2013年9月19日木曜日

マルクスの原communism概念





 柄谷行人は、太田出版から1993年に『共産党宣言』の新訳が出版される際、タイトルを『共産主義者宣言』とするように提案している。Manifest der kommunistischen parteiでなく、Das Kommunistische Manifestと呼ぶほうを選ぶということで、金塚貞文による新訳は、この提案を受け入れて出版された。ちなみに、英語では通常Communist Manifestoと呼ばれている。
 このようなタイトル変更の根拠は、マルクスの『共産党宣言』が共産主義者同盟The communist leagueから出されたものであり、政党として存在していなかった「共産党」の宣言ではなかったことにある。
 当時存在していたのは、メンバーの大半がバクーニンやプルードン派のアナーキストたちである同盟であり、繋がりだった。


彼らの繋がりに特徴的なのは、つよく個人主義的なことであり、これはレーニン以後の前衛党の形態とは甚だしく異なる。
インターナショナルであることも彼らの特徴だったが、あくまで個人どうしの繋がりとしての「インターナショナル」であり、ネーションの代表者として関わりあうようなものとは違う。近代的なネーション=ステートそのものがまだ未形成であり、それを創ることが彼らコミュニストの課題であるような時代だった


 仮にDas Kommunistische Manifestでなく、Manifest der kommunistischen parteiという呼び方を重視するにしても、この場合のparteiにはレーニン以後の「党」の意味あいはなく、「登山のパーティというような意味であり、それは『共産主義者同盟』と大差なかった」と柄谷は言う。
 確かに、ロシア革命後にレーニンの社会民主党左派、すなわちボルシェビキが初めて「共産党」を名乗るのであり、それを受けて各国で「共産党」が結成されることになる。
レーニンの社会民主党左派は、もちろん、「共産党」なる名称をマルクスの『共産党宣言』から採ったが、そうしたレーニンによる名称採用によって、マルクスの『共産党宣言』における「共産党」の意味性が遡行的に限定されてよい理由にはならない。むしろ、20世紀以降の「共産党」が、マルクスのイメージしていた共産党とはまったく無関係であり、もしマルクスの側にふたたび付こうとするならば、マルクス的「共産党」をイメージし直さなければならないことになる。


マルクスの考えていたcommunismには、共産主義=共同生産主義の意味はないとも柄谷は言うが、これは、マルクス自身のイメージしていた「共産党」を考え直すのに重要な基礎となる。こればかりか、柄谷によれば、communismは共同体主義communalismや集産主collectivismでさえなく、むしろ、それらに対立する。かといって、ブルジョア的個人主義でもない。
アントニオ・ネグリは、communismは単独性singularityの解放だと考えたが、これを援用しながら、柄谷の考える流れを追いつつ、communismという語をめぐってマルクスがイメージしていたものを見ようとすると、マルクスのcommunismとは、つまりは、ロマン主義から派生した個人性の解放と確立の運動の一環ということとも考えられてくる。
意識のこうした運動性は、ロマン主義の原理そのものである。感性や価値観ばかりか、思想も異なった個人どうしが、たがいの個性や趣向や主義、あらゆる点での独異性を全面的に維持しながら、それでも繋がろうとするというところに広範なロマン主義ムーブメントのテーマのひとつはあった。
このような見方をしてくると、一般にヘーゲルまでのドイツ観念論から出てきたと思われがちなマルクスに、ロマン主義という別の系統も強く作用していたと考えるべきことがわかってくる。


Communismcommunistについて、柄谷の言うところに沿いながら、このような小さな見直しをしてみて浮かび上がってくるのは、マルクスの思念の中に着床した時点での、国家や組織や党やシステムに敵対するものとしての原communismであり、それらへの抵抗者としての原communistある。なんらかの組織化されシステム化された集団を通さず、個性を全開に保った状態の個々人のままで繋がりあう時の、その不可視の、組織図化もされ得ない繋がりである。
マルクスは『ドイツ・イデオロギー』のエンゲルスの草稿に次のような書き込みをしている。
「共産主義とは、我々にとって成就されるべき何らかの状態ではないし、現実がそれへ向けて形成されるべき何らかの理想ではない。我々は、現状を止揚する実際的運動を共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現に存在する前提から生じる」。
 20世紀のいわゆる「共産主義」やいわゆる「共産党」は、マルクスのこの書き込みを看過したか、故意に隠蔽したとしか思えない活動を行った。ここにマルクスが記したのは、なんらかの主義やそこから派生する理想とは関わりのない生き延びの現実主義であり、ゲリラの原理である。生存を困窮させる「現状」に投げ込まれた者たちが、なんとかして、また、如何ようにしてでも、その「現実を止揚する」べく、その「現状」にふさわしい「実際的運動」を行おうとする。そして、「この運動の諸条件は、いま現に存在する前提から生じる」がゆえに、この「運動」にはマニュアルはなく、基本路線もない。ましてや、遵守すべき方法論などというものはあり得ない。
 これを、マルクスが「共産主義と名づけている」ということの意味は計り知れないほど大きい。とりあえず、19世紀のマルクスにとって、「現状」や「いま現に存在する前提」の最大のものが資本主義(―もっとも、それは主義ではありえないのだから、資本の動きとか、資本運動とか呼び直すべきだろうが)であったため、彼自身はその分析に向かったのだし、古代以来、人間の生の危機に対処するのに有効であったがために、共有や平等などが各所で思考上の主題とされてきたのでもあっただろう。もし20世紀に世界がいわゆる「共産主義」化されていたとすれば、20世紀のマルクスは、「共産主義」分析を行ったに違いない。
 マルクスの抱いていた原communism概念の効果はこれほどまでに強い。『共産主義者宣言』の序には「妖怪がヨーロッパに出没する。共産主義という妖怪が」と書かれているが、まさに彼は、「妖怪」というべき自分のcommunism概念の力をよく認識していたのである。


単独性singularityの解放であり、国家や組織や党やシステムに敵対するものであるがゆえに、共産主義=共同生産主義でなく、共同体主義communalismや集産主義collectivismでもなく、利害関係の根源的共有の上にしか存立しないブルジョア的個人主義でもない原communism概念にとって、歴史的には、また現象化的には、普仏戦争でのプロイセン他ドイツ側の勝利およびパリ・コミューン敗北が強力な打撃となったことはもちろんだが、他方、communism運動の進行から自ずと出現して来ざるをえなかった分裂も大打撃となった。


国家の介入によって、巨大資本投下による資本主義の重工業化を促進したプロイセンの「現状」下、ラッサールの全ドイツ労働者同盟(ドイツ社会民主党の母体)は、マルクスの原communism念にとっての敵であったはずの「国家」権力に、産業資本主義の弊害を救済する社会福祉政策さえも推進させるなどの社会政策を負わせる方針を採って、国家社会主義を創出することになる。これが、普仏戦争におけるプロイセン「国家」の勝利をcommunismの側から下支えすることになったのは疑いようがない。
プロイセンの勝利の問題性については、ニーチェが『反時代的考察』で触れている。フランスに対する軍事的勝利をドイツ文化の勝利と受け取る「誤謬」や「妄想」は、「『ドイツ帝国』のせいでのドイツ精神の敗北、あるいは根絶」をもたらし得る、とニーチェは指摘している。「厳格な軍規、生来の勇敢さと忍耐力、卓越した指揮官とその指揮下にある者たちの統一と服従、つまり、文化とは何の関わりもない要素が敵に対する勝利をもたらした」のであり、これは要するに、組織やシステムの勝利であり、組織やシステムの配下に自らの単独性singularityを死滅させうる心身たちの集団の勝利であり、そうした組織やシステムの総合の結果に成立したドイツ帝国の「国家」の勝利であるということになる。文化が徹頭徹尾個人どうしの繋がりにしか宿らないのを考えれば、これは文化の敗北そのものであり、戦争での勝利者側のドイツ人たち個々の単独性singularityのあらかじめの死をも意味している。
一国内での議会主義的変革、国家による計画的経済政策を提唱したカウツキーの社会民主主義は、第二インターナショナルを形成したが、この時点での「インターナショナル」はすでにマルクスの時の「インターナショナル」と違い、国家を前提としていた。国家内部の政治経済改革を目的とする以上、カウツキー型社会民主主義には、第一次大戦勃発のような場合も、当然ながら、自国の戦争協力を積極的に行うという力学が働く。
カウツキーを批判し、暴力革命とプロレタリア独裁の理論を練り上げたレーニンの「前衛党」にしても、国家の死滅を目指しつつも、より強大な「国家」支配を招来することになったのは、既存国家より小規模でありながらそれを上回る効果的機動力を求めて作られていった組織とシステムを運動核としたためである。より純化され抽出された国家性、あるいは国家機械を創造することがレーニンの革命であったし、それを起動させてロシア帝国を滅ぼしたところで、いっそう強度化された「国家」が出現しただけのことだった。


単独性singularityの解放としての原communism概念は、もちろん、その現象的定着を妨げる歴史的経緯によって容易に消滅するようなものではない。それは、国家や組織や党やシステムの中に置かれた個人と別の個人の間に発生するのを止めないものであり、共産主義=共同生産主義や共同体主義communalismや集産主義collectivismをシステム的に押しつけられて、単独性singularityが抑圧される感覚が生まれた瞬間にも派生するのを止めない。排除と格差維持を存立要諦とするブルジョア的個人主義に接して感じられる嫌な感じ、悪意が心の中に発生した瞬間にも、ただちに呼び起こされる「妖怪」である。
取り戻すとか、回復するという以前に、人間の意識が活動し続けるかぎり、普遍的に潜在し続けているものとして、原communism概念はまず認識されるべきであろう。そんなものでは、政治経済の現場ではなんの役にも立たないとは言われうる。しかし、あきらかに自分の単独性singularityを損なうと目される状況に置かれた人間が、自分ひとりだけで切り抜けるという方針を棄てて、他者とのなんらかの協同を採らねばならないという考えを採用することにした瞬間に、ただちに思念に満ちはじめるすこぶる可変的な力を原communism概念と見なす時、この概念にはやはり価値がないとは思えない。


少し話を変える。
『力への意志』においてニーチェは、生の概念の内実にKraftforce)とMacht(puissance)というふたつの力を見ていた。後者は個体を強大化し、周囲や外部のものを支配したり所有したりする力であり、前者は後者を支える原初的な力である。Kraft force)がエネルギーを注入しなければMacht (puissance)は動けないにもかかわらず、このKraftforce)には支配性や所有性は一切ないばかりか、定めなさや気ままさを性質としている。
ニーチェのこのふたつの力の概念にもとづいて、ジョルジュ・バタイユは、秘密結社〈アセフィル〉の時代、ニーチェを批判しながら、通常は非力さimpuissanceして存在しているKraftforceに持続的な性質を与えて権威とすることによって共同体を結集させ彼が生の最高価値と見なす内的神秘体験に枠組みを与えようとした。これに対して、モーリス・ブランショが体験そのものの権威性の尊重を勧め、しかも、体験の権威は体験の瞬間にのみ存在するもので、体験の終了とともに消滅しなければならないと助言したことで、バタイユは宗教的生活のあらゆる問題を終焉させるコペルニクス的転回を経験することになった。この有名な経緯は、バタイユもブランショもともに共同体の問題の考察に深く関わったのを思うにつけ、おそらく全面的に原communism概念の問題に関わってくると見るべきだが、ここではむろんそこまで踏み入ろうとは思わない。
ここで見ておきたいのは、communismの概念にある複層性を見、とりわけそこから原communism概念の可能性を捉え直そうとする際に、ニーチェのKraftforce)とMacht(puissance)というふたつの力の概念の扱い方は大いに参考になろうという点であり、また、バタイユやブランショのような、ともに共産主義の社会における現実の展開に対して強烈な反発を経験した人物たちによる精神的探求の方向に、原communism概念の本来的な力Kraftforceが保存され展開されていったという可能性である。


 *翻訳の引用部分については、既存の複数の翻訳を適宜変えて使用しているとともに、本文自体が学術的論文ではなく、軽いメモに過ぎないものでもあるため、出典を示すことはしなかった。









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