、政治的民主主義の挫折に絶望し、同時に、政治的には友と見做したい労働者階級の現実の品格の低さと教養のなさに絶望した特異な位置にあった知的貴族主義者の詩人たちであった以上、文芸における純粋や絶対なるものは、つねに、泥沼のようなおぞましさと後ろ暗い怨念とルサンチマンとで練りあげられていると覚悟してかからなければならない。



松倉米吉の作歌の価値はどこにあるか。人生的にも文芸教養的にも作歌技術的にも未熟な若いひとりの歌人が、出生した家族環境のなりゆきから否応なしに困窮した生活へと追いやられ、しかも短歌への興味や感受性を本人にもわからぬ強烈さをもって持ち続け、貴賓の賞美するような繊細優婉な短歌的な美しさなど盛り込む暇もなしに、なおもわざわざ短歌形式を用いつつ、どのような表現をアウトプットし続けられうるのかということを、生身で実地で行って見せざるをえなかった点にあるといえる。日本的美のひとつの要所である短歌の形式を用いつつ、第一次大戦頃の世界情勢や経済情勢に右往左往される庶民生活の現場という歴史的現実を身をもって取材し、ろくな教養も養いえなかったたったひとりの頭脳と心を駆使しつつその瞬間に用いうるだけのぎりぎりの言語表現によって機敏に写し撮り続けてみた結果というのが、松倉米吉の短歌作品なのである。
 新潟の糸魚川町に生れた米吉の父は屈指の水車業者であったというが、米吉が五歳の時に亡くなった。家産は一気に傾き、一家離散、母は東京に再婚に出、兄とも生別状態となる。松倉米吉の過酷な窮乏人生はここに源を持つもので、当時としては、米吉本人では如何とも変更し難い路線が五歳にして引かれることになった。
 十三歳で母を慕って上京し、本所北二葉町の母の再婚先に住みながら、少年労働者としての人生が始まる。メリヤス製造、金属メッキ工場で働きつつ、青年労働者たちから文学を知らされ、友を通じて『アララギ』の古泉千樫門下となった。労働の合間に、仲間たちとともに隅田川べりの砂利置き場で文学や生活を語りあったというが、おそらく、そこが唯一の学校であり、サークルの場であった。
日本が第一次大戦に参戦した大正三年、米吉は二十歳になるが、社会の経済情勢の変動はきわめて大きく、微々たる身銭を稼いで暮らす町工場の若き職工にとっては、絶えざる不安にさらされ続ける時代となった。
二十二歳で肺結核を発病し、メッキ工場をやめる。気持ちに沿った仕事で儲けたいという思いがあったのだろう、喜劇脚本を書いて劇場に持っていった時期もあったというが、けっきょく、金属挽物職人となった。

日もすがら金槌をうつそこ痛む頭を巻きて金槌を打つ

工場に仕事とぼしも吾が打つ小槌の音は響きわたりぬ

隔月に槌うちに来つつ工場の真中に坐して仕事はとぼし

しんかんととぼしき仕事抱えつつ窓に飛びかふ淡雪を見る

わが握る槌の柄減りて光りけり職工をやめんといくたび思ひし

ニツケルのにぶき光に長き夜を瞼おもりて手骨いたみきぬ

工場の夕食ののちのさびしさに弁当箱の錆おとしつつ

傾きてなほ照る日あし空しさに街をさまよふ身につらきかも

築山のしげみの裏に身をひそめぼろぼろのパン食べにけるかも

この職にたけて帰る日いつならむ夕べさびしく汗の冷えつる

夜仕事のしまひ早めて銭湯に行く道すずし夏の夜の月

夜仕事を終へて出で来し新開の月夜の街に鳴く蛙かも

親方のまはすろくろの錐の音雨空近き露地に鳴れるかも

親方の仕事のはたにうづくまり蚊遣いぶして吾が居りにける

又しても道具をいためこの度はひとりもだして見て居れるなり

裁縫で生計を助けていた母が亡くなったことは、米吉には痛かっただろう。兄がどこかにいるかもしれないとはいえ、生別しており、十三歳で高等小学校を退学してまで母を慕って上京し、そのもとに身を寄せた米吉であった。その母の亡くなる頃をこう歌っている。

今は言かよはぬか母よこの月の給料は得て来て吾は持てるを

独子のひとりの母よ菰に寝て今はかそかなる息もあらぬか

痛しとも言はぬ母故今はさびし骨あらはなるむくろ拭ひつつ

独子の吾はさびしも身を近く柩にそひて歩きて行かむ

未熟な歌とは、もう言えまい。第一次大戦さなかの国威発揚いちじるしい帝都においての、貧しい者の臨終とそれを見取る若き病者のさまが見事に写しとられている。「この月の給料は得て来て吾は持てるを」とは絶唱であろう。生きていても死に臨んでも金、金、金なのである。貧者の生活とはこういうことだ。余裕のある月収を得ていた漱石のような文学者にはけっして書き得ぬ、日本文学史上に刻印された貴重な三句四句結句である。
母亡きのち、養父とはたちまち不和となり、本所長岡町の理髪店の二階に間借りすることになったが、こうして天涯孤独、結核病み、極貧の職工という状態に陥ったところで、米吉は、生涯で最も豊かな創作時期を迎えることになる。もちろんテーマは、自らの貧困と、自らを来るべき衰弱と死へと誘うばかりの進行する病だけである。彼が使える素材など、他にはなにもない。歌人が自分の最盛期において、自分自身の刻印のあるもっとも独自の作品を作り上げていく時に、自分自身に与えられたわずかな貴重な宝、みずからの貧困と死病とを使い尽くしていく様にわれわれは居あわせることになる。

宿の主人に訳をあかしてうつり着の質の入替たのむなりけり

しげしげと医師にこの顔見すゑられつつわが貧しさを明かしけるか

価安く薬もらひて外に出たり裸にならぶ街の木立は

薬さげて冬さり街をまだ馴れぬ親方先にまたもどりゆく

施療院に行く心とはなりし親方の下駄の埃を吾はうちはらふ

久々を宿にもどれば落かべや埃にあれて足ふみかぬる

久々に吾の寝床をのべにけりところどころにかびの生えたる

彼が治療に通った「施療院」というのは、築地東京施療院のことで、今の聖路加国際病院の前身にあたる。スコットランド一致長老教会のロバート・ディヴィッドソンが宣教目的で開いた病院で、医療費は無料であったという。もっとも、1902年にはアメリカ聖公会のルドルフ・トイスラーが買い取っていたはずなので、米吉が治療を受けた頃の医療費の詳細などは変化しつつあったかもしれない。

灯をともすマツチたづねていやせかる口に血しほは満ちてせかるる

血を喀きてのちのさびしさ外の面(とのも)にはしとしととして雨の音すも

宿の者は醒めはせずかと秘むれども喉にせき来る血しほのつらなり

菓子入にと求めて置きし瀬戸の壺になかばばかりまで吾が血たまれ

かうかうと真夜を吹きぬく嵐の中血を喀くきざしに心は苦しむ

理髪店の二階に間借りしていた米吉は、病が重くなっていくにつれ、毎夜の喀血に苦しめられた。階下の住人に気づかれないよう、壺に吐いた血を、夜中に家を抜け出して溝に捨てに行っていたという。

じつとりと盗汗(ねあせ)にぬれてさめにけり曇ひと日ははや暮れかかる

この日ごろ窓ひらかねば光欲しほそくながるる夕日のよわさ

救世軍の集りの唱歌も今宵寂しひそひそと振る秋雨の音

膝も腹もひつしとかため寝間着の裾にまくるまりつつ悪寒を忍ぶ

 ついに下宿での闘病もままならなくなった時、見かねた友が築地東京施療院に運び込むことになる。次の歌が作られたのはその時のことなのか、以前なのか、わからないが、病にもはや為すすべもなくなった自分のぼろぼろの肉体になおも縛りつけられながら、米吉の思いはこの通りであっただろう。

浪吉は吾の体を警察にすがらむと行きぬなぜに自ら命を断ちえぬ

 築地東京施療院入院後、松倉米吉はほどなく息を引きとったという。1919年、大正8年11月のことだった。下宿の理髪店二階に友が集まり、通夜が営まれた。部屋には、トルストイの肖像画や、正岡子規の鯉の句を印刷した紅色の紙が貼られていたという。



 若い晩年のいつ頃に作られたものか、米吉にはこんな歌もある。

一つ打ちては休みゐつつかれがれの唾(つばき)手にひり槌打つ父はも

五歳で死に別れた父の、水車を作る時の仕事のようすを思い出しての歌であろう。「かれがれの唾」を手に吐きつつ、槌を打ち続けて仕事をしていた父の姿は、過酷な米吉の生を大きく支えていたに違いない。
金属メッキや金属挽物など、水車でこそなかったものの、やはり槌を手に取って、物に向かう仕事をし続けた米吉には、存外、父の仕事を継続し続けてきたという思いもあったかもしれない。職人には職人の生と矜持があり、それに携わらない者たちには窺い知れない価値観も感受性もあるとすれば、松倉米吉を、悲劇のプロレタリア歌人などと呼んでわかったつもりになってしまうのも問題であろう。
「槌打つ父」を思い出しつつ米吉が確かめようとしていたことは、たぶん、言葉や病や貧困を集めてもなお掴み尽くしがたい生の手ざわりであった。この歌を前にすると、「それでも、私は歌によってここまでは近づいた」という米吉の声がするような気がする。「諸君は私の貧困を見、肺病の苦しみを見、悲惨だと評するかもしれない、しかし諸君はなにを掴んだというのか、諸君の人生によってなにに近づき、なにに確信し、どう死んでいこうとするのか…」
 悲惨とは、おそらく、「一つ打ちては休みゐつつかれがれの唾手にひり槌打つ父」を忘却した人の心であろう。「父」の前にまた「父」がおり、数百年、数千年前の「父」たちが居る。米吉は忘却をしない人であったし、そもそも、彼の生業がそれを許さなかった。仕事の歌をもう一度引く。

日もすがら金槌をうつそこ痛む頭を巻きて金槌を打つ

工場に仕事とぼしも吾が打つ小槌の音は響きわたりぬ

隔月に槌うちに来つつ工場の真中に坐して仕事はとぼし

しんかんととぼしき仕事抱えつつ窓に飛びかふ淡雪を見る

わが握る槌の柄減りて光りけり職工をやめんといくたび思ひし

「職工をやめんといくたび思ひし」というのは本当だろうが、米吉の真の戦いの場は、貧困や病よりも、こんな思いの場にこそあっただろう。「わが握る槌の柄減りて光りけり」と歌う時、「槌」を「握」っているのが、かならずしも、孤立した個人としてのこの自分ではないかもしれないと、彼には感づいていたに違いない。
では、「柄減る」ほどに「槌」を「握る」のは誰なのか。
 妙な言い方だが、「槌」を「握る」者が握っているのである。それが今、たまたま、この自分であり、かつては「父」であったとして、そこになにか違いがあるとでもいうのか。「槌」を「握る」ようになっていく者、「槌」を「握る」よう強いられる者、あるいは進んで「槌」を「握る」者が、いつの時代、どこにあっても、「槌」を「握る」のである。
微妙で重要な問題である。われと言い、自分と言っている、そんなお前とは誰か。お前は「父」とは違うのか。そう問われているからである。
 






2013年6月18日火曜日

子音字Kの突出

  ー北原白秋の歌について
 





 あくまで、ほとんどの作品を時間をかけて読み終えた上で言うのだが、北原白秋の短歌は大嫌いである。なるべくなら再読しないで済ましたいし、とりわけ幾つかの一連の個所には、二度と戻らないで生をすこやかに終えたいとさえ思う。
 とはいえ、もちろん、あの病的で繊細な感受性の効果や技術的な巧みさを認めないわけにはいかない。そればかりか、暗さや疲れ、倦怠感、方途を失った心の揺曳のさまを適当なところで抑えておいてくれれば、次のような歌には素直に感心しておいてもよかろうとさえ思う。

 ほのかなる水くだもののにほひにもかなしや心疲れむとする

 山羊の乳と山椒のしめりまじりたるそよ風吹いて夏は来りぬ

 前者は、なるほど「かなしや心疲れむとする」で締められるものの、「ほのかなる水くだもののにほひ」のやわらかな爽やかさが十二分に救っており、かなしさも心の疲れも、歌に色を添えうる程度の修飾に留まっている。夏の到来を詠み競うことは、万葉の昔から日本の詩歌では恒例だが、それへのあらたな挑戦として作られた後者は、季節を正確に示す「山羊の乳」と「山椒」を持ち込むことで、都会生活よりもわずかに田園寄りの近代日本の現実的な生活暦を提示し、「しめりまじりたるそよ風」が吹いてくる爽やかな夏の到来をあざやかに定着した。彼自身の俳句「温室の硝子一枚壊れて夏」ほどの面白さには達していないとは思えるものの、それでも、抜きがたい粘着性や曖昧さを招来しやすい短歌形式を白秋なりに駆使した結果、「しめり」けのある軽みをなんとか出し、そこに歌の印象を留めることには成功している。


 次のような歌ともなれば、読者のほうは、白秋のやや複雑な歌い口と技巧にしっかりと気づけるようでなければならない。

 青柿のかの柿の木に小夜ふけて白き猫ゆくひもじきかもよ

 なんということもない歌に見える。夜ふけ、青柿の木の近くをひもじそうな白猫が歩いていく。提示されている情景は、とりあえずはそれだけのように見える。ちなみに、「さよふけて」と読む「小夜ふけて」の「さ」は、語調を整えたり語彙を強めるものに過ぎないので、特段の意味は加わらない。
 しかし、考えてみれば、夜ふけなのだから、柿の実の青さはよく見えないはずである。白い猫の白さも、日中のようにはありありとは見えない。現代のように、夜でさえどこもかしこも照明されているような時代の歌でもない。夜ふけの闇は深く、「青」や「白」は一目瞭然に見えているとは言い難い。
 ここまでのことがすぐに見抜けるかどうか、この歌においては、じつは読者が試されている。白秋の怖さは、不注意な読者や鈍感な読者に見て取りやすい浅い情景を掴ませ、それで満足して済ませてしまう者たちを切り捨てていくところにある。ひとつの詩歌が読者たちのレベルを評価し、差別化し、低レベルの読者にもそれなりのサービスを提供し、高レベルの読者にはむろん、もっと高い詩的興趣の享受を許すのだ。わかりやすい詩興を読みとって楽しんでいる読者を、公然と侮蔑してくるのが白秋という詩人なのである。


 では、この歌の場合、柿の「青」も猫の「白」もよく見えないであろう夜ふけの情景を提示しながら、なおも「青柿」といい「白き猫」という時、なにが起こっているということになるのか。
「青柿」や「白き猫」、さらには「青」や「白」といった概念の層の重なりが発生しているのであり、その概念層における色彩の純粋な点滅効果と干渉効果が発生しているのである。夜ふけに「青」や「白」が見えようと見えまいと、白秋にはじつはどうでもよい。夜ふけの情景など、「青」や「白」を呼び込むための仮の舞台装置に過ぎないからだ。とりあえず、「青柿」に「青」を、「白き猫」に「白」を持って来させる。後は、「青」と「白」の概念に心ゆくまで耽溺すればよい。


猫のことを言うとともに、作者の心情をも語っているかのような「ひもじきかもよ」という表現はどう捉えるのか、重要ではないか… ふつうの短歌読者はそう思うだろうが、もちろん、さほど深いわけでもない一定程度の意味あいと効果は読みとっておくのに反対はしないにしても、やはり、これは短歌の常套の収め方のひとつに過ぎないと済ましておけばよい。いうまでもないことだが、短歌においては、頻出するこうした心情表現を適当にあしらって、正面から真顔で応対しないでおくというのも作法のうちなのである
こうも考えておくべきかもしれない。もし「ひもじきかもよ」の意義をこの短歌において捉え直そうとするならば、少々めんどうな作業に入り込まねばならないだろう、と。「ひもじき」が持つ一般的な意味を云々するよりも、音声面での検討をし直しておくべきだということになろう、と。


めんどうな作業に、少し踏み込んでみよう。この歌はひらがなで書き直すとこうなる。

あおがきのかのかきのきにさよふけてしろきねこゆくひもじきかも

 さらにローマ字で音声面を記述するとこうなる。

 Ao ga ki no
Ka no ka ki no ki ni
Sa yo fu ke te
Si ro ki ne ko yu ku
Hi mo ji ki ka mo yo

 これを子音+母音、ないしは母音のみの日本語の一音ずつに分解し、便宜的にアルファベット順に並べてみるとこうなる。

a
fu
ga
hi
ji
ka ka ka
ke
ki kiki ki ki
ko
ku
mo mo
ni
ne
no no no
 o
ro
sa
si
te
yo
yu
yo

 これだけでも、すでにkikaの使用頻度の突出が見てとれるが、これをさらに子音字と母音字に分解して、使用頻度を調べてみる。日本語の母音のみをまとめて先に示し、子音字はアルファベット順で示す。

aaaaaa
iiiiiiiii
uuu
eee
oooooooooo

f
g
h
j
kkkkkkkkkkk
mm
nnnnn
r
ss
t
yyy

 白秋のこの短歌における音声素を母音字と子音字レベルまで分解し、使用状態を示してみればこのようになる。短歌というものが自ずと要請してくる条件にもよるが、とりあえず突出している部分を見れば、この歌は、母音字系では10O9I6A3E3U、子音字系では11K5N3Y2M2S1F1G1H1J1R1Tという特性を持つ。突出している文字から見て、この歌はOIKAの歌であり、とりわけOIKの歌であり、日本語において母音の使用頻度は必然的に増すのを考えれば、なによりもKの歌であるということになろう。11個という特権的なまでの子音字Kの使用頻度は異様といってもよい。
 ここで、結句と、その上の初句から第四句との文字数比較を行ってみる。

〔結句〕
 ひもじきかもよ
Hi mo ji ki ka mo yo

 a
  iii
 ooo
  h
  j
  kk
  mm
  y

〔初句から第四句〕
あおがきのかのかきのきにさよふけてしろきねこゆく
Ao ga ki no
Ka no ka ki no ki ni
Sa yo fu ke te
Si ro ki ne ko yu ku

aaaaa
iiiiii
uuu
eee
ooooooo

f
g
kkkkkkkkk
nnnnn
r
ss
t
yy

 起こっていることは何だろうか。歌全体の文字数と、初句から大四句までの文字数、結句の七の文字数を比較してみよう。

 全体    
 母音字系10O  9I  6A  3E  3U
 子音字系11K  5N  3Y  2M  2S  1F  1G  1H  1J  1R  1T

 初句から第四句 
 母音字系7O   6I   5A  3E  3U
 子音字系9K   5N  2Y       2S  1F  1G           1R  1T

 結句 
 母音字系3O   3I   1A       
   子音字系 2K       1Y  2M               1H  1J      

 このように比較してみる場合、結句「ひもじきかもよ」で加えられたのは、とりわけて2M1H1Jであり、これは、結句より前にすでに七音使用されていたOがさらに三音増やされたことよりも大きな意義を持つ。母音に関していえば、すでに六音使用されていたIがさらに三音増やされて九音にされることで、十という最大使用頻度を持つOに拮抗するに到った点は大きいだろう。結句「ひもじきかもよ」の意味とは、つまり、Iを増やすことで歌全体がOの独占的母音字支配となるのを防ぎ、他方、特権的なまでの子音字Kの優越は認めるということなのである。Kについては、子音字における徹底的な優位ばかりか、母音字をも含めても頻度11という最高数を許すに到っている。


 北原白秋の短歌とはこのようなものなのであり、このように読まれなければ、全く読めたことにはならない。
彼は、日常のさまざまな生活情景の中に、ある種の雰囲気や形態の領域や系列、とりわけ色彩や音声の領域や系列を、意識の中でつねに抽象的に生き続けていた人だった。言語は彼にとって、概念としての純粋色彩や音声の数量的側面を招来するための契機であり、道具であり、目の前の光景や社会や世界を、ふつうの生活人のようには、おそらく全く見ていなかったし、捉えていなかった。
用いられている母音字の数がどうの、子音字の数がどうのと、そんなことになんの意味があるのかと訝しむような人には、白秋のような高度の抽象詩人の作品の富は、さほど開示されないままに終わるだろう。
問われているのは、それでは意味とはなにか、誰もが知ったふうに使う意味という言葉、その意味とはなにか、ということなのである。ある言語表現を言い替えれば足れりというのでは全くない文芸表現というものにおいて、そこに用いられた色彩系の効果評価や音声面の数値化などの措置もとらずに、意味だの読みだのが始まるとでもいうのか、ということなのだ。

 

2013年6月15日土曜日

土屋文明晩年のゴキブリ歌





 土屋文明を知らぬ者はない。斉藤茂吉から歌誌『アララギ』の編集発行を継ぎ、アララギ派の中心として、20世紀の歌壇に君臨し続けた。1990年に100歳で逝去するが、それまでに、日本芸術院賞、日本芸術院会員、宮中歌会選者、文化功労者、文化勲章などの名誉を与えられ、没後には従三位に叙されまでしている。

 この土屋文明、栄誉赫々として近代短歌の最後の大立者たる生涯の晩年の歌は、たとえば、次のようなものであった。

敷物も代へたのにゴキブリは不思議不思議子等は言へどもまこと出ありく 

背のはげし本の膠はゴキブリの好き餌といへど防ぐ術なし

寝台古りわらやはらかに馴れたればここを城とし籠るゴキブリ

置く毒に中り死にたるゴキブリか後を頼むとわが枕がみ

眠る前の面に来りて散歩するゴキブリを憎む無告の被害者

何の為にゴキブリ我がまはりにはびこるか背のはげ並ぶ本を見るか

本郷新花町七十年前貸二階に我を攻めしは小形のゴキブリ

食をつめる如き明け暮れの幾月か我とゴキブリ残し世帯主は夜逃

蚊が来なくなりしと思へばゴキブリか吝しみつづける暖房のため

 土屋文明は中期以降、美しいものや情緒を扱うことを意識的にやめたように見え、これら晩年のゴキブリ歌もその延長上にあるので、格別、驚くべきほどのことがここにあるわけではない。
驚くべきことがあるとすれば、自身の生活に取材しつつ、同時に、生活歌に伴いがちなある種の感情の予定調和を、あいかわらず元気に削ぎ落していこうとしている点であろう。短歌をつくる以上、感情も思いも動かねばならないが、土屋文明の感情や思いはつねに暴走し、異形化する。個々の感情や思いは、発現するや脱皮し、古い殻やしがらみを捨てて、未知の感情や思いになり変わろうとし、さらには予想外の関係性を相互に結ぼうとしはじめる。あるいは、―こちらはもっと面白く、推奨されるべき事態であるが―、関係性などもはや顧慮されず、個々ばらばらであろうとしたり、その場その場でなるがまゝであったりする。
土屋文明の作歌の価値は、近代短歌のバチカンというべきアララギ派の中心にありながら、じつに、深く本質的に異端であったところにある。異端の力を自己抑制するのは中心にある者ではなく、いつも、周辺に侍従してご機嫌を窺う者たちなのだが、なるほど、中心に鎮座坐(ましま)していた彼は、端正だの、格調だのといったおぞましい死体趣味的劣等概念に惑わされることはなかった。
美という野卑の極み、あるいは深みとかいう安酒、幽玄だの霊妙だのというアベノミクス並みの三百代言を全面的に敵にまわし、これと乱闘をくりひろげ続けるというのが詩歌の唯一の仕事であるのは、古今、論を俟たない。なぜ美が、深みが、幽玄が、霊妙さが詩歌の敵かといえば、それらが言葉ひとつひとつのエネルギーを必ず曖昧化し、拡散し、霧散させ、意味や音や特定社会との関係でがんじがらめに拘束し切った上で去勢し、つねに、社会と時代のたまたまの愚鈍な主流層の怠惰な快楽意識の称揚に益してしまうからである。「言葉はなにも証明しない」(三島由紀夫『音楽』)ことなど誰でも知っているが、詩歌は、証明する/しないというレベルを言葉に超えさせようとし、意味を云々するレベルをも超えさせ、岩石や重金属よりも堅固な物質として、おそらく人類の精神にとっての唯一無二の実体として変容し切ろうとする。
土屋文明の晩年のゴキブリ歌をことさら大げさに評価する必要はないにしても、美のほうへ、安らぎのほうへ、深みや熟成などといったもののほうへと情けなくも妄りに自身の言葉が陥らないよう、生涯かけて闘い続けた巨大な姿の名残をそこに見てとるのには適していると言えよう。
もちろん、

食をつめる如き明け暮れの幾月か我とゴキブリ残し世帯主は夜逃

構成主義的な技法で作られたこの歌に縫い込まれた複数時間の処理、視点の重層化、「世帯主」なる登場人物に仮託した運動性、残された「我とゴキブリ」の間にふいに出現してしまう同等性の妙味など、たった一首で凡百の小説を凌駕してしまうような達成があっけらかんと挟みこまれていたりもするのだが、もちろん、これもまた土屋文明ならではの醍醐味といえる。









2013年6月7日金曜日

つかのま海に霧ふかし

―寺山修司と富澤赤黄男




マッチ磨るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

  知らぬ者のない寺山修司の有名な短歌だが、これが富澤赤黄男の次のふたつの俳句から合成されたことも、むろん、いうまでもない周知の事実である。

   一本のマッチをすれば湖と霧


   めつむれば祖国は蒼き海の上


  短歌に馴染んだ者や寺山修司から短詩形文学に入っていった者は、つい、うっかりと寺山の力量を評価して終えがちになるが、多量の短歌をすでに読み終え、いまさら寺山修司の歌でもあるまいという者なら、当然のこと、富澤赤黄男の俳句にこそ惹かれる。

 もちろん、寺山の作風がいくらこれみよがしで鼻につくとはいえ、あれも当時としては、いや、いまだに画期的であざやかな作風には違いないのだから、どちらがいい悪いという問題なのではない。寺山が強調したかった部分はなにか、富澤が達成したことはなにか、そんなところにあらためて目がいくということなのである。

  短歌も俳句も、いまだに個人の嗜好をつよく維持しつつ付きあうべき文芸形態であり続けているから、私の今の好みにもとづいて言わせてもらえば、寺山と富澤とでは、富澤赤黄男のほうが詩的には清々しい達成を遂げている、と言っておきたい気もする。もちろん、清々しさとは、こってりした料理の後で清涼感ある飲料を口が求める、そんな程度の精神の感官の欲求に従って云々してみているほどのことではあるが。

どういう達成かといえば、ようするに、捕捉した世界がひろいということである。「一本のマッチをすれば」や「めつむれば」によって、心身に拘束されて世界経験をせねばならぬ人間存在の条件と詩作上の視点の位置をしっかり明示し、その上で動作と時間性を導入しつつ、一句目の場合は、そこに「湖と霧」を加えることで、潤いを湛えた自然、世界のひろがりと距離的に確保された明瞭さ(=遠くまで続く清澄な湖面)、世界の限りなさ、見わたしや理解し尽くすことの不能性(=霧)を確保している。
二句目においては、「祖国」という永劫変わらぬ限定作用をもたらす人事概念を読み込んだ上で、「蒼き海の上」によって、人界を外れ、超えた、清浄な、自然界と地続きに展開していく抽象世界へとなめらかに読者の精神を走らせていく。
二句とも、確認するまでもない詩歌上の最高度の達成であって、しかもこれが十七音程度で成されてしまっている点、世界の古今東西における詩歌史上での日本俳句の優位を物語ってもいる。

創作活動が戦前戦中戦後にわたった俳人である富澤赤黄男にとって、「祖国」はさまざまな時期のさまざまなイメージの「祖国」であったろう。もちろん、いちばんイメージの強かったのは戦争機械の「祖国」であり、それを支えさせられる中途半端な近代を強いられた民の「祖国」であり、混乱と滅亡の「祖国」であったに違いない。「めつむれば祖国は蒼き海の上」という表現は、そうした「祖国」の救い出しに成功した結実である。言語に助けられて距離の伸縮を自在にあやつり、想像の中に俳句的眺望を開けば、「祖国」は「蒼き海の上」に浮かぶ静かな、ひそやかな謎をなおも秘めさえする自然の列島に戻る。そこでは住民さえまばらな様子ではないか。これほどの救国、愛国を私は目にしたことがないが、まさに詩的言語によってのみ可能な行為といえる。この世に今ある人間は、なにもこの世だけを、ひとつやふたつの地平だけを生きているのではない。世界や宇宙のはてなき全容をふくめて、界とよぶべきものは、目の前に煩わしく展開されるいわゆる現実や現代なるものの他にも、多様無数の展開を持つものであり、富澤赤黄男はそうしたべつの界へとわずかに出てみることで、「祖国」なるものへの処し方を見事に示したのである。

寺山のほうは、富澤に比べれば、はるかに「祖国」への愛は少ない。「身捨つるほどの祖国はありや」という反語表現は、もちろん、すぐに否定的確信を導いてくる。そんな「祖国」などない、という強い確信から来ている表現であり、この思いからしか今後の思想も言動も始まらないという動かしようもない事実そのものでもある。
「マッチ磨るつかのま海に霧ふかし」が描出するのも、富澤が採った「湖」よりはるかに広大な「海」にもかかわらず、まったく見通しのきかない「海」であり、その広大無辺さが人心に希望や未来として機能しない「霧ふか」い「海」である。この「霧」にしても、富澤が描いた爽やかな「霧」とは違う、どこか汚れのような、べたついてくるような「霧」である。かりに晴れたところで、ろくな海面が見えるわけでもなかろうと思わされるような「霧」なのだ。
もちろん、あまりに安易に、人に感傷的な明るさや希望を見させがちな「海」のような語や、やはり感傷的な浪漫性を喚起しがちにさせる「霧」のような語、また、愚劣な集団幻想をいつまでも燃え上がらせ、個人的な不満の簡便な解消先として用いられ続ける「祖国」のような語を、寺山がいちいち注意深く否定し、見切り、断罪しながら作歌したのを忘れてはならないので、寺山にくらべれば驚くほど富澤が素朴に「湖」も「霧」も「海」も用いてしまっていることの、その安易さ、安直さをも見ておかないわけにはいかない。寺山の場合は、たとえば次のような歌におけるほど、「海」を毀貶せずにはおかないのである。

灯台に風吹き雲は時追えりあこがれきしはこの海ならず

 富澤赤黄男が1902年(明治三十五年)生まれ、寺山修司が1935年(昭和10年)生まれという大きな世代差ももちろん影を落としていよう。複雑な屈折や乱反射を含みながらも、富澤が「祖国」なる語の周囲に発生する高揚を経験したことがあった一方、寺山の「祖国」体験は、狭量いっぽうの軍国化と窮乏と虚偽と腐敗と崩壊のそれであった。「身捨つるほどの」ものでありうるのは、より大きな寛い身体や精神となりうるものでなければならないが、そんなものでありうる「祖国」など、寺山の経験にはありようもなかったはずである。

それにして、なお、「マッチ磨るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」とはよく言ったもの、言い得たもの、とも思う。
「身捨つるほどの祖国」などとは、詩歌上のレトリックとしてさえ、口が裂けても言いたくはなかったかもしれないのに。戦後派に不可能だったあっけらかんとしたこんな言語表現が彼に可能だったのは、もちろん、「マッチ磨るつかのま海に」分厚くふかく浮び出る「霧」のほうこそをみずからの身体となし得る見とおしを、寺山がつけていたからである。ともに言葉にすぎない「祖国」と「霧」は、ともに空虚であり、本来なんの内容物も持たないがゆえに、もし使用者の側が容易に自我なるものの感傷的な根をこれらの語から引き上げるすべを獲得しさえすれば、じつはいかようにも置き換えが可能である。そもそも、厳しく現実的に考えれば、個の精神にとってはふかい「霧」程度のものでしかない「祖国」ではなかったか、という発見もあったであろう。ここには、吉本隆明の共同幻想論にそのまま通じるものがある。いかなる場合であれ、詩人や歌人、俳人とは、徹底して言葉を信じない種族たちなのでもある。信じないから、言葉に使われるということがない。言葉を使う種族は、言葉になど使われてはならないのである。

 「霧」のほうこそをみずからの身体となすこと。これは演劇的人間の行動原理でもあろう。やがて演劇へと向かうことになった寺山が、腎臓病でのながい闘病中に、すでに一首一首を舞台上のスポットライトの当たった部分のように鮮やかに演出して作っていたというのは、どこかわかり易過ぎる危険な構図なのだが、この構図の善し悪しはともかく、いずれにしても彼の作歌の底には、自分の《今》や《ここ》でないあらゆる概念やイメージを瞬時に自分の身体とすることのできる、もっと注目すべきすべが、能力があった。この能力の起動時、もちろん、自分などというものは即座に括弧つきの「自分」となり、他のあらゆる概念やイメージ同様、いくらでも取り換え可能なパーツに過ぎなくなるのである。


 「自分」などというものは、どこの誰の「自分」であれ、アントナン・アルトーのいうCsO器官なき身体にまったく達していない表層的なとりあえずのラベルに過ぎない。そんな「自分」たちがわさわさと、もさもさと語ってやまない喜怒哀楽や個人史など、もちろん一顧だにする必要もないのだが、世俗的には冷酷とも見えるかもしれないこんな態度からのみ、もちろん、はじめて言語表現の界は始まろうとするものでもある。