2011年1月1日土曜日

アルベール・カミュ没後50年 (2010年1月執筆)



  1月4日は、俳壇ふうに言えばカミュ忌にあたる。『異邦人』や『ペスト』の作家、さらに言えば、遺作となったあのみずみずしく素晴らしい『最初の人間』の作家であるアルベール・カミュが交通事故死したのは、1960年のことだった。享年46歳。2010年は死後50年にあたる。昨年秋には遺骨のパンテオン入りが取り沙汰されたり、今年に入ってからは、主に女性関係に焦点を当てたテレビドラマが放映されたりして、なにかと話題に上るようになってきた。

 現在中年以上の年齢にある人々は、カミュが特別な作家だった時代を知っているだろう。小説家としてだけでなく、ジャーナリスト、エッセイスト、劇作家としても活躍し、サルトルに異を唱えて論争を展開し、西側におけるスターリニスム的なものの跳梁にも警鐘を鳴らした姿は、社会にむけて果敢に発言し続ける知識人作家として誰よりも輝かしく見え、カミュの奇跡と呼ばれることもある。フィクションを使って語る作家というものが、切れ味においても鮮かさにおいても、学者や政治家やジャーナリストより一頭抜きん出た存在感と発言力を持ち得ていた時代の寵児がカミュだった。生前のみならず、悲劇的な急死の後も長く威光は衰えず、たとえば『異邦人』を手にする時のあの特別な高揚感は、世代から世代へ引き継がれたように思う。
「きょう、母さんが死んだ。ひょっとしたら昨日かもしれないが、わからない。養老院から電報を受け取った。『ハハウエシス。ソウギアス。オクヤミモウシアゲマス』。これではなにもわからない。たぶん昨日だったのだろう」。
小説のフランス語としても画期的な『異邦人』の冒頭だが、翻訳で読んでもこのかっこよさは鮮烈だった。大戦後のある種の平和と物憂さ、核と冷戦の時代の危機感のさなかにあって、「太陽がまぶしかったから」という語り手の殺人の理由も、文学ならではの的確さで人類の〈現在〉を、それも永遠の〈現在〉を表現し遂せていた。カミュが捉えようとしていたのは、五十年ほどの物理的時間の経過で変化してしまうような〈現在〉ではなかった。

「世界の酸素」たらんとしたカミュは、精力的でも真摯でもあり、思考においてはしばしば袋小路に陥るような生真面目さも目立ったが、実生活では生気に富み、寛大で、ユーモアに溢れ、冗談も好んだらしい。今月1月7日の《ル・フィガロ》紙のインタヴューで、娘のカトリーヌ・カミュがそのあたりの事情を語っている。
とはいえ、思想的にも文学的にも彼の孤絶は深く、心理的にもつねに危機にあった。カトリーヌが8歳だった1953年、父があまりに悲しげに見えた時があって、「悲しいの、パパ?」と尋ねたという。カミュは、「ぼくは独りぼっちなんだよ」と答え、それ以上なにも言い添えなかった。幼い娘にこんなことを洩らす彼の姿は、傍目にはいつも栄光の絶頂にあったかのようにも思われるだけに印象深い。

ノーベル賞受賞式から帰国する際の1957年の日記の記述も思い出される。
「12月29日、15時、新たな危機に心を掻き乱される。(…)数分の間、全き狂気の感覚。次いで、困憊と戦慄。鎮静剤。(…)29日と30日の夜、際限なき苦悶。(…)1月1日、倍化したさらなる不安」。
 ノーベル賞を受賞し、栄光の絶頂にあるべき国際的作家の、受賞直後の精神状況がこれなのである。いったい、カミュになにが起こっていたのか。1960年1月4日午後1時55分、彼の乗った自動車は、ヨンヌ県ヴィルブルヴァン村はずれの雨の国道5号線で、並木のプラタナスの一本に激突して大破、カミュは即死し、運転していた彼の担当編集者ミシェル・ガリマールも数日後に死んだ。単なる事故だったのか、カミュによる何らかの不意の操作による自殺だったのか、現在も不明だが、日記の記述や今回のカトリーヌ・カミュのインタヴューを見ると、自殺説はやはり捨てがたく見えてくる。

 ともあれ、バーバリーのトレンチコートで身を包み、くわえ煙草をしたカミュのイメージは、単にフィクションとしての小説つくりに留まらない作家なるものの20世紀的頂点を示していた。小説家というものが、娯楽のための時間つぶしの具としての小説を拵える職人であることを超え出る特権的な時空間にカミュは確かに存在していた。ロマン派詩人の典型となったバイロンのイメージや、革命後のヨーロッパに君臨した作家・政治思想家・政治家・歴史家としてのシャトーブリアンのイメージ、あるいは文学者などという枠を大幅に踏み出て近代政治そのものの基盤となってしまったルソーのイメージ、少し遠い時代を望見すれば、中国のあの大殺戮者にして大詩人の曹操のイメージ、そういった文学者たちの系譜に連なる数少ないひとりだったのは確かと言えるだろう。

文学というものには独特の難しさがあって、単に文学と見える文学を生産するだけならば、じつは文学の名には値しないというところがある。文学というものが、社会や歴史や人間全般の事象の中に浮かぶ言語的な磁場でしかあり得ないというところから招来される性質で、文学はつねに文学を逸脱し、文学にとっての異端であるところにのみ成立する。
出版不況と言われながらも、次々と飽くことなく生産され続ける現代の小説や詩歌の光景の中で、賢くも狡賢くも、ちまちまと文学の枠の中にたくみに身を狭めるすべを心得ている作品ばかり目に留まる。そういう印象を持って現代を眺める者からすれば、カミュのイメージは失われた楽園のようなものに見える。そこからは、奇跡的に途方もなく強い太陽が覗けた存在。作家や詩人や文学者というのはそういうものであって、世間の与党的常識や大勢、実業界・財界の利益にかなう御用言説を進んで拵えて安寧を得ようとするような卑屈な知的幇間であるべきではないし、ことさらに狭い自分の湾にあえて閉じこもって荒波を避け、衝突やストレスを避けてばかりいる繊細敏感な「いい人」に留まっているべきでもない。

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