2013年9月19日木曜日

ヴァンデの叛乱における殺戮ぶりについて







 他国民に対して残虐であったばかりか、自国民や自らの兵隊たちに対しても、人命軽視というポリシーを大日本帝国軍が貫徹していたらしいことは、毎年くり返し聞かされてきた話で、これらはもちろん、しっかりと毎年くり返されて伝承されるべき話に違いないものの、(…そうしなければ、大和朝廷成立以前に大がかりに日本列島全土で行われた先住の原日本人に対する大殺戮や、彼らの文化の徹底破壊に次いでなされた、組織的かつ徹底的な巨大隠蔽行為のような事態をふたたび招きかねないでもあろうし、『古事記』『日本書紀』に類した捏造文書の成立をもふたたび許してしまうことになりかねないだろうから…)、とはいえ、ともすれば歴史上これほど残酷で理不尽な軍隊はなかったというところまで発言したくなってしまう善意の人々の話を聞いていると、それはやはり違うのではないか、と留保をつけておきたくもなる。残念ながら、古今東西、こういう点では、まことに手ごわい競合者たちに事欠かないのが人類だからである。


 たまたまではあるが、個人的に、フランス革命期から帝政期、その後の王政復古期までの文芸思潮への興味も持っているため、その頃の社会状況にもしかたなく目を配らざるを得ない時がある。そういう時に見えてくる当時のフランスというのは、残虐さにおいて、大日本帝国軍でさえも容易には優位に立てまいと思われるほどの状況下にあった。たとえば、…すぐに頭に浮かんでくるのは、やはり、あの〈ふくろう党〉である。


 フランス革命期、革命派の共和国軍に対して、もともとはそれへの徴兵拒否から始まり、彼らのキリスト教信仰と「タンプルに幽閉されている幼少の王」のために徹底抗戦を続けることになった王党派の〈ふくろう党〉は、最大の抵抗拠点を大西洋側のヴァンデ地方に置いた。
ろくな武器も物資もなく、あるのは闘争心と農具の三叉だけという〈ふくろう党〉に対し、共和国軍ははるかに近代的な兵器を備えていたため、この二派によってくり広げられた内戦は、20世紀の様々なジェノサイドさながらに残虐で徹底的な、まさに殺し放題の殺戮場となった。
この歴史的な大殺戮の直接の発端となったのは、179382日に国民公会から発せられた布告で、ヴァンデ地方全域を組織的に破壊し尽くし、収穫物や家屋・物品の焼却、抵抗者全員の殺戮を命じたものだった。
さすがの帝国日本といえども、帝国議会でこのようなあからさまな布告を出すまでには到らなかったのではないか。


 布告を受けて、さっそく忠実に任務を遂行したフランソワ・ウェステルマン将軍は、次のように報告している。
「ヴァンデはもう存在しない。女子供含め、我々の自由の剣によって死に絶えた。私は彼らをサヴネの沼に沈めた。子供たちは馬で踏み潰し、女たちは虐殺したので、野盗が発生することもなかろう。ひとりでも捕虜を生き延びさせたなどという咎めを受けないよう、人間という人間はすべて処分した。どの道も死体で埋まっている。死体が多過ぎ、積み上げてピラミッドにした場所も幾つかある」*
 こういう報告には、論功行賞目当ての誇張が巧みに混入されるものと決まっている。実際には、生き延びた者たちも少なくなかったのだろう。179311月に「野盗を迎え入れた都市や、可能なかぎり追い払おうとしなかった都市は、すべて反乱都市として処罰され、破壊される」との布告が出されたのも、そのために違いない。
この11月の布告を受けて、今度は現場のルイエ准将が勇ましく答えている。
「我々の手に落ちる者は、捕虜、負傷者、入院中の病人も含め全員を射殺する」。
これに負けじと、〈地獄の分遣隊〉と称された部隊の指揮官であったテュロ将軍も、兵士たちにこのように通達した。
「武器携行が確認された野盗は銃剣による銃殺。生娘、成人女性、子供も同様に扱う。疑わしい者も容赦しない」。
 テュロ将軍は、徹底主義者であるとともに、なかなか細かい人でもあったようで、「すべての村、折半小作地、森林、エニシダ、その他の可燃物すべてに火を放つ」ようにも命じ、「くり返すが、町、村、折半小作地を焼却するのが不可欠であると私はみなしている」とのダメ押しもしている。なかなか満足させるのが難しいタイプの上司というところか。
 将軍の命令に沿うべく、第二分遣隊は相当に奮起して働いたものだろう。テュロ将軍に対し、「我々は火を放ち、武器で刃向ってきた者すべてを殺した。万事順調。敵と思われる者を毎日100人以上殺している」との報告を上げてきている。
「毎日100人以上」という切りのいい数字を出してくるところにあやしさが付きまとうが、ロシア革命の時にレーニンが出していた多量の処刑命令にも「正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように、是非とも絞首刑にしなくてはならない)」**という文言があるのを見れば、数字を使いながらこういう命令を出す際には、「100」あたりの使用から始まって、切りのいい数字を連発していく傾向が人間にはあるのかもしれない
一方、第五分遣隊のほうはどうか。指揮官ネヴィからは「いつものように、私は火を放ち、敵の頭を叩き割った」との報告。いくらか雑な報告に見えるが、とにかくまず火を放つ、というのは、どうやら当時、任務においても報告においても格別に重要だったらしい。そのポイントをちゃんと押えた上での、簡潔明瞭な報告ということか。
しかし、現場のこうした努力にもかかわらず、戦況視察にやって来た派遣議員フランカステルは手厳しい。「この呪われた地方での兵火の使用はまだ十分ではない」と公安委員会に書き送っている。
 もっとも、同じ派遣議員でも、ガルニエなどはかなり好意的に現場の努力を認め、公安委員会にこう書き送っている。「ブレスト軍は3000人の女を殺したという。その女たちは、自分の子供たちをポン=ト=ボ川に投げ込んだ。近隣一帯、死体で埋め尽くされている。が、なおもイナゴの大群のように女たちが見られる。悪臭を放つ死体の山を見なければ、死んだ女たちが甦ったのではないかと思うほどである」。
「イナゴの大群のように」という比喩は、1793年という古き良き時代の牧歌的なレトリックを物語っているように響くが、さきほども引きあいに出したロシア革命の際、文化人にして文学者でもあった革命家トロツキーが、1921年のクロンシュタット反乱の「叛徒」たちへ送った最後通牒文書に添えて「お前たちを雉子のように撃ち殺すつもりだ」***と表現していたのを思い出せば、政治的処刑に携わる人間たちというのは、はたして、こうした牧歌的言辞を使いたくなってしまうものなのか、それとも、1921年もまだまだ古き良き時代であったということなのか、と考えさせられる。ちなみに、この時にトロツキーが処刑させた「白衛兵の豚」たちの人数は14000人と伝わっている。
 言葉を選びながらじっくりと書く時間もなかったのだろうが、ヴァンデの組織的破壊と殺戮に携わった指揮官や派遣議員たちの言語表現能力の限界を感じさせられる報告を、さらにいくつか列挙しておけば、「父も母も子も皆殺しにした」、「この地方にも愛国者は多少いるだろうとは思うが、そんなことはどうでもよい。全員を殺さなければならない」、「私はすべての家屋を燃やし尽くし、発見した住民は全員喉を掻き切った」、「男女あわせて600人ほどを垣根に向かわせて並べ、銃殺した」等など。もちろん、これらの中にも、戦功を誇張した報告は多かったかもしれない。


 衣食住のあらゆる場面でそうであるように、大量殺戮の場面でも、人間というものは粛々と仕事をしていくうち、少しずつ、あるいは、ふいに大がかりに、毛色の変わった異なった趣向を付加したくなっていくものらしい。
ル・マンでは、一斉射撃に飽き足らず、子供たちについては特別に押し潰して殺してみたり、女性たちについては、殺すまでに時間がかかることになるにもかかわらず、凌辱をたくさん試みたりしている。局所ばかりか、入れられるところならどこへも薬莢を挿入して火をつけ、それでもまだ息のある女性は三叉で突き刺してみる、というぐあいだったらしい。完璧を期すために、翌日には生存者惨殺のための狩り出しも行う、という周到さ。
 ナントでの殺し方ともなれば、一段と合理的、効率的になり、フランス革命期の虐殺法に画期的な新局面が切り開かれた。
効率を考えて100人から200人ほどのグループに分けて銃殺を始めてはみたものの、それでも思うように効率が上がらないので、派遣議員ジャン=バティスト・カリエは頭を悩ませていた。非効率ながらも、死体は次々生産され続けるわけで、どんどん山をなしていく。もちろん腐敗が進み、伝染病の元となる。 
そこで彼が思いついたのは、天下のロワール川にも、共和国の栄えある仕事を手伝ってもらおう、という名案だった。
まず試しに、90人の司祭を川船に乗せて川に沈めてみる。これはいけるということで、画期的な溺死刑の発明となった。毎晩100人から200人を船倉に押し込み、舷窓や甲板を釘づけして船を沈める。これは「垂直的追放」と呼ばれた。男女を縛って沈める場合には「共和国的結婚」。いまや、処刑にうってつけの場所と化したロワール川にも、「国民的水浴場」という栄えある呼称がついた。
実際には、1800人程度がこのように処刑されただけだったのではないかと云われるが、カリエ自身は誇張気味に、子供も含めて4000人から5000人を溺死させたと吹聴していた。事が虐殺に及んでも、人間の虚栄心というのは留まるところを知らず、ほかならぬ自分がどれだけ殺したか、殺させたかで見栄を張ろうとするものらしい。後の時代になっての犠牲者数の推定は、当事者たちのいかにも人間的なこんな虚栄の数々からも困難を蒙ることになる。
ル・マンやナントのこうした突出した殺し方に比べれば、アンジェで市長自らが奮闘し、「3日間で800人の野盗をレ・ポン==セで銃殺し、ロワール川に死体を投じた」殺戮や、キブロンでの、降服して助命も約束されていた亡命貴族ら952の銃殺などは、はるかに普通の処刑法ということになるだろう。


「ヴァンデは無人の土地となり、生存者は12000人に満たない。こう確信していただいて大丈夫だ」。
1794421日、派遣議員エンツとフランカステルがこのように報告した時点で、ヴァンデの「叛乱」についての「決定的解決」はほぼなされたもののようである。
カリエなどは、「フランスを我々のやり方で再生できないくらいなら、墓場にしてしまったほうがましである」との情熱的な心情を吐露していたが、なるほど、組織に巣食って安閑としているサラリーマン軍人や小役人風情とは違い、熱意と夢とに溢れてひとりひとりが躍動的に行動していた革命初期の勇士たちというものは違う。8か月ほどでのヴァンデ壊滅という快挙の最大要因は、たしかに、〈ふくろう党〉が銃よりも三叉を主な武器とし、物資もなかったという物質的な事情にあるのだろうが、共和国側のこうした勇士たち一人一人の熱情とエネルギーが大きな部分を占めていたに違いないのも、忘れてはならないだろう。
 さて、殺戮成果としては、結局どのくらいの数字が上がってくることになったのか。
これが、なかなかはっきりとは出てこない。共和国側と王党派側を含めた死者数については、レイナルド・セシェが、ヴァンデの叛乱に巻き込まれた複数の県での行方不明者として117千人という数字を出している。
他方、人口動態学者ピエール・ショーニュは60万人という数字を上げているが、この数字の場合は、直接の殺害件数だけでなく、病死や餓死などの戦争関係死の数字も含めたものである。


 
*この引用をはじめ、この文のヴァンデの叛乱に関する情報はRené Sédillot, Le coût de la Révolution française, Perrin, 1987による。
**1918811日にレーニンが発した「ベンザ市へ、クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン同志他のベンザ市の共産党員達へ」の「暴動」農民の絞首刑指令。岩上安見『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996)、p.307
***ヴォーリン『知られざる革命』、第1部「クロンシュタット1921年」(野田茂徳・野田千香子訳、現代思潮社、1966p.91







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