2012年2月12日日曜日

「愛す」「愛している」など




 日常の言語表現がいかに慣用的なとりあえずの表象にすぎないとはいえ、現代日本語の「愛している」がどれほど滑稽でナンセンスかは論を待たないだろう。
 とても大事に思っている、とでも言うに留めておけばいいところをあえて「愛している」と言うのは、相手に性愛対象としての魅力ばかりか、生死や身体的限界をも超えた永遠の魅力を感じている、との含みを十分に持たせたいからに他ならないのだろうし、こと若い時期においては性欲の発動から(性を冷徹に見つめ続けた吉行淳之介は、性欲ばかりか愛なるものの強度など、溜まった精子量に比例するノボセにすぎないといった内容の話をどこかでしていたものだが…)そうした安手の「愛」の形而上学が発想されてしまうこともよくあることではあるのだから、この点についての理解もできないわけではないが、ワーグナー世界がつねに強度を以て展開されているのならともかく、さほどの熱情や自己犠牲が振り向けられているともいえない対象に向かって、当面の一度か数度の射精程度のさもしい逸楽と将来的な性愛的かつ慣れ合い的関係における安穏のために「愛している」と発話される場合、この表現は、羊頭狗肉も極まったといえるほど空虚で冷笑に満ちた形式に堕している、と、まずは見なしておくのが最低限理性的というものであろう。


 そもそも、古語に遡って見直した場合、誰もが知るように、「愛する」の大本にあった「愛す」の基本にあるのは、上から下へ、優位にあるものから下位にあるものへの好意や愛情、愛着という語義構造である。親から子へ、人間から動植物へ、事物へという高低差のある情を表わし、類似構造を持つ「あはれぶ」「かなしぶ」「うつくしぶ」などに通じることになる。
 もともと漢語の「愛」がサ変動詞になったものだが、漢語が日本語になっていく際には、漢籍系と仏教系のふたつの系統が存在していた。「愛」の場合、漢籍系ではプラスの意味を持ち、恵、親、寵、慕、好、仁などに通じる。しかし、これが仏教系ではマイナスの意味になる。十二因縁のひとつの「愛」であって、貪、執、染に通じる。悟りを妨げ、成仏の障害となるものが「愛」である。親が子を「愛す」場合でさえ、それは親を迷わせて、成仏できなくする要因として働く。『方丈記』で鴨長明が「今、さびしき住ひ、一間の庵、みづからこれを愛す」と書きながら、すぐに「仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、閑寂に著するも、さばかりなるべし」と追い書きしているのも、「愛す」という言葉の仏教系の語義に忠実だったからだろう。絶対に優先すべき仏道に照らせば、庵への愛など限定された一時の愛好にすぎず、これを手放す覚悟はむろんできている、そう言っておく必要を長明は感じていたのである。
 古文における「愛す」の多義性は、漢籍系と仏教系の二系統を一語で引き受けたところから来たというべきなのだろう。
 使用場面から見れば、「愛す」は具体的な事物に即しながらの感情の表現である場合が多かった。長明のように庵を「愛し」たり、有名な虫めずる姫君のように「この虫どもを朝夕べにあいし」たり、「六条殿をば愛しまうさせたへりけり」という『大鏡』における村上天皇の描写のように、子供を可愛がる時に使われたり、『徒然草』にあるように「家に蓮を植ゑて愛せし」と使われたりするのは、そうした例に当たる。『今昔物語集』には、「こよひ正しく女の彼のもとに行きて、二人臥して愛しつる顔よ」という用例があるが、これはまさに性愛を語っている箇所で、ここでは、抽象的精神的な「愛」ではなく、肉体的な「愛」にこそ焦点が当たっている。多少とも精神的、内的な「愛」を語るためには、古語では恋情表現として用いられる場合の「思ふ」を用いなければならない。「思ふ」は、愛情の誓いを下敷きにしているからである。
 とはいえ、『保元物語』の「八郎返す返す見て、わが弓勢の程ぞ愛しける」、『徒然草』の「誉れを愛するは、人の聞きを喜ぶなり」などを見ると、「愛す」の対象は、中世の使用例において、はやくも抽象的なものへ広がり始めている。一直線に来たわけでもなかろうが、こうした抽象化の流れが、可愛がったり、執したり、大事にしたり、慈しんだりするという意味合いにおける上下差の希薄化、さらにはその構造性の脱落を伴いつつ、近代以降の日本語の「愛する」を準備したとは言いうるだろう。


 現代の恋情表現の「愛している」を見る時、『今昔物語集』にあるような性行為への使用例が幾時代を飛び越えて生き伸びつつ、さらにそれを朧化していく日本特有の傾向が発揮されているような印象を受けるが、善良なる市民たちの健全なる家庭や巷においてあえて「愛している」とはっきり発話する人々は、もちろん、自分が口にする表現が、実のところは巧妙にソフィスティケートされた単なる性欲の主張に過ぎないとは認めたがらないであろう。自己犠牲の準備もある全的な受け入れ態勢のプレゼンテーションとしての「愛している」なのだと思い込みたい、信じ込ませたい、という邪欲がここにはあり、「大事に思っている」では洩れ落ちてしまう奇妙なセンチメンタリズムが、―もちろん、よりお好みならば、芸術的なまでの虚構化が、さらには形而上学的含意がここにはある。
「大事に思う」と「愛している」の間に存在するこの何か、この形而上学的含意は、現代日本の「愛」なるものを考える際には第一に考究すべきものだろう。いきなり「愛」から考え始めれば、間違う。「愛」から始めれば、「愛」という単語の発話行為に巧妙に仕掛けられている姦計に最初から取り込まれてしまうことになるし、刷り込みをされてしまう。なぜ「大事に思う」や「とても大事に思う」だけではいけないのか。そういう、いわば策略的な「愛」の発話行為やそれの許容への否定疑問から入っていかなければ、現代日本の「愛」は対象化することさえできない。
漢籍系や仏教系の意味を引き摺り、いろいろと展開されてきた語義の歴史を持つ日本語の「愛す」の直系の子孫たる「愛する」を、それにしても、なんとまあ非論理的に、軽々しく、ほとんど政治家の演説なみに意味をがらんどうにしながら用いたものか、と思ってしまう。恋情表現の場面では、せいぜいが「大事に思っているヨ」ぐらいの表現を採っておけばいいものを、なにをトチ狂ったか、「あなたを愛しています」などと真顔で言ったりするからいろいろなことがおかしくなるのであって、「大事に思っているヨ」とか「あなたを(とても)大事に思っています」ぐらいに言っておけば、よほど正確であろうし、「愛しています」に含まれている奇妙な形而上学性に触れないで済ませられるはずだ。


「愛している」や「愛す」についていろいろ考えさせられたのも、たまたま与謝蕪村のこんな一句を読んだからだった。おや、と思ったのである。

   二もとの梅に遅速を愛すかな

 蕪村らしからぬ、といっては失礼にあたろうが、「愛す」という言葉の使用に、少し驚かされたのだった。
 古文の現実の読書の現場では、「愛す」は、かわいがる、愛情を注ぐ、気に入る、好む、気にかける、執着する、などといった意味あいで読んでおけば、当座の役には立つことになっている。蕪村のこの句の場合、気に入る、好む、気にかける、などの意味あいを見ておけばいいのだろう。梅の花の、こちらが咲き、あちらが咲かず、といった開花の遅速のさまを、気に入っている、気にかけている、好んでいる、と洩らす蕪村の声を聞いておけばよい。
 むずかしいことはなにもないのだ。二もとのこの梅の遅速がいいんだよ、いいんだよなあ、という程度の気分を蕪村は言いたかっただけのことで、読者として、「愛す」という表現にそれ以上のこだわりを示すのは野暮というものであろう。句作というのは、日常口語でもよいが、古語以来のあらゆる言葉を用いてよい舞台であり、律の問題もあるから、ここでは「愛す」が採用されただけのことだったろう。
 江戸期の口語の個々のヴォキャブラリー実情に詳しくないので、あまり断定的なことは言えないものの、日々の実生活の中では、蕪村はそう年中「愛す」と口にしたわけではなかったに違いない。梅の花の開きの、こちらが早い、あちらが遅い、などの妙味を言う際には、「いいね」、「いい感じだ」、「好きだ」、「気に入る」などに類した表現を使い、まず、「愛す」などとは言わなかったのではないか。かりに日常でこれを用いれば、どこか調子が狂ってしまったはずだろう。言葉が通常の使用から離れて走り出し、ある種の形而上性のなかで思考せねばならなくなる。
 そういう言葉を、句作の舞台上という言語表現の演劇の場においてであれ、蕪村が使っている。これに驚かされ、面白く思ったのだ。
 梅の咲きぐあいの遅速という現実的かつ日常的なこと、しかしながら、生活そのものとは少し違う美の世界に通じていく物事、これに対して、いわば、ちょっと違和感の出る「愛す」を用いて、「いいね」、「いい感じだ」、「好きだ」というだけでは含意できないものを、あの蕪村にして、導入しようとしたのか、と思う。
 この蕪村の表現態度からそのまま現代の「愛している」の使用に飛べば、あたかも、現代日本人が、この表現の使用によって、生活そのものと接しつつも遊離した美的世界に「愛」を開き、その懸隔を維持しようとしているかにも思える。考え続ければきりもない文化論に入り込んでいくが、そうか、日本人は「愛している」と言うことで、独特の形而上学に支えられた虚構の詩幻の世界を、ともすれば心を鈍化させるばかりの日常と、本来は情も魅力もなにもない生理的いっぽうの性欲の衝動の上に、落ちてきてはまた叩き上げる紙風船さながら、たえず開こうとし続けたものでもあったか、と思い到らされもする。


 そういえば、こういう近代日本語の恋情表現の問題所在に敏感だった与謝野晶子は、中期から後期にかけ、いまから思えば早過ぎるともみえる六十四歳という死去の年に到るまで、「ラヴ」という表現を用いて、わかりやすいとはいえない作歌をときおり行い続けている。

その昔ラヴの流れし日の熱を水は思はず余りに冷えて (『瑠璃光』)

軽井沢昨日のラヴは朱に乾き藍むらさきす新らしき霾(よな) (『緑階春雨』)

  ラヴの路たとへて云へば沙弥達の麻のころもの荒き手ざわり(『草と月光』)

  ラヴの洲が投げられしごとあるに添ひ草の紅葉が染むる湖

  ラヴの上樹海曇れば何ごとぞ野焼のあとの蓬生と見ゆ         

ときおり、なにを歌おうとしているのかわからないような作歌をあえて続けても来た与謝野晶子のこれらの歌においては、「ラブ」なるものがLoveのことなのかどうかさえ決めづらい。
しかし、他の歌人たちと比べても格段に多くのエネルギーを割いて「愛」の周辺で作歌を行おうとしたこの特筆すべき巨才の歌人が、「愛」と書かずに「ラヴ」と表現することで、自分に起こっている恋情やそれ以上のひろがりを持つ心情の問題を捉え直そうとしていたことは確かだろう。これらの歌において、彼女が「愛」も「恋」も「恋愛」も「愛情」も採用せずに「ラヴ」と記し続けたことは、日本語の限界点に近代最大の歌人のひとりが彷徨わねばならなかった大事件であるはずだが、今の日本人はこのような大事件の余波の中で、浮薄にも水母のようにも、やすやすと「愛」を語り、能天気に「愛している」などと言い続けている。

  

0 件のコメント: