きものによく通じた作家として知られる幸田文ですが、いまの世のきもの好きの方々がこの人のものを読むと、いたるところでハッとさせられるのではないかと思います。
「着物というものを、そう我儘に着ていいとは思えない。何のために着、どうこしらえて着るか、それによる。ただひたすらにきれいに見せたい、美しく装いたいという着方もある。あまりいい着かたとはいえないが、まだしもそれにはかわいげなところがある。(…)追従で着る着物はいやしい。みえを張るつもりなら馬鹿らしい」。*1
追従で着ていないか、みえを張っていないか。考え出したら、心の中など怪しいものです。きれいに見せたいのも人情でしょうに。きびしい人です。
けれども、「おしゃれは女一代、かっきりと誰かの胸に焼きつくほどなおしゃれがいつかはやってみたい」*2ともいうのですから、わがままに着ずに「何のために着、どうこしらえて着るか」*3を考えるのは、どうやら、最高のきもののおしゃれに到るための道程のよう。そもそも、幸田文的おしゃれとはどんなものなのでしょう。
まずは、よくない例の検討から。
「おしゃれと云われる人とつきあっていれば、なるほどなあと感心させられることがたびたびあります。けれどもその感心が、どのくらい深くどのくらい長く残っているかということになると、残念ながら大概の場合あとあとまではっきり残っていることは、まあ少いのです」。*4
おっしゃるとおり。手間隙かけ、精魂込めたせっかくのおしゃれも、これではむなしいかぎりです。どうして、こうなってしまうのでしょう。
「多くが化粧・髪がた・衣装・持ちものといった限界内でしている、いわば平面的なおしゃれにすぎないから、印象が深くなって来ないのでしょうか」。*5
こんな推測をしたのち、幸田文が下す処方はこれです。
「鏡の映す範囲をはずしてみると、おしゃれは声とことばづかい、しぐさと気もち・考えかた、つまり心の置きどころへ行き着きます。ことが容(かたち)から心に及んで来ると、平面でなく立体となり、浅くない深さを見せます」。*6
こう言われてみて思い出されるのが、芸者置屋を舞台とする小説『流れる』が映画化された時、田中絹代が演じた梨花という女中の役。場所柄、様々なきものが毎日行きかう中で、たったひとり身軽で地味な洋装をして立ち働くこの女中の「声とことばづかい、しぐさと気もち・考えかた、つまり心の置きどころ」は、なににも増して慎み深く見え、しかし明るく、つよく、思わずじっと見入ってしまうような深い魅力を湛えていました。
こんな梨花が、女主人の正月の装いを見ながら抱く感慨、「衣裳は人を美しくするものではないが、人は衣裳を美しく見せるものだと思わせられる」*7というのは、なかなかに含蓄のある、こわい言葉です。「衣裳を美しく見せる」だけのものを奥底に持っていない人は、出直していらっしゃい、と言われているようで。
少女時代のことを書いた『みそっかす』や、父・幸田露伴から受けた家事修行の日々を描いた『こんなこと』を読めば、なにより幸田文自身が、たびたび「出直していらっしゃい」ときつく言われ続け、なんとか及第したり、時には落第もしたりを繰り返してきたのがよくわかります。とび抜けたセンスと才気、それに思い切った創意を進めさせる「快活性とでたらめ性」*8が備わっていたのはたしかとしても、けっして裕福ではなかった生活のやりくりをさんざん重ねながらの、きもののおしゃれの追求でした。
粋とおしゃれの髄を親しみやすいエッセーで説いた『番茶菓子』の中に、ひとりの女性の美しさの秘密にせまった「ことぶき」という文章があります。「別に御器量がいいというのではないし、御衣裳もそう格段というわけでもないのに、どうしてああ美しく見えるんでしょう」と言われる「真佐子さん」というひとの話。
三人兄弟の三人妻の一番下という、楽ではない位置に嫁いでいった先の家の老いた姑に、誕生日の際いつも、上の義姉たちが贈り物をする習慣がありました。資力でも経験でも智恵でもかなわない自分が、さあ、なにを贈ったらと悩んだ末、真佐子さんは、結婚祝いに貰った白生地を裁って、手製で絵羽の襦袢を贈ることにします。「苦心して、細腰にあたる部分へ小さい亀甲形を一列に並べて、たんねんに絞り、そこだけをさびた朱に染め」たもの。「袖口もふりも裾もただ薄鼠色の平凡な襦袢としか見えない」ながら、「隠れて人に見えない胴のところには朱の亀甲模様がある」のが、着ている姑だけにはわかる。もちろん、「亀甲は千年という亀の齢にかけての祝意」です。これはとても喜ばれ、嫁の心も十分に汲まれて「姑と嫁とのあいだを温かい糸がつないだ」ようになりました。
四五年後、ひどく病んで衰えた姑を元気づけようとお祝いが催された時、あれこれ思いわずらった挙句、真佐子さんは、そっけないとは思いながらも、無地の襦袢を贈ることにします。けれども、別布に自分で赤い寿という字を絽刺しし、それを襦袢の上に置き添えるというかたちで。
姑さんはこう言ったということです。
「あたしも無地の襦袢が来ると思っていましたよ。もしも一度朱の絞りが来るようだったら、あなたにはまだほんとのおしゃれがわかっていないのだけれど。……よかったこと!」*9
その場の当事者ふたりにしかわからない、「かっきりと誰かの胸に焼きつくほどなおしゃれ」の、静かな達成でした。
こんな場面をさんざん見聞きし、経験してきた幸田文のおしゃれとは、一言でいえば、どうやら、「ひっきょう心づかいの深さ」ということになりそうです。いいかえれば、
「まずいところをそっと庇ってやりたい心、いいところをより磨きあげて大切にしたい心、それがおしゃれの本心です。優しいのは本来のものだと思います」。*10
「まずいところをそっと庇ってやりたい心、いいところをより磨きあげて大切にしたい心、それがおしゃれの本心です。優しいのは本来のものだと思います」。*10
ということにも。
◆この文章は、若干の修正を加えて、『美しいキモノ』二〇〇七年春号(アシェット婦人画報社)にも、「日本文学に見るおしゃれ・女流作家ときもの【幸田文】」として掲載された。駿河昌樹文葉『トロワテ』30号(2007年2月)にも掲載された。
[註]
*1 『きもの』(新潮文庫)
*2 「雨の萩」(講談社文芸文庫『晩茶菓子』の「おしゃれの四季」所収)
*3 1に同じ
*4 2に同じ
*5 2に同じ
*6 2に同じ
*7 『流れる』(新潮文庫)
*8 『父・こんなこと』(新潮文庫)
*9 「ことぶき」(講談社文芸文庫『晩茶菓子』の「おしゃれの四季」所収)
*10 2に同じ
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