遅ればせながら、パレストリーナ没後400年を記念したタリス・スカラーズのローマ・ライヴコンサートDVD(Live in Rome Celebrating Palestrina’s 400th Anniversary The Tallis Scholars, Gimell、2004)を見て、彼らのパフォーマンスに接するのに相応しい鑑賞形態だと感じた。
彼らの歌唱は、CDでは何度も聴いている。
美しいのは言うまでもない。
しかし、CDだけで聴く場合、気分によっては乗れなくなる時があった。気晴らしのための音楽ではなく、心から魂に通じる部分を澄み通らし得るよう、静かに集中して聴くことをこちらに要求してくる音楽なので、鑑賞の途中で心の力や静けさが欠けると、進行していくパフォーマンスとこちらの意識の側のあいだに噛み合わなさが生じるのだ。音楽を聞く際、日常の些事や煩事が強く意識に蘇って気分を乱されることは多いが、タリス・スカラーズの歌唱はそういう心的な妨害の影響を被りやすい。
DVDの映像を見ながら聴いていると、CDだけで聴いている時よりもはるかに容易に、無理なく集中を保てるのがわかった。『スターバト・マーテル』他のパレストリーナの有名な曲やアレグリの曲を、これほど自然に深く聴けた気持ちになれたことはない。
パレストリーナ自身が聖歌隊員として、また楽長として活躍したサンタ・マリア・マッジョーレ教会内部の比類ない美しさや、撮影の見事さ、女性歌手たちのドレスの色の配色の妙などが、強い効果を生み出していることに疑いはない。しかし、理由はそれだけではないと思われた。
やはり、目を、まなざしを、視線を、美しく緻密に撮られた映像に委ねておけるがための効果なのだろう。見ることは、聴くことや感じること、嗅ぐことなどを損なうばかりとは言えない。適切な対象に適切な度合いでまなざしを委ねられれば、他の感覚の安定的な高レベルの能力発揮を可能にする。これらは、見ること以外の感官にも発生することで、日常のどの瞬間でも、繊細な感性でいられる時には、感官相互のこうした関わりあいや干渉の様子は知覚される。
感官というと、情報の受容のみの器官と思い間違いやすいが、表現器官でもあると見たほうがよいだろう。音楽を集中して聴きながら、演奏者やなんらかの映像を見たりするのは、聴くことで得られている感動や気づきなどを簡易に表現している場合もあり得る。見ることは、視野が捉えている世界の情報受容行為ではあるが、いっぽう、こちらからの精神の照射行為でもある。精神と呼んで曖昧に聞こえるならば、少なくとも、見方や認識の仕方の枠組みの照射行為であると言ってもよかろう。大げさにいえば、対世界態度の表出行為でもある。見ることは、つねに双方向性の運動を合わせ持つ行為であり、古来、多くの神秘主義が、見るということを、エネルギーや霊の照射手段として捉えてさえいる。
歌手たちの歌唱を、美しい教会の中で歌う彼らの映像を見ながら聴くと、このように、パレストリーナらの曲が非常に効果的にこちらの意識に入ってくる―、こういうことを実感したわけだが、これがおそらく、視覚の適切な扱いがなされた結果であろうと考えてみるうち、禅で勧められる半眼の難しさに思いが及んだ。
もともと寝落ちするのを嫌ったためなのだろうが、座禅の最中に目をすべて閉じるのはよくない、魔界に通じる、とされている。半分ほど瞼を開けたままにしておき、畳の少し向こうに視線を置いておくぐらいがよいとされる。見つめるのではなく、視線を放り出すのである。
四六時中この業をしている禅僧なら慣れていようが、一般の生活者にとっては、これがなかなか難しい。禅一般が難しいというようなものとは違い、瞼を半眼にし、さらに視線を適当なところに放り出しておくためには、目の周辺において、予想外に微妙で困難な力の入れ具合と緩め具合を要するという、ごく肉体的な困難さから来ている。
慣れないうちは、こうした半眼の維持のためだけでも、多大の注意力が費やされることになる。当然、半眼から覗かれる畳の目や縁などの景物に意識が向かい、すぐ、それらについて認識しようと意識は動きはじめるが、もちろん、それをも脱落させなければならない。座禅の大きな目的は、肉体と意識の自然で自動的な運動性を反省し直し、その上で、こうした自動的な認識の動きから自我の活動を外し、さらに自我なき純粋意識のみを自律展開させようとするところにあるので、半眼維持による瞼や視線の扱いに純身体的に手こずる経験をしてみること自体、貴重なものであるのは論を待たない。しかし、現実には、半眼でのこんな視線の扱いひとつも、なかなか乗り越えがたい困難としてあり続けるのが禅の現場といえる。
そもそも、自我を外したり、意識に備わる自動的な認識運動から意識核を剥がしたりするためなら、身体や精神に、意識をつよく集めるような一定の負荷を加えたほうが楽である。座禅よりは、秋の厖大な数の落葉を掃き集める作業のほうが効果的だし、高野山で行われてきたような山の上り下りの修行のほうがよい。職人がある作業に集中するような場合も効果的である。気を散らすと危ないほどのスピードで運転したり、単純なものから複雑なものまで含めてゲームに熱中することも効果がある。世の中の、多くの人が熱狂するような対象というのは、じつは、複数の感官を使用しつつ、精神の集中を容易に実現させるものや、自我の希薄化を可能にして純粋意識の活動を顕著にさせるものと決まっている。遊興というのは、誤解されやすいが、自我のルーティーン的活動からの逃避であり、いつも通りの決まった認識行為にすぐに取り掛かる意識活動パターンからの離脱であり、そうした表層的自我に対してフェイントをかけて、いっそう真と感じられる自我に会おうとする試みである。したがって、遊興とはすべて、媒介物による瞑想行為だともいえる。ニューエイジの強大な影響力を誇った霊的な師のひとりで、のちにオショーと改名したラージニーシは、踊ったり走ったり、あるいは日常の身体的活動すべてを含ませたダイナミック・メディテーションなるものを編み出したことがあるが、これも同種の目的に立つ方法だった。これは彼の独創ではない。もともと禅にある方法であるし、真言密教にもある。意識が飛ぶほどに身体をぐるぐると回転させ続けるグルジェフのダンス瞑想も有名だが、これも狙いは同じとみてよい。真言立川流ばかりか、インドの古い瞑想術は、セックスも瞑想手段としている。
ものに頼り、作業に頼り、身体を日常と異なる運動状態に置けば、瞑想は、じつは、このように容易に達成されるということなど、禅者たちは知り尽くしていた。ただ、彼らは、媒介物を用いた瞑想については、掃除や料理、農耕などの場で行い、座禅においては、媒介物なきより高度な方法を採ろうとしたのである。
座禅における半眼では、視線を放って畳を見ながらも通常の認識作業を意識に行わせないという微妙な方法をとることで、まず、意識が自動的にとろうとする通常の動きから逃げずにそれを反省しようとする。そうしながら、意識のそうした運動性部位から離れる試みをし、さらに、このような反省と試みをする主体である自我を浮き彫りにし、明瞭に枠づけし、それを丸ごと捨て去り、この上で、捨て去るメタ主体をも落とす、というところまで行こうとする。こうした一連の試みにおいて、座禅の際に放たれ続ける視線というのは、すでに「まなざし」ではなく、視野に入るものを見ていない空虚な視線であり、この場合の視線は瞑想を助ける杖や媒介物ではありえない。禅の実践における核心部分を象徴するものが、まさにここにある。
もちろん、「座る」ということ自体を媒介物とみなすべしとの見地もあろうが、私にはそうは思われない。禅者は立ったままでも禅をするであろうし、必要なら登った木にしがみついたままでも禅をするだろう。座るのは、その姿勢こそが、自我と意識という荷物の困難さをいちばんくっきりと突きつけて来やすいものだったからで、禅は、一見すると最もありふれて容易なようでありながら、実のところは最も困難な姿勢を採用したと見たほうがよい。
只管打座とはよく言ったもので、なにも考えないようにしつつ、悟ろうとせず、ただ座れ、座っていろ、と言われれば、否応なく、意識は逆に、あらゆる記憶や妄想や価値観の乱舞などの場となる。座る姿勢は、それらから気を逸らすための媒介物の役には立ってくれない。それらの乱舞の恰好の舞台となるのみだ。
禅が、このように、困難かつ微妙な厳しい行程の採用と設置を意図的に行ったことについては、私たちのように自我や意識の実践的研究において禅の外に身を置き続ける者にとって、つねに最高度の観察をし続ける価値がやはりあるといえる。
寺や修行場を外し、座禅の姿勢や時間を除き、瞑目せず、精神集中さえせずに、普通の生活人の日常の生活そのものの中で常時悟っていることができる方法が確立されねば、万人を瞬時に救いうる宗教的方法とは言えない。この火急の一点において、禅ばかりか、仏教全般、キリスト教、イスラム教、その他のあらゆる新興宗教は厳しく全否定されるべきであるが、それらの中に散在する古人の努力や知恵、企みの数々を逸するわけにはいかない。
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