2012年3月31日土曜日

シャトーブリアン的思考



シャトーブリアンから甥のトクヴィルに至って失われたものは小さくないのだが、そろそろその点について見直さねばならない時代になった。
ともに政治・社会についての思想家であり、政治家でもあり、言うまでもなく浩瀚な著作を残した文筆家でもあったシャトーブリアンとトクヴィルにあっては、新自由主義下での後者への関心が際立っていた。サッチャー主義やレーガノミクス、その背後にあったフリードマン流の経済政策から端を発し、近くは、現代でも稀にみる最悪の政治期間を演出したブッシュ政権、それを露骨に支えた小泉・竹中改革路線や、レバレッジ型金融経済まで続いてきた一連の不条理かつ狂気のグローバルエコノミー(という名のアメリカ流集金術)の潮流は、皮肉にも金融危機によってようやく歯止めをかけられる状態となり、昨今ようやく、世界中の政財界の主流がそこから身を引き離し始めたことから、論壇でもようやく大きな批判対象とされうるようになった(もちろん、思想や批評の世界では、とうの昔から本質的な批判が行われてきている)。こうした潮流を思想的に支えた、というより支えさせられたところがあるトクヴィルについても、新自由主義的思考に援用されやすい部分については、どうやら批判的に見直されねばならなくなってきたように思う。

もちろん、トクヴィルが、アメリカ合衆国という史上初の人工国家を分析して提示したアメリカについての基本概念は秀逸であり、いまでもアメリカについて考える際の基礎になり得るものには違いない。本来なら相矛盾するふたつの要素である「宗教の精神」と「自由の精神」とがこの国家を動かす運動極であると喝破したのは大きな業績であるし、そこに発生する「境遇の自由」を称揚したのは、十九世紀半ば以降の世界の社会変革の方向を決定づけた人類的意思を代表するものといえる。
なぜアメリカがあのようにつねに戦争に向かうのか、他国への干渉を続け、アメリカ流の自由や社会・経済システムの輸出にこだわり続けるのか、それを考え続けていた頃、ようするにアメリカは永久革命国家であり、トロツキー主義的な世界革命を運動軸としている国家なのだと、自分なりに結論したことがある。トクヴィルをまだ読んでいなかった頃だ。米ソの対立構造の中ではそういうことはなかなか見えづらく、人に話してもあまり納得してはもらえなかった。しかしソヴィエトが崩壊してみると、アメリカもまた共産主義国家的といえる運動性をみずからの内部に持ってことが、誰の目にもはっきり見えるようになった。歴史の暴力的な切断行為から発生し、自己を支える原理がよその国々とは共有されていないアメリカの場合、自分の国家原理を外へ植えつけ続けることによってのみ、国家的存続の可能性を確保できるというところがある。また、当初から宗教的狂信・暴力・対立・戦争・ネイティヴ・アメリカン殺戮によって国を立ち上げたという事実は、その後のこの国の歴史過程においても、なんらかの衝突と征服を発生させずには国家の外郭や姿勢を保ちづらいと感じさせるような心性を、アメリカ国民に植え付けたようだ。ソヴィエト以上に根源的な人工的戦争国家として出現したアメリカの、こうした原理的な部分をはっきりと見てとっていた人々はいないかと探して、ようやくトクヴィルに出会った時には非常に嬉しかった。
爾来、トクヴィルは個人的な思索の際の支柱のひとつとなった。とはいえ、冷静にして奥行きのある思考を展開していると見えるトクヴィルにも、このような箇所がある。
「これらの民族(筆者注。ネイティヴ・アメリカンの諸族のこと)の滅亡はヨーロッパ人が海岸に上陸したその日に始まった。(…)摂理によって新世界の恵みの中におかれながら、彼らは短期の用益権しか神から授からなかったようである。彼らはそこでただ待っていただけなのだ。交易と産業のためにこれほどうってつけの海岸、深い河川、ミシシッピの無尽蔵の流域。要するにこの大陸全体が、一つの偉大な国民を育てる空(から)の揺り籠のようであった」(『アメリカのデモクラシー』、松本礼二訳、岩波文庫)
 トクヴィルは現在、次代の政治論の練り上げの参考として政治学学徒たちによって読まれることが多い。そういう読書においては、ともすれば、ここに挙げたような部分は看過されやすい個所といえるだろう。彼自身の責任とするのは酷であるし不公平でもあろうが、トクヴィルのまなざしには実はひどく偏った部分があり、十九世紀の欧米中心主義と植民地主義の展開を基本的に底支えする感性に領されているところがあるといえる。新自由主義に対して一定の批判がしやすくなった二〇〇八年末の現在時点から見れば、ブッシュ政権の不条理な政策を支えた学説や政治手法を擁護するのに、いかにも相性のいいところがあると見えもするだろう。

 トクヴィルの叔父にあたるシャトーブリアンの思索には、このような箇所がない。彼の兄嫁の父であるラモワニョン・ド・マレゼルブ、ルイ十五世治下の出版監督長官でありながら百科全書派の著作などに出版許可を出して表現・出版の自由を実質的に擁護し、内務大臣、法務大臣も歴任したこの人物の親書を懐にして、青年時代のシャトーブリアンは、ジョージ・ワシントンに会うべくアメリカに渡ったことがあるが、そこでネイティヴ・インディアンの問題や運命に触れたことがあった。大革命のさなかにヨーロッパに戻ってから書き始めた『革命試論』、小説『ナッチェ(ズ)族』、そこから切り離した中編小説『アタラ』『ルネ』、そしてナポレオン政権下でのイデオロギー誘導の書となった『キリスト教精髄』などにおいて、ネイティヴ・アメリカンの運命についてのシャトーブリアンの記述態度には、奇跡的に、トクヴィルのような視点はない。基本的には、ヨーロッパ人の侵略を受けて滅亡していく自然人としてネイティヴ・アメリカンを見ており、貴族としてフランス革命で苦渋を味わった自分や家族の運命に深く通じるものとして、ネイティヴ・アメリカンの運命を見つめている。トクヴィルのように神の前における西洋人とネイティヴ・インディアンのあいだの差別を当然として容認し、排除対象ないしは搾取対象として先住民たちを見るような記述は、シャトーブリアンにはない。
シャトーブリアンにおいては、自分やネイティヴ・アメリカンのこうした運命と悲惨さが、最終的には人類全体のそれに通じていくものとして認識され、地上につかのま存在するのを運命づけられた人類全体の悲惨さと空しさを慰撫しうる唯一のものとしてキリスト教を出してくるのが特徴的なのだが、彼におけるキリスト教は、トクヴィルのキリスト教認識とはもちろん、アメリカ建国当時のウィンスロップたちのカルヴァン主義とも異なっている。彼にとってのキリスト教を精査し直しながら、西欧中心主義や白人中心主義を奇跡的に回避できたシャトーブリアン的思考の発生をたどり直すことは、二十一世紀においてこそ、あらためて意味を持ち始めるテーマといえるだろう。奇跡的に回避できた、といま記したが、もちろんここには、トクヴィルのような十九世紀人とは根本的に異なった十八世紀人たちの感性や思考も深く関わっているかもしれない。大革命以前の十八世紀を知らない者は生きる喜びを知らない、といった意味のことをタレイランも言っている。十八世紀に生まれ育った人間たちにとって、十九世紀が生の喜びを失ったせせこましい時代に成り下がってしまったと映っていたことは、彼らの言説によく散見されるところだ。
ルソーにおける自然人概念がシャトーブリアンにおいて独特の機能のしかたをしたということも、もちろん見逃がせない。ルソーの概念はアメリカ建国の際にも、またトクヴィルの思考においても作用している以上、かなり広範な視野と資料にもとづく再考が必要となりそうである。ルソーは、曖昧で意味作用の振幅の大きな概念・観念使用や思想構成を行う性質があった思想家だが、十八世紀末から十九世紀にかけてのルソーの読解や受容は、ことに、各需要者たちそれぞれにおける誤読のあり方や偏向的理解にこそ、今後の政治制度再考にむけた場合の興味と可能性の宝庫があると思える。


妄執としての健康、美




 フランスの作家ジャン・プリウールJean Prieurは、なにより『目に見えない世界の証人たち』Les Témoins de l’InvisibleFayard,1972*で有名で、霊界や死後の世界についてのフランス語書籍を渉猟する人にとっては御馴染の著者である。彼の活動は、もちろん、これ一作に留まらない。survie、すなわち死後の世界や死後の生の専門家として、また、秘教の教義や多様なパラノーマルな現象についての探求者として、有名な著作を出版し続けてきた。その業績については、パリ市からメダルも授与されているほどの作家である。
近頃、彼の『あの世の訪問者たち』Les Visiteurs de l’autre monde(Fayard, 1977)*を読み直していて、霊界の事例として他の類書が逸しやすい内容にいくつか触れていることに改めて気づかされたが、なかでも、生前、健康に格段の留意を払っていた霊の話が面白かった。
栄養にも生活態度にも気を使い、適度な運動を怠らず、身体を美しく立派に保っていたスポーツマンだった男の霊なのだが、死後も生前と同じく、あらゆる点で最大限の注意を払いつつ、見事な筋肉の若々しい身体を保持している。
 この人物、しかしながら、高次の霊界にはなかなか上れず、いつまでも煉獄のようなところに留まり続けている。というのも、生前も死後も、身体の健康と美しさに執着し過ぎているためで、それが障害となって、より高次のレベルに霊的波長が合っていかないのだ。霊となってあの世にいるにもかかわらず、本人は、この点、到って無頓着で、自分の身体(霊界では自分が抱いている〈身体〉の観念そのものが身体となる)の素晴らしさを喜んでいる。
ふつう、身体的な健康や美は、この世では誰にも受け入れられうるはずの価値と見なされがちなものだが、死後にもこれに執しているようでは、逆に悪癖に等しいものになってしまうというわけなのだ。
健康や体力面、体調のよさばかりではない。生前、身体的な美に価値を置き過ぎて生きると、自分でつくった呪縛に死後も囚われやすくなり、危険であるということになる。現世で非常な美人に生まれた女性たちが、しばしば霊界の低いレベルを永く彷徨い続ける事例も紹介されているが、やはり、自分に肉体的に与えられた美に自ら執着した結果、いつまでもそれから離れられなくなってしまっているわけだ。


健康で美しい肉体への執着も、霊界においては、飲酒や麻薬などへの執着と同等の足枷となってしまうというようなことは、神霊を扱った書籍ではなかなか紹介されづらい事例である。しかし、もちろん、日本の仏教の伝統の中にいくらもある、自我にまつわる差異化への妄執の害を説く教えを応用して理解さえすれば、これは格別珍しいことというわけでもない。たとえば、一遍上人がこのように言う。
「華を愛し月を詠ずる、やゝもすれば輪廻の業。仏をおもひ経をおもふ、ともすれば地獄の焔。」**
生死(しょうじ)といふは妄念なり。妄執煩悩は実体なし。然るを、此妄執煩悩の心を本として、善悪を分別する念想をもて、生死を離れんとする事いはれなし。念は即出離のさはりなり。故に『念即生死〈念は即ち生死なり〉』と釈せり。生死を離るゝといふは、念をはなるゝなり。こゝろはもとの心ながら、生死を離るゝといふ事、またくなきものなり。」**
「華」も「月」も「仏」も「経」も、「やゝもすれば」、「ともすれば」、妄執なのである。一遍上人が「念」という言葉で呼んでいるものを、巧みに、臨機応変に理解し続けていかねばならないということになるのだろう。健康や美も「念」であり、生きている間の当座の用に当てるまでのことで、用済みになれば「念」ごと捨てていかねばならないのである。


この『あの世の訪問者たち』では、死んだばかりのルネという作曲家が、ファブリスという年長の指導霊に導かれて霊界の各所を探訪し、現世に残した恋人のマリアンヌをときどき訪れては、霊言や自動筆記を通じて霊界の事実を教えたり、慰めたりするという物語仕立てで(シャトーブリアンの『ルネ』とスタンダールの『パルムの僧院』の主人公たちが、創作年代を逆転させられて用いられているところに、プリウールのユーモアがあるかもしれない)、20世紀の『神曲』を意図して作られたかのようなフィクションとなっているが、プリウールがこれまで渉猟してきた資料や見聞した霊界の知識がいかんなく注ぎ込まれ、誰もが死の直後から体験することになるはずの現象をわかりやすく物語っていて、出色の本のひとつとなっている。おそらく数世紀後には、霊界探訪記のジャンルのうちでも逸すべからざる著作として重視されることだろう。


ルネがマリアンヌに、現世に生きている間も内面での自分の考えを注意深く選ぶように、と強く注意を与えている点なども、霊学においては基本事項ながら、印象が深い。死後は、思考というものが、それ自身、霊の身体となるからで、否応もなく、自分の思考と同類、同波動の世界に霊は行ってしまうことになる。
死後の世界では、自分の思考を邪魔したり損なったりするものが存在しないので、ある思い込みを強く抱けば、自分自身で思考上の改変を行わない限り、変化は起こりえない。つまり、無限に同思考の中に自らを幽閉し続けることになり、それゆえ、現世で思考上の自由を養っておくことが極めて重要であるということになる。自分の考え方の邪魔をしてくるもの、これまでの考え方を否定するもの、それらとの出会いの重要さを正面から受けとめることができないような性質をもし持っていれば、死後、すぐにも始まるであろう状態は、想像するに難くない。カフカの「自分と世界との戦いにおいては、世界に味方せよ」という言葉は、この点について鋭いアドバイスをしている。一定の観念の中に安住しようとする自分を乱し、自分の城塞をたえず壊そうとするものは、死後に向かって永遠に流れていく高次の自我にとってはつねに恩寵であり、そちらの側の動きを我がものとし続けよ、ということである。もちろん、一遍上人なら「念」を離れよ、とまで言う。「自分と世界との戦い」を発生させるような「念」自体を捨てよ、と言うのだ。


フランス人のジャン・プリウールが、いささかキリスト教に偏った霊界観を持っているらしいのは、もちろん理解もできるが、残念でもある。しかしながら、霊界での行動指針がすべて新約聖書に書いてあると彼が言う時、それ自体は間違ってはいない。新約聖書におけるイエスの言葉は、ほぼすべて、死後の世界に踏み込んだ霊に向けられた極めて現実的なインストラクションだからである。新約聖書は、どうしても、この世でのイエスと弟子たちの間の出来事を記したものと受けとめられがちだが、不意の死に見舞われて勝手もわからずに霊界の入口に立たされる時、導き手がやってきて、ほぼ同じ訓導を行う。霊としての新参者の持つ文化、思想、偏見にあわせて、臨機応変な訓導がなされるとはいえ、新約聖書が実際にはどれほど現実的な霊界ガイダンスのテキストであったか、やがて誰にもわかる時が来るだろう。



*ジャン・プリウールのこれらの本には日本語訳はない。
**『一遍上人語録』(岩波文庫)


2012年3月28日水曜日

柴生田稔の「雪印ローリーエース」


        思想や観念は、結局は我々を生活に向かわせるものでなければ
            ならないのではないだろうか。
                           (吉田健一『永井龍男』)




 柴生田稔が八十六歳で出した最後の歌集『公園』(1990、短歌新聞社)に、こういう歌がある。

歩み来て疲れたる二人ベンチにて飲みし雪印ローリーエース

 しばしの散歩の後か、老夫婦が疲れてベンチに腰を下ろし、座っている。途中で買って来たのか、近くの売店で買ったのか、「雪印ローリーエース」をふたり分けあって飲んでいる。夫が飲み、妻に渡し、また妻が夫に戻して、夫が飲む。そんな光景が思い浮かぶが、なんといってもこの「雪印ローリーエース」が効いている。茶でもジュースでもなく、乳酸飲料でもなしに、「雪印ローリーエース」。この固有名詞。この商標。
時代がいくらか変わっていれば、「雪印ローリーエース」ではないだろう。なにか他のものを老夫婦は買って飲むはずである。「雪印ローリーエース」とは作者にとっての逃れようもない現在であり、日本であり、つねに変わらぬ老人のありようを一つ超え出た一回性の特異性である。「雪印ローリーエース」に変わるなにかをどの時代の老夫婦も買うだろうから、その点ではここに普遍が表出されている。しかし、「雪印ローリーエース」と書くことで、普遍ならざる固有性が刻印される。自分は今、八十六歳の老人であり老夫婦の夫であり、散歩に疲れてベンチに休む老体であるが、しかし、「雪印ローリーエース」を買い来て老妻と飲む自分は、まさに他のどの時代にもあり得ない一回性の存在なのであり、固有性の権化そのものである。さすがに、斉藤茂吉の弟子として、岩波文庫版『斎藤茂吉歌集』編集に加わった柴生田稔だけのことはある。
もっとも、現代短歌の絢爛多彩な展開ののちの時代に見れば、この歌ばかりか、柴生田稔の多くの短歌は、つよい印象を以て人の目にとまるとはいいがたいものが多く、これが性急な読者たちを十分に惹きつけずにいる原因となっているのは認めなければならない。しかし、これは柴生田稔のもともとの個性から来るものというべきで、彼の第一歌集に寄せた序に、師の斉藤茂吉がみごとな指摘をしておいたものでもある。
「さうして君の歌風は恬静の裏に味ひを蔵してゐるものであるから、読者は再読ののちはじめて君の歌の本質に味到し得るものの如くである。」*
茂吉の才能は、弟子の個性と、それが辿っていくべき道を易々と見抜いてしまうこんなところにこそ、よく現われる。こういう師に二十三歳からまみえ得た柴生田稔の幸せは、歌人としては格別のものだったというべきだろう。一高から東京帝国大学哲学科に進んだものの、哲学の専攻に疑問を抱くようになって国文科に移った彼は、深田久弥から吉田正俊を紹介され、その流れでアララギに入会、斉藤茂吉と土屋文明に出会うことになった。

  始めてわが歌を見し茂吉先生はこんな歌は写生だからねと我に言ひたり

  褒めるのかと思へば然らざりき茂吉先生のいつも言ふ写生とそれは違ひき
  
  なんだあんな連中をあれは女の屑だぞとその時我に茂吉は語りき

  要するに茂吉は常に飄々として我には捕らへ難き存在なりき

   我は君に必ずしも従はざりきただ我はわが真心を君に注ぎぬ

   我は思ふ(われ)君に見捨てられむとせしことたびたびありしを

歌集『公園』には、至上の師である茂吉をめぐるこんな回顧の歌もあるが、出会って六十三年を経た感慨として、これだけでも面白い。老いた人ならば誰でも持つような感慨だろうと言われるかもしれないが、何十年も昔のことについて、しかも師について、思い、思い出し、短歌のかたちにしようとし、表現の推敲や言葉の取捨選択までをするというのは、やはり特異な意志に裏打ちされた行為であり、幸福のひとつのかたちというべきである。
しかし、かたわら、

  長塚さんと呼ばれて遂に先生以上の指導者なりし孤独の節よ

と長塚節を同歌集内で称揚しているところなど、茶目っけというのか、居直りというのか、なかなか一筋縄でいかぬ、それこそ茂吉ゆずりの性根が出ていて面白い。
歌人は晩年が面白いもので、重病を得たり、癒えたり、いよいよ危ないとなったり、また治ったりすると、なおさら歌が楽しくなる。 

  蟇蛙を育ててわが庭に送り込む隣人人好くて変りものなり

  蹲踞のまま木下が潜れるやうになりぬこの日頃我体操をして

  こんな本がどうして売れるんでせうと人の言ふ本を作りてわが今年ゆく

  共産党贔屓の夫人がありて選挙にはポスターを貼るここがそれなり

  横浜駅降りて長き廊歩み行くわが運命に従ふごとく

  私鉄十二分バス二十五分にして弟の病みて入りたる病院はあり

  差額ベッド無きを喜び幾年かこの病院に我は親しむ

  今日来るは人間ドック男二人女四人廊下をぞろぞろと行く

  小金井に住み小金井にわが病みてこの病院に生命果つるか

 遅れたる速達便を出さんとて慌て出でゆくかかるわが生

「雪印ローリーエース」ほどではないにしても、歴史の一回性の瞬間を地道に掬いとめながら、そこに寄せ来る普遍的なもので自分の老いを裏打ちさせつつ、一回性と普遍性とが出会う境界線を一首一首として刻印していく手腕の安定ぶりには、見事なものがある。
もちろん、柴生田稔を老いの相においてのみ捉えるのは間違っており、次のような歌がすぐに思い出されてくる。

  夏休みの終となるをわびしみて我の一世は過ぎて来りき

  植ゑたしと思ふ木草をつひに植ゑずわが世はなべてかくて過ぎなむ

 ホチキスの針入るることを我はする我の好まぬホチキスの針

 買へる本も貰へる本も封とかぬままに重なりわが床の廻り

  夢うつつに繰返しゐつ野越え山越え行かねばならぬ行かねばならぬ

  夏に入る時のさびしき風の音雨戸の外に闇に鳴りつつ

  貧しさの極みにわれの思ひしこと富みたる人の思はざること

  滅亡してもう惜しくない人類かと思ひてゐたりとどのつまりに

  動物が好きであつたと伝へ言ふ人を人とも思はざりしが

最後の歌は、七十八歳の時の第四歌集『冬の林に』(1982、短歌新聞社)所収のものだが、このような穏やかな口調でいて、決定的な断罪を他者に下す歌には、短歌形式というものが持つ特性がいかんなく発揮されていて、姿勢を正さねばならない気持ちにさせられる。
しかし、やはり次のような歌、

  吹く風はなごやかなればわがさびし丘にさまざまに遠き音して

この「さまざまに遠き音して」こそに、柴生田稔の真髄がある。「さまざま」な「音」をいつも聞いている耳の持ち主は、どこかのんびりとした風情、口調で歌をひねったりする他ない。彼はつねに多様性の中におり、聞えて来る「音」のどれもが「様々なる意匠」であって、どれが優越するものとも思えない。しかも、どの「音」も遠い。価値をうんぬんする以前に、どれも本気に捉えるに足らない。どれか、ひとつふたつの「音」の中に自分を没入させるだけの必然性も、魅力も、重要性も感じられない。
こういう心が歌に向かう時には、そこに盛るべきものは生活しかない。否応なきかたちでの、かくのごとき生活。他のいかなるかたちでもなく、他の人間関係でもなく、他の生活条件でもなく、かくのごとき生活。
清水房雄は、柴生田稔の晩年の歌風を「目の前にいきなり丸太棒をつきつけたような卒然たる発想。物と物、色と色との劃然たる対照。口語脈の率直な取り入れ」**と正しく評したが、さらに次のように評した。
「氏にあっては、生活態度即思想、思想即生活というはっきりした事実があった。その言語化が氏の短歌作品である。過剰な空論は氏の最も嫌うところであり、控え目に発せられる氏の言葉にはそれと等質等量の実生活が存したのである」**
 これもかなり正確であり、美しい批評だが、しかし、柴生田稔の歌が即生活であったかどうかとなれば、また一考を要するところではあろう。まだまだ、柴生田稔の歌は、「歌」で在り過ぎたのではないか、と感じられるところがある。韻律のもっと大仰な乱れ、無視、固有名詞による侵略、非常識な発想や狂気、怒りの噴出があってもよかったのではないか。なにより、現実なるものがたびたびもたらす荒唐無稽さの導入に、まだまだ消極的であり過ぎなかったか。
 こう思うのも、つねに身近にいたはずの土屋文明のこんな歌が思い出されるからである。

  細より尾根を横行き冬野の道教えし娘を上村老人覚えてゐる

  知事筆を揮ひて家持の歌碑を立てり泥を飛ばしてトラック往反す

  原爆をまぬがれし与茂平亡きことも赤電話して知る関係なき菓子店に

 短歌が和歌を振り落とし、削ぎ落して到った極北のひとつが、土屋文明の構成主義的なまでのこれらの歌にはあり、日本語の至上の達成があるのだが、これらと比べれば、柴生田稔は微温的に感じられる。歌躰の分解と再構成が突きつめられていない。そう感じてよいのか、それとも、柴生田稔と土屋文明の生活と思想のありようの違いがそのまま差異となって表われているのか。ここには、近現代短歌の最大の問題のひとつがあり、事細かに考究すれば、間違いなく最も滋味深い探求となっていくはずだろう。
 少なくとも、柴生田稔と土屋文明、さらには他の、すぐに自分の口吻に固着してくるスタイルの魔や作風と闘い続け、捨て続け、切り捨て、剥ぎ捨て続けた歌人たちを、たえず比較しながら読み直す必要があることだけは間違いがない。




*『春山』(1941、墨水書房)
**短歌研究文庫7『柴生田稔歌集』(清水房雄編、短歌研究社、1992)の解説より。




2012年3月15日木曜日

詩人たちがいなくなってしまってから



シャンソンの好きな人なら誰でも知っているシャルル・トレネの歌、もともとジャクリーヌ・フランソワのために作られた『詩人の魂』の歌詞を思い出すと、詩とはなにか、詩人とはなにか、というより、「詩人」という存在を世間一般の人間がどうとらえているか、とらえたがっているか、それがよく出ているように思う。
トレネが歌っているのは、もちろん、シャンソンの作り手たちや、気のきいたちょっとした小詩をつくるような詩人たちのことではあろうが、誰もが抱きがちな広義の「詩人」のイメージというのも、ふつう、こんなところではないだろうか。


詩人たちがいなくなってしまってから、
長いこと、長いこと、長いこと経ったけれど、
かれらの歌はまだ、ちまたに流れ続けている。
作者の名前とか、
誰のために心が弾むのかとか、
あまり気にせずに人びとは歌っている。
ときどき言葉をかえたり、文をかえたり、
歌詞が思いつかなくなったりすると、
ララララララララララ、
ララララララ、とやってみたり。
 
詩人たちがいなくなってしまってから、
長いこと、長いこと、長いこと経ったけれど、
かれらの歌はまだ、ちまたに流れ続けている。
いつの日か、私がいなくなってだいぶ経った頃にも
歌われているだろう、きっと、
悲しみをやわらげるこの歌。
しあわせな運命もいくつか育み、
老いぼれた乞食をも生かし、
子どもを寝かしつけ、
どこかの水辺で、
春、プレーヤーでかけられて。
 
詩人たちがいなくなってしまってから
長いこと、長いこと、長いこと経ったけれど、
かれらの歌はまだ、ちまたに流れ続けている。
 
かれらの軽い魂、かれらの歌に、
愉しまされたり、かなしまされたりする。
わかい娘たちも、青年たちも、
ブルジョワたちも、芸術家たちも、
宿なしたちさえも。*
 
 
  〈Après que les poètes ont disparu〉を「詩人たちがいなくなってしまってから」と訳したが、「亡くなってしまってから」という意味あいももちろん強いだろうし、「姿を消してしまってから」や「詩人たちの姿が見られなくなってから」とすれば、これはこれで、時代の流れや風潮というもののどうしようもなさも読み込んで、意味ぶかくなる。「詩人」というものは、勝手に自分の才能や能力だけで現われうるものではなく、どうしようもなく時代の子であり、世間が舞台を準備しないかぎり現われないものだからだ。
 この「詩人たちがいなくなってしまってから」というところに、このシャンソンの核心がよく現われているように思う。「詩人」というものの核心も、ここにあるのだろう。
「いなくなってしまってから」、たとえば写真を現像して、だんだんと現われて確認されてくる映像のようななにかが「詩人」なのであって、天皇の諡(おくりな)ではないが、どこか、本人が去っていった後であること、絶対的に死後であること、本質が消滅した後であること…、欠くことのできない属性として、そういったところがどうしようもなくあるような気がする。
ある人が「詩人」だとした場合、その人は、もうそこにはいない。もう去っていってしまっている。かつて肉体を持ち、考えや心を持ってこの世に生き、確かにペンを執って書いたのだろうけれど、もういない、探したところでもう会えず、決定的に失われてしまっている。
もういないのだ、というこの感じ、〈もういなさ〉とでもいうべき著しい特性、これにたっぷり浸されていない「詩人」など、ありえない。絶望的に、いつも後からふり返って、遅れてきた気づきの取り返しようもなさの中で、「ああ、あの人は詩人だったのだ…」と思う。「詩人」というのは、こんな強烈、鮮烈な過去性、喪失感そのもの中に浮き上がる、曖昧なようでいて、ずいぶんとはっきりした影のようなものなのではないか。


そうして、「詩人」という、遠ざかり続けるそういう不在の一点につながり続けて、なおも、街に、「ちまた」に、「流れ続けている」歌や言葉が、「詩」なのだ。
図書館やどこかの古本屋の片隅や、あるいは大学の研究室などにご大層にしまわれているのではなく、…と付け加えたくもなるが、そう考えるのは正しくないだろう。「詩」の領域では、そういった場所も街や「ちまた」の一部にすぎない。差別化を図って箔をつけようとしたり、文化的価値をうんぬんしようとしても、「詩」というものほど「文化」に馴染まないものはない。なにかの近代的な政治形態や社会形態を支える思想の網で掬おうにも、必ずすり抜けてしまうのが「詩」なのだ。そんなもので掬えるのは、せいぜいが「詩」の〈文化干し〉のような部分だろう。
「詩」においては、作者の名などもどうでもいいのだし、口ずさむ人びとは、「ときどき言葉をかえたり、文をかえたり、歌詞が思いつかなくなったりすると、ララララララララララ、ララララララ、とやってみたり」してもいい。こういったいい加減さを平気で受け入れるものが「詩」であって、一字一句もゆるがせにしてはならぬ―という方向に流れはじめると、「詩」らしさは一気に衰弱する。こういうところにも、「詩」の重要な特徴があるように感じる。可変性というか、受容のさまざまな条件にやすやすと合わせてしまえる曖昧さというか。


「わかい娘たちも、青年たちも、ブルジョワたちも、芸術家たちも、宿なしたちさえも」というふうに、つねに万人向きの言葉であろうとするところも「詩」の重要な姿勢だが、「かれらの軽い魂、かれらの歌に、愉しまされたり、かなしまされたりする」というところにも大事な性質が垣間見られているような気がする。
 それは、理知を逃れる、理知に対してはずいぶんツレナイ、ということだ。
 もちろん、言葉がわかる、意味がつかめる、ということ自体、理知的作業には違いないので、どこまでいっても「詩」は理知の領域にあるにはちがいないが、しかし、分析や学問などの理知の働かせ方に対しては、つねに、すり抜けていく身振りをし、誘惑的でもある。理知を居どころとしながら、その理知に対し、いつもイヤイヤをする、すねる、ごねる、わがままを言う、…これが「詩」で、「詩」がこれ以外の姿態をさらす時には、絶対に嘘をついているか、猫をかぶっている。


しかし、それは理知に対してであって、心に対してはちがう。
心とはなんだろうか。
「どこかの水辺で、春、プレーヤー」をかけて、ぼーっと昔の歌を聴いていたり、アリスとその姉のように、春の木に寄って本を読んでいたり夢想していたりする人の中に、奇跡のように現われ、ひととき動めくような、そんななにものかだろうか。
知にも理性にも作れないような独特の空間、それを、意識のなかに作りだすなにか…


唐突なようだが、曾晳のことが思い浮かぶ。政治を任されたらどうするか、と孔子に問われた時、他の弟子たちと違う答え方をしたあの曾晳、曾参の父のことだ。「どこかの水辺で、春、…」というところからの連想だろうが、『論語』巻第六先進第十一の二十六、例の有名な「莫春春服既に成り…」の箇所である。

点(曾晳)よ、爾は如何。瑟を鼓くこと希(や)み、鏗爾として瑟を舎(お)きて作(た)ち、対(こた)えて曰わく、三子者の撰に異なり。子の曰わく、何ぞ痛まんや、亦た各々其の志しを言うなり。曰わく、莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人を得て、沂に浴し、舞雩に風して、詠じて帰らん。夫子喟然として歎じて曰わく、吾れは点に与せん。**
(點爾如何、鼓瑟希、鏗爾舎瑟而作、対曰、異乎三子者之撰、子曰、何痛乎、亦各其志也、曰、莫春者春服既成、得冠者五六人童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而帰、夫子喟然歎曰、吾與點点也。

「点、おまえはどうかね」。点は瑟を弾くのをやめ、それをカタッと置いて立ち、お答えした。「いままでの三人のような立派な考えとは違うのですが…」。先生は「気にすることはない。それぞれ、自分の思うところを述べるまでのことだ」とおっしゃった。そこで、点はお答えして言った。「春の終わり頃、春着もできましたら、五六人の青年と六七人の子供をともなって行って、沂水で水浴びをし、雨乞いを舞う台地に涼んで、そうして、歌いながら帰ってこようと思うのです」。あゝ、と先生は感嘆して言われた。「わたしは点に賛成するね」。

 心と「詩」がすっかり一緒になり、理知と知恵の権化の前で、全幅の承認を得た瞬間であろう。
 こう言って韜晦に見えるならば、やはり、「詩」も心も難しい地点に追い詰められているということになるのだろう。「ララララララララララ、ララララララ」と、「あまり気にせずに」乗り越えるべき、あるいは、持ちこたえるべき地点かもしれない。
少なくとも、曾晳は知っていたし、孔子もよくわかっていたのである。







*フランス語の原詞は次の通り。なお、Youtubeにあるシャルル・トレネ自身の歌唱映像リンクを参考に付しておく。

L'âme des poètes (Charle Trenet)

Longtemps, longtemps, longtemps  
Après que les poètes ont disparu  
Leurs chansons courent encore dans les rues  
La foule les chante un peu distraite  
En ignorant le nom de l'auteur  
Sans savoir pour qui battait leur coeur  
Parfois on change un mot, une phrase  
Et quand on est à court d'idées  
On fait la la la la la la  
La la la la la la
Longtemps, longtemps, longtemps  
Après que les poètes ont disparu  
Leurs chansons courent encore dans les rues  
Un jour, peut-être, bien après moi  
Un jour on chantera  
Cet air pour bercer un chagrin  
Ou quelque heureux destin  
Fera-t-il vivre un vieux mendiant  
Ou dormir un enfant  
Ou, quelque part au bord de l'eau  
Au printemps sur un phono
Longtemps, longtemps, longtemps  
Après que les poètes ont disparu  
Leur âme lére court encore dans les rues
Leur âme lére, c'est leurs chansons   
Qui rendent gais, qui rendent tristes  
Filles et garçons  
Bourgeois, artistes  
Ou vagabonds.





**金谷治訳注『論語』(岩波文庫)より引用。現代語訳には手を加えてある。






2012年3月12日月曜日

賜(し)や、始めて與(とも)に詩を言うべきのみ





 『書経』のうちの『舜典』には「詩言志」、詩は志を言う、とある。抒情を言う、とも、新味を言う、とも書いていない。
 現代の詩を狭いものに落とし込もうとする偏見に対しては、これをぶつけておけば十分だろう。現代には現代の「詩」の展開があっていいわけだが、「詩」という字を使う以上、どのような近現代詩よりも古い『書経』にある意味を無視してかかるわけにはいかない。
『書経』とならぶ重要な古典としては、詩そのものである『詩経』もある。孔子の学塾では『書経』とともに重要な教科書であったという。「経」の字が付けられるようになったのは宋以後のことで、孔子の時代には、ただ「詩」と呼んでいたらしい。中国各地の民間に伝わる詩歌を311編集めたもので、これらこそが「詩」だった。
『論語』の為政第二の二にこのような言葉が伝わっている。

子曰く、詩三百、一言にして以て之を蔽えば、曰く、思い邪なし。
(子曰。詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。)

「思い邪なし」というのは、『詩経』魯頌の駉篇の一句という。孔子はこれを引いて、『詩経』約三百編の性質を評した。詩の本質をここに見ていた、ということだろう。『舜典』の定義をあわせれば、邪な思いのない志の表現こそが詩である、となろうか。漢字で「詩」と呼ぶことを続けている日本では、「詩」のこうした部分の意味あいを押さえておくことは有益だろう。意味を狭めるためでなく、ともすれば狭くなりそうな定義やイメージを、必要に応じて広げ直すために有益なのである。

              ☆

『論語』の学而第一の十五を読みあわせると、孔子の捉えていた「詩」はさらに広がりを持ってくる。

   子貢曰く、貧しくして諂(へつら)うことなく、富みて嬌(おご)ること無きは、何如。子曰く、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて禮を好む者には若(し)かざるなり。子貢曰く、詩に云う、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如しとは、其れ斯れを謂うか。子曰く、賜や、始めて與(とも)に詩を言うべきのみ。諸(こ)れに往(おう)を告げて來(らい)を知る者なり。
(子貢曰、貧而無諂、富而無嬌、何如、子曰、可也、未若貧而楽道、富而好禮者也、子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂與、子曰、賜也、始可與言詩已矣、告諸往而知來者也。)

 いまの言葉で見直すと次のようになる。

〈子貢が言った。『貧乏でもへつらわず、富んでも驕らないというのはどうでしょうか』。先生は答えた。『いいことだ。しかし、それは、貧乏でも道を楽しみ、富んでいても禮を好むような者には及ばないね』。子貢が言った。『詩経に、切磋琢磨、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し、とありますが、このことでしょうか』。先生は言われた。『賜よ、きみとなら詩の話ができる。往路を教えただけで復路までわかってしまうのだからね』。〉

 詩の話ができる者として子貢が認められた瞬間が提示されている箇所である。子貢はここで、当時の詩のほぼ全てにあたる『詩経』について十分な知識を身につけていること、しかも、適切な連想と引用ができるだけの動的な知としてそれを身につけていることを示しているばかりか、展開されている話題と同構造の詩句を『詩経』から立ちどころに検索して記憶から引き出してこれるだけの構造的思考、すなわち象徴的思考の能力を示している。もちろん、状況への対処能力は言うまでもない。
 孔子による「詩」の定義として、もっとも興味深いものを表わしている箇所と見るべきであり、現代の「詩」の核心にもそのまま通じてくるものがここにはある。
子貢のこれらの能力を、次のように言い替えてみよう。
すなわち、過去の詩作品全般についての知識、「往路を教えただけで復路までわかってしまう」ような想起と引用を可能にしうるだけの絶えざる学習と復習、構造的思考力や象徴的思考力(これは、概念や表象の間の関係性を抽象し、その幾何学的ないし代数学的相似に敏感でありうる能力である)の養成、状況への対処能力など。
こうしてみれば、「詩」は数学であると定義したヴァレリーにも、彼の師のマラルメの詩法にも、また、マラルメの師にあたるポーやボードレールの詩法にも、容易に繋がっていくような認識が提示されていることになるだろう。

              ☆

 問題は、孔子や子貢の時代とは異なり、現代における「詩」の範囲と量は、『詩経』のそれをあまりに厖大に超え出て溢れ出てしまっていることであり、古今東西の全容を概観することさえ、まず不可能だという事態である。個別言語の特性のいちいちに密着したミクロな言語運用が「詩」の特徴である以上、翻訳による鑑賞では粗い意味の流れしか捉えられず、その点に厳密真摯であろうと努めれば、自国語ないしは、習得して慣れ親しんだ若干の外国語の中に閉じ籠もらざるをえなくなってくる。
そこで、しかたなしに、厳密さへの欲求を緩める必要も出てくるが、このあたりの調整が大きな必要事として加わってくるあたり、現代の「詩」の、不可能性そのものともいえるような困難さが、そのまま丸ごと条件として横たわっているのを感じざるを得ない。
 知り得ぬこと、視野に取り込め得ないこと、視野そのものの拡張の不可能性は、人間の精神にとっては、多くの場合、苦痛そのものを意味し、死さえも意味しかねないが、「詩」にとっては、その度合いは特に激しい。意識に入ってこない「詩」がある場合、入ってこない「詩」は、詩的意識にとっては欠けを意味し、死の部分となる。意識し得ないことによって、その「詩」の分だけ、意識は死んでいるのである。

              ☆

 これを「盲目」と言い換えてみると、 ギンズバーグの『吠える』に寄せたウィリアム・カーロス・ウィリアムズの序文が思い出される。

「わたしたちは盲目で、盲目のうちに最後まで盲目的な生活を送っている。詩人たちというものは呪われてはいるが盲目ではない。彼らは天使の目をもって、ものを眺めている」。

 ここで彼の言う「天使の目」とはなんだろうか。
人間が、いや、「わたしたち」が、――人間と「わたしたち」とはイコールではないだろうから――、「盲目で、盲目のうちに最後まで盲目的な生活を送っている」との認識を持つ、すなわち「呪われて」いる、そういう「詩人たち」が持つ「天使の目」とは?
 盲目という現状の自覚、そうした限界性の自覚の内在化、さらには盲目という限界性そのものの自我化。そうした構造ができあがったところから発せられる視線が「天使の目」であろうかと考えてみたくなるが、「詩人たちは呪われてはいるが盲目ではない」と言う以上、盲目を自我の属性とし終えた「詩人たち」はすでに「盲目ではない」という変貌が、ここには読み込まれている。しかも、『パターソン』という巨大な長編詩を制作したウィリアム・カーロス・ウィリアムズ自身にして、あえて、「わたしたちは盲目」と言い、「天使の目」を持つ「詩人たち」を「彼ら」と呼び続けている。
 詩的論理、いわば、「天使の」論理が、このわずかな中にも展開されている、そう見るべき箇所だが、まさに「賜や、始めて與(とも)に詩を言うべきのみ」と評されるべき箇所だろう。『詩経』の範囲をとほうもなく超えた壮大なスケールで、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは、「さあ、詩の話をしよう!」と誘っているのである。

     ()


☆『論語』の引用は金谷治訳注の岩波文庫より。しかし、現代語訳は宮崎市定『現代語訳 論語』(岩波現代文庫)、貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)などを参考にして、改変してある。

2012年3月6日火曜日

詩とはなんだろう



 詩とはなんだろう、という疑問が出やすいのはわかる。
どういうものが詩か、という疑問も。
真の詩とは…などという方向に考えが走り出しそうになる時の、あの思考の傾斜、ちょっとした古風な快感の伴っていなくもない、あのバランスの崩壊の一瞬も。
あんなものは詩ではない、などと断定する衝動に到っては、なおさら。


しかし、19世紀に急流になり出して20世紀の滝つぼに流れ込んだ詩の歴史がすでにあり、日本だけのごく短いスパンで見ても、戦後詩から現代詩への展開の歴史がある以上、
すべては詩である
答えは、そう出ている。
仮にある読者やある詩人に詩と見えなくても、社会的用途(多くは即時的コミュニケーション)を持たない書き物の一編は詩であり、社会的用途を持っている言葉の連なりでさえ、時には、詩であり得る。


この当然のことを、詩に深く関わってきたと自認する人たちが損なう場合がある。自分こそが詩の側におり、自分こそが正当な判定者、詩人、詩の通と思い込む人たちだ。ごく限られた視界、偏った好みにしか立脚できていないにもかかわらず。


すでに、詩の流れはあまりにも多岐に亘っているし、流れからの氾濫規模も広範囲に及んでいる。読み書きや理解といった言語活動に関わる知的・情動的・悟性的主体が、数秒以内に有機的連環性を生かしつつ使用できる意識領野というものはごく限られており、多少時間をかけて検索や参照をした場合に使用できる領野にしても、当然、限定された広がりに過ぎない。そのため、詩を読む場合にも書く場合にも、ある時点においては、興味や好み、価値の置き方などはどこかに偏らざるを得ない。
とりわけ、価値の置き方は、もともと行動のエネルギーを凝集し活用する際の装置だが、これはいつの間にか、それ以上の重要性を持つものであるかのように意識されていきやすい。書くためにこの装置を使い出したはずの作者が、それと知らずに、これに奉仕するようになってしまっていたりする。
他の分野でも同様のことが多いが、ことに詩に関する場合、判断主体はきわめて脆弱であり、そのありようや振舞いは絶えざる振幅の中にあって、その時点で手近にある刺激や印象の強いもの、あるいは、当面の実生活上の問題に関わる意識の揺れに対し安定的な作用をもたらす概念連合や価値論的記憶などが杖として採用されてしまうことが多い。


こうしたことを考えると、すべてが詩であるという観点と姿勢こそが、―真理というわけでもなく、主義というわけでもなしに―、作業仮説的にも仮説キャンプ的にも、やはり、最良のものとして採用され続けるべきだと思われる。


倒産した詩の小出版社のある社員のことが思い出される。*
自分では詩を書かず、仕事の必要上読みはするが、詩を好まず、詩人たちを尊重もしていなかった。名刺には、しかし、「詩人」という肩書きを印刷していた。じつは詩を書いていたのかと思い、尋ねると、やはり一編も書いたことはない、書くつもりもない、という。では、どうしてこんな肩書きを印刷したのかと聞くと、少し考えをまとめながら、こんなことを言った。
「だって、…まず、詩はパフォーマンスですよね。で、パフォーマンスとしての詩の世界では、今では、なんでもありですよね。いっぽう、頑張ってなにを書いたって、誰も読まないという現実がある。書かれ続ける詩にしても、内容はほとんど無いに等しい。内容があるように見えれば、それは逆に、社会的・世間的・通俗的な問題意識を扱っただけのことで、結局、詩としては無に等しい。詩人と自称すればおかしく思われたり嘲笑されるし、いろいろな意味あいで、ヘンな人間だと思われる。誰かのことを『詩人』『詩人さん』と呼べば、どこか常識から外れた人間ということだし、蔑称にも近い時もある。それにもかかわらず、詩人という言葉自体はしっかりとあり、芸術や美や超越的なものなどと繋がったところのある、それなりの含意や効果を持ち続けている。…だから僕は、あえて、なにも書かないし、興味もないけれども、詩人と自称することにしたんです」。
なるほど。
彼は、パフォーマンスとして、自分自身を現代詩の極みにしてしまうことを選んだのである。
「詩人」と名乗れば、人は、自分が抱いている詩人のイメージと照らし合わせて面白がったり、違和感を持ったりする。今どき、あえて「詩人」を自称してみるような人は、ユーモアのある堅苦しくない人に決まっているだろうから、その場も和むし、会話も弾む。彼自身は詩を書かないのだから、詩や詩人の属性である無や虚無ということも、看板に偽りなく表わし得ている。努力もせず、労力もかけずして、一場のちょっとした話題のネタになるような、手頃なパフォーマンスになり得ている。
「一場のネタにさえならない詩が多い中で、けっこう、イケテルでしょ?」 
そこまでは彼は言わなかったが、もう少し突っつけば、きっと言ったに違いない。


(終)






詩とはなにか、という方向に考えが向かう時、思い出されるのは彼のことだけではない。詳しくは述べないが、次のような人たちも同時に脳裏に蘇ってくる。

〈人1〉
 詩を読むことの好きな言語学者。西洋詩の歴史にもよく通じている。「韻律のないものを詩と呼ぶ人がいますが、詩は韻律です。ただ改行して分かち書きしてあるだけで、韻も踏んでおらず、各行の音節数もいい加減なものが詩であるはずはない」というのがこの人の自論。〈人2〉〈人3〉の詩作品など論外。

〈人2〉
 バブル期以後に書きはじめた80年代生れの詩人。詩人としての自覚と矜持が強い。日常語のように理解できる表現を嫌悪し、否定する。彼の詩では、単語はさまざまな分野の専門語を含むあらゆる日本語から採られ、第一行から日常的意味は破壊されている。日常会話、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどに見られるような用例を徹底的に外れた単語連結を作り出そうとする。抒情、物語性、人生問題や社会問題の導入は完全否定。語りが成立するのも極度に嫌う。次に出す〈人3〉の詩を「ただのゴミ」と評する。

〈人3〉
 日常語的に読める自由詩を好んで書く詩人。生活から取材されたテーマをわかりやすく提示し、いわゆる人生の喜怒哀楽をユーモアとあたたかみ、時にペーソスのある表現で描く。日本社会のどこでも無難に通用するような価値観やモラルを注意深く設定し、最大多数にアピールしやすい作品づくりを心がける。そのため、時流に乗って右往左往していると傍からは見えるが、本人はつねに市民、一般人、ふつうの人、さらには民衆の側に立っている気持ちでいる。津波や原発事故の際は被災者の側に立った苦しみや不便さを描き、そこから見た政府や行政批判もわずかに書き入れた。しかし、東電や政府への本質的な批判は避け、政治制度や日本社会全般についての批判的視野は持とうとしていない。〈人2〉の詩については、「まあ、いろいろな詩があっていいんでしょうから…」。

〈人4〉
 日本古典を好む詩の読者。自身では詩作品は書かないが、いわゆる「味わい」や人生論、仏教的趣味のある作品を評価する。「わけのわからない」詩を嫌い、そういうものに出会うと「モダニズムの模倣に過ぎない」として否定。しかし、モダニズムの文学史的研究を自分なりに行ったわけではなく、モダニズムの諸作品にも特徴にも通じているわけではない。〈人2〉の詩は絶対否定。〈人3〉の作品は詩と認めるが、「しかし、言葉に味わいがなく、内容的には、チープな情緒に頼った、ただの駄弁」。

〈人5〉
 公認会計士。芸術一般に興味があり、文芸鑑賞も好む。自分ではなにも書かないが、美的なもの全般に敏感な穏やかな紳士。理解のしやすい短歌、俳句から現代の詩まで好む。詩と言った場合、最も心の揺れるものは上田敏や堀口大学の訳詩、島崎藤村の詩など。仏教美術なども好きだが、〈人4〉と異なり、詩に仏教趣味が入るのは好まない。〈人3〉の詩を見せると、「読みやすいので、私たちシロウトにはわかりやすくていい。しかし、こういうのが詩なんですかねえ… 私にはあまり魅力があるとは見えなくって…」との評。他方、同時に見せたロセッティの訳詩にはいたく感銘を受ける。〈人2〉の詩については、「ハハ、なにが言いたいでしょうね…」のみ。

〈人6〉
 たまたま訳本に出会い、レイモン・クノーを好きになって、研究している大学院生。必要上、その前の時代のフランスの詩も読むが、基本的には詩には興味がなく、クノーのあのセンスやレトリックだけが好きらしい。日本の詩歌にも、どの国の小説にも、批評にも関心がないので、まったく読まない。クノーの詩について博士論文を準備中である。

〈人7〉
 北原白秋で修士論文を書いた女性研究者。白秋についても白秋の詩についてもよく知っており、白秋好きでもあるが、それ以後の詩歌については関心が全くない。宮沢賢治、中原中也、立原道造などにも無関心、無感動。白秋に近い萩原朔太郎の詩にさえ、「厭な感じ」しか持たない。この人からは白秋の肉声の自作朗読テープを頂いたが、敗戦の曲音放送なみの棒読みで、あまり面白いとは言えなかった。詩人の吉田文憲氏が御所望だったので、コピーもとらずに差し上げてしまったが…、やっぱり、惜しいとは思わない。

〈人8〉
 谷川俊太郎好きの女子学生。詩はあれに極まるというので、いろいろ聞いてみると、じつは谷川俊太郎の初期の詩を数編のみ、それも教科書に掲載されたものや教室で補足的に読まされた幾つかしか読んでいないのが判明した。現代詩の何人かの作品を見せると、ヘンな詩…と即座に拒否反応。近代の詩にも拒否反応。なぜ谷川俊太郎の数編の詩のみを好むという精神が発生するのか、との難問を提出された気になった。

〈人9〉
 無類の小説読みで、批評や文学論も好み、古今東西の文芸についてじつに良く知っている初老の語学教授。「詩は読みづらい」ので、あまり読まない。とはいいながら、バイロンの長編詩やミルトンなども原文で読んでしまっている。ボードレールからマラルメ、ヴァレリーなども仏語原文で。ゲーテは、すべてではないが、ドイツ語原文で。イタリア語ではレオパルディとダンテを。『神曲』は、小集団の原文読書会を続けていて、少しずつ読み進めている。エリオットも、ディラン・トマスも、アメリカの詩人たちも原文で通読済み。しかし、日本の現代詩は「なんだか、格が下がる気がして、ちゃんと読もうという気になれない」。どうせ読むなら、ということで、古い中国詩や日本の古い漢詩を読み下し文とともに鑑賞する。

〈人10〉
 著名な歌人。この人から「今どんなことに興味がある?」と聞かれ、「詩に…」と答えた際、即座に「あんな下らないもの、なんにもなりゃしない。止めて短歌だけしなさい」とおっしゃった。一理も二理もある言葉ではある。

 …まだまだ様々な人が浮かんでくるが、「詩とはなんだろう…」と思いめぐらす際には、どなたも貴重な証言者である