2012年7月6日金曜日

アルディ、「水に描く輪」、「波紋」、「水切り」、長尾高弘さん、「女」性の怖さ…



女神なんてなれないまま私は生きる。
(『新世紀エヴァンゲリオン』
オープニング曲『残酷な天使のテーゼ』)



フランソワーズ・アルディの1968年の歌《Faire des ronds dans l'eau》は、これまで『水の中の環』というタイトルで訳され、親しまれてきた。それを『水に描く輪』とし、内容もかなり変更して訳してみた。最後の部分には原詩にない連もくわえて、翻案を行った。*
 ウィリアム・ブレイクの翻訳者でもある詩人の長尾高弘さんから、すぐに次のようなメールが来た。正しい把握と長尾さんのはっきりした考えが披歴されている内容なので、私信ではあるが、一部を引用させていただく。

〈今日の訳詩、Faire des ronds dans l'eau というのは何かなということを私も考えました。
駿河さんは、指や棒で描くとも水面に描く波紋とも書かれていましたが、やはり石をぽこんと投げると波紋が立って同心円状になる、あれなんじゃないかと思いました。
水に石を投げて遊ぶというのはきわめて内向的な感じの行為ですが、その内向的な行為が逆に人々に波紋を呼んでいく。
他人に見せることを意識したスタントプレーではなく、自分に忠実に投げた言葉の方が人を動かすと言いたいのではないかということです。
言っている相手は、既成の政治家で、石を投げるのは自分たちの側(水でなく、警官隊などに投げていた訳ですけど)。しかし政治家にも自分たちと同じ原点があったのではないかと言っている。
つまらぬ読みかもしれませんが、フランス五月革命を意識した歌であれば、かなり明確な意図があると思います。
そして、糾弾している相手にも、もとはこっちにいたんだろ、という言葉を投げかけることに詩があるとも思います〉。

正しい理解だと思う。フランス語でもfaire des ronds dans leauというのは「水面に波紋を描く、波紋をつくる」という意味で用いられる。語学的にも、男の子や少年の行動についての常識的な理解においても、長尾さんの言う通りだと思う。ただ、石を投げて波紋を作るだけでなく、棒や枝で水を突っついたり、掻きまわしたりという動作も、やはり含めておいてよいだろう。
翻案する時には、いろいろなやり方が考えられ、迷ったものだった。ひとつのテキストにまとめざるをえないので、結局、男の子が小川で水に(指や棒や木の枝で)輪を描くというイメージを採ることにした。そうしたのは、このイメージに、どういう意味かはっきりしないところが最後まで残るからで、いわば、このイメージの意味作用の曖昧さ、わからなさを維持したいと思ったためだった。

             *

曖昧さの残るこうしたイメージを残そうとしたのは、ヨハネ福音書8章にあるイエスの行為が心にかかっていたからでもあった。姦通した女を裁くよう、律法学者やファリサイ派たちがイエスに言う場面である。まったく違う話に飛ぶようだが、聖書のこの場面でイエスが指で地面になにかを書く姿は、私の中では、アルディの歌の「水に輪を描く」イメージのすぐ隣に位置している。大幅に話がずれるのを承知で、聖書のこの箇所を見直しておきたい。

《イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」》(新共同訳)

イエスはいったい、地面になにを書いたのか。砂や土や石の上に、後が残るかたちで文字を書いたのか。絵か。記号か。それとも、固い地面に、文字も絵も記号も残らないような条件下で書いたのか。
イエスが書いた内容を誰かが読んだという記述がないので、見えないものをイエスは書いていたのではないか、と思われる。
このイエスの姿、このイメージは、新約聖書の中でも最も好きで気になる箇所のひとつだが、私の連想の中では、ここから、アルディの「水に輪を描く」イメージへとすぐに連動していくことになり、そのために訳文も、いくらかそれに近づいたものとした。偏愛するイメージからそれに類似したイメージへの連鎖を作りたかったということだろう。勝手といえば、勝手なものである。
ここでイエスが書いていたものはなにか。謎である、というシンプルな解釈(というか、解釈放棄)も多い。しかし、当時のローマ総督による刑の判決文が、原告側と被告側の面前で書かれたのを前提とすれば、律法学者たちがローマの権力を悪用してイエスを陥れようとしたこの場面では、イエスは総督の所作を模して、イエスならではの赦しの判決文を書いたのだ、という解釈もある。989年頃のアルメニア写本によれば、「イエス自身が地面に屈みこんで、彼らの罪を書き連ねていた。彼らは、自分の罪が石に書かれているのを見た」とあり、ぐっと鮮明な描写となる。「彼らの罪」とは、姦通した女をイエス告訴の道具にしようとしたことでもあろうが、イエスが人間ひとりひとりの人間的霊的な全過去と全意識を見通せる能力を持っていた以上、今生ばかりか、あらゆる転生輪廻をふくめての期間の中で、これまで彼らが犯してきた罪のすべてを、ということにもなるかもしれない。
アルディのポップスの歌詞を考えたり訳したりするのに、聖書中の問題個所まで考えなければならないいわれはないので、イエスの行為に触れ続けるのは、このあたりでやめておこう。

             *

さて、アルディの歌のほうに戻るが、もう少しはっきりしたイメージで、男の子が一般的にやりそうな行為をもっと反映させた解釈を採るならば、小川に石を投げたり、石で水切りをやってみたり、棒でさざ波を立ててみたり、という動作を元にして意味をとったり、訳したりしてみるのがいいのだろう。そうすると、タイトルをズバリ『波紋』としたり、『水の輪』としたりして、次のような翻案ができる。
ただ、イメージを水切りに限ってしまうのは、やはりふさわしくないだろう。フランス語では、水切りはfaire des ricochetsをふつうは用いる。映画『アメリ』の場合にも、アメリが好きなことのひとつだった、パリのサン=マルタン運河での水切りのことを、《faire des ricochets sur le canal Saint-Martin》と表現していた。



小川のそばではじまった
あなたの人生

川のさざめきで育ったのよね

葦のあいだを流れ
道を上っていき
雑木林を抜けていく
さざめき

風車のはねや
正午の鐘の音も
微笑んでいた

小鳥の歌声も
はっきり
聞こえていて

遊んでいたわね
あなた
小川を棒で掻きまわしたり
石を投げたり
水切りしたりして
波紋をつくりながら

いまは もっと
騒がしい水の中を
さまよっている
あなた         
熱を入れ
揺れ動いて

でも 愛は、どこ?

野望には野望の掟
野望は宗教みたいなもの
望んでいるのよね
あなた
自分の声で
喧騒を治めてやろう、って

愛されたいのね
みんなに
ちょっとした
ヒーローみたいに

水に波紋を作って
楽しんだり
水切りで
波紋を
次々きれいに
作れるはずの人なのに
あなた


いるわね
確かに
背後からあなたのことを
見ていてくれる人たち
たくさん

でも
考えておいて
あなた
川に石を投げたり
水切りをしたりしたら
みんなに思われるかもしれない、って
バカじゃないか、こいつは
村きっての
バカ者だったんだな
こいつ、って

そうしたら
だれが残るかしら
あなたに

あなたが
水面に波紋を作りたい時
いっしょにいて
あなたを見続けるのは
だれ?
できていく波紋を見るのは
だれ?

次々と
波紋を作りたいような時

あなたと


 こんな翻案があってもいいし、こちらのほうが現実的だろう。波紋とか、小川への石投げとか、水切りなどをはっきり出してきたからといって、意味の広がりが減ってしまうというわけでもない。この翻案も、手製のべつのバージョンとしてとっておくことにしよう。

 付記しておけば、原詩の「Tu voudrais que l'on t'aime / Un peu comme un héros / Mais qui saurait quand même / Faire des ronds dans l'eau」のところに、「saurait」という条件法現在が使用されているが、ここがポイントでもある。「あなたは人々に愛されたいんでしょうね。ちょっとヒーローみたいに。それでもやっぱり、状況次第ではfaire des ronds dans l'eauができる人、やれる人、それをするすべを知っている人。(そうじゃない人とはぜんぜん違うのよ、あなたは)」というわけで、場合によってはこの行為をすることができる、その能力がある、すべを知っている」と書かれている。そうなると、棒で小川を突っついたり掻きまわしたり、石を小川に投げる程度のことはだれでもできるから、それ以上のことだろうか、ならば、やはり、水切りがうまい、というようなことだろうか、と、またもや考えさせられる。
 もちろん、水切りのような技術的なものが要求される遊びができる、できない、ということだけでなく、水や、水面にできる波紋をひとりで楽しむことが「できる」という意味あいも考えられるわけで、そうなると、棒で水を掻きまわしたり、石を小川に投げるような動作も、やはり含まれてくることになる。

             *


長尾高弘さんのメールを冒頭に引用したが、そこに表われた彼の考えについても、もう少し見ておきたい。
長尾さんは、
「水に石を投げて遊ぶというのはきわめて内向的な感じの行為ですが、その内向的な行為が逆に人々に波紋を呼んでいく。
他人に見せることを意識したスタントプレーではなく、自分に忠実に投げた言葉の方が人を動かすと言いたいのではないかということです」
こう言っているが、含意の深い美しいことを、短く、うまく言っている。私は、かならずしも、「水に石を投げて遊ぶ」ことが「内向的な感じの行為」とは思わないが、少なくとも、対象が他人ではないことや、ましてや、先に見た聖書の記述のように石打ちの刑の対象となった人間でもないのだから、社会的な行為や、社会的な効果を意図しての行為でないのは確かなところだろう。
それが「逆に人々に波紋を呼んでいく」と考えられているところが、独特とか独自とかいうのでなく、正確な理解であり、正しい思考だ、と私には思える。「他人に見せることを意識したスタントプレーではなく」と続くところから、長尾さんが、言語などによる表象表現を特に念頭において語っているのは明白で、日頃、詩人として、社会や歴史の現在の中でどういう言葉を紡ぐべきかを考え続けている人ならでは、と感じる。「スタントプレー」の言葉ばかりに辟易し、「他人に見せることを意識した」行為者たちばかりの世間で、そういう人々の隙間にできる空間から、たとえば「雲」を追おうとしたり(「ぼくは雲が好きなんだ… 過ぎていく雲、ほら、あそこ、あそこにも… すばらしい雲!J’aime les nuages...les nuages qui passent...là-bas...les merveilleux nuages !」:ボードレール『奇妙な人L’étrangerin『パリの憂鬱』)、あるいは空の紺碧の青さに魂を繋ごうとしたり(「私はとり憑かれている。青!青!青!青!Je suis hanté.L’Azur! L’Azur! L’Azur! L’Azur!」:マラルメ『紺碧の青L’Azur!』)、あるいはさまざまな意味での「海」との出会いを希求したり(「海に出逢えるという望みとともに、いつもToujours avec l’espoir de rencontrer la mer」:マラルメ『不運Le Guignon』)している私たちの心に繋がるものでもある。
「自分に忠実に投げた言葉の方が人を動かす」という表現は、アルディの歌の歌詞の意味を考えながら、途中で、通りすがりに、ついでに、自分の主張を正面からあからさまに述べ立てるといったかたちをとらずに、脇から、偶然のようにフッと出たものだが、この表現が私には嬉しいし、メールというかたちの中に並べられた長尾さんの言葉が、ひょいと取った詩、志、…の姿勢(…ここで、私は、詩、という語に括弧をつけない、…)に、打たれるようでもあり、爽やかな覚悟にこちらも澄んだ水を浴びたようであり、快かった。
自分に忠実に言葉を発する、言葉を投げる…、と言ってみるのは、さらにいえば、祈りのようなものだろう。私たちは、「自分に忠実」とはどういうことか、じつは、誰も知らない地点にいるからだ。

            *

 アルディの歌について、もうひとこと言っておきたい。
 恐ろしい歌、ということだ。
 女性であるこの語り手は、どうやら、「あなた」を幼い時からよく知っていて、見続けてきていて、「あなた」がどうあるべきか、「あなた」の本質はどうなのか、世間の人々が「あなた」を離れていくような時でさえ、自分は傍らにいて、水切りで描かれる波紋を「あなた」とともに見続けると言いたげなのだが、この語り手はいったい誰だろう。どのような女だろう。しかも、「でも、愛は、どこ?」などと、鋭い質問さえ「あなた」に向けるのだが、基本的に高所に立って「あなた」を透視的に見るこのスタンス、この自らの優位への疑いのなさ。
 この歌を、端的に、女というものの恐ろしさや根源的な支配欲を如実に表現している歌としても見ておきたい気持ちが、私にはある。「野望には野望の掟」があるなら、女にとっての最大の野望である「愛」、女がそれとなく差し出し、やがてごり押ししてくる「愛」なるものにも、やはり「掟」があるのだ。「母性」と安易に呼ばれてしまいがちな去勢装置に敏感でない人間なら見落とすかもしれないが、世間の政治空間どころでない、より根源的な「政治」が、アルディのこの歌の中には網を広げている。男の子が、もっと「騒がしい水の中」をさまようのを望むのは、こうした「女」性、「母」性から逃走を図ってのことかもしれない。
 こういう視点、思い込みに立って自分を見続ける女、―それが母であれ、姉であれ、幼馴染の親しい女であれ―、そういう女には断じて見えない、理解できない領域を、精神の自由を求める男の子たちは拓こうとするだろう。ある人々にはそれは政治空間かもしれないし、ある人々には戦争空間かもしれない(「戦争がなくなったら、私はどうやって生きていけばいいのだ!」と叫んだらしいパットンのことが思い出される…)。サドのような文学者には、それは文学空間であったかもしれないし、ケン・ラッセル**のような映像家には、映像空間がそれであったかもしれない。もちろんイエスには、それは聖霊空間であっただろう。
 詩がそれである、という人物がいてもおかしくないわけだ。



                  
()
*水に描く輪 [先に行った翻案]



小川のほとりではじまった
あなたの人生

川のさざめきで育ったのよね

葦のあいだを流れ
道を上っていき
雑木林を抜けていく
さざめき

風車のはねや
正午の鐘の音も
微笑んでいた

小鳥の歌声も
はっきり
聞こえていて

遊んでいたわね
あなた
水に輪を描いて


いまは もっと
騒がしい水の中を
さまよっている
あなた
熱を入れ
揺れ動いて

でも 愛は、どこ?

野望には野望の掟
野望は宗教みたいなもの
望んでいるのよね
あなた
自分の声で
喧騒を治めてやろう、って

愛されたいのね
みんなに
ちょっとした
ヒーローみたいに

水に輪を
描けるはずの人なのに
あなた


いるわね
確かに
背後からあなたのことを
見ていてくれる人たち
たくさん

でも
考えておいて
あなた
水に
輪を描いたりしたら
みんな思うかもしれない、って
バカじゃないか、こいつは
村きっての
バカ者だったんだな
こいつ、って

そうしたら
だれが残るかしら
あなたに

あなたが
水に
輪を描きたい時
いっしょに
いて
あなたを見続けるのは
だれ?

水に輪を
描きたい時

あなたと



**Youtubeの《An ode to Ken Russell》は見事にケン・ラッセルの精神を凝縮してくれている。おお、昨年逝去されたわが師よ!


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