2011年12月11日日曜日

布村浩一氏の『七月』



 布村浩一氏から同人誌《ひょうたん》45*が届き、氏の『七月』を読んだ。岩崎宗治氏のTS・エリオット『四つの四重奏』新訳(岩波文庫)とともに、今年、私の呼んだ詩歌の中で最良と思われる一編であり、年の暮れにさしかかってこれを読みえたことを嬉しく思った。短い作なので、全編を引用する。

モスバーガー
火曜日
三時半
部屋から歩いて五分
駅のそばの店
駅の階段をおりてくる人たちがみえる
  夏
風景の中に光りがある
風景の中に熱い光りがある
ふるえる旗
ふるえる葉
七月の真ん中
雲ひとつない
  空
いっぱいある

 はじめの三行はぶっきらぼうに見えるが、ここで調整される感情の韻律には無駄がなく、快い。四行目、五行目と調整は続き、同時に場面描写も進めて、読み手はすでに詩でしかない世界に入り込む。この五行で達成された詩境に、今年も量産されたはずの多くの詩行がどれほど致命的に無縁であったかを思う。
 六行目から終わりまでも、緩みがなく、媚びがない。媚びのない言語配列を詩と呼ぶ。自分の書きたいものを書きたいように並べる、それを詩作という。世上名高い詩歌がああしているから、抒情はこうあるべきだから、あるいは詩的反抗はこのようであったから そういう配慮をどこまで落とせるかで詩境は決まる。新奇を狙っても伝統に縋っても詩は死ぬ。私が布村氏に見るのは、こうした詩の陥穽に対する奇跡的な突破の連続だ。
この『七月』では、九行目「風景の中に熱い光りがある」の「熱い」はどんなものか、と思わないでもない。陥穽に落ちそうな、落ちてしまったような。しかし、前の八行目「風景の中に光りがある」を受けて、仮に「風景の中に熱がある」などとしてしまった場合と比較すれば、ここで氏が守ったもの、踏み堪えたものがわかる。氏がどのような「詩」を避けるか、どのような「詩」の振りを避けてきたか、よくわかる。
喫茶店からの風景やそこでの思念を氏がながく詩にしてきたのを知る者には、「モスバーガー」とともに詩を拓く『七月』の冒頭は感慨深い。普通なら「住まい」とか「アパート」とか「マンション」と言いそうなところで「部屋」という単語を使い、「部屋から歩いて五分」と書く爽やかさにも、いつもながらに私は多くの救いを与えられる。しかし、なにより、絶唱というべき『七月』で再三くりかえし読まれ銘記されておくべきは、簡素簡潔にして凄まじく効果的な始まりの数行だ。

モスバーガー
火曜日
三時半
部屋から歩いて五分
駅のそばの店
駅の階段をおりてくる人たちがみえる
  夏

すべてがあるではないか。表現すべきことなど、他にはない。「モスバーガー」が澄んだ波紋をひろげて詩的永遠の中に位置を占めた瞬間である。それが「火曜日」、「三時半」、「部屋から五分」、「駅のそばの店」、「駅の階段をおりてくる人たちがみえる」、「夏」へと続いていく中で、氏にしか作り得ない、なにか絶対的な始まりというべきものの波が織り成された。ただならぬ波だ。衰退などない、終わりなどなかったのだ、と私は思い直す。
出発だ!



*「ひょうたん」45号(ひょうたん倶楽部発行、20111115日発行)


2011年3月2日水曜日

京都小説散歩 川端・谷崎から三島・中里・立原まで




 「清水さんへ行ってみとうなったわ」
川端康成の『古都』、千重子の言葉だが、京都をあつかった文学作品のとりどりの言葉のうち、どれにも増して、京都というところの魅力の芯に触れえた言葉と感じる。
「行ってみとうなったわ」というのがいい。心になつかしく揺れる京都の美しさ、愉しみが、きっちりとかたちをとり過ぎないままに待ってくれている、そんな雰囲気が出る。京都にはいつも、そんなふうでいてもらいたい。日本に在ることの愉しみの、貴重なひとつ。
「清水さんから京の町の夕ぐれを見たいの。入り日の西山の空を見たいの」という千重子は、この後、幼馴染の真一とともに、南禅寺道、知恩院裏、円山公園奥を抜け、春の夕もやの中、奥闇の本堂に灯明の灯る清水の舞台に上っていく。

 南東から北西にかけての線上のちょうど反対側、金閣寺の上の左大文字山から京都を見下ろしたのは、三島由紀夫の『金閣寺』の主人公、溝口青年である。金閣に火を放った後で一気に駆け上がり、「渦巻いている煙と、天に沖している火」とで「金砂子を撒いたよう」になっている金閣の空を見た。京都市街の明りは望めただろうか。夜の闇の中に鮮やかに踊るこの光景に遮られたか。
 鹿苑寺の寺弟となり大谷大学に通っていただけあって、溝口は、葉桜の季節には石川五右衛門よろしく南禅寺の山門に上り、平安神宮から嵐山、貴船、箕の浦、金毘羅などの連山を見晴らしたこともあった。五月の嵐山へは嵐電で赴き、渡月橋を渡って小督塚に詣で、そのまま亀山公園へ。とはいえ若き学僧の身、谷崎潤一郎の『細雪』に描かれたような贅沢な見物ができたわけではない。

『細雪』の蒔岡姉妹は、桜の盛りともなれば、毎年恒例での京都見物に出た。土曜日の午後から出かけ、まずは、南禅寺の瓢亭で早めの夕食。その後、都踊りを見物し、帰りがてらの祇園の夜桜。そこからは麩屋町の旅館へ。あくる日は嵯峨。広沢の池、大沢の池とまわり、大覚寺、清涼寺、天龍寺の門を通って渡月橋に出る。なかなかの距離を歩くわけで、窮屈になった「袂の長い友禅の晴れ着」を着、エナメルの草履が歩くたびに脱げがちだった悦子など、ずいぶん苦労したことだろう。中ノ島に来ると、掛茶屋で持参の弁当をひらく。午後は市中へ。平安神宮の「花が洛中に於ける最も美しい、最も見事な花」なので、蒔岡姉妹にとっては毎年、最後はここの桜で締めくくるものと決まっていた。

 この姉妹たちは嵯峨野の化野念仏寺、祇王寺、滝口寺、二尊院、常寂光寺、野宮神社あたりには寄らないが、川端康成の『美しさと哀しみと』では、夏、大木太一郎ときもの姿の坂見けい子が二尊院の墓地に三条実隆の墓を訪ねている。この墓の前でのふたりの睦みあいは、『細雪』や『古都』には見られないやわらかな愛欲の場面で、京都を舞台とする恋愛劇でも出色の名場面となった。ふたりはこの後、祇王寺に向かい、引き返して嵐山まで歩き、吉兆で昼食を。そこから予約を入れた琵琶湖ホテルまで、ながながとタクシーで、京都駅、東寺、牛尾山の左と抜け、東山の南を越え、大津、浜大津と抜けて向かっていった。
 そういえば、嵐山では、けい子とその日本画の師・上野音子が、渡月橋の手前を少しのぼった川岸のうどん屋に入っている。「傘をささないでも濡れるのがわからぬほどの」いい春雨の頃あいで、青葉若葉のあいだに桜の花がまじり、「木々の芽立ちのそれぞれの色が雨にやわらげられていた」。

川端の約十五年後、季節を晩秋に移し、ふたたび二尊院をクライマックスに選んだのは中里恒子の『時雨の記』。ふいの時雨にいそぎ足になる壬生に、多江は「時雨だわ、さあっと来て、さあっと過ぎるわ、」と、人生すべてにわたる悟りを含ませた名セリフを口にする。

壬生といえば、立原正秋の『あだし野』の主人公も壬生七郎。不治の病に侵され、心の嵐をかかえて、化野念仏寺へ赴き、自分の日常の中にある内なる「あだし野」を確認することに。その後、南禅寺に行った際、偶然、金地院を過ぎて湯豆腐屋前に出たところで、かつて付きあいのあった康江に再会。移り住んだ京都のおかげで「耀くばかりの﨟たけた姿態」になっていた彼女が、「芥子色の、紬とひと目で判る袷に、錆色の無地の帯」、「藍を濃淡に暈した竪絣」、「小豆色の地に白い線描きの花を飛ばせた紬」と、彼に「きれいに見てもらおうと思って」次々きものを替えて現われるさまは、美しくも哀しい。目に映じるすべてに二重写しに「あだし野」を見てしまう壬生の魂に、康江の衣擦れの音や帯を抜く音が響き続ける。



◆この文章は、若干の修正を加えた上で、「京都小説散歩 川端・谷崎から三島・立原まで」と題して「美しいキモノ」2011年春号の特別大附録「京都きもの散歩」に掲載された。

2011年1月1日土曜日

「千代田線」、チヨダセン、「千代田」線 

 

  東京メトロの何線でだったか。吹き出し続ける夏の昼下がりの汗をそのままに乗り込んで座り、しばらくボオッとしていたら、千代田線云々、というアナウンスが入る。乗り換え案内だとはすぐわかったが、「千代田」線を知らない自分がふいにいて、驚いた。
「千代田」線?
そんな線、あったかな?
もう何十年も東京の地下鉄には馴染んでいる。しかし、「千代田」線なんていうのは、なかったなあ。奇妙なことながら、そんなふうに思考が動いたのである。
 さいわいなことに、この後、わたしは脳梗塞で倒れたわけでもなく、認知症の発作に襲われ続けたわけでもなかったが、たまたま、東京メトロ路線図を見つめて「千代田」線なるものの存在を確認するような閑暇が数日にわたってとれないほどの忙しさに追い詰められ続けた結果、この「千代田」線ナンテアッタカナ?状態は数日にわたって持続したのであった。
 じつを言えば、賃仕事の必要上、わたしは「千代田線」を毎週利用している。他の地下鉄から乗り換えて車内に入った場合に、な、な、なんだこれは?、という、あのくたびれた感じ、鄙びたというか、やつれたというか、東京の田舎さ向かうんだべ、とでもいうあの感じは、ともにとんでもなくわびしい感じに浸されている東西線と双璧の、東京メトロというより、東京地下電車とでも言っておくほうがよさそうな、さらには東京アングラとでも呼んでおくほうがさらによさそうな、やけに座席に汗の染み込んだ雰囲気とともに生活感覚のなかに刻印されている。だから、わたしはもちろん、「千代田線」をよぉく知っているのである。

 忙しさにようやく小康が来て、数日してから、そういえば、あの「千代田」線とやら、そんなのあったっけ?と思い出し、メトロの路線図を見てみた。緑の線のわきに「千代田線」と書かれているのを見出して、な~んだ、と思ったわけである。もちろん。もちろんだとも。乗り換えの際に、方々の駅であの緑の色を見ながら、千代田線かぁ、千代田線にのるのかぁ、乗らなきゃいかんのかぁ、とひそかに嘆息し、そうしてなんとか過ぎ越しの時間を凌ぐことにしているアレではないか。なぁんだ、まったく。なのであった。
「千代田線」不存在疑惑はこれでケリがついたとして、そうなってみると、すぐに浮上してくるのは、こんなにも慣れ親しんだ路線の名前がどうしてこうも見事に忘却されたのか、ということである。自分にいくらも思考上の欠陥があるのは承知しているものの、さすがにこんな劇的な盲点の発生はこれまでなかったので、これにはすこぶる興味をそそられた。メトロのなかで聞いたチヨダセン云々というアナウンス、あれを聞いた時に、どんな印象が頭に浮かんだのだったか… 
そう辿り直すうち、気づいたのは、チヨダセンという音から、わたしの脳は茫漠と千代田区の地図を思い描き、さらには皇居のミジンコみたいなあのかたちを思い描いた、ということだった。チヨダセンという音から、皇居のまわりを走る電車、内堀通りや外堀通りのあいだあたりの地下をまわっている電車…というふうに思考が走り、んんん、東京駅から中央線にそって四谷あたりまでの地下を走り、そうして永田町や霞が関を通って有楽町に向っていく電車かぁ、と勝手にイメージが完結して、いわば、「千代田線」ならぬ「千代田」線が脳内に成立してしまったわけである。わけである、というほどきっちり跡づけができたわけでもないが、どうもそんなところではないか、なぁ。

もちろん、千代田線には、ちゃんと「千代田」線としての部分がある。赤坂あたりから大手町までの政財界ゾーンは、まさに千代田線の「千代田」線としての面目躍如たるゾーン。名にし負はばいざ言問はむ千代田線、と切り出しても、しっかり千代田線なりに答えてくれるゾーンだろう。
ところが千代田線のやつ、新お茶の水を過ぎたあたりから怪しくなるのである。湯島、根津、千駄木と来る。ほらほら、寂しくなってきたぞ。さらに西日暮里を過ぎると町屋。次はもう、北千住だ。いったい、これらのどこが「千代田」線なのか。ヘンじゃないか。
根津なんて、風流でいいじゃないのと言う人があるだろうが、あそこはもとは遊里なのである。わたしも田中優子の『江戸を歩く』*を読むまで知らなかったが、明治十五年には六八八人の遊女がいたそうで、「吉原よりは少ないが品川遊廓より多い数」だったらしい。東京帝国大学が近くにできた時に、あんなに遊里が近いのではまずいだろうということで、明治二十一年に国家政策で深川州崎に移されたのだという。

政財界ゾーンと根津遊廓を結ぶというのは、時空を超えた利用者のイマジネーション旅行の便宜までをも大切にするべき交通機関の心得としては、すこぶる正しく行き届いているという気もするが、そこに政財界エリート養成校の開成中学・高校のある西日暮里をさらに繋ぐというのも、なかなか理屈にあうという感じもする。そもそも、開成の初代校長は、蔵相などを経て2・26事件で殺された高橋是清でもあったはずだろう。寄り道しておくと、この人物がまた面白い経歴を持っている。多摩霊園に眠っているそうだが、そこの人物紹介によれば、「幕府御用絵師川村庄右衛門の不義の子として生まれ、仙台藩士高橋是忠の養子となる。 1867(慶応3)藩留学生として渡米、意味も分からずサインをし奴隷となる。翌年脱出し帰国。本場仕込みの語学力が認められ16歳で開成学校(東大)の教師。しかし、酒と芸者遊びに溺れ教師クビ、たいこもちになる。その後87(M20)初代特許局長に就任。 89一攫千金を狙いペルーの銀山開発にのりだしたが失敗し失意の底に沈んだ。92才覚を認められ日本銀行へ。日露戦争中13億円の外債募集成功。05貴院議員。07男爵。11日銀総裁を経て、7度の大蔵大臣・農商務大臣・内閣総理大臣などを歴任。226事件で暗殺された」などとあって、たんなるつまらぬ大臣かと思いきや、2・26事件でちゃんと射殺されるだけの度量のあるとんでもない人生冒険家なのであった。「酒と芸者遊びに溺れ教師クビ、たいこもちになる」なんていうクダリ、うっかり畏敬の念を抱いてしまいかねない。教師たるもの、酒と女に溺れない者には、まずロクな奴はいないと言っていいものだが、クビになって、さらに幇間にまでなるなんざ、ちったぁ、そこらにゃいねえタイプのお兄さんだぜ。大物だったんだねぇ。なるほど、「千代田」線によって、ちゃんと霞が関や大手町や根津や西日暮里が繋がることになるわけだ。っていうか、千代田線って、ひょっとして、高橋是清線だったんじゃないのかね、ほんとは?

というわけで、ふだんは「千代田線」であるべきチヨダセンが、どうしたわけか、ふと「千代田」線として受け取られてしまったがために脳中に展開するはめになった、高橋是清線発見の東京の旅なのであった。
ついでに言っておけば、千代田線が北千住をも結んでいることで、高橋是清の冒険人生は、芭蕉が『おくのほそ道』の風狂の発端とした千住宿に繋がっていって冒険の味が増して来ることになるし、千代田線的には、微妙なところで現南千住の小塚原刑場跡を故意に素通りしようという意思を仄見せているあたり、なかなかみごとに政財界ゾーン人種の心性を露呈させているかもなぁ、と思わされる。いかなる時代にあっても、刑死者たちというのは権力秩序への意識的無意識的な抵抗者であることに疑いないわけだが、総計20万という厖大な数をもってそうした人間たちを処刑した場所でたくみに目かくしして通過しおおせようとするしぐさというのは、なるほど、さすがに「千代田」線であるよのう、と思わされる。そういえば、現代の牢屋敷である小菅を千代田線はしっかりと眺めながら通っていくが、今度あのあたりを通る時にはよく眺めてみてください。小菅ジャンクションから北に向かう三郷線の間近、ちょっと木立が見えるところ、あそこが死刑場なのらしいですよ。東京拘置所わきを三郷線で通過する車両は、それとなく念仏でも唱えて通ったほうがいいかもしれないですな。
政財界ゾーンの人種となるか、小塚原の露と消えるか、乱世にあってその違いを生来させるのは、じつに、わずかの運や才覚の差に過ぎまい。時代が時代ならば、いまの与党の面々もそろそろ、とりあえず小伝馬町に収監、そこで吉田松陰のように斬首か、あるいは小塚原にまわされて切られるか、さらには街のどこかで天誅にあうか、といったことになるのである。
小伝馬町といえば、現在は日比谷線の駅になっており、それはそのまま日比谷線を伝って南千住駅に繋がることで小塚原に連結している。日比谷線の南端はぜひ、南の刑場であった鈴が森にすべきだと個人的には思ってきたが、東京メトロさん、いつかやってくれますかしら。



*田中優子『江戸を歩く』(写真・石山貴美子、集英社新書ヴィジュアル版、二〇〇五年)


霊的な重さを搭載するということ

 

  オーラが見えると簡単に言ってしまえれば楽なのだが、自分が見ているものが、世にいうオーラというものにはたして当たっているのかどうか、それをオーラと呼んでいいものか、迷う。エクトプラズムというほうが正しいのではないかとも思うが、これにしても、どこまで正確な名なのか訝しい。心霊に関する論にはそもそもいろいろな流派があって、たとえば神智学協会の分類法・命名法と、そこから分派したシュタイナーのそれとのあいだにさえ、すでに開きがある。グルジェフに至ってはさらに独自の分類や命名をしているし、欧米のそうした諸流派をいささか乱脈なままに導入した本邦の神霊学のいろいろを見るに至っては、いっそ踏み込まないままでいたほうがよいとさえ思えてくる。クリシュナムルティのように、心霊現象の一切を打ち捨てよと教えるのももっともだと思えるし、孔子が「怪力乱神を語らず」(述而)と言ったり、「鬼神を敬して之を遠ざく」と言ったのももっともだと思える。

 とはいえ、見えるものを見えないと思い込むわけにはいかないし、もともとこの方面こそが最大の関心事なので、他人にあれこれ不要の口出しをしまいという点は堅持しつつ、自分の範囲内での考究は続けていこうということになる。

 どこぞの霊能者たちのように、煌々と明かりに照らされたテレビ局のスタジオでさえ他人のオーラを鮮明に見てとるような芸当はできないし、そもそも最近になってそれが見えるのに気づいたことでもあるので、どうしても就寝まぎわなど、あかりを消し去った闇の中で、手のひらを上に掲げて自分から漏れ出る光をいろいろと眺めるということになりがちである。漏れ出る、と今うっかり書いたが、じつはこのあたりから表現の困難が始まってしまう。漏れ出ているのではなく、包んでいるのではないか。いや、それでさえもなく、肉体に重なっているというべきではないのか。

 このように表現をつぎつぎ切り替えながら、現実に、闇の中で手のひらや腕や足先などを眺め続けて、自分の体に沿いながらたしかに見えている光が、どのように体と関わっているのかを考え続けている。どうやら、漏れ出ているというのは、あまりふさわしい表現ではないらしいというのが、この頃はわかってきた。漏れ出ているというと、肉体にいっそう根源的な性質を仮定してしまうことになるが、そうではないらしいということが、観察を続けているとわかってくる。むしろ、光のほうがもっと根源的なものであって、そこに肉体が付属しているのではないかと見えてくることがある。が、そのように仮定して見るようにしてしまうと、心霊現象のたぐいはそういう見方につよく影響されて捉えられるようになってしまうので、けっして見方を固定することなしに微妙な調整を重ねつつ、現象そのものに対処していかなければならない。

 見る際、たしかに目を開けて見ているので、肉眼で見ていることにはなる。しかし、ここで奇妙なのは、というより、注意すべきは、見ている時には肉眼は、一種の支えの役割のようなものをしていて、ほんとうに見る働きをしているのは、額あたりの別の目のようなものだという気がする。さまざまな宗教文献を読んできた者は、ここですぐに第三の目や霊眼というものを思い出してしまうが、そういう文献情報に流されると間違いをさらに重ねることになるので、ほんとうに別の目のようなもので見ているのだろうかとの疑いを保持しながら、見ることの起こっているあたりを感覚し続けてみる。あらゆる霊的な文献や情報を参考言説として受け入れる一方で、しかし実体験なしにはどれをも信じないことを数十年にわたって貫いてきたが、ここでも同じやり方を踏襲していることになる。見えているのはたしかでも、それをオーラとは呼ばず、見ているものを霊眼とも第三の目とも呼ばないというのは、わたしにとっては重要なことで、簡単にいえば言語や表象によるレッテルを、参照的にはつねに使用しつつ、しかし、いかに貼らないままで現象そのものに沿い続けるか、そういった試行を継続していることになろうかと思う。

 こうした試行を重ねた結果、視覚にチャンネルのようなものがあるのがわかったが、これが瞬間瞬間、たえず切り替わっているのをつよく感じる。自分の手のひらや腕などに添うている光さえ、このチャンネルの切り替わりに応じて全く見え方が変わる。光そのものにぴったりと視覚が合う時など、あまりの眩しさに思わず目を細めてしまうことがたびたびあった。面白いのは、肉体としての手のひらや腕の部分が、肉体に添うているそうした強い光を受けて、煌々と照らされている場合があることだ。非物質的な自分の光を見る試みを続けている中で、こうした瞬間はもっとも印象のつよい経験といえる。ふつうの人間として社会で生きている者なら誰でも、日頃、肉体というものを自分そのものを成している根源的かつ基底的なものとして認識しているだろうが、私が慎ましく続けてきたこうした試行でさえ、そうした認識が根本的に誤っているのをはっきりと明かしてくれるに至った。肉体についての粗い認識を反省せずに、生について、言語や表象による表現について、さらに時間や空間や、その他のあらゆる形而上学的な物事について思考するのは、虚しいばかりか、いっそうの間違いを認識や言動の場で惹き起こしていく危険な行為であると断言できる。

 視覚チャンネルとでもいうべきものを、思い通りに切り替えたり、あるいはひとつのチャンネルに固定して設定したりできるようになれば、ふつうの人間にとっての一般的な世界像とはべつの諸レベルのしっかりした観察ができるだろう。一定以上の能力を持つ霊能者たちはそのような能力を保持しているものと思われる。また、シュタイナーが霊界のさまざまなレベルを霊視する際に用いた能力も、これと同様か、それ以上のものだったと思われる。私の場合はとてもそこまでは行かないが、すでに拓けた視覚自体は後戻りはしないように感じる。さまざまな霊的文献によれば、急速な展開というのも起こりうるだろうが、そういう場合には、とにかくも物質界に戻って来られる道と方法とをつねに保持しておくというのが重要になる。

シュタイナーは、霊界にじかに接触するのはいろいろな人生体験を経た中年以降まで行わないほうがよいと教えているが、これは物質界へのこうした帰還能力という観点から勧められるものといえる。霊的探求の観点から見た場合、地上でのふつうの人生の最大の価値は、無限の霊的宇宙への探求の航海の際に役立つ〈重り〉を、霊的身体のなかに多量に搭載できるという点である。物質的なものにとどまらず、社会生活で日々抱え込む心理的な重さが、心霊航海の船の有用な底荷になる。霊的なものに関心のある人々は、なにかというと軽さや飛翔の容易さなどに惹かれる傾向があるが、ここに述べたような意味での重さというのがどれほど重要で得難いものか、これを獲得するために物質界での地上生活がどれほど有益かを、霊性の道を行く者はよくよく認識し直さなければならないだろう。

端的にいえば、魂の重さがきわめて重要であるということに通じていく議論となる。重い魂は、天界をも引き下ろす。あらゆる霊的宇宙の力は、重い魂だけは無視することができないものだが、この観点から考えれば、いわゆる悪魔や邪霊のたぐいの存在価値も見直されなければならなくなる。

そこまで一気に考えを飛ばさずとも、少なくとも、重さということの再評価は、つねづね心がけられるべきではある。死によっていったん肉体を失えば、この世でならただ生きているだけで難なく行える重さというもののの搭載が、一切不可能になってしまう。この物質界に生きていることの価値は、これだけでも大きいといえる。そればかりか、この物質界からならば、諸々の霊的レベルへの旅が容易なのに比して、(あらゆる価値観からの解放を成就していないまま死ぬと)死後は多くの場合、他ならぬ自らの霊的傾向や色合いによって一定の霊的レベルへの居住を強いられがちになるため、実際には霊的成長はほとんど望めなくなる。霊的成長を一気にもたらすような過酷な運命をプログラムした上で、ふたたび物質界への再生を心待ちにするということになる。

生老病死にまつわる多くの重さ、苦しみこそが至上の富であることをおそらく仏陀などは説いたに違いないが、むしろそれらから離れるすべを教えたかのように伝えられてきてしまっているところに宗教というものの恐ろしさがある。積極的に苦悩を引き受けるようにたびたび教えたイエスの精神のほうが、よほど正確に伝承されてきているようだが、それとても誤った解釈で捻じ曲げられてしまっている場合が多い。

 今後、地上ではこれまで以上の生存苦が津波のように再三にわたって押し寄せると告げる者たちが多いが、苦悩についての認識を根本的に改めておいたほうが、無数の一般生活者たちの霊的視野がひらけることで、来るべき多難な地上生活を過ごしやすくなるだろう。重要なのは、これまでの人間社会が採りがちだった、快楽や怠惰の享受度こそを幸福基準とするような認識を保持しつづけることではなく、どれだけ重さを搭載して死んでいけるかという方向へと生の価値を測る視点を移すことである。これによってこそ、日常の実際の生活も格段に楽になっていく。地上においてではなく、天上に富を積むように勧めたイエスの意図していたものも、この重さの搭載だったと考えておいたほうがよい。



アルベール・カミュ没後50年 (2010年1月執筆)



  1月4日は、俳壇ふうに言えばカミュ忌にあたる。『異邦人』や『ペスト』の作家、さらに言えば、遺作となったあのみずみずしく素晴らしい『最初の人間』の作家であるアルベール・カミュが交通事故死したのは、1960年のことだった。享年46歳。2010年は死後50年にあたる。昨年秋には遺骨のパンテオン入りが取り沙汰されたり、今年に入ってからは、主に女性関係に焦点を当てたテレビドラマが放映されたりして、なにかと話題に上るようになってきた。

 現在中年以上の年齢にある人々は、カミュが特別な作家だった時代を知っているだろう。小説家としてだけでなく、ジャーナリスト、エッセイスト、劇作家としても活躍し、サルトルに異を唱えて論争を展開し、西側におけるスターリニスム的なものの跳梁にも警鐘を鳴らした姿は、社会にむけて果敢に発言し続ける知識人作家として誰よりも輝かしく見え、カミュの奇跡と呼ばれることもある。フィクションを使って語る作家というものが、切れ味においても鮮かさにおいても、学者や政治家やジャーナリストより一頭抜きん出た存在感と発言力を持ち得ていた時代の寵児がカミュだった。生前のみならず、悲劇的な急死の後も長く威光は衰えず、たとえば『異邦人』を手にする時のあの特別な高揚感は、世代から世代へ引き継がれたように思う。
「きょう、母さんが死んだ。ひょっとしたら昨日かもしれないが、わからない。養老院から電報を受け取った。『ハハウエシス。ソウギアス。オクヤミモウシアゲマス』。これではなにもわからない。たぶん昨日だったのだろう」。
小説のフランス語としても画期的な『異邦人』の冒頭だが、翻訳で読んでもこのかっこよさは鮮烈だった。大戦後のある種の平和と物憂さ、核と冷戦の時代の危機感のさなかにあって、「太陽がまぶしかったから」という語り手の殺人の理由も、文学ならではの的確さで人類の〈現在〉を、それも永遠の〈現在〉を表現し遂せていた。カミュが捉えようとしていたのは、五十年ほどの物理的時間の経過で変化してしまうような〈現在〉ではなかった。

「世界の酸素」たらんとしたカミュは、精力的でも真摯でもあり、思考においてはしばしば袋小路に陥るような生真面目さも目立ったが、実生活では生気に富み、寛大で、ユーモアに溢れ、冗談も好んだらしい。今月1月7日の《ル・フィガロ》紙のインタヴューで、娘のカトリーヌ・カミュがそのあたりの事情を語っている。
とはいえ、思想的にも文学的にも彼の孤絶は深く、心理的にもつねに危機にあった。カトリーヌが8歳だった1953年、父があまりに悲しげに見えた時があって、「悲しいの、パパ?」と尋ねたという。カミュは、「ぼくは独りぼっちなんだよ」と答え、それ以上なにも言い添えなかった。幼い娘にこんなことを洩らす彼の姿は、傍目にはいつも栄光の絶頂にあったかのようにも思われるだけに印象深い。

ノーベル賞受賞式から帰国する際の1957年の日記の記述も思い出される。
「12月29日、15時、新たな危機に心を掻き乱される。(…)数分の間、全き狂気の感覚。次いで、困憊と戦慄。鎮静剤。(…)29日と30日の夜、際限なき苦悶。(…)1月1日、倍化したさらなる不安」。
 ノーベル賞を受賞し、栄光の絶頂にあるべき国際的作家の、受賞直後の精神状況がこれなのである。いったい、カミュになにが起こっていたのか。1960年1月4日午後1時55分、彼の乗った自動車は、ヨンヌ県ヴィルブルヴァン村はずれの雨の国道5号線で、並木のプラタナスの一本に激突して大破、カミュは即死し、運転していた彼の担当編集者ミシェル・ガリマールも数日後に死んだ。単なる事故だったのか、カミュによる何らかの不意の操作による自殺だったのか、現在も不明だが、日記の記述や今回のカトリーヌ・カミュのインタヴューを見ると、自殺説はやはり捨てがたく見えてくる。

 ともあれ、バーバリーのトレンチコートで身を包み、くわえ煙草をしたカミュのイメージは、単にフィクションとしての小説つくりに留まらない作家なるものの20世紀的頂点を示していた。小説家というものが、娯楽のための時間つぶしの具としての小説を拵える職人であることを超え出る特権的な時空間にカミュは確かに存在していた。ロマン派詩人の典型となったバイロンのイメージや、革命後のヨーロッパに君臨した作家・政治思想家・政治家・歴史家としてのシャトーブリアンのイメージ、あるいは文学者などという枠を大幅に踏み出て近代政治そのものの基盤となってしまったルソーのイメージ、少し遠い時代を望見すれば、中国のあの大殺戮者にして大詩人の曹操のイメージ、そういった文学者たちの系譜に連なる数少ないひとりだったのは確かと言えるだろう。

文学というものには独特の難しさがあって、単に文学と見える文学を生産するだけならば、じつは文学の名には値しないというところがある。文学というものが、社会や歴史や人間全般の事象の中に浮かぶ言語的な磁場でしかあり得ないというところから招来される性質で、文学はつねに文学を逸脱し、文学にとっての異端であるところにのみ成立する。
出版不況と言われながらも、次々と飽くことなく生産され続ける現代の小説や詩歌の光景の中で、賢くも狡賢くも、ちまちまと文学の枠の中にたくみに身を狭めるすべを心得ている作品ばかり目に留まる。そういう印象を持って現代を眺める者からすれば、カミュのイメージは失われた楽園のようなものに見える。そこからは、奇跡的に途方もなく強い太陽が覗けた存在。作家や詩人や文学者というのはそういうものであって、世間の与党的常識や大勢、実業界・財界の利益にかなう御用言説を進んで拵えて安寧を得ようとするような卑屈な知的幇間であるべきではないし、ことさらに狭い自分の湾にあえて閉じこもって荒波を避け、衝突やストレスを避けてばかりいる繊細敏感な「いい人」に留まっているべきでもない。

桐田真輔氏の『断簡風信』



考えてもだめなんだ
(西脇順三郎『禮記』のうち『梵』より)


『断簡風信』は桐田真輔氏から毎月届いていた読書メモの個人誌だが、260号の付記に「しばらくお休み」とあった。かたちを変えて来年再開予定ともあるが、ずいぶん長いこと送ってもらってきたので、感慨深い。

始めたのは1988年だそうだが、私の場合、その頃から送っていただいていたのではない。桐田氏と知り合ったのはいつ頃だったか、よく覚えていないが、清水鱗造氏周辺に集まった詩人たちのあいだで、桐田氏と交わっていったのではないかと思う。ひと頃、外苑前のバー『ハウル』でアートディレクターの藤本真樹氏が詩の朗読会や様々な催しを精力的に行っていたことがあって、その頃、私もたびたびそこに赴いた。藤本氏がプロデュースしてくださった私の詩集の記念会に、桐田氏は見えていたか。他の機会であったかもしれないが、桐田氏の詩を他の方が朗読したのが印象深かった記憶がある。

桐田氏とはじめた、というより、桐田氏におんぶに抱っこのかたちでネット上で始めた詩歌サイト『リタ』にはお世話になった。技術面から編集作業から、すべては桐田氏の労に負っているのである。
私はずいぶん多量の詩を書いてきたが、生来、自分の作物には過酷なほど薄情で、金を出して詩集を作るのも面倒に思ってきた。そういう人間の詩でも、蓼食う虫も好き好きというのか、そう言っては失礼か、世には気にしてくださる方々もずいぶんあるのである。そういう方々から求められた際、見ていただくのに、あのサイトはずいぶん役に立った。個人誌のかたちでは、好事が嵩じて厖大な発行を続けてきたとは思うが、なにぶん詩集というものがほとんどない。そういう書き散らし屋には、うってつけの『リタ』であった。いまにして思えば、桐田氏の先見性は大したものだった。紙媒体の詩集はいいものだし、それに固執する吉増剛造氏のような行き方もあるが、しかし、ネットに載らない詩は、もはや見向きもされない時代になっている。時代のこういう流れは、詩歌においてはあきらかに悪いことであるが、しかし、詩歌が如何にせんコミュニケーションの媒体である以上、こういう状況の中で、縦書きにも横書きにも、フォントの違いにも容易に対応できる詩歌を書かねばならないのも事実である。桐田氏の『リタ』における仕事は、こんな時代より少し早めに、然るべき対応をきちんと行ったものであった。桐田氏に近い清水鱗造氏や、そこから近い鈴木志郎康氏、清水哲男氏などの詩人たちは、自製のサイトを駆使してIT時代を難なく泳ぎ渡っている稀な詩人たちである。

桐田氏とはなんどか、正面からのマジの話を持ったことがあったが、あの優しそうな風貌に違えて、アルコールが入ったところで始められる批判の舌鋒の鋭さ、呵責なさには、少なからぬ詩人たちがおそれ慄き、歯ぎしりをさせられた。
私には、しかし、それが楽しかった。文学的な毒舌と斬殺ならば、私も負けないつもりである。批評における非情なまでの酷薄さが、生来、私にはある。
もっとも、桐田氏とは、真剣勝負まではついに行かなかったと思う。桐田氏も手加減してくれたのだろうが、私も桐田氏を傷つけたくなかった。ほんとうの敵を共有しているという認識があったからである。
下北沢で枝川理恵氏を交えて飲んだ時には、いちばん楽しい桐田氏を見た。あれほど批判されたことはないし、こちらもあれほど切り返したことはない。私たちは誰でも、「それじゃあ、本当のことを言おうか」とおっぱじめたくってならない批判を、五万も数億も持っている。誰もがプチ政治的状況に置かれているから言わないだけのことで、きっかけさえあれば、誰もが弁天小僧並みに「言ってきかせやしょう」とやりたい。いちばんそれに近づいたのが、その下北沢の夜であった。私は何度となく、あれをくり返したいと思ったものだが、機会はその後、二度と来なかった。まだお終いになったわけではないから、まだ訪れていないというべきか。
桐田氏に本音に近いことを言われて、泣いて抗議している詩人の姿も何度か見たことがある。傍で聞いていると、なんのことはない、桐田氏は、私も内心思っていることを正直に相手に言っているだけのことであった。こんなに抵抗力がないようでは、とてもではないが文学などやっていけまいと、他人事ながら思った。

しかし、もっと若かった私が、そんな時に理解していなかったことがある。それは、詩の世界が、いかなる批判も非難も受けない全面肯定の世界であってもよいのだ、ということだった。誰の作品も、すべて素晴らしい、美しい、切ない、哀切である、そういう態度で自他の作品群を遇してもよい、むしろ、そうすべきだ、ということだった。というのも、この世には詩歌の世界をのぞいて、どこにもそんな場所はないのだから。
たった一か所、そんなどこにもない場所があってもよい、それをむしろ詩歌は担うべきではないか、と、今の私には思われるのである。書かれた詩歌、それらのすべてがいい、素晴らしい、それでいい、という態度、私たちは、どうしてそんな態度が採れないできたものだろう、と今は思う。
批判ということ、批判的に見て、たえず忙しく評価し、等級をつけ、良し悪しを定め…という態度が、じつはどれほど多くのものを損なうばかりだったか。このことを、詩歌の愉しみ手である者たちは、おそらく、もっと根本的に認識してもよい。批評と評価は、好き嫌いからおのずと出て来る自然な進み行きに任せておけばいいのではないか。理知を誇って、競って、偉そうに批評と評価に流れることには、長い目でみれば、得るところはあまりない。評論家や評定者こそが、いつの時代にも、いちばん先に忘却されていくのである。「あの考える男などは/考える銅にすぎない/考えてもだめなんだ」(禮記『梵』)、西脇順三郎。時代の流行にも乗らず、評価さえされなかった作物が、何十年もしてひょっこり国民的な作品になっていくのだけを、詩歌の愛好家は見ていればいいのである。

桐田氏が管理運営してきたサイト『リタ』は、私の命名による。始めるにあたって書いた序文では、リタ・ヘイワースなどにずいぶん言及したが、私の中ではキリタのリタが鳴っていた。桐田氏は『リタ』の運営もいつか停止してしまっていて、これまでお世話になってきた私としてはさびしくもあるし、心細くもある。遅まきながら、そろそろ独り立ちせよ、と慫慂されているのかもしれない。
いずれにしても、桐田氏とリタ・ヘイワースが分かちがたく繋がったまま、『リタ』は私の心にあり続けている。『リタ』の時代というものがあって、そういう時代のスジのいくつかは、ずっと繋がっていく。