2012年7月17日火曜日

…で、どうするの、これから?

  ――みごと警察に分断支配された7月13日の抗議行動ののちに。




 13日の金曜日…というより、14日のフランス革命記念日の前夜祭にあたる7月13日の夕方、やはり永田町の路上のあちこちにいて、できるだけ各所を歩き、雰囲気を肌で感じ、耳で聞き、さまざまな人々の姿を目で見てまわった。雨にたたられた前週の6日と違い、多くの人出があって盛況だったが、それでも、大飯原発反再稼働+反原発デモとして首相官邸前で始まった抗議行動は、そろそろ停滞地点に近づいてきていると感じた。

警視庁によるデモの分断、車道へのはみ出し禁止措置は6日から顕著になっていたが、事前に知らせのあったように13日にはさらに徹底され、永田町に来た人たちは7つの大きな部分に誘導されて集められ、そこに留まってシュプレヒコールを叫んだり鳴り物をやったりしてください、というのが警視庁の指導だった。
 先週6日にこのありさまを見てガッカリし、13日は前もって警視庁から警備体制の事前発表もあったので、いまさら驚きもしないし、ガッカリもしない。各地の人数を目算で合わせると、ふたたび人が増え、盛り上がりが増しているのがはっきり感じられるので、むしろ、この緩やかな抗議行動の安定した漸増にこそ驚かされる。

 はじめて今日来たという人たちは、いくらかガッカリしたりショックを受けたりしていたらしい。警察の取り締まりは歴然たるもので、アルミだかジュラルミンだかの柵を並べて車道への侵入をあらかじめ阻止している光景を見せられると、自由が奪われている象徴的な光景のように見えて、ふだんは大人しいふつうの人々でも窮屈さを心に感じ、苛立ちを覚えてくるものだ。なんらかの行動を取らないまでも、各人がこの苛立ちを抱えて帰宅していくことになるので、野田政権への見えない悪感情は、じつは週ごとに効果的に増していくことになるともいえる。
考えようによっては、長期的視野に立った警視庁の巧妙な政権転覆工作であって、国民をいら立たせて、緊張を高まらせ、そうして選挙で一気に野田派の駆逐に向かわせようとの警察幹部の腹であろうか、そうならば、まことに心づよいことで、人間心理というものを読み込んだ上でのなかなか心憎い配慮だが…と、皮肉な見方のひとつもしたくなるような光景が、永田町や霞が関のあちこちに観察された。
 抗議行動への参加者が事故に遭わないように、怪我をしないように、との警視庁の配慮は微に入り細に入って完璧であり、ひとりひとりの警察官の動きは適切で、むしろ好意的に眺めることができる場合が多かった。これは皮肉でもなんでもないが、警察官たちは親切だし、言葉づかいもぞんざいではないし、大人数が押し寄せる花火大会に来たような印象さえ持たされる。しっかりとガードマンになってくれている、とさえいえる。若い警官たちの肌は夏の湿った暑さの中で健康的に日焼けし、ほとんど美しくさえある。汗を滲ませながら、参加者たちの質問やおしゃべりにも適切に付きあってくれるだけの度量もある好青年たちが多い。警視庁の戦略でもっとも巧みなのは、こうした好青年たちを前面に押し出して、抗議行動参加者の老若男女たちと接触させるということで、もちろん若い警察官が最前線に並ぶのは当然とはいえ、これが一般市民の個々の心に与える効果には大きなものがある。やはり、こうした若者たちをむやみに困らせる行動はしたくないと思うのがふつうなので、自然、乱暴な抗議行動は自己抑制されていくことになる。穿ち過ぎかもしれないが、いちいちの相手を見ながらの対応をしていくことに秀でた日本ならではの国民性を、警察が逆手にとって利用している手法、と理解できないでもない。
人々がじかに接する現場の警察官たちがこのように好印象である一方、全体として警視庁が布いている秩序維持体制が、首相官邸周辺からの人々の徹底した締め出し・分断・歩道への固定化である、という矛盾した様相が露骨になったのが、なにより13日の抗議行動風景だったといえよう。

抗議行動が停滞地点に近づいていると感じるのは、今後の方向性において、現実的にはたったひとつの進み方しか残されていないからである。
週を追うごとに巧妙に、緻密に、丁寧に、かつ、やさしく整備されていく警察の秩序維持体制を唯々諾々と受け入れ、夏祭りよろしく、指定されたところに大人しく集まり、並び、そうして、決められた2時間の間だけ、シュプレヒコールを叫んだり、太鼓など鳴り物をドンチャカやったり、田中康夫が配った白い風船をボーヨーと宙に浮かばせていたり、…主催者たちはこういう超平和的な路線を堅持していくつもりのようだし、多くの賢明かつ冷静な市民たちの殆どもこれを支持しているかのようで、老若男女、誰もが安全に参加できる意思表示の場所として、えんえんとこのやり方を続けていく。確かに、暴力や騒動や危険なことの大嫌いな普通の人々が参加できる抗議行動としては、これ以外の進み方は今の日本ではありえず、なかなかうまくハマッた行動となったという気がする。
これを毎週のようにえんえんと続けていくことで、全国の日本人たちの意識に抗議行動は刻まれ、来るべき総選挙でなんらかの成果を必ずや出すだろう、――こう望み、この路線を逸れないように注意深く進んでいくこと自体が、いまや、現在首相官邸周辺で発生している抗議行動の唯一のゴールなのである。

首相官邸周辺での金曜日の行動の枠がすでに作られ、それを外れる行動や主張は一切許されず、時間も守られねばならず、警察の指示通りに分断されねばならず、歩道に隔離されねばならない(フーコーが『狂気の歴史』で言った「囲い込み」を思い出す)という抗議行動の現状を、いったいどう評価し、どうみなしたらいいのだろう。
首相官邸周辺という場所と、金曜日という時間とは、抗議の行動そのものとともに、特定の団体や特定の主催者集団の支配を受けることの不可能な性質のものであるはずだが、それらに一定の枠がはめられ、それを外れる言動を行いかねない者たちが、暴力的であるとか、理性的でないとか、党派的であるとか、旧左翼的であるとか、あるいは単に騒動愛好者であるとか呼ばれて蔑まれ、忌避されなければならない事態が着々と出来上がっていきつつある先には、どんな日本の未来が待っているというのだろう。結局は、今までの戦後の欺瞞体質の日本の別バージョンが待ちうけているだけのことではないのか。非暴力、安全、摩擦を極力避ける…といった戦後日本お得意の技が現代的に再生産され、多少の増税にも福島の放射能にもTPP参加にもさほどの影響を受けないライフスタイルを確保できている中間層上層以上の生活レベル帯に主導権は握られ、そうした家庭の夫たちは、大企業の管理職やそこと密接に繋がった商売を展開している通信・広告・サービス業などを主たる収入場所としているがゆえに、本当に追い詰められている人々の言説はおのずとソフトに無視したり抹殺したりしていくという見慣れた構図があいもかわらず展開されていくだけのことではないのか。そんなことはないというのなら、どのような確証を提示してくれるというのか。

現在の首相官邸周辺での抗議行動に価値がありうるとすれば、長期的にみて日本人の反原発意識を広め、定着させていくのに益するだろうという一点と、遠からぬ総選挙において民主党崩壊を招来する動因となりうるだろうというもう一点においてのみである。それ以外の点では、すでに創造性を失ったルーティーンにはやくも陥っており、「とにかくも、一応反対だけは表明しておいた…」的な、自分の良心に照らして自らの「政治行動」に日頃から負い目を抱いて方途を見つけられないでいる善良なる市民たちの自己満足の場になってしまっている。もし、これらの点について自覚的でない人々が今たくさん集まっており、今後もたくさん集まり続けるのならば、この抗議行動は、現政権にとって願ってもない巨大なガス抜きの場となり、不平不満をどんどん吸いこんでくれるブラックホールの役を果たすことになろう。少しでもリアルに考えればわかりきったことだが、野田政権と関係省庁は、抗議行動に集まる人々の願いや意見や主張など一切聞き入れるつもりもないし、「声は届いている、聞こえている」とだけ言っておけばいいだろうと端から踏んでいる。抗議行動もデモも、なにひとつ現実的な新局面を拓くことはなく、ありえず、人々はただ毎週、平和で理性的で行儀のいい、警察を困らせない歩行や立ちんぼや発声や音響効果のために、ご苦労にも毎金曜日に首相官邸のほうへ出向き続けるだけのことになるはずである。

経産省前では、マイクを使って大音響で批判したり悪態をついたりしていて、ほとんど、かつて元気だった頃の右翼の諸君の姿を彷彿とさせたが、唯一、いくらかは効果がありうるかと思われたのはこの抗議の仕方だけだった。これは明らかに嫌がらせであり、音響を用いての建物内部の人々に対する妨害で、おそらく遠からぬうちに警察によって規制が入るだろうが、最低限、この程度のことをして初めて抗議と呼べる行動になるはずのものだろう。相手が理性的に議論に応じたり、それにもとづく措置や行動をしてくれるのならば、このような嫌がらせは要らない。そうでなく、アドルノ言うところの道具的理性、効率的に一人でも多くのユダヤ人をきれいに殺傷するための工程発案や作業維持などにのみ優秀な能力を発揮する型の理性だけを持つ姑息な卑劣な連中を相手にしているからこその、現在の抗議活動の発生なのであり、そうである以上、とるべき手段に変更を加えていかないと、現在進行中の抗議活動は、抗議のひとつの型のみを維持するだけでよしとする、日本お得意の形式主義にすぐにも堕していってしまうだろう。そうでなくとも、全世界的に、デモや抗議活動マニアや愛好者とよぶべき人々が多数存在しており、彼らは結局のところ、問題そのものの解決より、集まって騒ぎ続けるというだけのことに満足感のツボを持っている人種なのである。

…で、これからは?これからどうするの?
抗議行動のイニシアティブをとり、統括し、維持し、支えていこうとしている人々、また、理性的に、素直に、おりこうにそれに従っていこうとする人々に聞き続けたい。
で、どうするの?これから?
まるで、末期ガンの患者に、特効薬をそのうち作るから待っていてくれ、とでも言っているかのような措置ではないか。
一時も忘れてならないのは、福島原発事故とその後の対応において、はかりしれない巨大な暴力が揮われたのであり、それによって関東、東北、甲信越では末期的な自然環境が出現してしまっている。怠惰、無視、口止め、助成金減額・停止などによるコントロール、陰に陽に続けられる既得権益死守行為などによって、なおも大がかりに揮われ続けているこの社会的構造的暴力の排除に、政府も、学者も、地方行政も、産業界も失敗し去ったからこそ、ついに組織に属さない個人が蠢きはじめたのではなかったか。首相官邸周辺の抗議行動は、こうした個人たちの動きが集団的な様相を帯びはじめた初期のもののひとつということになろうが、少しでも集団化しはじめるや否や、たちまち、政府や警察がこれを飼い馴らしはじめ、エネルギーを散らしはじめたというのが、現在、目の前に見ている光景なのである。

で、どうするの?これから?
口ではなんとでも青写真を語るかもしれないが、戦後の日本の歴史の中で見せられてきたあらゆる社会的抵抗行動の光景に共通するヘタレ、寄らば大樹の陰、経済優先、弱者切り捨てを受け継ぐ動きのみが、必ず主流となっていくだろう。
絶望するわけでもなく、諦めるわけでもないが、ここはそういう国なのだ、という認識は曇りなく持っている必要がある。絶対に理想的な民主主義など根づかず、国民はあっちこっちの流行に靡き、投票率はやはり上がらず、諦めのいい、チープな諦念に秀でた国民性が結局は勝利するだけの悠久の煉獄なのである。

で、どうするの?これから?
じつはいつのまにか、問題の核心は、個人個人の意識と思考と行動の中で展開されるべき思想的問題に転位してしまっている。個人である「私」が、あなたが、あの人が、あの人たちが、どう個人として、どのような思想や主義を継ぎ接ぎし、ブリコラージュしながら、この泥沼と密林の中で生き延びていくか。いくつか目につく主流派の数々のいずれもが偏向しており、おかしいと見えるとすれば、この「私」は、密林や泥沼の中で、もはや長期的な生命の見通しなど持ちようもなしに、今日や明日を、自分の「魂」をどうにか救い留めながら生き伸びるだけのハグレ者であり、恥かしげもなく古風なヒロイズムに酔って楽観的に呼んでみれば、いくらかは、ゲリラのようなものと言えないこともないのかもしれない。本隊はとうの昔に全滅し、まだ死なないでいる自分ひとりが、偶然のように、未だにここにおり、空と土地の間に動いている。どこかで出会う別の個人が友になりうるかもしれない。やはり、敵かもしれない。主流派の傀儡や工作員かもしれない…
ここまで考えて覚悟をしておけば、いかなる行動も、逆に軽々と採れることになる。人間だの、ヒューマン・ビーイングだの、いろいろ言うが、生れてしまった者たちには、どちらに転ぼうとも、しょせん、落ちつく先は死しかない。この世で経験したすべて、感触、喜怒哀楽、思い、考え、感動も業績も、人間関係も、記憶さえも、なにひとつ、火葬場の火を超えて行くことはできない。今日やるべきことは、今日の空を見、今日の風に吹かれ、今日の水を咽喉に感じ、今日の汗を拭うことしかない。今日の身のまわりの自然の動き、様相を感取し、今日の自分の心身をそのまま受け入れて、時間に融合させていくことしかない。他の生はどこにもなく、社会変革や社会への希望を抱くことなどのすべてが妄想に過ぎない。
あらゆる社会参加的なもの、あらゆる人間関係称揚的なものの遺棄しか、正しい道としては残されていないことになろう。心の底の底まで、意識の隅々まで、非社会的、非人間的な者へと、たったひとりで成り変わっていくべき時が、おそらく、すべての個人に来ている…



0 件のコメント: