2012年3月28日水曜日

柴生田稔の「雪印ローリーエース」


        思想や観念は、結局は我々を生活に向かわせるものでなければ
            ならないのではないだろうか。
                           (吉田健一『永井龍男』)




 柴生田稔が八十六歳で出した最後の歌集『公園』(1990、短歌新聞社)に、こういう歌がある。

歩み来て疲れたる二人ベンチにて飲みし雪印ローリーエース

 しばしの散歩の後か、老夫婦が疲れてベンチに腰を下ろし、座っている。途中で買って来たのか、近くの売店で買ったのか、「雪印ローリーエース」をふたり分けあって飲んでいる。夫が飲み、妻に渡し、また妻が夫に戻して、夫が飲む。そんな光景が思い浮かぶが、なんといってもこの「雪印ローリーエース」が効いている。茶でもジュースでもなく、乳酸飲料でもなしに、「雪印ローリーエース」。この固有名詞。この商標。
時代がいくらか変わっていれば、「雪印ローリーエース」ではないだろう。なにか他のものを老夫婦は買って飲むはずである。「雪印ローリーエース」とは作者にとっての逃れようもない現在であり、日本であり、つねに変わらぬ老人のありようを一つ超え出た一回性の特異性である。「雪印ローリーエース」に変わるなにかをどの時代の老夫婦も買うだろうから、その点ではここに普遍が表出されている。しかし、「雪印ローリーエース」と書くことで、普遍ならざる固有性が刻印される。自分は今、八十六歳の老人であり老夫婦の夫であり、散歩に疲れてベンチに休む老体であるが、しかし、「雪印ローリーエース」を買い来て老妻と飲む自分は、まさに他のどの時代にもあり得ない一回性の存在なのであり、固有性の権化そのものである。さすがに、斉藤茂吉の弟子として、岩波文庫版『斎藤茂吉歌集』編集に加わった柴生田稔だけのことはある。
もっとも、現代短歌の絢爛多彩な展開ののちの時代に見れば、この歌ばかりか、柴生田稔の多くの短歌は、つよい印象を以て人の目にとまるとはいいがたいものが多く、これが性急な読者たちを十分に惹きつけずにいる原因となっているのは認めなければならない。しかし、これは柴生田稔のもともとの個性から来るものというべきで、彼の第一歌集に寄せた序に、師の斉藤茂吉がみごとな指摘をしておいたものでもある。
「さうして君の歌風は恬静の裏に味ひを蔵してゐるものであるから、読者は再読ののちはじめて君の歌の本質に味到し得るものの如くである。」*
茂吉の才能は、弟子の個性と、それが辿っていくべき道を易々と見抜いてしまうこんなところにこそ、よく現われる。こういう師に二十三歳からまみえ得た柴生田稔の幸せは、歌人としては格別のものだったというべきだろう。一高から東京帝国大学哲学科に進んだものの、哲学の専攻に疑問を抱くようになって国文科に移った彼は、深田久弥から吉田正俊を紹介され、その流れでアララギに入会、斉藤茂吉と土屋文明に出会うことになった。

  始めてわが歌を見し茂吉先生はこんな歌は写生だからねと我に言ひたり

  褒めるのかと思へば然らざりき茂吉先生のいつも言ふ写生とそれは違ひき
  
  なんだあんな連中をあれは女の屑だぞとその時我に茂吉は語りき

  要するに茂吉は常に飄々として我には捕らへ難き存在なりき

   我は君に必ずしも従はざりきただ我はわが真心を君に注ぎぬ

   我は思ふ(われ)君に見捨てられむとせしことたびたびありしを

歌集『公園』には、至上の師である茂吉をめぐるこんな回顧の歌もあるが、出会って六十三年を経た感慨として、これだけでも面白い。老いた人ならば誰でも持つような感慨だろうと言われるかもしれないが、何十年も昔のことについて、しかも師について、思い、思い出し、短歌のかたちにしようとし、表現の推敲や言葉の取捨選択までをするというのは、やはり特異な意志に裏打ちされた行為であり、幸福のひとつのかたちというべきである。
しかし、かたわら、

  長塚さんと呼ばれて遂に先生以上の指導者なりし孤独の節よ

と長塚節を同歌集内で称揚しているところなど、茶目っけというのか、居直りというのか、なかなか一筋縄でいかぬ、それこそ茂吉ゆずりの性根が出ていて面白い。
歌人は晩年が面白いもので、重病を得たり、癒えたり、いよいよ危ないとなったり、また治ったりすると、なおさら歌が楽しくなる。 

  蟇蛙を育ててわが庭に送り込む隣人人好くて変りものなり

  蹲踞のまま木下が潜れるやうになりぬこの日頃我体操をして

  こんな本がどうして売れるんでせうと人の言ふ本を作りてわが今年ゆく

  共産党贔屓の夫人がありて選挙にはポスターを貼るここがそれなり

  横浜駅降りて長き廊歩み行くわが運命に従ふごとく

  私鉄十二分バス二十五分にして弟の病みて入りたる病院はあり

  差額ベッド無きを喜び幾年かこの病院に我は親しむ

  今日来るは人間ドック男二人女四人廊下をぞろぞろと行く

  小金井に住み小金井にわが病みてこの病院に生命果つるか

 遅れたる速達便を出さんとて慌て出でゆくかかるわが生

「雪印ローリーエース」ほどではないにしても、歴史の一回性の瞬間を地道に掬いとめながら、そこに寄せ来る普遍的なもので自分の老いを裏打ちさせつつ、一回性と普遍性とが出会う境界線を一首一首として刻印していく手腕の安定ぶりには、見事なものがある。
もちろん、柴生田稔を老いの相においてのみ捉えるのは間違っており、次のような歌がすぐに思い出されてくる。

  夏休みの終となるをわびしみて我の一世は過ぎて来りき

  植ゑたしと思ふ木草をつひに植ゑずわが世はなべてかくて過ぎなむ

 ホチキスの針入るることを我はする我の好まぬホチキスの針

 買へる本も貰へる本も封とかぬままに重なりわが床の廻り

  夢うつつに繰返しゐつ野越え山越え行かねばならぬ行かねばならぬ

  夏に入る時のさびしき風の音雨戸の外に闇に鳴りつつ

  貧しさの極みにわれの思ひしこと富みたる人の思はざること

  滅亡してもう惜しくない人類かと思ひてゐたりとどのつまりに

  動物が好きであつたと伝へ言ふ人を人とも思はざりしが

最後の歌は、七十八歳の時の第四歌集『冬の林に』(1982、短歌新聞社)所収のものだが、このような穏やかな口調でいて、決定的な断罪を他者に下す歌には、短歌形式というものが持つ特性がいかんなく発揮されていて、姿勢を正さねばならない気持ちにさせられる。
しかし、やはり次のような歌、

  吹く風はなごやかなればわがさびし丘にさまざまに遠き音して

この「さまざまに遠き音して」こそに、柴生田稔の真髄がある。「さまざま」な「音」をいつも聞いている耳の持ち主は、どこかのんびりとした風情、口調で歌をひねったりする他ない。彼はつねに多様性の中におり、聞えて来る「音」のどれもが「様々なる意匠」であって、どれが優越するものとも思えない。しかも、どの「音」も遠い。価値をうんぬんする以前に、どれも本気に捉えるに足らない。どれか、ひとつふたつの「音」の中に自分を没入させるだけの必然性も、魅力も、重要性も感じられない。
こういう心が歌に向かう時には、そこに盛るべきものは生活しかない。否応なきかたちでの、かくのごとき生活。他のいかなるかたちでもなく、他の人間関係でもなく、他の生活条件でもなく、かくのごとき生活。
清水房雄は、柴生田稔の晩年の歌風を「目の前にいきなり丸太棒をつきつけたような卒然たる発想。物と物、色と色との劃然たる対照。口語脈の率直な取り入れ」**と正しく評したが、さらに次のように評した。
「氏にあっては、生活態度即思想、思想即生活というはっきりした事実があった。その言語化が氏の短歌作品である。過剰な空論は氏の最も嫌うところであり、控え目に発せられる氏の言葉にはそれと等質等量の実生活が存したのである」**
 これもかなり正確であり、美しい批評だが、しかし、柴生田稔の歌が即生活であったかどうかとなれば、また一考を要するところではあろう。まだまだ、柴生田稔の歌は、「歌」で在り過ぎたのではないか、と感じられるところがある。韻律のもっと大仰な乱れ、無視、固有名詞による侵略、非常識な発想や狂気、怒りの噴出があってもよかったのではないか。なにより、現実なるものがたびたびもたらす荒唐無稽さの導入に、まだまだ消極的であり過ぎなかったか。
 こう思うのも、つねに身近にいたはずの土屋文明のこんな歌が思い出されるからである。

  細より尾根を横行き冬野の道教えし娘を上村老人覚えてゐる

  知事筆を揮ひて家持の歌碑を立てり泥を飛ばしてトラック往反す

  原爆をまぬがれし与茂平亡きことも赤電話して知る関係なき菓子店に

 短歌が和歌を振り落とし、削ぎ落して到った極北のひとつが、土屋文明の構成主義的なまでのこれらの歌にはあり、日本語の至上の達成があるのだが、これらと比べれば、柴生田稔は微温的に感じられる。歌躰の分解と再構成が突きつめられていない。そう感じてよいのか、それとも、柴生田稔と土屋文明の生活と思想のありようの違いがそのまま差異となって表われているのか。ここには、近現代短歌の最大の問題のひとつがあり、事細かに考究すれば、間違いなく最も滋味深い探求となっていくはずだろう。
 少なくとも、柴生田稔と土屋文明、さらには他の、すぐに自分の口吻に固着してくるスタイルの魔や作風と闘い続け、捨て続け、切り捨て、剥ぎ捨て続けた歌人たちを、たえず比較しながら読み直す必要があることだけは間違いがない。




*『春山』(1941、墨水書房)
**短歌研究文庫7『柴生田稔歌集』(清水房雄編、短歌研究社、1992)の解説より。




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