2011年1月1日土曜日

桐田真輔氏の『断簡風信』



考えてもだめなんだ
(西脇順三郎『禮記』のうち『梵』より)


『断簡風信』は桐田真輔氏から毎月届いていた読書メモの個人誌だが、260号の付記に「しばらくお休み」とあった。かたちを変えて来年再開予定ともあるが、ずいぶん長いこと送ってもらってきたので、感慨深い。

始めたのは1988年だそうだが、私の場合、その頃から送っていただいていたのではない。桐田氏と知り合ったのはいつ頃だったか、よく覚えていないが、清水鱗造氏周辺に集まった詩人たちのあいだで、桐田氏と交わっていったのではないかと思う。ひと頃、外苑前のバー『ハウル』でアートディレクターの藤本真樹氏が詩の朗読会や様々な催しを精力的に行っていたことがあって、その頃、私もたびたびそこに赴いた。藤本氏がプロデュースしてくださった私の詩集の記念会に、桐田氏は見えていたか。他の機会であったかもしれないが、桐田氏の詩を他の方が朗読したのが印象深かった記憶がある。

桐田氏とはじめた、というより、桐田氏におんぶに抱っこのかたちでネット上で始めた詩歌サイト『リタ』にはお世話になった。技術面から編集作業から、すべては桐田氏の労に負っているのである。
私はずいぶん多量の詩を書いてきたが、生来、自分の作物には過酷なほど薄情で、金を出して詩集を作るのも面倒に思ってきた。そういう人間の詩でも、蓼食う虫も好き好きというのか、そう言っては失礼か、世には気にしてくださる方々もずいぶんあるのである。そういう方々から求められた際、見ていただくのに、あのサイトはずいぶん役に立った。個人誌のかたちでは、好事が嵩じて厖大な発行を続けてきたとは思うが、なにぶん詩集というものがほとんどない。そういう書き散らし屋には、うってつけの『リタ』であった。いまにして思えば、桐田氏の先見性は大したものだった。紙媒体の詩集はいいものだし、それに固執する吉増剛造氏のような行き方もあるが、しかし、ネットに載らない詩は、もはや見向きもされない時代になっている。時代のこういう流れは、詩歌においてはあきらかに悪いことであるが、しかし、詩歌が如何にせんコミュニケーションの媒体である以上、こういう状況の中で、縦書きにも横書きにも、フォントの違いにも容易に対応できる詩歌を書かねばならないのも事実である。桐田氏の『リタ』における仕事は、こんな時代より少し早めに、然るべき対応をきちんと行ったものであった。桐田氏に近い清水鱗造氏や、そこから近い鈴木志郎康氏、清水哲男氏などの詩人たちは、自製のサイトを駆使してIT時代を難なく泳ぎ渡っている稀な詩人たちである。

桐田氏とはなんどか、正面からのマジの話を持ったことがあったが、あの優しそうな風貌に違えて、アルコールが入ったところで始められる批判の舌鋒の鋭さ、呵責なさには、少なからぬ詩人たちがおそれ慄き、歯ぎしりをさせられた。
私には、しかし、それが楽しかった。文学的な毒舌と斬殺ならば、私も負けないつもりである。批評における非情なまでの酷薄さが、生来、私にはある。
もっとも、桐田氏とは、真剣勝負まではついに行かなかったと思う。桐田氏も手加減してくれたのだろうが、私も桐田氏を傷つけたくなかった。ほんとうの敵を共有しているという認識があったからである。
下北沢で枝川理恵氏を交えて飲んだ時には、いちばん楽しい桐田氏を見た。あれほど批判されたことはないし、こちらもあれほど切り返したことはない。私たちは誰でも、「それじゃあ、本当のことを言おうか」とおっぱじめたくってならない批判を、五万も数億も持っている。誰もがプチ政治的状況に置かれているから言わないだけのことで、きっかけさえあれば、誰もが弁天小僧並みに「言ってきかせやしょう」とやりたい。いちばんそれに近づいたのが、その下北沢の夜であった。私は何度となく、あれをくり返したいと思ったものだが、機会はその後、二度と来なかった。まだお終いになったわけではないから、まだ訪れていないというべきか。
桐田氏に本音に近いことを言われて、泣いて抗議している詩人の姿も何度か見たことがある。傍で聞いていると、なんのことはない、桐田氏は、私も内心思っていることを正直に相手に言っているだけのことであった。こんなに抵抗力がないようでは、とてもではないが文学などやっていけまいと、他人事ながら思った。

しかし、もっと若かった私が、そんな時に理解していなかったことがある。それは、詩の世界が、いかなる批判も非難も受けない全面肯定の世界であってもよいのだ、ということだった。誰の作品も、すべて素晴らしい、美しい、切ない、哀切である、そういう態度で自他の作品群を遇してもよい、むしろ、そうすべきだ、ということだった。というのも、この世には詩歌の世界をのぞいて、どこにもそんな場所はないのだから。
たった一か所、そんなどこにもない場所があってもよい、それをむしろ詩歌は担うべきではないか、と、今の私には思われるのである。書かれた詩歌、それらのすべてがいい、素晴らしい、それでいい、という態度、私たちは、どうしてそんな態度が採れないできたものだろう、と今は思う。
批判ということ、批判的に見て、たえず忙しく評価し、等級をつけ、良し悪しを定め…という態度が、じつはどれほど多くのものを損なうばかりだったか。このことを、詩歌の愉しみ手である者たちは、おそらく、もっと根本的に認識してもよい。批評と評価は、好き嫌いからおのずと出て来る自然な進み行きに任せておけばいいのではないか。理知を誇って、競って、偉そうに批評と評価に流れることには、長い目でみれば、得るところはあまりない。評論家や評定者こそが、いつの時代にも、いちばん先に忘却されていくのである。「あの考える男などは/考える銅にすぎない/考えてもだめなんだ」(禮記『梵』)、西脇順三郎。時代の流行にも乗らず、評価さえされなかった作物が、何十年もしてひょっこり国民的な作品になっていくのだけを、詩歌の愛好家は見ていればいいのである。

桐田氏が管理運営してきたサイト『リタ』は、私の命名による。始めるにあたって書いた序文では、リタ・ヘイワースなどにずいぶん言及したが、私の中ではキリタのリタが鳴っていた。桐田氏は『リタ』の運営もいつか停止してしまっていて、これまでお世話になってきた私としてはさびしくもあるし、心細くもある。遅まきながら、そろそろ独り立ちせよ、と慫慂されているのかもしれない。
いずれにしても、桐田氏とリタ・ヘイワースが分かちがたく繋がったまま、『リタ』は私の心にあり続けている。『リタ』の時代というものがあって、そういう時代のスジのいくつかは、ずっと繋がっていく。

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