2010年9月14日火曜日

雪濡れの袖、雪埋もれの袖



  降ってきたかと思うと、さっとあがり、ときにはしばらく降り続くこともある時雨。
 寂しいながらも、しみじみとした趣きのある冬の雨です。

 きもの好きならば、中里恒子の『時雨の記』を愛読されている方々も多いことでしょう。
 主人公の壬生と多江が京都で落ちあい、小倉山のふもと、嵯峨の二尊院をのんびりと散策する場面は、この小説の中でももっとも味わい深いところ。藤原定家が小倉百人一首を選んだ、時雨亭と呼ばれる草庵の跡を探しながら、二尊院の墓地の中をふたりして歩いていくさなか、やはり時雨が来ます。
 濡れてはいけないと思っていそぎ足になる壬生に、
 「時雨だわ、さあっと来て、さあっと過ぎるわ、」
と、人生すべてにわたる悟りを含ませたように言う、多江。

 「時雨か。
  壬生は、堂の下にはいって、煙るような細い雨が、松の葉を光らせて消えゆくのを見つめた。
  多江の髪の毛が濡れて、油のように光った。
 『髪の毛を拭きなさい、』
  僕は、半巾を出した。多江の手を待たず、多江の髪の毛を半巾で抑えた。衿先に、細い縮れたような白毛が、二、三本ちらついているのが、媚めいてみえる。ほかに多江には、性的な感じは殆どみえないのに、縮れた三本の白毛が、妙に、僕を刺激するんだ。
 『なにをしてるの、髪がつぶれるわ、』
                                  (文春文庫『時雨の記』より)

 晩秋かと思われる作中の風景なのですが、あえて、冬のものと知りつつ時雨を出してきている作者には、やはりそれなりの意図があるのでしょう。
 初老になって多江に会い、はじめて本当の恋を知り得たというのに、壬生にはこの時、死が間近に迫ってきています。実りや成就を意味する季節である秋のさなかに、終焉の形象として入り込んでくる冬の時雨。
 ここでは、作中の季節としての秋と、壬生の人生の秋とが重ねられており、彼らふたりに降る時雨は、まもなく壬生に訪れようとしている人生の冬、すなわち終焉の先触れなのです。
 きものの衿先にちらつく多江の白毛も、「二、三本」に過ぎないことで、予兆としての意味あいを含み持つようです。「媚めいてみえる」のも、そのためかもしれません。

 多江のようには、どうやら、さっぱりとは雨を受け入れられなかったであろう人に、あの清少納言がいます。
 日頃から、「雨は、心もなきもの(雨は風情に乏しいもの)」と思っているくらいですから、しばらく降り続けでもすれば「いとにくくぞある(本当にいやになってしまう)」となります。雨に濡れて、愚痴をこぼしながらやってくる男の姿なども、「めでたからむ(すばらしいはずがあろうか)」と、わざわざコメントしているほど。
 ところが、これが雪となると、彼女の評価は一変します。雪の夜に男の人が訪ねてきてくれたら、もう最高、と言わんばかりの書きようです。しかも、古今の文芸の中でも稀な、独自のこんな美学を披露してくれています。

「直衣(なほし)などはさらにも言はず、うへの衣(きぬ)、蔵人(くらうど)の青色などの、いとひややかに濡(ぬ)れたらむは、いみじうをかしかべし。緑衫(ろくさう)なりとも、雪にだに濡れなば、にくかるまじ」。
〔直衣などは言うまでもないけれども、蔵人の青色の袍などにしても、いかにも冷え冷えと濡れているさまなど、たいへん風情があるにちがいない。六位の着る緑衫の袍であっても、雪にさえ濡れるなら、見苦しいものではないだろう〕
                          (本文は小学館日本古典文学全集18『枕草子』より)

 もともと清少納言は、あの有名な『枕草子』第一段の「冬はつとめて。雪の降りたるは言うべきにもあらず(冬は早朝がすてき。雪の降っている時のすばらしさといったら、言うまでもない)」からもわかるように、ともすれば嫌われがちな冬を喜び、この季節の美しさにとても敏感な人でした。が、きものの色が、冬の雪に濡れて栄えるさまに心を奪われるとなれば、これは古今東西でも珍しい、まったく新しい美意識の表白と言えそうです。モダンな、というより、未来の美とでもいうべきものを鮮烈に突きつけられるようではありませんか。

 彼女よりも後の時代にあって、平安期の美意識を超克しようと努めていた稀代の美の追求者、あの藤原定家が、こうした清少納言の、雪濡れのきものという美学にどう反応したかはわかりませんが、やはり雪ときもの(袖)とを結びつけた

   駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

という彼の和歌を見ると、美も、なにかしらの趣きさえも脱落していくような、景色と呼ぶのも憚られる抽象度の高い美学へと向かっているのが見てとれます。ここでは、きものの袖は、雪に濡れて美しく色栄えするどころか、雪の白にすっかりと色をふさがれ、しかも夕暮の闇の迫りにも隠されてしまっています。
 袖に降り積もった雪を、馬をとめて払おうにも、身を寄せる物蔭さえない佐野の渡し場の、雪のこの夕暮であることよ。
「秘すれば花」の心を見てとったからでしょうか、世阿弥をして、「名歌なれば、元より面白く聞えて、さて面白き所を知らず」とも「言われぬ感もあるやらん」とも言わしめたこの歌は、美というものが出現もし、また消滅しもする危うい境域に踏み込んで、孤立無援の美的経験を積む定家の魂の姿そのもののようにも見えます。究極というものを日常とした人の、常人には及びがたい静寂と安定が、悠揚せまらぬ韻律におのずと露われ出てもいます。

 時代はずいぶんと飛ぶのですが、雪ときものを印象爽やかに結びつけたという点で、芥川賞を受賞した三浦哲郎の小説『忍ぶ川』にも忘れがたい場面がありました。
 不幸を抜けて、貧しいながらも純粋な心で結ばれていく主人公と志乃の質素な結婚風景は、晴れ渡った雪国の冬の一日のこと。

「あくる日、雪はきれいにはれて、夜、十三夜の月がのぼった。
 私は大島絣の対を着て、袴をはいた。父と母は紋つきを着た。出不精の上に病気の父は、ここ十数年袖を通したことのない紋つきを箪笥の底から自分でだして、羽織の襟の深い折れ目にいそいで火熨斗をかけさせるのであった。志乃はふり袖をもたなかったので、たった一枚ある訪問着を着て、姉は志乃にあわせて訪問着に白地に金糸の縫いとりのある帯をしめた。そうしてガラス戸越しに、白い雪野がみえる座敷のまんなかに私と志乃、その両脇に父と母、母のとなりに姉の五人が、コの字に膳をならべてすわった。膳には大きな鯛の塩焼きがあった」。
                                          (新潮文庫『忍ぶ川』より)

 ここを読みかえすたび、普通の庶民のきものとの付きあいというのは、こんな場合もずいぶんと多いのではないか、と思わされます。平安朝の優雅とも、中世の幽玄とも遠いものの、豪華でもないきものをなんとか調えて、生涯の一大事に身につける、そんな光景には、なかなかに得がたい人の心の温かさも切実さもあって、これはこれで、きものというものの最高の装い方なのではないでしょうか。
 私たちの多くは、本当はこんなふうに生き、こんなふうにきものと付きあい続けてきたのではなかったでしょうか。



◆この文章は、『美しいキモノ』二〇〇六年冬号(アシェット婦人画報社)にも、「典雅の心を歌に詠む 日本文学ときもの」として掲載された。
◆駿河昌樹文葉『トロワテ』27号(2006年11月)にも掲載された。

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