2011年3月2日水曜日

京都小説散歩 川端・谷崎から三島・中里・立原まで




 「清水さんへ行ってみとうなったわ」
川端康成の『古都』、千重子の言葉だが、京都をあつかった文学作品のとりどりの言葉のうち、どれにも増して、京都というところの魅力の芯に触れえた言葉と感じる。
「行ってみとうなったわ」というのがいい。心になつかしく揺れる京都の美しさ、愉しみが、きっちりとかたちをとり過ぎないままに待ってくれている、そんな雰囲気が出る。京都にはいつも、そんなふうでいてもらいたい。日本に在ることの愉しみの、貴重なひとつ。
「清水さんから京の町の夕ぐれを見たいの。入り日の西山の空を見たいの」という千重子は、この後、幼馴染の真一とともに、南禅寺道、知恩院裏、円山公園奥を抜け、春の夕もやの中、奥闇の本堂に灯明の灯る清水の舞台に上っていく。

 南東から北西にかけての線上のちょうど反対側、金閣寺の上の左大文字山から京都を見下ろしたのは、三島由紀夫の『金閣寺』の主人公、溝口青年である。金閣に火を放った後で一気に駆け上がり、「渦巻いている煙と、天に沖している火」とで「金砂子を撒いたよう」になっている金閣の空を見た。京都市街の明りは望めただろうか。夜の闇の中に鮮やかに踊るこの光景に遮られたか。
 鹿苑寺の寺弟となり大谷大学に通っていただけあって、溝口は、葉桜の季節には石川五右衛門よろしく南禅寺の山門に上り、平安神宮から嵐山、貴船、箕の浦、金毘羅などの連山を見晴らしたこともあった。五月の嵐山へは嵐電で赴き、渡月橋を渡って小督塚に詣で、そのまま亀山公園へ。とはいえ若き学僧の身、谷崎潤一郎の『細雪』に描かれたような贅沢な見物ができたわけではない。

『細雪』の蒔岡姉妹は、桜の盛りともなれば、毎年恒例での京都見物に出た。土曜日の午後から出かけ、まずは、南禅寺の瓢亭で早めの夕食。その後、都踊りを見物し、帰りがてらの祇園の夜桜。そこからは麩屋町の旅館へ。あくる日は嵯峨。広沢の池、大沢の池とまわり、大覚寺、清涼寺、天龍寺の門を通って渡月橋に出る。なかなかの距離を歩くわけで、窮屈になった「袂の長い友禅の晴れ着」を着、エナメルの草履が歩くたびに脱げがちだった悦子など、ずいぶん苦労したことだろう。中ノ島に来ると、掛茶屋で持参の弁当をひらく。午後は市中へ。平安神宮の「花が洛中に於ける最も美しい、最も見事な花」なので、蒔岡姉妹にとっては毎年、最後はここの桜で締めくくるものと決まっていた。

 この姉妹たちは嵯峨野の化野念仏寺、祇王寺、滝口寺、二尊院、常寂光寺、野宮神社あたりには寄らないが、川端康成の『美しさと哀しみと』では、夏、大木太一郎ときもの姿の坂見けい子が二尊院の墓地に三条実隆の墓を訪ねている。この墓の前でのふたりの睦みあいは、『細雪』や『古都』には見られないやわらかな愛欲の場面で、京都を舞台とする恋愛劇でも出色の名場面となった。ふたりはこの後、祇王寺に向かい、引き返して嵐山まで歩き、吉兆で昼食を。そこから予約を入れた琵琶湖ホテルまで、ながながとタクシーで、京都駅、東寺、牛尾山の左と抜け、東山の南を越え、大津、浜大津と抜けて向かっていった。
 そういえば、嵐山では、けい子とその日本画の師・上野音子が、渡月橋の手前を少しのぼった川岸のうどん屋に入っている。「傘をささないでも濡れるのがわからぬほどの」いい春雨の頃あいで、青葉若葉のあいだに桜の花がまじり、「木々の芽立ちのそれぞれの色が雨にやわらげられていた」。

川端の約十五年後、季節を晩秋に移し、ふたたび二尊院をクライマックスに選んだのは中里恒子の『時雨の記』。ふいの時雨にいそぎ足になる壬生に、多江は「時雨だわ、さあっと来て、さあっと過ぎるわ、」と、人生すべてにわたる悟りを含ませた名セリフを口にする。

壬生といえば、立原正秋の『あだし野』の主人公も壬生七郎。不治の病に侵され、心の嵐をかかえて、化野念仏寺へ赴き、自分の日常の中にある内なる「あだし野」を確認することに。その後、南禅寺に行った際、偶然、金地院を過ぎて湯豆腐屋前に出たところで、かつて付きあいのあった康江に再会。移り住んだ京都のおかげで「耀くばかりの﨟たけた姿態」になっていた彼女が、「芥子色の、紬とひと目で判る袷に、錆色の無地の帯」、「藍を濃淡に暈した竪絣」、「小豆色の地に白い線描きの花を飛ばせた紬」と、彼に「きれいに見てもらおうと思って」次々きものを替えて現われるさまは、美しくも哀しい。目に映じるすべてに二重写しに「あだし野」を見てしまう壬生の魂に、康江の衣擦れの音や帯を抜く音が響き続ける。



◆この文章は、若干の修正を加えた上で、「京都小説散歩 川端・谷崎から三島・立原まで」と題して「美しいキモノ」2011年春号の特別大附録「京都きもの散歩」に掲載された。

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