フランスの作家ジャン・プリウールJean Prieurは、なにより『目に見えない世界の証人たち』Les Témoins de l’Invisible(Fayard,1972)*で有名で、霊界や死後の世界についてのフランス語書籍を渉猟する人にとっては御馴染の著者である。彼の活動は、もちろん、これ一作に留まらない。survie、すなわち死後の世界や死後の生の専門家として、また、秘教の教義や多様なパラノーマルな現象についての探求者として、有名な著作を出版し続けてきた。その業績については、パリ市からメダルも授与されているほどの作家である。
近頃、彼の『あの世の訪問者たち』Les Visiteurs de l’autre monde(Fayard, 1977)*を読み直していて、霊界の事例として他の類書が逸しやすい内容にいくつか触れていることに改めて気づかされたが、なかでも、生前、健康に格段の留意を払っていた霊の話が面白かった。
栄養にも生活態度にも気を使い、適度な運動を怠らず、身体を美しく立派に保っていたスポーツマンだった男の霊なのだが、死後も生前と同じく、あらゆる点で最大限の注意を払いつつ、見事な筋肉の若々しい身体を保持している。
この人物、しかしながら、高次の霊界にはなかなか上れず、いつまでも煉獄のようなところに留まり続けている。というのも、生前も死後も、身体の健康と美しさに執着し過ぎているためで、それが障害となって、より高次のレベルに霊的波長が合っていかないのだ。霊となってあの世にいるにもかかわらず、本人は、この点、到って無頓着で、自分の身体(霊界では自分が抱いている〈身体〉の観念そのものが身体となる)の素晴らしさを喜んでいる。
ふつう、身体的な健康や美は、この世では誰にも受け入れられうるはずの価値と見なされがちなものだが、死後にもこれに執しているようでは、逆に悪癖に等しいものになってしまうというわけなのだ。
健康や体力面、体調のよさばかりではない。生前、身体的な美に価値を置き過ぎて生きると、自分でつくった呪縛に死後も囚われやすくなり、危険であるということになる。現世で非常な美人に生まれた女性たちが、しばしば霊界の低いレベルを永く彷徨い続ける事例も紹介されているが、やはり、自分に肉体的に与えられた美に自ら執着した結果、いつまでもそれから離れられなくなってしまっているわけだ。
健康で美しい肉体への執着も、霊界においては、飲酒や麻薬などへの執着と同等の足枷となってしまうというようなことは、神霊を扱った書籍ではなかなか紹介されづらい事例である。しかし、もちろん、日本の仏教の伝統の中にいくらもある、自我にまつわる差異化への妄執の害を説く教えを応用して理解さえすれば、これは格別珍しいことというわけでもない。たとえば、一遍上人がこのように言う。
「華を愛し月を詠ずる、やゝもすれば輪廻の業。仏をおもひ経をおもふ、ともすれば地獄の焔。」**
「生死といふは妄念なり。妄執煩悩は実体なし。然るを、此妄執煩悩の心を本として、善悪を分別する念想をもて、生死を離れんとする事いはれなし。念は即出離のさはりなり。故に『念即生死〈念は即ち生死なり〉』と釈せり。生死を離るゝといふは、念をはなるゝなり。こゝろはもとの心ながら、生死を離るゝといふ事、またくなきものなり。」**
「華」も「月」も「仏」も「経」も、「やゝもすれば」、「ともすれば」、妄執なのである。一遍上人が「念」という言葉で呼んでいるものを、巧みに、臨機応変に理解し続けていかねばならないということになるのだろう。健康や美も「念」であり、生きている間の当座の用に当てるまでのことで、用済みになれば「念」ごと捨てていかねばならないのである。
この『あの世の訪問者たち』では、死んだばかりのルネという作曲家が、ファブリスという年長の指導霊に導かれて霊界の各所を探訪し、現世に残した恋人のマリアンヌをときどき訪れては、霊言や自動筆記を通じて霊界の事実を教えたり、慰めたりするという物語仕立てで(シャトーブリアンの『ルネ』とスタンダールの『パルムの僧院』の主人公たちが、創作年代を逆転させられて用いられているところに、プリウールのユーモアがあるかもしれない)、20世紀の『神曲』を意図して作られたかのようなフィクションとなっているが、プリウールがこれまで渉猟してきた資料や見聞した霊界の知識がいかんなく注ぎ込まれ、誰もが死の直後から体験することになるはずの現象をわかりやすく物語っていて、出色の本のひとつとなっている。おそらく数世紀後には、霊界探訪記のジャンルのうちでも逸すべからざる著作として重視されることだろう。
ルネがマリアンヌに、現世に生きている間も内面での自分の考えを注意深く選ぶように、と強く注意を与えている点なども、霊学においては基本事項ながら、印象が深い。死後は、思考というものが、それ自身、霊の身体となるからで、否応もなく、自分の思考と同類、同波動の世界に霊は行ってしまうことになる。
死後の世界では、自分の思考を邪魔したり損なったりするものが存在しないので、ある思い込みを強く抱けば、自分自身で思考上の改変を行わない限り、変化は起こりえない。つまり、無限に同思考の中に自らを幽閉し続けることになり、それゆえ、現世で思考上の自由を養っておくことが極めて重要であるということになる。自分の考え方の邪魔をしてくるもの、これまでの考え方を否定するもの、それらとの出会いの重要さを正面から受けとめることができないような性質をもし持っていれば、死後、すぐにも始まるであろう状態は、想像するに難くない。カフカの「自分と世界との戦いにおいては、世界に味方せよ」という言葉は、この点について鋭いアドバイスをしている。一定の観念の中に安住しようとする自分を乱し、自分の城塞をたえず壊そうとするものは、死後に向かって永遠に流れていく高次の自我にとってはつねに恩寵であり、そちらの側の動きを我がものとし続けよ、ということである。もちろん、一遍上人なら「念」を離れよ、とまで言う。「自分と世界との戦い」を発生させるような「念」自体を捨てよ、と言うのだ。
フランス人のジャン・プリウールが、いささかキリスト教に偏った霊界観を持っているらしいのは、もちろん理解もできるが、残念でもある。しかしながら、霊界での行動指針がすべて新約聖書に書いてあると彼が言う時、それ自体は間違ってはいない。新約聖書におけるイエスの言葉は、ほぼすべて、死後の世界に踏み込んだ霊に向けられた極めて現実的なインストラクションだからである。新約聖書は、どうしても、この世でのイエスと弟子たちの間の出来事を記したものと受けとめられがちだが、不意の死に見舞われて勝手もわからずに霊界の入口に立たされる時、導き手がやってきて、ほぼ同じ訓導を行う。霊としての新参者の持つ文化、思想、偏見にあわせて、臨機応変な訓導がなされるとはいえ、新約聖書が実際にはどれほど現実的な霊界ガイダンスのテキストであったか、やがて誰にもわかる時が来るだろう。
*ジャン・プリウールのこれらの本には日本語訳はない。
**『一遍上人語録』(岩波文庫)
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