2013年9月19日木曜日

一回性の行為、還元不可能なものとしての〈テクスト〉読解





    ―ロラン・バルトのテクスト論について





 あらゆるものの流行の移り行きの速すぎる地上にあって、ひと頃は文芸批評の王者であったあのロラン・バルトRoland Barthesも、現在ではすっかり、ひとりの〈作者〉として、あるいは〈作品〉として完全に遺物化されてしまったかに見える。それはもちろん彼の落ち度から来るものではないにしろ、〈作者〉の死を宣告したことなどはともかく、奇妙なほどに〈読者〉を特権化し、〈読者〉のあらかじめの死、そしていつまでもの死、不在、到来の不可能性、そういったものを隠蔽したか、それに気づこうとしなかった点は、やはり、現在の視点で見直してみると、過失とも欺瞞ともいうべきことであったのではないか。


 どこかに〈読者〉なるものが存在しうるなどと信じたかったのだろうか。
なるほど、人は文字の並びを目で追うことができ、言語に関わるあらゆる種類の記憶(記憶相互を繋ぎ、反応させる装置も含む)をそうした肉体運動に伴って機動させ、なにかしらの知的感情的な刺激を得ることができる。そういうことの起こる場を〈読者〉と呼ぶならば、たしかにどこにでも、数えきれないほどの〈読者〉はいる。しかし、そのようなレベルで〈読者〉という単語を使うだけのことならば、〈作者〉という単語も大げさに用いるほどのことはなかったのであり、〈作者〉の死、などとセンセーショナルに打ち上げるほどのこともなかったはずだ。というより、できなかったはずである。彼が〈作者〉の死やテクストやエクリチュールを語る文章では、対になる単語どうしの間にこのような質的な扱いの差が見られ、往々にして、これが議論をわかりづらくしている。たとえば、あれだけテクスト、テクストと語る一方、「テクストの定義はない。それは概念ではない」1といったかと思えば、「現在、このテクストという概念は、隠喩によって近づくしかない、つまり隠喩をテクストのまわりに、できるだけ豊かに流通させ、列挙し、つくりだすしかない」2などと言うものだから、ところどころで神秘化さえ発生する。テクストの透明性を求めていたらしいというのに、議論の混濁が惹き起こされる。
 なぜ〈読者〉は死んでいるのか、到来不能なのか。
それは、まさにバルトがエクリチュールについて語っている性質そのものが、彼の言う〈読者〉の性質だからである。すなわち、「あらゆる声、あらゆる起源を破壊する」3ものであり、「われわれの主体が逃げ去ってしまう、あの中性的なもの、混成的なもの、間接的なものであり」4、読んでいる「肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あらゆる自己同一性がそこでは失われることになる」5ような、そうした性質のものが〈読者〉だからである。エクリチュールの〈読者〉は、エクリチュールそのものでなければ〈読者〉たりえない。
さて、問題なのは、こういうものとしての〈読者〉のみが求められているとした場合、〈読者〉はどこに存在しうるのか、ということだ。私が、あなたが、彼が、このような〈読者〉であるなどというのだろうか、誰が言うのか、言いうるのか。私がそうだ、と言ったとして、その瞬間、私=そのような〈読者〉なのだろうか。
 誰ひとり、ふつうの意味での人間は、そのような〈読者〉にはなり得ない。「われわれの主体」や「自己同一性」が失われた時に存在しうるならば、「われわれ」には知り得ず、経験できないはずである。すなわち、「われわれ」にとって〈読者〉は、あらかじめの死、そしていつまでもの死、不在、到来の不可能性そのものということになる。


 バルトは、「書くということ」について、このように語っている。
「書くということは、それに先立つ非人称性―これを写実主義小説家の去勢的な客観性と混同することは、いかなる場合にもできないだろう―を通して、《自我》ではなく、ただ言語活動だけが働きかけ《遂行する》地点に達することである」6
「それに先立つ」というのはバルトの誤りであり、書くことを可能にする「非人称性」は「書くということ」とともにしか発生しえないのだが、それを別とすれば、ここでバルトが言っていること自体は極めて正しい。「書く」時、「書く」者の自我も人格も消滅し、しかも一人称でも三人称でもない非人称の機能体が起こる。これは誰でも体験を反省すればわかる事実で、疑いの余地はない。いや、自分が書いている時にはちゃんとこの自分がいて、この自分として、自分が書いている…と主張したとしても、意味がない。そのような「自分」がいるとすれば、その時の意識はそのような「自分」を意識内に記述しているのであり、それとは別の他のテーマに関わる単語連鎖を記述してはいない。意識は、つねにひとつのことしか扱えないのだ。他のことを同時に扱うためには、現在扱っている対象と他のことを合わせて〈ひとつ〉とするしかない。その場合、すでにそれらは別のことではない。
「書くということ」についてのバルトのこの記述もまた、そのまま、〈読む〉ということを説明するものとなる。〈読む〉「ということは、それに先立つ非人称性―これを写実主義小説家の去勢的な客観性と混同することは、いかなる場合にもできないだろう―を通して、《自我》ではなく、ただ言語活動だけが働きかけ《遂行する》地点に達することである」、と。


テクストやエクリチュールについては、というより、バルトにおいて〈書く〉ことと〈読む〉ことは完全に同一の現象でなければならない以上、同じことをごくわずかに観点を変えて見た内容を結局は語っているのだから、エクリチュール=テクストとでもいうべきだが、これは誰も〈読む〉ことなどできない。誰もそれらの〈読者〉ではありえず、それらについての〈読者〉は永遠に不在である。エクリチュール=テクストを〈読む〉ことができるのは、ひとつの主体ではなく、一者ではなく、「私」ではないからだ。それらが消滅した時にのみ、エクリチュール=テクストは発生する
言語配列がそこにあり、それを目で追いながら、記憶の多様な再生が連鎖的に起こるにつれ、人は脳内に、個人的な刺激の連続的な発生を経験する。個人的といっても、社会に帰属して規制された脳の運用法を身につけた人間の個人性は、パターンと呼びうる程度のものでしかなく、ほぼ非個人的なものだが、ともあれ、こうした経験を〈読む〉と呼んでおけばいいのならば、そもそも最初からバルトの試みは不要だったことになる。バルトにとっては、もちろん、そのようなものは〈読む〉と呼ぶには値しない。
そもそもエクリチュール=テクストは、本を開けばそこにあるようなものではなく、見出され続けなければならず、到達され続けなければならない。どうしてそのようなことになるのか。もちろん、エクリチュール=テクストの性質からそれは来るのである。
それはどのようなものだったか。バルトが『作品からテクストへ』においてテクストについて並べた説明を、少し思い出しておこう。
たとえば、テクストは数えられる対象ではない。物質的に作品とは区別できない。「非常に古い作品のなかにも《テクスト》はありうるし、また、現代文学の多くの産物は少しもテクストではない」7作品というものは物質の断片であり、「書物の空間の一部を占める」8が、それに対して、テクストは方法論的な場である。テクストは言語活動のうちにあり、なんらかの「ディスクールにとらえられて、はじめて存在する」9。また、テクストは作品の分解ではなく、作品のほうこそテクストの「想像上の尻尾」10である。そうして、テクストは、「ある作業、ある生産行為のなかでしか経験されない」11から、図書館の書架に留まっていることはありえない。テクストを構成する運動は横断である…
これはバルトが行っている7項目の説明のうちのひとつをまとめたものに過ぎない。この後、同じような口調の6つの説明が続いていくことになるが、すぐに気づかされるのは、彼が〈テクスト〉の対概念として用いている〈作品〉が、(彼は他所でテクストは「概念ではない」と言っていたのだから、ここで〈作品〉を対概念と呼ぶことはもちろん躊躇されるのだが、便宜上、こう呼んでおく)、世間一般では平然と、彼が〈テクスト〉に込める意味あいで用いられており、用いられうるということである。バルトが〈テクスト〉と〈作品〉とを分けることで、彼の夢みる言語活動のユートピアを描きたいのはわかるとしても、〈作品〉という言葉においては意味の射程も広ければ階層も多い。それを無視して、〈作品〉を超える〈テクスト〉などそもそも設定しようもないはずなのである。
もちろん、このような不平の言い立ては小さなことに過ぎない。バルトに触れる際には、〈作品〉という語についてのバルトなりの意味づけを受け入れておけば済むことだからである。そうしながら、エクリチュール=テクストについての美しい夢の数々を彼が披歴し続けるのに立ち会えばよいのには違いない。抽象的でもあり、どこかに多くの嘘が含まれているとは感じるものの、つまりは夢なのだから、黙って見ていればいいのである。
いつか小説を書こうとしながら、ついに書かないで終わったバルトだが、思えば、石川淳によれば「なにをどう書いてもいい」はずのものである小説にあっては、紋切り型の小説イメージに平身低頭して、人物を描写したり、性格づけをしたり、時代や背景を選んだり、日常にごまんとあるような小さな珍事や問題をこれみよがしに大仰に取り上げて、その中で人物たちを慌てふためかせて相も変わらぬドラマを捏造してみたりせずとも、抽象的な概念や奇抜な批評ばかりによって編まれたものがあったとしてもいいはずであろう。バルトの全文業は、あれはつまりは小説だったのだ、少なくともフィクションだったのだ、と思うこともできるはずで、〈フィクション〉はもちろん、〈小説〉という概念もまた、その程度までは間口の広いはずのものではある。だとすれば、次のような文句がバルトの文章中に並び続けるのも、大いによしとすべきはずのものだろう。いわく、〈テクスト〉は言表行為の諸規則の限界に向かうもので、ドクサ(通説)の向こうに身を置こうと努めるものであり、〈作品〉が一個の記号内容によって閉じられるものであるのに対して〈テクスト〉は「記号内容を無限に後退させ」12、「延期させる」13… また、いわく、〈テクスト〉は「徹底的して象徴的で」14あり、「構造化されているが、中心をもたず、閉止を知らない」15。「意味の共存」16ではなく、「通過であり、横断」17であり、「解釈に属することはありえず」18、「還元不可能な複数性」19であり、そこでは「いかなる言語活動も他の言語活動の優位に立たず、すべての言語活動が(循環[シルキュレ]する、というこの用語の意味をも保ちつつ)交流[シルキュレ]する」20


バルトが〈テクスト〉の生きた観念をつかんだのは、現実の地形であるワジにおいてだったらしい。ワジは、北アフリカの水なし川を意味する。彼は、「自分のなかの想像的なものをすべて取り払った」21無為な主体」22、「適当に空虚な」23主体となって、ワジを歩いたことがあった。その時、「光、色、草木、大気、わきあがる小さな物音、かすかな鳥の鳴き声、谷間の向こう岸の子供たちの声、すぐ近くや非常に遠くを通りすぎる住民たちの往来、身振り、衣服」24などを彼は見るが、「これらの偶発的なものは、どれも半ばしか同定できない」25し、「それらは既知のコードから来ているのだが、しかしその結合は唯一であって、これが散歩を差異にもとづいてつくりあげ、差異としてしか繰りかえされないようにする」26ゆえに「多様で還元不可能なもの」27となっている。
ここから彼は、一気に〈テクスト〉の抽象的な青写真へ、夢のスケッチへと移るのだ。〈テクスト〉はこのワジでの経験と同じで、その差異においてしか〈テクスト〉であり得ず、〈テクスト〉の読書は「一回性の行為」28でしかない。そのため、〈テクスト〉に関するあらゆる帰納的=演繹的科学は幻想に終わる他ないし、〈テクスト〉の文法も存在し得ない、と…
ひとつとして同じ経験はない、〈読む〉ことにおいてさえも。…そういうことだろうか。
たとえすべての御膳立てが「既知のコード」から成っていたとしても、一見同じ肉体を伴っていてさえ〈読者〉の側もつねに変質していく以上、ある瞬間の〈読み〉が二度と繰り返されることはなく、その経験の全容はなににも「還元不可能なもの」である。素粒子の動きのように、エクリチュール=テクストはそこに関わる者に応じて変質し、時空によっても変わる。帰納的=演繹的科学は、なるほど幻想に終わる他ない。あるいは、無限に繊細な帰納的=繹的科学が求められていくしかない…


しかし、こんなことなら、じつはル・クレジオJ.M.G. Le Clézioが小説『愛する大地Terra Amata』のプロローグではるかにわかりやすく、読みやすく、美しく語っていたことではなかったか。
「あなたは本のこのページを開いた。題名や、作者や出版社の名をぼーっと見ながら、二三ページめくってみた…29と始まるこのプロローグでは、「あなた」は書店でこの本を選んだのかもしれないとか、それとも誕生日プレゼントで貰ったのかもしれないとか、いま空港で飛行機をながく待っているのかもしれないとか、あるいはたんに家にいて、肘掛椅子に座っているのかもしれないとか、そうでなくて、サングラスをかけ、砂浜に腹ばいになって読んでいるのかもしれないなどといった、「既知のコード」からなる「還元不可能」の一回時が次々と語られ、第一章《たまたま地上に》を前にして、やがてこのような末尾に到る。
「暑過ぎると、あなたは海まで行き、水を浴びる。そうしてあなたはまた本を手に取ることができる。読んだばかりのところを忘れてしまっているが、文学においてはこれは決して悪いことではない。本は、生の只中で、あなたを取り巻いているもの以上に読みやすくもなく、持続しうるものでもない対象のように存在している。ひとりのビキニの女があなたの前を行くので、あなたは彼女を見つめる。それから、あなたは書かれているもののほうに向き直る。まるで物語の中を、本当にこのビキニの女が横切っていったかのようだ。ここには『テーブル』と書かれていて、むこうには『鏡』と書かれているが、これらは、『雲』や『タンクローリー』であってもよかっただろう。これこそが、まさしく本の面白いところだ。実現された唯一の記号の中に、やり方の上での無限の多様性が刻印されている。だとすれば、あなたがこれらの行を読んでいる時間や場所がなんだというのか?あなたがこれを読むことになった理由がなんだというのか?そんなものは、これであろうが他のものであろうがよかったのだ。無数の歯車装置から成る偶然というやつは、いつだって、消耗せんばかりに働き続けている。誰かが書いて、べつの誰かがそれを読むのだとしたところで、それがなんだというのだろう?結局のところは、それも究極のところでは、両者は同じなのだし、彼らはいつもそれを知っていたのだ」30
 バルトの〈テクスト〉論に刺激されてル・クレジオはこれを書いたのだろうか?同時代の知的雰囲気の中にいた敏感な作家たちが、個別の論文や作品にどういう順序で影響を受けたかをみだりに考えるのは、かえって本質を見逃す愚行かもしれないとはいえ、ル・クレジオのこの小説は1967年の発表である。先に見てきたバルトの〈テクスト〉論、『作品からテクストへ』は1971年のもの。自分より若いソレルスやクリステヴァの影響を受けながらバルトが自分の論を明確にしていったのを思えば、やはり、若いル・クレジオの影響を受けなかったともいえまい。
ソレルスやクリステヴァたちは、パリにあって他の作家や批評家、学者たちも含めて多様な影響を与えあっていたはずだが、出身地のニースに留まり続け、パリに出てこないことで有名だったル・クレジオだけは、ある意味で、他の同時代人からいちばん影響を受けなかった人物といえる。巨大な淵源としてのル・クレジオ?それを考えるべきなのだろうか?
しかし、ものを書く彼らは、当時、なによりも印刷物を通じて影響を受けたり与えたりしていたはずなのだから、本人たちがニースに留まろうがパリにいようが、もちろん、それは第一義ではなかっただろう。その上、ル・クレジオの先の表現を借りれば、まさしく、「あなたがこれらの行を読んでいる時間や場所がなんだというのか?あなたがこれを読むことになった理由がなんだというのか?そんなものは、これであろうが他のものであろうがよかったのだ」ということにもなろう。





*多く引用したRoland Barthes, La mort de l’auteur, 1968De l’oeuvre au texte, 1971の翻訳としては、みすず書房刊の『物語の構造分析』(花輪光訳、1979)所収の『作者の死』と『作品からテクストへ』を用いた。同訳書中の充実した「訳者解題」所収の『どこへ・それとも文学は行くか』や『若い研究者たち』の訳も若干個所用いた。


1    ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光訳、みすず書房、1979)、「訳者解題」p.209

2    ibid.p.209.
3   Roland Barthes, La mort de l’auteur, 1968、邦訳『作者の死』inロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光訳、みすず書房、1979)、p.79
4  ibid.,p.79-80.
5  ibid.,p.80.
6  ibid.,p.81.
7  Roland Barthes, De l’oeuvre au texte, 1971、邦訳『作品からテクストへ』inロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光訳、みすず書房、1979)、p93
8  ibid.,p.94.
9  ibid.,p.94.
10   ibid.,p.94.
11  ibid.,p.94.
12   ibid.,p.96.
13   ibid.,p96.
14   ibid.,p.96.
15   ibid.,p.96.
16   ibid.,p.97.
17   ibid.,p.97.
18   ibid.,p.97.
19   ibid.,p.97.
20   ibid.,p.104.
21   ibid.,p.97.
22   ibid.,p.97.
23   ibid.,p.97.
24   ibid.,p.98.
25   ibid.,p.98.
26   ibid.,p.98.
27   ibid.,p.97.
28   ibid.,p.98.
29   J.M.G. Le Clézio, Terra Amata, Gallimard, 1967, p.7.拙訳。
30   ibid., p.9-10.拙訳。






「私的内面性」という「辺境」が「異端」となる時


ー丸山真男の『現代における人間と政治』に添って





 「あらゆる体制、あらゆる組織は辺境から中心部への、反対通信によるフィードバックがなければ腐敗する」(1)
 これは『現代における人間と政治』での丸山真男の指摘だが、もちろん、疑うまでもない社会的公理というべきだろう。彼は次のように続ける。
  「(…)『反主流』や『反体制』の集団もそれなりに中心部と辺境をもち、そこから発する問題をかかえている。その場合一般に、境界から発する言動は、中心部からは『無責任な批判』と見られ、完全に『外側』の住人からは、逆に内側にコミットしているという非難を浴びやすい。しかし、批判が『無責任』かどうかは、何にたいする責任かを問うことなしには意味をなさない。中心部のそうしたイメージにはしばしば内側の構造と勢力配置を基本的に維持しようという意識的、無意識的な欲求がひそんでいるからである。コミットについていえば、およそ壁の内側にとどまるかぎり、いかなる辺境においてもその活動は、なんらかの意味で内側のルールや諸関係にコミットすることを避けられない。(…)外側からのイデオロギー的批判がたとえどんなに当たっていても、まさに外側からの声であるゆえに、内側の住人の実感から遊離し、したがってそのイメージを変える力に乏しい」(2)
 普遍性のある鋭利な指摘だが、こう語った上で丸山は、現実社会のあらゆる人間が「外側と内側の問題性から免れていない」(3)と改めて確認しながら、「内側を通じて内側をこえる展望をめざすところにしか」「知識人の困難な、しかし、光栄ある現代的課題」(4)は存在しないと結論していく。
 とうに「知識人」なるものの優位が破綻している現代から見れば、この結論の後半は不要に見える。しかし、知識と知能を用いて思考する時には誰もが多かれ少なかれ「知識人」的である他ないのだと考えれば、彼の表現は時代的限界性の範囲内のことであり、これを融通を以て理解しようとするのは時代を異にする後進の側の義務というべきである。丸山が、「知性の機能とは、つまるところ他者をあくまで他者としながらしかも他者をその他在において理解することをおいてはありえない」(5)と言い添えて論考を終えようとする以上、なおさらのことであろう(6)
この『現代における人間と政治』において、丸山は、第二次大戦後の複雑化した社会において「漸く見直されようとしている」(7)トクヴィルの「早熟な洞察」(8)に触れている。「民主社会における平準化の進展」(9)、国家権力を集中させる一方で「狭い個人主義」(10)を蔓延させるという「二重進行」(11)を惹き起こし、その結果、「中間諸団体の城塞を失ってダイナミックな社会に放り出された個人は、かえって公事への関与の志向から離れて、日常身辺の営利活動や娯楽に自分の生活領域を局限する傾向がある(12)というものだ。(13)
 丸山自身の1961年時点での考察である『現代における人間と政治』も、マスコミのいっそうの爛熟とネットの繁茂を経た現代においては思い出されておく価値があるといえるだろう。彼が注意喚起を促した事態に、現代社会があらためて近づきつつあるからである。


 外部から、しかも、後世からは、「徹底した権力統制、苛烈をきわめた弾圧と暴行、網の目のようにはりめぐらされた秘密警察網と息がつまるような市民相互の監視組織、さらには強制収容所におけるほとんど信じがたい残虐行為の数々」(14)の時期であり場所であったと見える国家社会主義ドイツ労働者党時代、強制的同一化とも強制的同質化とも訳されるナチスの〈グライヒシャルトゥングGleichschaltung政策の下で、ごく普通のドイツ国民はどのように過ごし、さまざまな出来事を受けとめ、社会の推移に対処したのか。
 ナチス社会の内側にいた人々の証言を集め、書名通りに『彼等は自由だと思っていた』どころか、平穏さを享受し、幸福でさえあったのを示したミルトン・メイヤーの著作(Milton Mayer, They thought they were free, 1955)に依拠しながら、丸山は、社会が危機に向かって暴走する最中、「内側」の人間たちの精神になにが起こるかを指摘している。
 証人のひとりであるナチス時代を生きた言語学者は、異常化していく社会というのは、「農夫が自分の畠で作物がのびて行くのを見ているのと同じ」(15)だと言っている。「ある日気がついて見ると作物は頭より高くなっている」(16)うに、物事がごくわずかに、徐々にしか進展しないので、全く異常に気づかなかったというのだ。
彼によれば、「一つ一つの措置はきわめて小さく、きわめてうまく説明され、時折“遺憾”の意が表明されるという次第で、全体の過程を最初から離れて見ていないかぎりは、―こうしたすべての“小さな”措置が原理的に何を意味するということを理解しないかぎりは」(17)異常へと向かっているとは見えず、「何処に向って、どうして動いて行くのか見きわめられない」(18)
そのため、「一つ一つの行為、一つ一つの事件はたしかにその前の行為や事件よりも悪くなっている」(19)としても、「しかしそれはほんのちょっと悪くなっただけなのです。そこで次の機会を待つということになる。何か大きなショッキングな出来事がおこるだろう。そうしたら、ほかの人々も自分と一緒になって何とかして抵抗するだろう」(20)。そう思いつつも、「戸外へ出ても、街でも、人々の集りでもみんな幸福そうに見える。何の抗議もきこえないし、何も見えない。…大学で、おそらく自分と同じような感じをもっていると思われる同僚たちに内々に話してみます。ところが、彼等は何というでしょう。“それほどひどい世の中じゃないよ”あるいは、“君はおどかし屋だ”というんです」(21)
 確かに「何十人、何百人、何千人という人が自分と一緒に立ち上がるというようなショッキングな事件は決して来ない」(22)。が、「気がついてみると、自分の住んでいる世界は、―自分の国と自分の国民は―かつて自分が生れた世界とは似てもにつかぬものとなっている。いろいろな形はそっくりそのままあるんです。家々も、店も、仕事も、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も…。けれども、精神はすっかり変わっている。にもかかわらず精神をかたちと同視する誤りを生涯ずっと続けて来ているから、それは気付かない。いまや自分の住んでいるのは憎悪と恐怖の世界だ。しかも憎悪し恐怖する国民は、自分では憎悪し恐怖していることさえ知らないのです。誰も彼もが変わって行く場合には誰も変わっていないのです」(23)
 非常にリアリティーのある貴重な証言で、社会、集団、組織のあらゆる変化に際して、思い出しておきたくなる。「精神をかたちと同視する誤り」という発言も重要だろう。生活の基本的な「かたち」さえ維持し続ければ、どのような全体主義国家も創造可能ということになる。
 ドイツ人たちがみなナチスになったわけでもなく、ナチス党員と同じ思想を持ったわけでもなく、ましてやSS隊員のように全ドイツ人がなったわけでもないが、「彼等の住む世界がナチに」(24)なり、「その世界の変化にたいして彼等は、いわばとめどなく順応した」(25)と丸山は言う。「とめどなく順応」する事態がどうして起こり得たのか、この言語学者の証言によるなら、事態の漸進的進行(権力側からは漸進的遂行ということになろう)、および、疑義を抱いたり注意喚起する者へただちに浴びせられる沈静化圧力、カーム・ダウンcalm down圧力ということだろうか。


 連合軍による裁判で投獄されたナチス法学界の大立者カール・シュミットは、出獄後の著作(26)で、ナチス支配下の知識人の態度や知的雰囲気について語ったが、こちらはまた、別の問題を提起している。
 シュミットが語るのは、むしろ、ナチスの洪水のようなプロパガンダ政策の敗北である。「西ヨーロッパの合理主義の長い伝統に加うるにドイツ人の『抜きがたい』個人主義は十数年の暴圧によって滅ぼされるような生易しいものではな」(27)かったとシュミットは語り、「ドイツ知識層の日々の精神生活が表面の狂瀾怒濤の下で、静ひつな自由を保持した」(28)と言う。
さらに、「ドイツ人が驚くほど組織され易いということは、実はドイツ人の驚くべき自我武装にすぎない。その時々の合法的な政府によって命じられたことすべてに喜んで協力するという態度が最大限に発揮されたような場合にさえも、私的内面性への引退という昔から守られて来た静かな伝統はそのまま残っていた。…ほかのいかなる世界でも、ドイツほど内的なものと外的なものとの区別が徹底して押し進められ、ついには両者の無関係にまでたちいたるというようなところはなかった。こうした教養層の外面的なグライヒシャルトゥングが円滑単純に進行しただけに実は彼等を内面から完全に均一化することは困難だったのである」(29)
まともな「インテリはみな表向きと内面との二重生活をしていた」(30)のであり、「朝となく夜となく、ラジオ・新聞・街頭の拡声機から流れ出す『世界観』の洪水」(31)や「雨と降る布告や法令の氾濫」(32)や「これにおうむのような極り文句で呼応する人民の斉唱」(33)中で、「権力と歩調を合せて太鼓をたたいていたのは、少くとも学者、芸術家、文筆家の中では三流、四流の人物」(34)でしかなかったと言うのだ。
シュミットのこうした指摘は、全体主義の威力の限界と「内面的自由の世界」(35)の限界とが線対称的に接し合っていることを示している。このふたつは、「いわば相互不可侵の事実上の承認の上に立って同じ社会で共存しうる」(36)のであり、シュミットの言う「『抜きがたい』個人主義」は、「内面性の名において『外部』を、つまり人間関係(社会)をトータルに政治の世界にあけ渡すことによって、外部の世界の選択を自己の責任から解除して」(37)しまうのだ


ナチスへの抵抗者として強制収容所に入れられたルター派教会牧師マルチン・ニーメラーの証言もまた、自分が属していない領域に口出しをしないという、賢明で控え目にも見える近代社会的マナーやモラルの悪効果をよく示していて興味深い。
「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった」(38)
 ニーメラーは、ナチス時代のこの経験から、「端初に抵抗せよ」(39)と「結末を考えよ」(40)という二つの教訓を引き出している。しかし、言語学者の証言を思い出せば、「畠で作物がのびて行く」ように「「一つ一つの措置はきわめて小さく、きわめてうまく説明され、時折“遺憾”の意が表明されるという次第」なのだから、「端初に抵抗」するのは不可能であるし、疑義も大きな不安も持たない以上、「結末を考え」る必要も認められるはずがない。つまり、せっかくニーメラーが苦渋の体験から引き出した教訓は、現実には絶対に役立ちようがない空論的教訓に過ぎないのである。


 ここで話は、冒頭に引用した丸山の「あらゆる体制、あらゆる組織は辺境から中心部への、反対通信によるフィードバックがなければ腐敗する」という言葉に戻る必要が出てくる。
 ナチス社会において、シュミットは「中心部」にいたということになろう(とはいえ、当時は、いっそう強度の御用学者たちからシュミットさえも攻撃されたという)。言語学者やニーメラーはそうではないものの、先に証言を見たこれらの三者が、ともにナチス社会の「内部」にいたのは確かなことである。
〈グライヒシャルトゥングGleichschaltung政策が、「正統の集中であると同時に異端の強制的集中」である以上、ここでは「正統」と「異端」の徹底的な分離が推進され、やがては、それぞれの場において、フーコーが言うところのgrand renfermement(大きな閉じ込め)(41)が発生する。人間社会に基本的性質として存在する「『世の中』のイメージについての自己累積作用がおこり、それによって両者の間の壁がますます厚くなるという悪循環」(42)が続いて起こり、「正統」と「異端」の分離は自動運動の域に達するようになる。ここでは、Wリップマンが『世論』で示した「いかなる国民共同体でも、外界の事象にたいする世論を形成するものは主として、少数のステレオタイプ化したイメージ」(43)であることや、「ステレオタイプの体系が確固としている場合、われわれの注意はステレオタイプを支持するような事実の方に向き、それに矛盾するような事実からは離れる」(44)という傾向が強力に下支えしている。
ともにナチス社会の「内部」にいた三人のうち、シュミットははじめから「正統」の中に身を置いていたことになろうが、言語学者の場合は、徐々に、消極的ながらも「正統」に吸収されていったということになろう。ニーメラーも、自分以外の領域の集団が攻撃された際に抵抗しなかったことによって、無抵抗において、不行為において、振舞いや行動様式の上では「正統」に限りなく接近していく。「精神をかたちと同視する誤り」という言語学者の言葉を思い出し直しておけば、振舞いや行動様式という「かたち」はもちろん「精神」と「同視」されるであろうから、「正統」と変わらないとさえ言われかねないことになる。魂だけは違う、と言い募るにしても、無抵抗、不行為のままであるかぎりは、シュミットが語った「私的内面性」の問題に還元されるだけのことである。
 ニーメラーが一気に「正統」から「異端」へと移行するのは、「教会の人間」として、教会への攻撃に抵抗した瞬間だった。抵抗が、行為が、「かたち」が、彼を一瞬に「異端」化するのである。これを可能にしたのは、まさに彼の「私的内面性」であり、彼の「内面的自由の世界」だった。
これは、丸山の表現で言い換えれば「辺境」ということになる。ナチス社会の「内部」にいながら、しかし、ニーメラーが位置していたのは精神的な「辺境」だった。抵抗行為の有無が、こうした「辺境」にある者を、表面的「正統」ともすれば、「異端」ともする。抵抗行為とは「辺境から中心部への、反対通信によるフィードバック」ということである。
ニーメラーの場合は、ルター派信仰という「辺境」にいたのだが、これは他の思想や信仰、あるいは行動様式を決定するほどに強いものならば、特定の心情や感性、趣味などでも同様に機能することになるだろう。「中心部」や社会「内部」の異変を、自らの「私的内面性」の存在によって敏感に察知する者たちならば、みな、「辺境」にあるといえる。
「『外部』を、つまり人間関係(社会)をトータルに政治の世界にあけ渡すことによって、外部の世界の選択を自己の責任から解除して」しまうゆえに、ナチスの〈グライヒシャルトゥングGleichschaltung〉政策を可能ならしめたはずの「私的内面性」や「内面的自由の世界」こそが、同時に「辺境」そのものなのでもある。異常化する社会に対して「異端」となるかどうかは、おそらく、抵抗行為という「かたち」一点にのみかかっている。


(1)  丸山真男『現代における人間と政治』in『増補版・現代における思想と行動』(未来社、1964)、p.491
(2)  ibid.p.491-492
(3)  ibid.p.492
(4)  ibid.p.492
(5)  ibid.p.492
(6)  丸山のこの知性論は注目に値する。「他者をその他在において理解する」とは、まさに「知性」ならではの特権的作業であり、おそらく人間に可能な最高度の倫理的行為だが、なかなかこのように端的に表現されることはないからだ。よく、「我が事のように」他者を扱うたぐいの美談が語られるが、他人に対するにも「知性」を用いる以外の方法を誰も持ち得ない以上、人間は「他者をあくまで他者と」して扱う他はない。「知性」は、概念場における〈他〉の創出を基盤とする運動だからである。「我が事のように」などというのは、危険な虚妄でしかありえない。「我が事のように」扱われた他者は、すでにして、必ず概念的に殺されている。こちら側の〈我〉はつねに相手側にとっては〈他〉でしかあり得ないが、それにもかかわらず「我が事のように」相手を扱うとすれば、つまりは相手の〈我〉を殺して処理しやすいかたちにしているだけのことである。〈我〉の構造はほぼ万人において等しいかもしれないが、内含物や様相においてはひとりとして同一の〈我〉は存在しないというのが、19世紀ロマン主義文学のあの厖大な作品実験の末の体験的成果のひとつだった。「我が事のように」という表現の使用者たちの人間観が19世紀ロマン主義以前に留まっているのは、思えば空恐ろしいことではある。他方、職業的政治学者に留まらない洞察を持っていた丸山の著作は、そう易々とは忘れてならないということにもなろう。
(7)  op.cit.p.486
(8)  ibid.p.486
(9)  ibid.p.486
(10)          ibid.p.486
(11)          ibid.p.486
(12)          ibid.p.486
(13)          『アメリカのデモクラシーについてDe la Démocratie en Amérique』でトクヴィルの言う「民主社会la société démocratiqueが代議制民主社会のことでしかない以上、こうした傾向は「民主社会」からより「代議制」から来るとの仮説も準備しておかなければならないはずだが、「個人主義は民主主義を源とする。それは、諸条件が平等化するにつれて、発展するおそれ(il menace de se développer)がある」(45)と書いているのを見れば、「代議制」の問題点への認識は、1835年から40年時点、すなわち『アメリカのデモクラシーについて』出版時のトクヴィルにおいては不十分であったかもしれない。そればかりか、宇野重規『デモクラシーを生きる ―トクヴィルにおける政治の再発見―』(46)によれば、「トクヴィルは奇妙なことに、代表=代議制についての原理的考察をほとんど行って」(47)おらず、「あれほどイギリスの政治的卓越性を強調したトクヴィルが、議会制度や代議制についてはほとんど論じていないというのは、同時代の他の政治的著作家と比べて彼の著しい特徴になって」(48)さえいる。アメリカの英国型代議制議会制度が1619年にヴァージニア植民地で導入されている以上、アメリカ政治と社会の観察をするにあたってさえ、代議制は欠かせないポイントであったはずだが、「『古典古代の都市国家の政治の理念を、近代においては代議政体が代替する』という考えをけっして自明のものとして受け取らなかった」(49)彼にとって、この奇妙なまでの代議制についての沈黙は、むしろ、可能性の大きな中心の存在を暗示するものかもしれない。代議制については、1861年のJS・ミルの『代議制統治論Considerations on representative government』でもポジティヴな見解が表明されており、丸山真男が指摘した近代社会の問題と代議制の構造との関係性は看過されている。
(14)          op.cit.p.467
(15)          ibid.p.470
(16)          ibid.p.470
(17)          ibid.p.470
(18)          ibid.p.470
(19)          ibid.p.470
(20)          ibid.p.470
(21)          ibid.p.470
(22)          ibid.p.471
(23)          ibid.p.471
(24)          ibid.p.469
(25)          ibid.p.469
(26)          Ex Captivitate Salus, 1950.
(27)          op.cit.p474
(28)          ibid.p.474
(29)          ibid.p.474
(30)          ibid.p.473
(31)          ibid.p.473
(32)          ibid.p.473
(33)          ibid.p.473
(34)          ibid.p.473
(35)          ibid.p.474
(36)          ibid.p.474
(37)          ibid.p.474
(38)          ibid.p.475-476
(39)          ibid.p.476
(40)          ibid.p.476
(41)          Michel Foucault, Histoire de la folie à l’âge classique,1961,Gallimard, pp.67-77
(42)          op.cit.p.483
(43)          ibid.p.483
(44)          ibid.p.483
(45)          Alexis de Tocqueville, De la Démocratie en Amérique ,1840, inOeuvres,Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade »,1992.p.612。拙訳。
(46)          宇野重規 『デモクラシーを生きる ―トクヴィルにおける政治の再発見―』、創文社、1998
(47)          ibid.p.54
(48)          ibid.p.54
(49)          ibid.p.168









『一言芳談抄』の他力








 他力といわれる浄土宗も、『一言芳談抄』に集められた念仏者たちの言葉や逸話から見るかぎりは、強く厳しいものだったと考えざるをえない。渾身の自力を以てしなければ、ここに見られるような他力は支えられまい。
『徒然草』第九十八段には、この草子を読んで共感したことを兼好が書きとめている。兼好の没年は1350年なので、『一言芳談抄』の成立はそれ以前でなければならない。一方、この草子中で言及されている慈心の没年が1297年であるところから、それ以後の成立でもなければならない。いずれにしても遠い時代のことだが、その頃の他力がどのようなものだったか、それをよく伝えているには違いない。


 浄土宗といえば、南無阿弥陀仏を唱えればよいものと思われている。真言宗のような自力での経典の学問や行の修得はいらず、ただ阿弥陀仏にすがって、念仏を唱えればよい。そういう理解である。しかし、『一言芳談抄』に収められた法然のこんな教えはどうだろう。
「一念を不定に思ふは、念々の念仏ごとに、不信の念仏になる也。其故は、阿弥陀仏は一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、念ごとに往生の業となるなり」。*
(ひとつの念仏で往生できないと思うなら、念仏をするごとに不信の念仏となるぞ。阿弥陀仏は、ひとつの念仏ごとに一度往生するよう取り計らわれたのだから、ちゃんと念仏すれば、念仏するごとに往生の業を積んでいけることになるのだぞ。)
 念仏を真剣に唱えよというわけだが、この場合の真剣さとは、単なる精神統一などというものでなく、身と心と霊が貫かれ、その〈貫かれ〉が空洞に成り切った統合そのものとなっているような真剣さである。思いが純一になり、感情が鎮まり、行への心的エネルギーが純一に強まるといった現世的な精神性が求められているのではない。霊として、霊の域の全層全方向に陥没的に突き抜け、すべてに繋がる空洞となることが求められているのであり、しかも、念仏という猶も物質的な仮の道具を使いながら、一瞬にそれを成すことが求められている。法然が勧める念仏とはこういう最高強度のものであり、こういうものでしかあり得ない。
 だから、他の場所で、このようにも法然は言うことになる。
「もし自力の心に住せば、一声なほ自力也。もし他力をたのまむは、声々念々みな他力なり」。
(もし自力の心であり続けるならば、一声の念仏を唱えるのも自力ということになる。もし他力にすがろうというのなら、何度念仏を唱えても、みな、他力ということになる。)
 自力と他力がじつは同じものである、と法然は言っているのだ。真言密教の修行システムの煩雑さ、完成度、要求される非人間的な忍耐力、修行における選民性などによって、ようやく到れるかどうかという達成を、法然は、南無阿弥陀仏の念仏だけで獲得できるものと考えている。
むしろ、煩雑な多くの瑣事の集成である密教的修行をこそ否定していただろう。人間の意識はそれらの瑣事のコントロールに忙殺され、知識量と記憶力と注意力と総合的判断力にいかに秀でたところで、こうした行の連続によって強化形成されざるを得ない自我は、肝心の往生において、必ず最後の障害となって襲いかかる。成長繁茂した大脳も、知的構築物の網の目を延々と作り出し続けるようになり、それに対しても適切なコントロールを毎時行わなければ、幻影や魔が創り出され続ける。密教的自力の修行の最終段階では、こうした全コントロールが一気に放擲されねばならないが、その時に用いられるのは端的に言えば、法然の勧めるような他力なのである。自らが培って身につけてきた能力や方法を脱いで、〈自〉の外へと、まさに〈非自〉として出る。法然は、自力の最終段階にあるこうした過程をよく知っていたし、あらゆる自力の行はここに到るがためのものに過ぎないと知っていた。それを密教が語らないのを卑劣とも思っていただろう。
念仏を唱えようと思うほどの人間ならば、こうした自力の行に匹敵する日常的な生の行を十二分に積んできている。一般に組織宗教に属する者たちは故意に看過しがちだが、誰にも見守られず、監督されず、修行者とも見なされない普通の人間の生ほど厳しい修行は存在しない。規則も戒律もなく、導き手もなく、無限に続く物質や物体の妨害に遭い続け、他者たちの不透明な心理と価値観の泥沼とのつき合いから一時も抜け出ることのできない平凡普通の生は、もし組織宗教に属する者がそこにすっかり戻されるなら、たちどころに心身を持ち崩すであろうほどの試練の場である。ならば、組織宗教に属さない普通の生活者を、いきなり他力の最終段階に向きあわせてなんの問題があろう、と法然は考えた。いかなる場合であれ人生そのものが真の行でしかなく、そうしたものとしての人生にじかに接続するかたちでの念仏を勧めればよい、との判断があった。
 すぐ続いて記されている、法然のべつの言葉も見てみよう。
「往生は、決定(けつぢやう)と思へば、定めて生る。不定(ふぢやう)とおもへば不定なり」
(往生は、確かにそうなると思えば、かならずそう往生する。不確かだと思えば、そうならない。)
 もちろん法然は、ここで、思い込みの強さのことなど語ってはいない。確信、などということでさえない。信の問題などではなく、成る事実とその認識の一致の問題がここでは語られている。「思へば」とは、行動と認識の完全に位置した意の〈用いられ〉を表現している。
自力と他力について語っていた先の短い言葉と、それに続くこの短い言葉は、いわゆる悟りというものを、法然がはっきりと経ていたことを示している。念仏と往生の間に、ふつうに考えられがちな因果関係が存在しないこと、念仏そのものが往生であり、念仏を唱えるに到る物理的先行時間も往生であることが、法然にはわかっている。


 意識、と呼べばすでに逸れてしまうので、かりに意と呼んでおくが、法然が勧めたこうした行法には、なるほど、意における技術的な問題も絡んでいたのではあろう。
「有(あるひと)云く、『往生をおもはん事、たとへばねらいづきせんとする心根をもつべし』」
(ある人が言った。「往生を思うのなら、たとえて言えば、ねらい突きをするような心がまえでいるべきである」。)
 このような指導がときに成されるのにも理由はある。しかし、意の用い方においては、知や物質的領域と違い、これ以上の理屈の詮索に深入りしない必要が、どうしてもある。法然はこのように教える。
「念仏の義を深く云ふ事は、遍而(かへつて)浅き事也。義はふかゝらずとも、欣求だにも深くは、一定(いちぢやう)往生はしてん」
(念仏の理論を深く言いたてれば、かえって浅くなってしまう。理論の深みはなくても、希求する思いが深ければきっと往生するだろう。)
「称名念仏は、様なきを様とす。身の振舞、心の善悪をも沙汰せず、念比(ねんごろ)に申せば、往生するなり」
(念仏を唱えるのは、方法がないのを方法とする。身の振舞い、心の善悪も論ぜず、ねんごろに唱えれば往生する。)
 往生に向かう念仏において、意の技術というべきものは方法になってはならず、ましてや、理論構築に向かってはならない。方法や理論のようなものは意にすっかり呑み込まれ、方法や理論としては自立し得ないかたちに留まっていなければならない。「身の振舞い、心の善悪も論ぜず」というのも当たり前のことで、この世に属するものなど問題にする必要もない。この世をどう生きるか、どう振る舞うかなど、とうに放擲した事柄に属するのである。
 特に「心」へのこうした態度、その「善悪も論ぜず」という態度は、浄土宗の念仏者たちの冷徹な人間認識にもとづくものといえる。信仰においてばかりか、社会における倫理においてさえ、「心」はつねに扱いの厄介なものだから、そこに往生の要を置かないよう、はじめから配慮しておく。
 松蔭の顕性房こと、入道相国頼実はこのように言う。
「心の専不専を不論(ろんぜず)して、南無阿弥陀仏ととなふる声こそ詮要と、真実に思ふ人のなき也」
(心がもっぱらであるかどうか、純一にそれに向かっているかどうかなどは問題ではなく、南無阿弥陀仏と唱える声こそが大切なのを、真に理解している人がいない。)
 さらに、こうも言う。
「真実に此身を仏にまかせたてまつる心をば、人ごとにおこさざる也」
(本当に自分の身を仏にお任せする心を、誰ひとり起こさない。)
 また、
「『仏たすけ給へ』と思ふ心を、第一のよき心にてあることを、真実に思ひしる事、人ごとになきなり」
(「仏さま、お助けください」と思う心が、いちばん善い心であることを、本当に誰も理解していない。)
「仏さま、お助けください」という「心」の内容だけにしてしまい、さらには、仏に「心」を完全に任せてしまうならば、「心の専不専」など問題にもならぬ道理である。「心」をこのようにして念仏する者は、言うまでもなく、すでに往生している。すべて、「心」のみによるからである。


物であれ、内的なものであれ、『一言法談抄』は激しく放棄を勧めてもいるが、とりわけ仏道の学問については、厳格な放棄を迫っている。
「慈円僧正入滅ののち、或人の夢に示して云く、『顕密の稽古は、ものの用にもたゝず。時々せし空観と念仏とぞ、後世の資粮となる』」
(亡くなった後で、慈円僧正が或る人の夢に顕われて諭された。「顕教や密教の勉強はなんの役にも立たない。時どき試みた空観と念仏だけが、死後では糧となっている。」
 周囲に多くの学徒を集め、法相宗研究で有名だった解脱上人のところに、学問を望んで参じたある僧に、この上人はこう答えたともいう。
「学問してまたく無用なり。とくかへりたまへ。これに候ふものどもは、後世の心も候はぬが、いたづらにあらむよりはとてこそ、学問をばし候へ」
(学問など、全くなににもなりません。はやくお帰りなさい。この寺にいる者たちは、後世を願う心もない者たちでございますが、なにもしないのよりはいいだろうと考えて、学問をしているだけでございます)。
 明遍もこのように言う。
「其心真実ならずば、百千の不審をひらきて、甚深の義理を悟候ふとも、往生かなひがたく候ふか。仏道修行には、功が大切なるなり」
(往生を願う心が真実でなければ、たくさんの疑問を解決し、最も深い哲理を理解しようとも、往生はかなわないでございましょうな。仏道の修行には実践が大切なのです。)
 心霊の行を積んできた人にはわかりやすいだろうが、文字情報と概念と多様な思考パターンを総合的に用いながらの学問は、必ずしも往生の妨げになるわけではない。むしろ、重要な必須のものである。しかし、この方面の大脳の用い方に十分な能力を備えない人がこうした学問をすると、たまたま自分が出会って学んだわずかの内容や思考方法に精神が固着されてしまうことが多い。慈円や解脱上人や名遍が指摘しているのは、こういう人々の「学問」の問題性なのである。空海のような人にとっては、「学問」はなんの妨げにもならなかっただろう。大脳と身体と霊の全的な運動を平然と機能させることができたのである。
 空海のレベルに達しない知力の者は、せめて、自分が修得した「学問」の内容や方法論が、どう緻密に練り上げられていようが、結局はただの比喩に過ぎないと忘れないようにしておくべきである。それどころか、自我も、生も、自然や宇宙さえもが、ただの比喩に過ぎない。人間が感知し、認知し、考え得るもの、考え方、納得や了解、理解のすべてに到るまで、すべては壮大な比喩に過ぎない。こうしたポイントを外さずに「学問」をするならば、念仏者たちの批判は容易にかわせることだろう。
 とはいえ、調度ももちろんそうだが、知という「もの」は、本来的に無限に蓄えられ続けようとするところに宿命があり、その手段である「学問」は当然、この宿命的性質の下にのみ機能し、展開する。次のような簡素な戒めが、どこまでも重要となる所以である。
「或上人同法を誡めて云く、『物なほしがり給ひそ。儲(たくはへ)はやすくて、捨つるが大事なるに』と云々」
(ある上人が、仲間を戒めておっしゃったことには、「ものを欲しがってはいけません。貯め込むのは簡単だが、捨てるのが一大事ですからな」)。
 物品など何ものでもない。知こそ恐るべきもので、「貯め込むのは簡単だが、捨てるのが一大事」なのである。 


*『一言法談抄』のテキストは、『一言法談』(小西甚一校注、ちくま学芸文庫、1998年)によった。現代語訳は、この版に付されたものを参考に、適宜、変更して訳し直した。)











グレゴリー・J・ライリーの〈河〉モデルと断続平衡説






   
 キリスト教史家グレゴリー・J・ライリーは、その著書『神の河 ―キリスト教起源史』*において、キリスト教の起源を考えていくにあたり、〈河〉のモデルを使って思考の道筋を鳥瞰しようとしている。そうしながら、今ではいかにもキリスト教的なものとして聖書中に編み込まれている「悪魔」(ペルシア起源)や、「死」(カナン起源)、「竜」(メソポタミア起源)などといった表象やイメージの出自へと遡り、一神教や三位一体、悪魔、霊肉の分離、救済者などといったキリスト教的概念の発明されていく過程をほぐしていこうとする。
これらの表象への意味づけやアレンジメントぐあいの差違により、初期キリスト教には多数の分派が発生し、「様々なる意匠」というべき多彩な思念上の創作現象が発生したわけで、そこのあたりもあわせて語りほぐしてくれれば、もちろん読者の側としては嬉しいものの、ライリーはこの著書において、そこまでは手を広げ過ぎずに、前史と現行旧新約聖書との関連を示すに留めている。限られた紙数の著作にあたっては賢明な態度というべきだが、読者としてはいささか残念でもある。そもそも、現在にまで伝えられている四大福音書の存在は、少なくとも初期キリスト教に異なる有力な四集団があったことを如実に示すものだが、現在の聖書学の想定によれば、初期キリスト教会の作り出した福音書の数は80以上はあったというのだから、「神」や「悪魔」や「死」や「竜」などの表象のアレンジメントの多様さはおそらく想像を超えているはずで、まさに途方もないと評すべき世界観が披歴されていたに違いないからである。


それはそれとしても、キリスト教の起源を考える上で彼が出してきている〈河〉というモデルは、一見したところでは、いかにも生彩を欠いているかの感がある。〈河〉なら誰もが自分なりに知っていると思っているし、それがどのようなものか、今さら言われるまでもないと感じる。さまざまな支流を集めながら水量を増やし、滔々と流れ続け、やがて海に出て終わっていくさまは、誰にでもわかりやすい通俗な人生の比喩として頻繁に使われ続けている。そんなものを今さら思考モデルとして出してくるとは、なんと素朴な、と思わされる。
しかし、ライリーの出してきている〈河〉は、そのような単純なものではない。海へと達するあたりで「何百平方マイルにも及ぶ」ような巨大なデルタを形成するたぐいの大河を彼はイメージしており、当然ながら河口のイメージにしても、ゆっくりと静かに海の水に合流していくようなものなど考えてはいない。大きな広いゆるやかな水のかたまりが海に流れ込んでいくような河口ではなく、「大河が最後に作り上げた巨大な水の塊を、今度はデルタがたくさんの支流に分岐させ、無数の小さな流れに変える」河口を彼はイメージしているのである。
彼が例に出すのは、おそらく個人的に親しんでいるためだろうが、こちら側から対岸が見えないようなミシシッピー河の河口である。ルイジアナあたりの「デルタの中を流れる細流」では、オハイオ渓谷からの石炭の炭塵、ウィスコンシンからの人形、金を含むノース・ダコタからの沈泥、モンタナからのプラスチックコップなどが、よく目につくという。これらは、河口のデルタに入り込む以前の中流の大きな流れの中では、ふつう、流れに飲み込まれていて目にとまらない。しかし、「ひとたび河がデルタに入ると、あたかも時間が逆流したかのように、河は再び無数の小さな流れに分かれ、それが海へと向かうことになる」。
あまりに多量のもの、多様なものが、さまざまな源流からたくさんの上流支流を通って流れ下り、水量の多い太い中流へと集まって、表面からは見えないかたちで水中を下っていった後に、厖大な堆積物で浅くなった河口付近に来て、ふたたび上流の時のように、無数にできた細く浅い小さな流れを通っていくことになる。あちこちで引っかかって止まったり、また流れ出したり、とうとう海には到達しないままにデルタの泥の中に埋もれていったりと、各様の経過を辿ることになる。興味深いのは、ある種のものは特定の細流をしか流れようとしないといった現象が発生したり、―ということは、他の種類の細流に入り込んだその種のものは、流れのどこかで停滞してしまうことになる―、どのような流れを通っても、ある程度の距離のところで止まって流れなくなってしまうものがあったりする、などということだろう。
ライリーが使っているのはこうした〈河〉のイメージであり、これを彼は宗教上や思想上の無数の概念や表象の生成や展開、変異などの基本モデルとして利用しているのである。
思考モデルは、もちろん、対象そのものを如実に写し取りうるものでもなく、対象の構造を過不足なく抽象して表象しうると保証されたものでもない。対象の特性を効果的に際立たせられればよいものが思考モデルなのであり、そういう観点からすれば、ライリーの〈河〉のモデルは、河口デルタというものが沈殿物や集積物の厖大な堆積場となることや、そのゆえの無数の細流の発生という上流回帰状態の発生、漂流物の再可視化の常態化などを押えているために、独自の使用可能性を持ったモデルに成り得ているといえる。


彼が著作の中で用いようとするもうひとつの顕著な方法は、進化生物学から借りてきた断続平衡説Punctuated equilibriumである。これは、ナイルズ・エルドリッヂとスティーブン・ジェイ・グールドによって発展させられたことで有名だが、この理論にはポイントが二点ある。まず、生物種には、急激な変化を起こす時期と、(多くは急激な変化の後に来るが)ほとんど変化しないきわめて長い停滞期・平衡期があるということ。次に、生物種は漸進的に進化するのではなく、ある区分ごとに突然の進化を起こし、それがさらに形態的な大規模変化を誘発するということだ。
断続平衡説は、系統漸進説と対立する理論である。進化は安定した状態の中で徐々に進行していくというのが系統漸進説で、ダーウィンらがこの説の主張者の代表格である。長く力を保ったこの理論は、進化を考える際の人間の思考に馴染みやすいところがあるが、進化上のミッシング・リンクの存在をうまく説明できない難点があった。安定した状態の中で徐々に生物種の進化が進んだのならば、あらゆる中間段階の化石が発見されなければならない。しかし、現実には中間種の化石は発見されない。ダーウィンらは、中間種の化石は単に未発見であるか、化石化しなかったと説明したが、断続平衡論者は、同じその事実を使って、そもそも中間種が存在しなかったと説く。急激な進化が起こったため、段階的かつ漸進的な進化段階ははじめからなかった、というのだ。
ライリーは、こうした断続平衡説を借りながら、これをさらに、「変化のほとんどない長い平衡状態が、環境内に生じた危機によって起こる急激な変化のために、断続的に断ち切られる情況を述べた言葉である」と言い換えている。
ライリーがこう記す時、彼はじつは、進化生物学における断続平衡説の一般的なプロセスモデルに反転を施したかたちでこの理論を採用している。本来の断続平衡説では、急激な変化→長期平衡状態を多く想定するが、ライリーは長期平衡状態→急激な変化へと強調点を転換して導入している。種が自らの存在を継続させていくために、それまでの様態を急変させていくのを強いられるという点を強調したいものだろうが、他領域の学問概念を導入する場合につねに問題となる個所ではある。概念というのは思考を一定の範囲で変圧・変質させる機能体であるが、その概念にふさわしい適切な機能を果たしうるためには、その概念なりの最低限の独自条件や独自環境を必要とする。断続平衡説にとって一般的な過程モデルを反転させた場合、この概念使用にどれだけの意味が残るかは、なかなか重要な検討対象となるはずである。
ここでは、とりあえず、ライリーの意図に従って見続けていくことにしよう。
強烈な圧力、圧迫、攻撃などを受けて生存環境が劇的に変化し、種の側も否応ない変化を強いられた場合、種としては、死滅するか、新たな環境にすみやかに順応するしかない、とライリーは考えるが、彼がここで照らし出したいのは、ユダヤ教からキリスト教が系統漸進説的に出てきたものではありえないという方向への思考の道筋であり、さらには、長いユダヤ教の歴史の内部においても系統漸進説的な変化があったわけではなく、いちいちの危機において断続平衡説的な変化を遂げ続けてきたのだという推論への道筋である。
ユダヤ教自体や、そこからのキリスト教の発生についてのこうした推論は、まさに断続平衡説というモデルがあってはじめて、そう見えてくるたぐいのもので、断続平衡説は扇の要のような役割を思考において演じている。断続平衡説に無理やりユダヤ教やキリスト教を押し籠めるのではなく、かといって、断続平衡説を頭に置きながら気長に厖大な資料を調査しつつモデルへと帰納していこうとするのでもなく、断続平衡説という光源に照らすことではじめて色彩変化などが起こりマークされ得るかたちになった部分に注目しそれを統合して認識の改編をしていこうとする方法論をライリーは採っているのである。


もちろん、先に触れたように、こうした思考モデルの使用には、どこまでそれを使うか、どの程度の徹底さと曖昧さで使うか、という問題が付きまとう。ある対象を扱って思考する際の方法についての問題は、これは優に別個の大テーマとなりうる問題で、まさにサルトルが1960年頃抱えていた「方法の問題」となる。
先に見てきた断続平衡説的な見方を宗教変化史の領域に適用してみると、ごく簡単な試行をしてみるだけでも、次のような想定をする必要に次々見舞われることに気づく。たとえば、狭い特定環境に大きな変化が加わったとする。ある宗教Aは死滅し、べつの宗教Bは劇的な変化を遂げて存続していく。この場合に、環境スケールをもっと広く取って観察するならば、環境的変化を被らなかった他の場所には、変化を遂げていない従来のままの宗教Aも、宗教Bも、見出されるはずである。ここで次に、広範囲の環境にさらなる変化が襲って来て、これらの宗教の信者たちが移動を促され、特定の場所に合流せざるをえなくなるとする。ここで、宗教A、宗教B、宗教Bの進化形が出会い、それらは相互的に影響しつつ、各々変化を遂げていくと見るか、そういう事態になっていく以前に、移動段階ですでにA、B、B進化形は変化を被って別のかたちになっていると見るべきか…
こういった考察と判断と思考推進上の選択が無数に出現してくるのが現実の宗教変化史だが、こうした現場を切り抜けていくには、もちろん、断続平衡説モデルひとつではどうにもならないどころか、むしろ、それと対立する系統漸進説モデルを適宜用いる必要さえ出てくるかもしれない。



*『神の河 ―キリスト教起源史』(森夏樹訳、青土社、2002年)。本文中の引用はこの訳書による。原著はTHE RIVER OF GOD, A New History of Christian Origins by Gregory J.Riley,  2001, HarperCollins.










〈簒奪者〉の起源 ―フランク王国の王たちの「正統性」の基本構造







 振る舞い方、様相、雰囲気、風俗などの点で、どう表現したらいいかわからないほど、あの帝政の世界は時代遅れの老いさらばえたものに見える。しかし、その老いのありようは、正統王朝主義者たちの世界のそれとは異なっている。こちらの後者のほうは、時の経過とともに到来した老衰を楽しんでいる。盲目で耳も聞こえず、虚弱で、醜く、不平ばかりこぼしているが、態度は自然なものだし、杖も彼らの年齢に似合っている。これとは反対に、帝政主義者たちは、外見上、偽物の青春を装っていた。身のこなしの軽さを望みながらも、彼らが実際にいるところは廃兵院なのだ。彼らは、正統王朝主義者のように古めかしいわけでもなく、過ぎ去った流行のように老いているのでもない。投機の失敗や負け戦で破産した出入り業者のようになっているのだ
             (シャトーブリアン『墓の彼方からの回想』、ルヴァイヤン&ムリニエ版、第3620章、
              18329月、ジュネーヴでの執筆部分。拙訳。)




 
 進化の過程をいそいでくり返し直す胎児のように、代々のフランス国王の上には、メロヴィング王朝以来の王権捏造の歴史が凝縮したかたちで表象され続けた。フランス王たちをそのように王たらしめる構造は、クロヴィスからシャルルマーニュまでの間のフランク王たちの時代に、ほぼ出来上がってしまっていたといえそうである。


 496年、フランク族のクロヴィスは、従者3000人とともにランス司教レミギウス(聖レミ)によるローマ・カトリックの洗礼を受けた。これによって最初のキリスト教の王となり、最初のキリスト教国フランク王国が成立する。
 この洗礼の時、天使が現われて、青地に金色の百合の花の描かれた盾を王に与え、また、鳩が聖油の入った小瓶を聖レミに運んできて、聖レミはそこに入っていた聖油で、クロヴィスに塗油儀礼を行ったという伝説がある。
キリスト教への改宗の遅かったフランク族の中核が、こうして一気にキリスト教の正統、三位一体説を奉じるアタナシウス派の洗礼を受けた意義は大きい。ゲルマン人国家として、唯一の、ローマ・カトリックへの改宗だった。
 ガリアで5パーセント程度を占めるにすぎないフランク族がガリア統治を成功させるには、当地の有力者の協力を取りつける必要があった。崩壊した西ローマ帝国のセナトール貴族がこれで、彼らの宗教をまるごと取りこんでしまえば、西ローマ帝国の正統性を引き継ぐこともできる。
セナトール貴族とは、西ローマ帝国の政治混乱を鎮圧したディオクレティヌス帝の時代に現われた新興貴族層である。この皇帝の行ったガリアの二分化、州への細分化に伴う混乱の中で、都市の城塞化が進行した際、農民たちは豪族に保護を求め、かわりに自由を剥奪されて土地に縛られコロヌスとなったが、彼らを支配下において帝国官職に就く豪族も現われた。セナトール貴族とはこうした豪族たちをいう。
西ローマ帝国を失ったこうした貴族たちにすれば、ガリアにおいてフランク族が推進するローマ・カトリックの拡大化に伴い、主要都市の司教職へ進出していくこともできた。
 ゲルマンの中では出自が不明で弱小部族だったフランク族は、統合の象徴として、アタナシウス派キリスト教だけでなく、ラテン語も、すなわち文化もまるごと取り入れようとする。
 旧西ローマ帝国の貴族の側から見れば、この時期、もっと頼りになるのは、ゲルマン人の中でも最も強い西ゴート王国だったが、ゴート族が信奉していたキリスト教は、神の秘儀について厳格性を求めたグノーシス派に近いアリウス派のキリスト教だった(信仰教義のこの生まじめさのゆえに西ゴートは、曖昧に済ませることなしに、イスラムと激しく衝突することになる)。フランク族のクロヴィスの狙いはまさにこの点にある。ローマ帝国から西ローマ帝国に引き継がれた支配の正統性を、アタナシウス派キリスト教を受け入れることで一気に獲得してしまうことだった。
フランク族は、西ローマ帝国まで続いた正統性の継承が問題化した3世紀、はじめて歴史上に出現してきた集団で、コーカサスにいた東ゲルマン人、スキタイ系サルマタイ人、チュルク人、クロヴィスを出したサリー人などが中心となって混入したグループで、文化的統一のない、異質な人間たちの集まりだったらしい。そのため、払拭しがたい相違点を残したまま、振舞い方やマナー、旗などの表面的なもののみを無理やりに統一して、戦闘を効果的に推進しうる政治集団を目指したもののようである。
ちなみに、フランク族がその一員であったゲルマン人は、10万年ほど前にコーカサス地方で、突然変異で集団的に白子化したスキタイ系遊牧民だった。日照に弱くなるとともに、激しい差別を受けたと推測される。彼らがまず北欧に向かったのは日照の少ない地を求めたものだろう
コーカサスに残った東ゲルマン人たち、すなわち東西ゴート族、ヴァンダル族、ブルグンド族は、フン帝国の下でマジャール人(のちのハンガリー人)と並ぶ軍事力を発揮するが、のちにフン族に追われて西ローマ帝国内部に移動することになる。西ゴート族はそれ以前にルーマニアに居住しており、東ゴートは黒海北岸に王国建設をしていたが、ドナウ川のむこうへ追われていくことになった。


メロヴィング朝の弱体化ははやく、おそらく、フランク族が寄せ集めの集団であったことに大きな原因があろうが、歴史学上は、彼らの習俗である男子均分の相続慣行のためだといわれる。
クロヴィスの王国は4人の息子に均等分割され、さまざまな経緯を経て、アウストラシア(東分王国)、ネウストリア(西分王国)、ブルグントに分かれる。
各地の政治においては、ローマ・カトリックとの一体化が維持された。というのも、それぞれの地方の有力な司教が、国王によって都市伯に任命され、統治を任されることが多かったためで、教会組織によって行政も司法も進められた。
代から代への分割相続の継続は、メロヴィング家を弱体化し続ける。ここにカール・マルテルが出現してくる。
アウストラシアの宮宰職カロリング家の当主カール・マルテルは、メロヴィング家の弱体化を機に、三地域の宮宰職すべてを手中に収め、フランク王国の実権を握る。732年には、イベリア半島から北上したイスラム軍をトゥール-ポワチエ戦争で破り、その勢いを駆ってアキテーヌ、プロヴァンス遠征を行った。
子のピピン3世ともなると、メロヴィング王キルデリク3世を修道院に幽閉し、自らが国王として即位し、これを以てカロリング朝の開始となった。ピピン3世はあきらかに簒奪者であり、フランス政治権力において、後に何度もくり返される〈簒奪者〉の原型がここに出現したことになる。
正統性を獲得するために、ピピン3世は高位聖職者より塗油儀礼を受けている。751年には、フランク人たちから王に推挙された際に、ソワソンで司教より塗油儀礼を受けた。754年には、教皇ステファヌス3世をパリのサン=ドニ修道院に迎え、教皇から塗油儀礼を受け直している。『旧約聖書』に現われるイスラエル王の即位儀礼である塗油儀礼は、国王への神の加護と、神意の実現としての王権を示すもので、ピピン3世がこれを受けたことで、カロリング家は正統な王家として認められたことになる。
代償として、いわゆるピピンの寄進が行われた。ローマ教皇にローマの宗主権とラヴェンナ地方の支配権を与えたもので、ローマ教皇領はここに始まることになる。ローマ・カトリックとフランク王国のあいだで、互いに相手の権力の基礎構築をし合ったことになろう。


ピピン3世の子がシャルルマーニュ(カール大帝)だが、精力的に領土拡張を行い続けた彼こそ、ローマ教皇は、自らの後ろ盾とするにふさわしいと判断したらしい。教皇は、東ローマのギリシャ正教との対立やローマでの政治的闘争などを抱えていたのである。
教皇レオ3世は、800年のクリスマスの日、ローマで、シャルルマーニュに〈西ローマ皇帝〉の冠を授けたが、これは、シャルルマーニュという一身に、ローマ・カトリックという宗教的権威と、西ヨーロッパの王権という世俗的権力が統合一体化されたことを意味する。シャルルマーニュの図像は、右手に剣、左手に十字架のついた球体を持った姿で描かれるが、剣はコンスタンティウス帝の剣であり、球体はダヴィデ王の末裔であるのを表わしている。王としての権能と祭祀職の権能の統合を意味する図像である。
シャルルマーニュは王国内を500の伯管区に分け、家臣に統治させて政治的掌握を図ったが、一方、ピラミッド型の教会組織も王国内に張り巡らした。司教を全司教座に据え、大司教にすべての司教を掌握させる。学芸と教育を尊重したシャルルマーニュは、整備された司教制を使って、古典ラテン語を復興させるべく学校を作らせた。これは、建築から戦史、造幣などに到る様々なローマ文化の吸収のためだが、ローマ帝国の権力の正統な継承者としての文化的アイデンティティの発現でもあった。


クロヴィスから始まって、ピピン3世、シャルルマーニュと下ってくるまでの歴史は、ローマ・カトリックと王権の統合の歴史である。塗油儀礼や百合の花の表象なども含め、のちのフランス王の「正統性」の基本的な構造の重要部は、フランク王国時代にすでに出尽くしているといってよい。
興味深いのは、カール・マルテルが体現した〈簒奪者〉性である。既存の権力が混乱し弱体化する時、なんらかの秩序構築や維持のためには、目端の利く者が〈簒奪者〉となって現われ、権力をドライブしていく他ないが、ほとんどの場合、暴力だけを使って自由に無軌道に振る舞えるわけではない。〈簒奪者〉はいっそう敏感に「正統性」に反応し、それを装おうとする。こうした〈簒奪者〉の原型さえもが、すでにフランク王国の時代に現われ出てしまっているのが、フランス王史やヨーロッパ王史の特徴といえる。
ローマ帝国由来の王権であること、それゆえに様々な面でローマ的であろうとすること、アタナシウス派のローマ・カトリックを奉じること、教皇や司教の儀礼を受けること等などの集結がきわめて重要であり、それをわが身において再現し直すことが〈簒奪者〉たちには欠かせない行為となるわけで、どうして最大の〈簒奪者〉ナポレオンが、キリスト教再興から始めて、あのように動いたのか、この観点からは明快に理解できるようになる。時代錯誤でも個人的な趣味でもなく、フランク王国以来の「正統性」のあり方に忠実であろうとしたのである。


もちろん、そもそもフランク族やクロヴィス自体が、他のゲルマン人たちに対して〈簒奪者〉であったこと、西ローマ帝国の残影権力に対しても〈簒奪者〉であったことを忘れないならば、ヨーロッパとはその始まりから〈簒奪者〉の歴史に過ぎなかった。
ヨーロッパばかりでなく、そもそも王権というもの、あらゆる種類の権力というものが〈簒奪者〉としてしか現われ得ないようにも推量しておきたくなるが、もちろんこうした結論にむけては、歴史学的、権力学的に、地道により多くの事例に当たって帰納していくべきではあろう。しかしながら、なにか当面の既存の権力を早急に骨抜きにしたいような場合には、とりあえずは、この推量のままで実験的攻撃をしてみるという選択肢もあるには違いない。