言葉の使い方、漢字の書きわけ方などは世につれて変わる。そんなことはわかりきっているものの、テレビなどで横暴な使い方を見ると、ちょっと酷いのではないか、と感じる。
いろいろあるが、簡単な言葉だけに「生む」がやたらと目に付く。子どもをうむ、という場合の「生む」だが、これを、しばらく前から、たいていのテレビが「産む」と書きはじめた。
1980年代から90年代、20年ほど受験産業に関わり、青少年の教育が生活そのものだった経験がある。そこから離れて10年以上が経ったが、その間に漢字使用の慣例が激変でもしたのだろうか。
中学受験や高校受験の生徒たちを前に、いったい何度、人間が子どもを「うむ」時は、「生む」と書くんだぞ、「産む」と書いたら動物が子どもや卵を「うむ」意味になっちゃうんだぞ、と大声で教えてきたことか。
「生む」と「産む」のこうした使い分けは、もちろん私が勝手に決めたわけでなどなく、教科書にもあれば、学校の先生たちも教え、参考書に問題集の答えにもはっきりとそう記されていた。学力テストで「叔母さんが男の子を産んだ」などと書こうものなら、もちろん×。減点される。国語教育における全国的な示しあわせに立っての、「生む」と「産む」の使い分け教育だった。
私個人では、そうした使い分けに執着しているわけでもなければ、それこそが正しい使い方だと思っているわけでもない。そもそも「出産」という表記があるのに、どうして人間が子どもを生む時に「生む」しか許されないのか、正直なところ納得がいかなかった。だが、受け持っている生徒たちを入試で合格させなければならない側としては、とりあえず、人には「生む」、動物には「産む」という使い分けを徹底させるほかなかったのだ。
私が教えた子たちのうち、いちばんの年長者たちはもう45歳を越えている。彼らが、昔のつらかった受験時代の教えに大勢で反旗を翻したとでもいうのだろうか。彼らとて、自分たちが叩きこまれた使い分けで通したほうが楽に違いないのに、どうしてこんな使い分けの激変が、主にマスコミによって行われているのだろうか。それとも、彼らも、自分たちが習ってきたのと違う表記が大挙してまかり通ってきている現状に、困惑させられている側だろうか。
ちなみに、使用しているウィンドウズのワードで「うむ」を入力してみると、「生む」は「[一般的] 誕生 作り出す」とあり、「産む」は「[限定的] 出産 産卵」とある。ひょっとして、表記が大がかりに変化させられている根源はこれか?とも思うが、ワードに、こんな自信満々の表記法を採らせている根拠はなんだろう。国語関係の審議会などが、またまた、奇妙な改変をやらかしたためだろうか。
遠い話ながら、戦後の日本語表記改悪は大問題となり、福田恒存をはじめ、多くの作家たちがたくさんの文章を書いて文部省や短見の日本語学者たちと闘ってきた。若い頃の私の大贔屓だった石川淳なども、古典と縦横無尽に行き来できるような独特の日本語表記を編み出して、小説や評論に活躍していた。あの頃のような問題がまた、いつのまにか大がかりに広がっているのかとも思うが、当時と違うのは、大きな声を出して論陣を張るような文学者たちが払底してしまっているということである。
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