2013年9月19日木曜日

「私的内面性」という「辺境」が「異端」となる時


ー丸山真男の『現代における人間と政治』に添って





 「あらゆる体制、あらゆる組織は辺境から中心部への、反対通信によるフィードバックがなければ腐敗する」(1)
 これは『現代における人間と政治』での丸山真男の指摘だが、もちろん、疑うまでもない社会的公理というべきだろう。彼は次のように続ける。
  「(…)『反主流』や『反体制』の集団もそれなりに中心部と辺境をもち、そこから発する問題をかかえている。その場合一般に、境界から発する言動は、中心部からは『無責任な批判』と見られ、完全に『外側』の住人からは、逆に内側にコミットしているという非難を浴びやすい。しかし、批判が『無責任』かどうかは、何にたいする責任かを問うことなしには意味をなさない。中心部のそうしたイメージにはしばしば内側の構造と勢力配置を基本的に維持しようという意識的、無意識的な欲求がひそんでいるからである。コミットについていえば、およそ壁の内側にとどまるかぎり、いかなる辺境においてもその活動は、なんらかの意味で内側のルールや諸関係にコミットすることを避けられない。(…)外側からのイデオロギー的批判がたとえどんなに当たっていても、まさに外側からの声であるゆえに、内側の住人の実感から遊離し、したがってそのイメージを変える力に乏しい」(2)
 普遍性のある鋭利な指摘だが、こう語った上で丸山は、現実社会のあらゆる人間が「外側と内側の問題性から免れていない」(3)と改めて確認しながら、「内側を通じて内側をこえる展望をめざすところにしか」「知識人の困難な、しかし、光栄ある現代的課題」(4)は存在しないと結論していく。
 とうに「知識人」なるものの優位が破綻している現代から見れば、この結論の後半は不要に見える。しかし、知識と知能を用いて思考する時には誰もが多かれ少なかれ「知識人」的である他ないのだと考えれば、彼の表現は時代的限界性の範囲内のことであり、これを融通を以て理解しようとするのは時代を異にする後進の側の義務というべきである。丸山が、「知性の機能とは、つまるところ他者をあくまで他者としながらしかも他者をその他在において理解することをおいてはありえない」(5)と言い添えて論考を終えようとする以上、なおさらのことであろう(6)
この『現代における人間と政治』において、丸山は、第二次大戦後の複雑化した社会において「漸く見直されようとしている」(7)トクヴィルの「早熟な洞察」(8)に触れている。「民主社会における平準化の進展」(9)、国家権力を集中させる一方で「狭い個人主義」(10)を蔓延させるという「二重進行」(11)を惹き起こし、その結果、「中間諸団体の城塞を失ってダイナミックな社会に放り出された個人は、かえって公事への関与の志向から離れて、日常身辺の営利活動や娯楽に自分の生活領域を局限する傾向がある(12)というものだ。(13)
 丸山自身の1961年時点での考察である『現代における人間と政治』も、マスコミのいっそうの爛熟とネットの繁茂を経た現代においては思い出されておく価値があるといえるだろう。彼が注意喚起を促した事態に、現代社会があらためて近づきつつあるからである。


 外部から、しかも、後世からは、「徹底した権力統制、苛烈をきわめた弾圧と暴行、網の目のようにはりめぐらされた秘密警察網と息がつまるような市民相互の監視組織、さらには強制収容所におけるほとんど信じがたい残虐行為の数々」(14)の時期であり場所であったと見える国家社会主義ドイツ労働者党時代、強制的同一化とも強制的同質化とも訳されるナチスの〈グライヒシャルトゥングGleichschaltung政策の下で、ごく普通のドイツ国民はどのように過ごし、さまざまな出来事を受けとめ、社会の推移に対処したのか。
 ナチス社会の内側にいた人々の証言を集め、書名通りに『彼等は自由だと思っていた』どころか、平穏さを享受し、幸福でさえあったのを示したミルトン・メイヤーの著作(Milton Mayer, They thought they were free, 1955)に依拠しながら、丸山は、社会が危機に向かって暴走する最中、「内側」の人間たちの精神になにが起こるかを指摘している。
 証人のひとりであるナチス時代を生きた言語学者は、異常化していく社会というのは、「農夫が自分の畠で作物がのびて行くのを見ているのと同じ」(15)だと言っている。「ある日気がついて見ると作物は頭より高くなっている」(16)うに、物事がごくわずかに、徐々にしか進展しないので、全く異常に気づかなかったというのだ。
彼によれば、「一つ一つの措置はきわめて小さく、きわめてうまく説明され、時折“遺憾”の意が表明されるという次第で、全体の過程を最初から離れて見ていないかぎりは、―こうしたすべての“小さな”措置が原理的に何を意味するということを理解しないかぎりは」(17)異常へと向かっているとは見えず、「何処に向って、どうして動いて行くのか見きわめられない」(18)
そのため、「一つ一つの行為、一つ一つの事件はたしかにその前の行為や事件よりも悪くなっている」(19)としても、「しかしそれはほんのちょっと悪くなっただけなのです。そこで次の機会を待つということになる。何か大きなショッキングな出来事がおこるだろう。そうしたら、ほかの人々も自分と一緒になって何とかして抵抗するだろう」(20)。そう思いつつも、「戸外へ出ても、街でも、人々の集りでもみんな幸福そうに見える。何の抗議もきこえないし、何も見えない。…大学で、おそらく自分と同じような感じをもっていると思われる同僚たちに内々に話してみます。ところが、彼等は何というでしょう。“それほどひどい世の中じゃないよ”あるいは、“君はおどかし屋だ”というんです」(21)
 確かに「何十人、何百人、何千人という人が自分と一緒に立ち上がるというようなショッキングな事件は決して来ない」(22)。が、「気がついてみると、自分の住んでいる世界は、―自分の国と自分の国民は―かつて自分が生れた世界とは似てもにつかぬものとなっている。いろいろな形はそっくりそのままあるんです。家々も、店も、仕事も、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も…。けれども、精神はすっかり変わっている。にもかかわらず精神をかたちと同視する誤りを生涯ずっと続けて来ているから、それは気付かない。いまや自分の住んでいるのは憎悪と恐怖の世界だ。しかも憎悪し恐怖する国民は、自分では憎悪し恐怖していることさえ知らないのです。誰も彼もが変わって行く場合には誰も変わっていないのです」(23)
 非常にリアリティーのある貴重な証言で、社会、集団、組織のあらゆる変化に際して、思い出しておきたくなる。「精神をかたちと同視する誤り」という発言も重要だろう。生活の基本的な「かたち」さえ維持し続ければ、どのような全体主義国家も創造可能ということになる。
 ドイツ人たちがみなナチスになったわけでもなく、ナチス党員と同じ思想を持ったわけでもなく、ましてやSS隊員のように全ドイツ人がなったわけでもないが、「彼等の住む世界がナチに」(24)なり、「その世界の変化にたいして彼等は、いわばとめどなく順応した」(25)と丸山は言う。「とめどなく順応」する事態がどうして起こり得たのか、この言語学者の証言によるなら、事態の漸進的進行(権力側からは漸進的遂行ということになろう)、および、疑義を抱いたり注意喚起する者へただちに浴びせられる沈静化圧力、カーム・ダウンcalm down圧力ということだろうか。


 連合軍による裁判で投獄されたナチス法学界の大立者カール・シュミットは、出獄後の著作(26)で、ナチス支配下の知識人の態度や知的雰囲気について語ったが、こちらはまた、別の問題を提起している。
 シュミットが語るのは、むしろ、ナチスの洪水のようなプロパガンダ政策の敗北である。「西ヨーロッパの合理主義の長い伝統に加うるにドイツ人の『抜きがたい』個人主義は十数年の暴圧によって滅ぼされるような生易しいものではな」(27)かったとシュミットは語り、「ドイツ知識層の日々の精神生活が表面の狂瀾怒濤の下で、静ひつな自由を保持した」(28)と言う。
さらに、「ドイツ人が驚くほど組織され易いということは、実はドイツ人の驚くべき自我武装にすぎない。その時々の合法的な政府によって命じられたことすべてに喜んで協力するという態度が最大限に発揮されたような場合にさえも、私的内面性への引退という昔から守られて来た静かな伝統はそのまま残っていた。…ほかのいかなる世界でも、ドイツほど内的なものと外的なものとの区別が徹底して押し進められ、ついには両者の無関係にまでたちいたるというようなところはなかった。こうした教養層の外面的なグライヒシャルトゥングが円滑単純に進行しただけに実は彼等を内面から完全に均一化することは困難だったのである」(29)
まともな「インテリはみな表向きと内面との二重生活をしていた」(30)のであり、「朝となく夜となく、ラジオ・新聞・街頭の拡声機から流れ出す『世界観』の洪水」(31)や「雨と降る布告や法令の氾濫」(32)や「これにおうむのような極り文句で呼応する人民の斉唱」(33)中で、「権力と歩調を合せて太鼓をたたいていたのは、少くとも学者、芸術家、文筆家の中では三流、四流の人物」(34)でしかなかったと言うのだ。
シュミットのこうした指摘は、全体主義の威力の限界と「内面的自由の世界」(35)の限界とが線対称的に接し合っていることを示している。このふたつは、「いわば相互不可侵の事実上の承認の上に立って同じ社会で共存しうる」(36)のであり、シュミットの言う「『抜きがたい』個人主義」は、「内面性の名において『外部』を、つまり人間関係(社会)をトータルに政治の世界にあけ渡すことによって、外部の世界の選択を自己の責任から解除して」(37)しまうのだ


ナチスへの抵抗者として強制収容所に入れられたルター派教会牧師マルチン・ニーメラーの証言もまた、自分が属していない領域に口出しをしないという、賢明で控え目にも見える近代社会的マナーやモラルの悪効果をよく示していて興味深い。
「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった」(38)
 ニーメラーは、ナチス時代のこの経験から、「端初に抵抗せよ」(39)と「結末を考えよ」(40)という二つの教訓を引き出している。しかし、言語学者の証言を思い出せば、「畠で作物がのびて行く」ように「「一つ一つの措置はきわめて小さく、きわめてうまく説明され、時折“遺憾”の意が表明されるという次第」なのだから、「端初に抵抗」するのは不可能であるし、疑義も大きな不安も持たない以上、「結末を考え」る必要も認められるはずがない。つまり、せっかくニーメラーが苦渋の体験から引き出した教訓は、現実には絶対に役立ちようがない空論的教訓に過ぎないのである。


 ここで話は、冒頭に引用した丸山の「あらゆる体制、あらゆる組織は辺境から中心部への、反対通信によるフィードバックがなければ腐敗する」という言葉に戻る必要が出てくる。
 ナチス社会において、シュミットは「中心部」にいたということになろう(とはいえ、当時は、いっそう強度の御用学者たちからシュミットさえも攻撃されたという)。言語学者やニーメラーはそうではないものの、先に証言を見たこれらの三者が、ともにナチス社会の「内部」にいたのは確かなことである。
〈グライヒシャルトゥングGleichschaltung政策が、「正統の集中であると同時に異端の強制的集中」である以上、ここでは「正統」と「異端」の徹底的な分離が推進され、やがては、それぞれの場において、フーコーが言うところのgrand renfermement(大きな閉じ込め)(41)が発生する。人間社会に基本的性質として存在する「『世の中』のイメージについての自己累積作用がおこり、それによって両者の間の壁がますます厚くなるという悪循環」(42)が続いて起こり、「正統」と「異端」の分離は自動運動の域に達するようになる。ここでは、Wリップマンが『世論』で示した「いかなる国民共同体でも、外界の事象にたいする世論を形成するものは主として、少数のステレオタイプ化したイメージ」(43)であることや、「ステレオタイプの体系が確固としている場合、われわれの注意はステレオタイプを支持するような事実の方に向き、それに矛盾するような事実からは離れる」(44)という傾向が強力に下支えしている。
ともにナチス社会の「内部」にいた三人のうち、シュミットははじめから「正統」の中に身を置いていたことになろうが、言語学者の場合は、徐々に、消極的ながらも「正統」に吸収されていったということになろう。ニーメラーも、自分以外の領域の集団が攻撃された際に抵抗しなかったことによって、無抵抗において、不行為において、振舞いや行動様式の上では「正統」に限りなく接近していく。「精神をかたちと同視する誤り」という言語学者の言葉を思い出し直しておけば、振舞いや行動様式という「かたち」はもちろん「精神」と「同視」されるであろうから、「正統」と変わらないとさえ言われかねないことになる。魂だけは違う、と言い募るにしても、無抵抗、不行為のままであるかぎりは、シュミットが語った「私的内面性」の問題に還元されるだけのことである。
 ニーメラーが一気に「正統」から「異端」へと移行するのは、「教会の人間」として、教会への攻撃に抵抗した瞬間だった。抵抗が、行為が、「かたち」が、彼を一瞬に「異端」化するのである。これを可能にしたのは、まさに彼の「私的内面性」であり、彼の「内面的自由の世界」だった。
これは、丸山の表現で言い換えれば「辺境」ということになる。ナチス社会の「内部」にいながら、しかし、ニーメラーが位置していたのは精神的な「辺境」だった。抵抗行為の有無が、こうした「辺境」にある者を、表面的「正統」ともすれば、「異端」ともする。抵抗行為とは「辺境から中心部への、反対通信によるフィードバック」ということである。
ニーメラーの場合は、ルター派信仰という「辺境」にいたのだが、これは他の思想や信仰、あるいは行動様式を決定するほどに強いものならば、特定の心情や感性、趣味などでも同様に機能することになるだろう。「中心部」や社会「内部」の異変を、自らの「私的内面性」の存在によって敏感に察知する者たちならば、みな、「辺境」にあるといえる。
「『外部』を、つまり人間関係(社会)をトータルに政治の世界にあけ渡すことによって、外部の世界の選択を自己の責任から解除して」しまうゆえに、ナチスの〈グライヒシャルトゥングGleichschaltung〉政策を可能ならしめたはずの「私的内面性」や「内面的自由の世界」こそが、同時に「辺境」そのものなのでもある。異常化する社会に対して「異端」となるかどうかは、おそらく、抵抗行為という「かたち」一点にのみかかっている。


(1)  丸山真男『現代における人間と政治』in『増補版・現代における思想と行動』(未来社、1964)、p.491
(2)  ibid.p.491-492
(3)  ibid.p.492
(4)  ibid.p.492
(5)  ibid.p.492
(6)  丸山のこの知性論は注目に値する。「他者をその他在において理解する」とは、まさに「知性」ならではの特権的作業であり、おそらく人間に可能な最高度の倫理的行為だが、なかなかこのように端的に表現されることはないからだ。よく、「我が事のように」他者を扱うたぐいの美談が語られるが、他人に対するにも「知性」を用いる以外の方法を誰も持ち得ない以上、人間は「他者をあくまで他者と」して扱う他はない。「知性」は、概念場における〈他〉の創出を基盤とする運動だからである。「我が事のように」などというのは、危険な虚妄でしかありえない。「我が事のように」扱われた他者は、すでにして、必ず概念的に殺されている。こちら側の〈我〉はつねに相手側にとっては〈他〉でしかあり得ないが、それにもかかわらず「我が事のように」相手を扱うとすれば、つまりは相手の〈我〉を殺して処理しやすいかたちにしているだけのことである。〈我〉の構造はほぼ万人において等しいかもしれないが、内含物や様相においてはひとりとして同一の〈我〉は存在しないというのが、19世紀ロマン主義文学のあの厖大な作品実験の末の体験的成果のひとつだった。「我が事のように」という表現の使用者たちの人間観が19世紀ロマン主義以前に留まっているのは、思えば空恐ろしいことではある。他方、職業的政治学者に留まらない洞察を持っていた丸山の著作は、そう易々とは忘れてならないということにもなろう。
(7)  op.cit.p.486
(8)  ibid.p.486
(9)  ibid.p.486
(10)          ibid.p.486
(11)          ibid.p.486
(12)          ibid.p.486
(13)          『アメリカのデモクラシーについてDe la Démocratie en Amérique』でトクヴィルの言う「民主社会la société démocratiqueが代議制民主社会のことでしかない以上、こうした傾向は「民主社会」からより「代議制」から来るとの仮説も準備しておかなければならないはずだが、「個人主義は民主主義を源とする。それは、諸条件が平等化するにつれて、発展するおそれ(il menace de se développer)がある」(45)と書いているのを見れば、「代議制」の問題点への認識は、1835年から40年時点、すなわち『アメリカのデモクラシーについて』出版時のトクヴィルにおいては不十分であったかもしれない。そればかりか、宇野重規『デモクラシーを生きる ―トクヴィルにおける政治の再発見―』(46)によれば、「トクヴィルは奇妙なことに、代表=代議制についての原理的考察をほとんど行って」(47)おらず、「あれほどイギリスの政治的卓越性を強調したトクヴィルが、議会制度や代議制についてはほとんど論じていないというのは、同時代の他の政治的著作家と比べて彼の著しい特徴になって」(48)さえいる。アメリカの英国型代議制議会制度が1619年にヴァージニア植民地で導入されている以上、アメリカ政治と社会の観察をするにあたってさえ、代議制は欠かせないポイントであったはずだが、「『古典古代の都市国家の政治の理念を、近代においては代議政体が代替する』という考えをけっして自明のものとして受け取らなかった」(49)彼にとって、この奇妙なまでの代議制についての沈黙は、むしろ、可能性の大きな中心の存在を暗示するものかもしれない。代議制については、1861年のJS・ミルの『代議制統治論Considerations on representative government』でもポジティヴな見解が表明されており、丸山真男が指摘した近代社会の問題と代議制の構造との関係性は看過されている。
(14)          op.cit.p.467
(15)          ibid.p.470
(16)          ibid.p.470
(17)          ibid.p.470
(18)          ibid.p.470
(19)          ibid.p.470
(20)          ibid.p.470
(21)          ibid.p.470
(22)          ibid.p.471
(23)          ibid.p.471
(24)          ibid.p.469
(25)          ibid.p.469
(26)          Ex Captivitate Salus, 1950.
(27)          op.cit.p474
(28)          ibid.p.474
(29)          ibid.p.474
(30)          ibid.p.473
(31)          ibid.p.473
(32)          ibid.p.473
(33)          ibid.p.473
(34)          ibid.p.473
(35)          ibid.p.474
(36)          ibid.p.474
(37)          ibid.p.474
(38)          ibid.p.475-476
(39)          ibid.p.476
(40)          ibid.p.476
(41)          Michel Foucault, Histoire de la folie à l’âge classique,1961,Gallimard, pp.67-77
(42)          op.cit.p.483
(43)          ibid.p.483
(44)          ibid.p.483
(45)          Alexis de Tocqueville, De la Démocratie en Amérique ,1840, inOeuvres,Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade »,1992.p.612。拙訳。
(46)          宇野重規 『デモクラシーを生きる ―トクヴィルにおける政治の再発見―』、創文社、1998
(47)          ibid.p.54
(48)          ibid.p.54
(49)          ibid.p.168









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