2011年1月1日土曜日

霊的な重さを搭載するということ

 

  オーラが見えると簡単に言ってしまえれば楽なのだが、自分が見ているものが、世にいうオーラというものにはたして当たっているのかどうか、それをオーラと呼んでいいものか、迷う。エクトプラズムというほうが正しいのではないかとも思うが、これにしても、どこまで正確な名なのか訝しい。心霊に関する論にはそもそもいろいろな流派があって、たとえば神智学協会の分類法・命名法と、そこから分派したシュタイナーのそれとのあいだにさえ、すでに開きがある。グルジェフに至ってはさらに独自の分類や命名をしているし、欧米のそうした諸流派をいささか乱脈なままに導入した本邦の神霊学のいろいろを見るに至っては、いっそ踏み込まないままでいたほうがよいとさえ思えてくる。クリシュナムルティのように、心霊現象の一切を打ち捨てよと教えるのももっともだと思えるし、孔子が「怪力乱神を語らず」(述而)と言ったり、「鬼神を敬して之を遠ざく」と言ったのももっともだと思える。

 とはいえ、見えるものを見えないと思い込むわけにはいかないし、もともとこの方面こそが最大の関心事なので、他人にあれこれ不要の口出しをしまいという点は堅持しつつ、自分の範囲内での考究は続けていこうということになる。

 どこぞの霊能者たちのように、煌々と明かりに照らされたテレビ局のスタジオでさえ他人のオーラを鮮明に見てとるような芸当はできないし、そもそも最近になってそれが見えるのに気づいたことでもあるので、どうしても就寝まぎわなど、あかりを消し去った闇の中で、手のひらを上に掲げて自分から漏れ出る光をいろいろと眺めるということになりがちである。漏れ出る、と今うっかり書いたが、じつはこのあたりから表現の困難が始まってしまう。漏れ出ているのではなく、包んでいるのではないか。いや、それでさえもなく、肉体に重なっているというべきではないのか。

 このように表現をつぎつぎ切り替えながら、現実に、闇の中で手のひらや腕や足先などを眺め続けて、自分の体に沿いながらたしかに見えている光が、どのように体と関わっているのかを考え続けている。どうやら、漏れ出ているというのは、あまりふさわしい表現ではないらしいというのが、この頃はわかってきた。漏れ出ているというと、肉体にいっそう根源的な性質を仮定してしまうことになるが、そうではないらしいということが、観察を続けているとわかってくる。むしろ、光のほうがもっと根源的なものであって、そこに肉体が付属しているのではないかと見えてくることがある。が、そのように仮定して見るようにしてしまうと、心霊現象のたぐいはそういう見方につよく影響されて捉えられるようになってしまうので、けっして見方を固定することなしに微妙な調整を重ねつつ、現象そのものに対処していかなければならない。

 見る際、たしかに目を開けて見ているので、肉眼で見ていることにはなる。しかし、ここで奇妙なのは、というより、注意すべきは、見ている時には肉眼は、一種の支えの役割のようなものをしていて、ほんとうに見る働きをしているのは、額あたりの別の目のようなものだという気がする。さまざまな宗教文献を読んできた者は、ここですぐに第三の目や霊眼というものを思い出してしまうが、そういう文献情報に流されると間違いをさらに重ねることになるので、ほんとうに別の目のようなもので見ているのだろうかとの疑いを保持しながら、見ることの起こっているあたりを感覚し続けてみる。あらゆる霊的な文献や情報を参考言説として受け入れる一方で、しかし実体験なしにはどれをも信じないことを数十年にわたって貫いてきたが、ここでも同じやり方を踏襲していることになる。見えているのはたしかでも、それをオーラとは呼ばず、見ているものを霊眼とも第三の目とも呼ばないというのは、わたしにとっては重要なことで、簡単にいえば言語や表象によるレッテルを、参照的にはつねに使用しつつ、しかし、いかに貼らないままで現象そのものに沿い続けるか、そういった試行を継続していることになろうかと思う。

 こうした試行を重ねた結果、視覚にチャンネルのようなものがあるのがわかったが、これが瞬間瞬間、たえず切り替わっているのをつよく感じる。自分の手のひらや腕などに添うている光さえ、このチャンネルの切り替わりに応じて全く見え方が変わる。光そのものにぴったりと視覚が合う時など、あまりの眩しさに思わず目を細めてしまうことがたびたびあった。面白いのは、肉体としての手のひらや腕の部分が、肉体に添うているそうした強い光を受けて、煌々と照らされている場合があることだ。非物質的な自分の光を見る試みを続けている中で、こうした瞬間はもっとも印象のつよい経験といえる。ふつうの人間として社会で生きている者なら誰でも、日頃、肉体というものを自分そのものを成している根源的かつ基底的なものとして認識しているだろうが、私が慎ましく続けてきたこうした試行でさえ、そうした認識が根本的に誤っているのをはっきりと明かしてくれるに至った。肉体についての粗い認識を反省せずに、生について、言語や表象による表現について、さらに時間や空間や、その他のあらゆる形而上学的な物事について思考するのは、虚しいばかりか、いっそうの間違いを認識や言動の場で惹き起こしていく危険な行為であると断言できる。

 視覚チャンネルとでもいうべきものを、思い通りに切り替えたり、あるいはひとつのチャンネルに固定して設定したりできるようになれば、ふつうの人間にとっての一般的な世界像とはべつの諸レベルのしっかりした観察ができるだろう。一定以上の能力を持つ霊能者たちはそのような能力を保持しているものと思われる。また、シュタイナーが霊界のさまざまなレベルを霊視する際に用いた能力も、これと同様か、それ以上のものだったと思われる。私の場合はとてもそこまでは行かないが、すでに拓けた視覚自体は後戻りはしないように感じる。さまざまな霊的文献によれば、急速な展開というのも起こりうるだろうが、そういう場合には、とにかくも物質界に戻って来られる道と方法とをつねに保持しておくというのが重要になる。

シュタイナーは、霊界にじかに接触するのはいろいろな人生体験を経た中年以降まで行わないほうがよいと教えているが、これは物質界へのこうした帰還能力という観点から勧められるものといえる。霊的探求の観点から見た場合、地上でのふつうの人生の最大の価値は、無限の霊的宇宙への探求の航海の際に役立つ〈重り〉を、霊的身体のなかに多量に搭載できるという点である。物質的なものにとどまらず、社会生活で日々抱え込む心理的な重さが、心霊航海の船の有用な底荷になる。霊的なものに関心のある人々は、なにかというと軽さや飛翔の容易さなどに惹かれる傾向があるが、ここに述べたような意味での重さというのがどれほど重要で得難いものか、これを獲得するために物質界での地上生活がどれほど有益かを、霊性の道を行く者はよくよく認識し直さなければならないだろう。

端的にいえば、魂の重さがきわめて重要であるということに通じていく議論となる。重い魂は、天界をも引き下ろす。あらゆる霊的宇宙の力は、重い魂だけは無視することができないものだが、この観点から考えれば、いわゆる悪魔や邪霊のたぐいの存在価値も見直されなければならなくなる。

そこまで一気に考えを飛ばさずとも、少なくとも、重さということの再評価は、つねづね心がけられるべきではある。死によっていったん肉体を失えば、この世でならただ生きているだけで難なく行える重さというもののの搭載が、一切不可能になってしまう。この物質界に生きていることの価値は、これだけでも大きいといえる。そればかりか、この物質界からならば、諸々の霊的レベルへの旅が容易なのに比して、(あらゆる価値観からの解放を成就していないまま死ぬと)死後は多くの場合、他ならぬ自らの霊的傾向や色合いによって一定の霊的レベルへの居住を強いられがちになるため、実際には霊的成長はほとんど望めなくなる。霊的成長を一気にもたらすような過酷な運命をプログラムした上で、ふたたび物質界への再生を心待ちにするということになる。

生老病死にまつわる多くの重さ、苦しみこそが至上の富であることをおそらく仏陀などは説いたに違いないが、むしろそれらから離れるすべを教えたかのように伝えられてきてしまっているところに宗教というものの恐ろしさがある。積極的に苦悩を引き受けるようにたびたび教えたイエスの精神のほうが、よほど正確に伝承されてきているようだが、それとても誤った解釈で捻じ曲げられてしまっている場合が多い。

 今後、地上ではこれまで以上の生存苦が津波のように再三にわたって押し寄せると告げる者たちが多いが、苦悩についての認識を根本的に改めておいたほうが、無数の一般生活者たちの霊的視野がひらけることで、来るべき多難な地上生活を過ごしやすくなるだろう。重要なのは、これまでの人間社会が採りがちだった、快楽や怠惰の享受度こそを幸福基準とするような認識を保持しつづけることではなく、どれだけ重さを搭載して死んでいけるかという方向へと生の価値を測る視点を移すことである。これによってこそ、日常の実際の生活も格段に楽になっていく。地上においてではなく、天上に富を積むように勧めたイエスの意図していたものも、この重さの搭載だったと考えておいたほうがよい。



0 件のコメント: