詩とはなんだろう、という疑問が出やすいのはわかる。
どういうものが詩か、という疑問も。
真の詩とは…などという方向に考えが走り出しそうになる時の、あの思考の傾斜、ちょっとした古風な快感の伴っていなくもない、あのバランスの崩壊の一瞬も。
あんなものは詩ではない、などと断定する衝動に到っては、なおさら。
しかし、19世紀に急流になり出して20世紀の滝つぼに流れ込んだ詩の歴史がすでにあり、日本だけのごく短いスパンで見ても、戦後詩から現代詩への展開の歴史がある以上、
すべては詩である。
答えは、そう出ている。
仮にある読者やある詩人に詩と見えなくても、社会的用途(多くは即時的コミュニケーション)を持たない書き物の一編は詩であり、社会的用途を持っている言葉の連なりでさえ、時には、詩であり得る。
この当然のことを、詩に深く関わってきたと自認する人たちが損なう場合がある。自分こそが詩の側におり、自分こそが正当な判定者、詩人、詩の通と思い込む人たちだ。ごく限られた視界、偏った好みにしか立脚できていないにもかかわらず。
すでに、詩の流れはあまりにも多岐に亘っているし、流れからの氾濫規模も広範囲に及んでいる。読み書きや理解といった言語活動に関わる知的・情動的・悟性的主体が、数秒以内に有機的連環性を生かしつつ使用できる意識領野というものはごく限られており、多少時間をかけて検索や参照をした場合に使用できる領野にしても、当然、限定された広がりに過ぎない。そのため、詩を読む場合にも書く場合にも、ある時点においては、興味や好み、価値の置き方などはどこかに偏らざるを得ない。
とりわけ、価値の置き方は、もともと行動のエネルギーを凝集し活用する際の装置だが、これはいつの間にか、それ以上の重要性を持つものであるかのように意識されていきやすい。書くためにこの装置を使い出したはずの作者が、それと知らずに、これに奉仕するようになってしまっていたりする。
他の分野でも同様のことが多いが、ことに詩に関する場合、判断主体はきわめて脆弱であり、そのありようや振舞いは絶えざる振幅の中にあって、その時点で手近にある刺激や印象の強いもの、あるいは、当面の実生活上の問題に関わる意識の揺れに対し安定的な作用をもたらす概念連合や価値論的記憶などが杖として採用されてしまうことが多い。
こうしたことを考えると、すべてが詩であるという観点と姿勢こそが、―真理というわけでもなく、主義というわけでもなしに―、作業仮説的にも仮説キャンプ的にも、やはり、最良のものとして採用され続けるべきだと思われる。
倒産した詩の小出版社のある社員のことが思い出される。*
自分では詩を書かず、仕事の必要上読みはするが、詩を好まず、詩人たちを尊重もしていなかった。名刺には、しかし、「詩人」という肩書きを印刷していた。じつは詩を書いていたのかと思い、尋ねると、やはり一編も書いたことはない、書くつもりもない、という。では、どうしてこんな肩書きを印刷したのかと聞くと、少し考えをまとめながら、こんなことを言った。
「だって、…まず、詩はパフォーマンスですよね。で、パフォーマンスとしての詩の世界では、今では、なんでもありですよね。いっぽう、頑張ってなにを書いたって、誰も読まないという現実がある。書かれ続ける詩にしても、内容はほとんど無いに等しい。内容があるように見えれば、それは逆に、社会的・世間的・通俗的な問題意識を扱っただけのことで、結局、詩としては無に等しい。詩人と自称すればおかしく思われたり嘲笑されるし、いろいろな意味あいで、ヘンな人間だと思われる。誰かのことを『詩人』『詩人さん』と呼べば、どこか常識から外れた人間ということだし、蔑称にも近い時もある。それにもかかわらず、詩人という言葉自体はしっかりとあり、芸術や美や超越的なものなどと繋がったところのある、それなりの含意や効果を持ち続けている。…だから僕は、あえて、なにも書かないし、興味もないけれども、詩人と自称することにしたんです」。
なるほど。
彼は、パフォーマンスとして、自分自身を現代詩の極みにしてしまうことを選んだのである。
「詩人」と名乗れば、人は、自分が抱いている詩人のイメージと照らし合わせて面白がったり、違和感を持ったりする。今どき、あえて「詩人」を自称してみるような人は、ユーモアのある堅苦しくない人に決まっているだろうから、その場も和むし、会話も弾む。彼自身は詩を書かないのだから、詩や詩人の属性である無や虚無ということも、看板に偽りなく表わし得ている。努力もせず、労力もかけずして、一場のちょっとした話題のネタになるような、手頃なパフォーマンスになり得ている。
「一場のネタにさえならない詩が多い中で、けっこう、イケテルでしょ?」
そこまでは彼は言わなかったが、もう少し突っつけば、きっと言ったに違いない。
(終)
*詩とはなにか、という方向に考えが向かう時、思い出されるのは彼のことだけではない。詳しくは述べないが、次のような人たちも同時に脳裏に蘇ってくる。
〈人1〉
詩を読むことの好きな言語学者。西洋詩の歴史にもよく通じている。「韻律のないものを詩と呼ぶ人がいますが、詩は韻律です。ただ改行して分かち書きしてあるだけで、韻も踏んでおらず、各行の音節数もいい加減なものが詩であるはずはない」というのがこの人の自論。〈人2〉〈人3〉の詩作品など論外。
〈人2〉
バブル期以後に書きはじめた80年代生れの詩人。詩人としての自覚と矜持が強い。日常語のように理解できる表現を嫌悪し、否定する。彼の詩では、単語はさまざまな分野の専門語を含むあらゆる日本語から採られ、第一行から日常的意味は破壊されている。日常会話、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどに見られるような用例を徹底的に外れた単語連結を作り出そうとする。抒情、物語性、人生問題や社会問題の導入は完全否定。語りが成立するのも極度に嫌う。次に出す〈人3〉の詩を「ただのゴミ」と評する。
〈人3〉
日常語的に読める自由詩を好んで書く詩人。生活から取材されたテーマをわかりやすく提示し、いわゆる人生の喜怒哀楽をユーモアとあたたかみ、時にペーソスのある表現で描く。日本社会のどこでも無難に通用するような価値観やモラルを注意深く設定し、最大多数にアピールしやすい作品づくりを心がける。そのため、時流に乗って右往左往していると傍からは見えるが、本人はつねに市民、一般人、ふつうの人、さらには民衆の側に立っている気持ちでいる。津波や原発事故の際は被災者の側に立った苦しみや不便さを描き、そこから見た政府や行政批判もわずかに書き入れた。しかし、東電や政府への本質的な批判は避け、政治制度や日本社会全般についての批判的視野は持とうとしていない。〈人2〉の詩については、「まあ、いろいろな詩があっていいんでしょうから…」。
〈人4〉
日本古典を好む詩の読者。自身では詩作品は書かないが、いわゆる「味わい」や人生論、仏教的趣味のある作品を評価する。「わけのわからない」詩を嫌い、そういうものに出会うと「モダニズムの模倣に過ぎない」として否定。しかし、モダニズムの文学史的研究を自分なりに行ったわけではなく、モダニズムの諸作品にも特徴にも通じているわけではない。〈人2〉の詩は絶対否定。〈人3〉の作品は詩と認めるが、「しかし、言葉に味わいがなく、内容的には、チープな情緒に頼った、ただの駄弁」。
〈人5〉
公認会計士。芸術一般に興味があり、文芸鑑賞も好む。自分ではなにも書かないが、美的なもの全般に敏感な穏やかな紳士。理解のしやすい短歌、俳句から現代の詩まで好む。詩と言った場合、最も心の揺れるものは上田敏や堀口大学の訳詩、島崎藤村の詩など。仏教美術なども好きだが、〈人4〉と異なり、詩に仏教趣味が入るのは好まない。〈人3〉の詩を見せると、「読みやすいので、私たちシロウトにはわかりやすくていい。しかし、こういうのが詩なんですかねえ… 私にはあまり魅力があるとは見えなくって…」との評。他方、同時に見せたロセッティの訳詩にはいたく感銘を受ける。〈人2〉の詩については、「ハハ、なにが言いたいでしょうね…」のみ。
〈人6〉
たまたま訳本に出会い、レイモン・クノーを好きになって、研究している大学院生。必要上、その前の時代のフランスの詩も読むが、基本的には詩には興味がなく、クノーのあのセンスやレトリックだけが好きらしい。日本の詩歌にも、どの国の小説にも、批評にも関心がないので、まったく読まない。クノーの詩について博士論文を準備中である。
〈人7〉
北原白秋で修士論文を書いた女性研究者。白秋についても白秋の詩についてもよく知っており、白秋好きでもあるが、それ以後の詩歌については関心が全くない。宮沢賢治、中原中也、立原道造などにも無関心、無感動。白秋に近い萩原朔太郎の詩にさえ、「厭な感じ」しか持たない。この人からは白秋の肉声の自作朗読テープを頂いたが、敗戦の曲音放送なみの棒読みで、あまり面白いとは言えなかった。詩人の吉田文憲氏が御所望だったので、コピーもとらずに差し上げてしまったが…、やっぱり、惜しいとは思わない。
〈人8〉
谷川俊太郎好きの女子学生。詩はあれに極まるというので、いろいろ聞いてみると、じつは谷川俊太郎の初期の詩を数編のみ、それも教科書に掲載されたものや教室で補足的に読まされた幾つかしか読んでいないのが判明した。現代詩の何人かの作品を見せると、ヘンな詩…と即座に拒否反応。近代の詩にも拒否反応。なぜ谷川俊太郎の数編の詩のみを好むという精神が発生するのか、との難問を提出された気になった。
〈人9〉
無類の小説読みで、批評や文学論も好み、古今東西の文芸についてじつに良く知っている初老の語学教授。「詩は読みづらい」ので、あまり読まない。とはいいながら、バイロンの長編詩やミルトンなども原文で読んでしまっている。ボードレールからマラルメ、ヴァレリーなども仏語原文で。ゲーテは、すべてではないが、ドイツ語原文で。イタリア語ではレオパルディとダンテを。『神曲』は、小集団の原文読書会を続けていて、少しずつ読み進めている。エリオットも、ディラン・トマスも、アメリカの詩人たちも原文で通読済み。しかし、日本の現代詩は「なんだか、格が下がる気がして、ちゃんと読もうという気になれない」。どうせ読むなら、ということで、古い中国詩や日本の古い漢詩を読み下し文とともに鑑賞する。
〈人10〉
著名な歌人。この人から「今どんなことに興味がある?」と聞かれ、「詩に…」と答えた際、即座に「あんな下らないもの、なんにもなりゃしない。止めて短歌だけしなさい」とおっしゃった。一理も二理もある言葉ではある。
…まだまだ様々な人が浮かんでくるが、「詩とはなんだろう…」と思いめぐらす際には、どなたも貴重な証言者である
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