2012年10月19日金曜日

逝った相手へ、過去へと向けて始まる愛

―岩井俊二*『ラブレター』について



死んだ婚約者に手紙を出してみると、なんと返事が… 
婚約者と同姓同名の女性こそ、じつは、死んだ彼の真の愛の対象だったのでは、と気づいていく博子。
ストーリーとしては、こんな軸を中心に展開していくのが岩井俊二の『ラブレター』だ。

「鈴美が秋葉を想い、秋葉が博子を想い、博子が藤井樹を想い、藤井樹はかつて同姓同名の女の子を想い、そしてその女の子は今、かつての同姓同名の男の子に想いを馳せている。
想うことは幸福なこと。
なんだかそんな気がしてくる」。
            (『ラヴレター』) 

同姓同名。顔の酷似。どちらも、物語にはうってつけの素材だ。洋の東西を問わず、人間はこういうのに弱い。同じだけど違う、とか、違うけど相通じるものが、とか。すでに世界に無数の作品がある。これらを使う時にセンスが問われるのも、だからこそ。

岩井俊二はまず、「藤井樹」なる同姓同名の男女ふたりを設定した。このふたりを中学の同級生どうしにし、同姓同名から来る反撥、ちょっとした被害、運命の小さな悪戯を経験させる。男のほうには、長じてから神戸の短大生に一目惚れをさせる。相手は、学校時代の藤井樹㊛に酷似した渡辺博子。簡明にして効果抜群の設定が、こうして出来上がる。物語の風は、あとは放っておいても吹き荒ぶ。

 物語の公式から言えば、ふつう、同姓同名の片方は死なねばならず、酷似した人物ふたりはどこかですれ違わねばならない。藤井樹㊚を死なせて、藤井樹㊛をひとり残すこと。藤井樹㊛に酷似した渡辺博子をも、ひとり残すこと。不在の藤井樹㊚という折り返し軸をめぐって、ここに、藤井樹㊛と渡辺博子のある種の姉妹関係が出現し、ドッペルゲンガー性も出現する。
岩井俊二が教育的であるのは、世上のあらゆる姉妹物やドッペルゲンガー物が、じつは、あらゆる藤井樹㊚消滅後の後日談に過ぎないかも、とそっと教えてくれる点だ。ひょっとしたら、人類のあらゆる物語の源には、じつは藤井樹㊚性があるばかりではないのか。

藤井樹㊚は、一目惚れから渡辺博子を愛したことになっている。
しかし、博子自身が訝しんでいるように、彼が愛したのは、藤井樹㊛の面影だったのかもしれない。相手の独異性に対する軽視の罪。
いっぽう、渡辺博子は、偶然目にした卒業アルバムの中に見つけた「藤井樹」の名に宛てて手紙を書くのだが、ここで図らずも、彼女もまた先方の独異性軽視の罪を犯している。その時彼女が注目したのは、藤井樹㊛のほうの名であり、㊚のほうの名ではなかったから。
同じだが、同じでない名前。
恋人どうしとなったふたりが、それぞれに犯す同質の罪。
三人称部分と、「あたし」という一人称部分の交互の積み重ねで書かれていくこの小説で、なぜ岩井俊二が、藤井樹㊛に一人称の語りを委ねたのか、なぜ渡辺博子ではなかったのか、その秘密がここにある。三人のうち、藤井樹㊛だけが、唯一、だれの独異性も軽視しなかった無垢な存在だったのだ。
そういう彼女のほうへと、藤井樹㊚の磁場は撓みに撓む。彼女と酷似した博子への「一目惚れ」さえ起こしつつ、生涯かけて撓むのだ。

 自分と酷似した博子という迂路をたどって、藤井樹㊚が寄せていた自分への思いを発見していく藤井樹㊛の物語。
それが『ラヴレター』だったのだが、こうした発見は、思いを寄せてくれた相手への、過去へ向けての愛に発展していく他はない。無垢を約束された彼女が、不在の相手に心を向けるとなれば、どう転んでも純愛にしかなり得ないが、純愛はむろん書き得ない。書き得ないものを書かないで済ます、書かないがゆえに表わす。日本の文芸の王道といえる手法を、岩井俊二は軽く軽く、みずみずしく踏襲しているのだ。


                      
*岩井俊二、映像作家。絶え間ない繊細な動きと心の襞に直結した映像が、優しく、痛い。作品に『リリィ・シュシュのすべて』、『スワロウテイル』、『ラヴレター』など多数。




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