2012年7月23日月曜日

土屋文明の「赤電話して知る関係なき菓子店に」



 土屋文明の歌には長いこと関心がなかった。つまらないものの極北に位置する歌のように捉えていたきらいがある。
       
 (ほそ)より尾根を横行き冬野の道教へし娘を上村老人覚えてゐる(「続青南集」)
  
知事筆を揮ひて家持の歌碑を立てり泥を飛ばしてトラック往反す

  巣のはたに羽根試みる燕の子別れををしむは人間の我が妻(「自流泉」)

 文明の名を隠して歌人たちに見せれば、きっと拙い歌と判定されよう。心の動きに通じる表現がなく、歌のありようはごつごつとして美しくない。言葉の選択にも、繋げ具合にも工夫の余地がいくらもありそうだ。
 しかし、久しぶりに多くの近現代短歌を集中して読むうち、さすがに食傷ぎみになったところで新鮮に感じられたのは、なによりも土屋文明のこうした短歌だった。
 故郷や歌仲間を訪ねての旅行詠が多いので、おのずと挨拶を兼ねた歌となることが多いうえ、地名や地方独特のものの名も頻繁に詠み込まれる。多くの歌人ならば、第三者である読み手がわかりやすいようにと最低限の配慮をして、作歌に到った状況が理解しやすいような角度をつけるとか、なにかしら説明の役割をするような工夫を加えるとか、固有名詞を使い過ぎないといった措置を施す。文明は違う。彼の作歌の場面に立ち会ったのでない限り、なかなかわかりづらいような情景の切り取り方で、ぶっきらぼうに歌い始め、歌い終える。読み手の多くは、うんざりするほど短歌の韻律に浸っているだろうから、自分の歌でまで、わかりきった韻律を今さらながらご丁寧に踏襲するまでもあるまい、といった趣でもある。言葉の生硬さはそのまま、仮名のやわらかさを生かそうなどといった配慮もなく、思いついた言葉をそのまま並べて、よりよい用語選択をしようなどという気も感じさせない。
 もちろん、文明がこのように考えて作歌したかはわからないが、作品からはそう見える。繊細な言葉づかいを旨として、微妙な幽玄の世界を紡ぎ出す歌人たちとは、あきらかに違う場所にいる。
 こうした文明の作風は、短歌の魅力に惹かれ始めた若者や、いわゆるポエジーを求めて詩歌に接する人々にとって、そうわかりやすいものとは言えまい。詩や歌を求めずに短歌形式を履行し続けるというところに、文明の真骨頂はある。だいたい三十一音程度の容量に収めるべく、漢字や仮名を並べていけば、短歌の姿などできる。それでよかろう。五七五七七の韻律にしても、どの読み手の意識の中にも深い澱を成していて、ふつふつと醗酵しているはずなのだから、新たに作られていく文明の短歌がわざわざ律儀にそれを纏い続ける必要はない。そのうえ、どのような言葉であれ、言葉はすべて、そもそも架空の器、絵空事、この世ならぬ何ものかではないか。それで十分ではないか。というより、それだからこそ、そこからいかに詩や歌を排除するかが重要となる。もともと詩歌そのものである言葉を、言葉ならぬ次元での生存を強いられている我々のものに、いかに堕とすか、いかに鍛えるか。言葉ばかりではない。思いや感慨というものも、もし注意しなければ、いかに安易に詩や歌に流れやすいか。言葉も思念も、けっして甘えさせてはならぬ理由は、たしかに存在するのである。詩歌に対する根本的な疑いという点で、明治二十三年に生まれて東京帝大の哲学科心理学専攻を卒えた土屋文明と、明治三十二年生まれのフランシス・ポンジュの戦前戦後の歩みとに、大枠での類縁性を感じてしまうのは誤りだろうか。
 
立ちかへり立ちかへりつつ恋ふれども見はてぬ大和大和しこほし(「続青南集」)
  
老あはれ若きもあはれあはれあはれ言葉のみこそ残りたりけれ

  富の小川佐保川に合ふところみゆ二川(ふたかは)静かに霧の中に合ふ
  
  年々に若葉にあそぶ日のありてその年々の藤なみの花

  (もち)()の月はいでむと水の音の静けき山の下をてらしぬ (「自流泉」)

  ゆふがほの葉下(はした)にのびて(おぼ)(つか)な豆の花には露のしたたる

 もちろん、『アララギ』の最後の巨人として、こうした歌も交じる。万葉の音韻に連なる大きな息吹に、子規の新鮮さも流れ込んで、心地よいいい歌である。初期より文明に顕著な、詩歌ではどうにもならぬ生活や人生の困難や不如意への視点を芯とした次のような歌にも、多く、よいものがある。

  (ひん)(きゆう)(わか)ち読むべく悟り得しも(とも)しき我が一生(ひとよ)なりしため(「自流泉」)

  消極に消極になるを貧の(なら)はしと(いや)みながら命すぎむとす(「青南集」)

  人を(にく)み人をしりぞけし()(かた)もおぼろになればまぬがるるらむ

  続き来る集り来る不仕合の中に立つを見て居るのみの我等なりけり  

農に堪へぬからだなりしを長らへて伝へ聞く農の友多く亡し

  ふらふらと出でて来りし一生(ひとよ)にてふらふらと帰りたくなることあり

  生みし母もはぐくみし伯母も賢からず我が一生恋ふる愚かな二人
  母に打たるる幼き我を抱へ逃げし祖母も賢きにはあらざりき

  乳足らぬ母に生れて祖母の作る糊に育ちき乏しおろかし

寺を出でて冬の日しづかに歩みゆく(ねた)みも無けむ生きてゐることは(「続青南集」)
 
 文明はたびたび山上憶良に立ち返って歌っており、憶良の思想や態度に多大の共感を抱いていた。貧しく弱い立場の者たちの実生活を思う憶良の心に、わが身を以て同調していく姿勢が見える。自らも豊かでなかったように歌っているが、帝大を出て教職にあった文明が貧窮者そのものであったわけもなく、あくまで官人であった憶良と、その点でもいくらかは重なるものがあったかもしれない。ともあれ、あくまで貧の側に身を寄せつつ作られるこうした歌に、ひとりの歌人としての文明の特徴があるのは論を待たない。
 しかしながら、ここまでの歌風ならば、土屋文明はふつうの歌人に留まる。まるで、無頓着な〝踏みはずし〟(モーリス・ブランショの評論集の題名を思い出しつつ、発語しておきたいような気もする)を重ねていくように、独特の表現上の手触りを求めつつ、あるいは、あれやこれの、詩歌らしいなにものかの手触りを微細に避けつつ、この二十一世紀の言語表現に荒れ野を指し示すがごとき先達として、彼はこのように化粧直しをして立ち現れるのである。

  国ノ守山上ノ憶良綿すくなき衾思ほゆ時すぎし海水の宿     (「青南集」)

  テグスに代るナイロンも上等は惜しむといふ(あかね)さす夕凪(ゆふなぎ)の海に向ひて

  葵藿(きかく)(あふひ)ははたしてフユアフヒなりや否や苗を収めて来む春に見む  

  葵藿の葵をヒマハリとする博士等がまだ絶えないのも仕方がない

  船ゆかずなりたる水は(たて)(かは)も横川もなべて浮く木の溜め場

  この河岸(かし)に力つくしてあげし飼料或る時は(わら)在る時は甘藷(かんしよ)澱粉(でんぷん)(かす)

  木綿(もめん)織らずなりし真岡の町出でて田圃(たんぼ)には()(なほ)しが歩いてゐる

  過ぎし人々いかにか山の(うみ)に上り来しして明治四十二年左千夫先生(「続青南集」)

  下り立ちて川見る時に(おうな)来て橋の上よりごみを投げ込む

  時雨(しぐれ)()七尾(ななを)の海に能登島に乗らむ船待つ牛乳を飲みて

  病なく灯炉に臭き(わづら)ひなくうつらうつらに椅子(いす)にまどろむ

  原爆をまぬがれし()()(へい)亡きことも赤電話して知る関係なき菓子店に

「原爆」の語を用いた詩文に、しかもこの短さで、これほど想像だにしない世界へと突きやられたことは、私にはない。「与茂平」や「赤電話」と付き合わされては、「原爆」にとっても意想外の迷惑だっただろう。しかも、「関係なき菓子店」に到っては、「原爆」にまったく呑み込まれてしまわない、強烈な事態の出現が起こったというべきである。原爆を「まぬがれし」与茂平なのに、その彼が「亡きこと」、そのこと「も」、という連なりの憎いまでのひねり具合が、したたかなどというのでは足りない土屋文明の歌境を滲み出させる。続く「赤電話して知る関係なき菓子店に」という下の句には、たゞたゞ馬鹿正直に驚愕を露わにしておくのが、おそらくは礼に適った態度というものであろう。
 文明が一九九〇年に百歳で長逝してからというもの、短歌は、善良なる律儀な韻律短歌に戻ってしまったのではないか、あまりに安易な〝詩〟の摘み取りに堕したのではないか、そう訝しく思える時がある。文明が拓いた微妙な〝踏み外し〟の小径には、ふたたび雑草が生い茂ってしまっていて、すっかり見失われてしまっているのではないか。
 雑草の中にこの小径を探るのならば、おそらくは食傷することもないのだろう。もちろんこの小径は、文明から始まったものではなく、遅くとも南宋の時代の陸游の頃、すでに、はっきりと認識されていた詩の道のひとつだった。「俗人猶愛するは未だ詩と為さず」と、陸游の『朝飢えて子聿に示す』にはある。人間と同じく、愛される詩歌など、つまらない。先人たちが高度に風通しをよくしておいてくれたはずの詩や歌という概念を、ちまちました喜怒哀楽で埋めようとするのも、いい加減にしておいたほうがいいだろう。



三国玲子、「何か呼ぶけはひ」



              花毎に黒蝶何か告げてをり薔薇園に小さき乱おこるべし
                                                                         富小路禎子




 歌人の三国玲子は、昭和六十二年八月五日早朝に飛び降り自殺を遂げた。入院中の病院六階の非常階段の窓からだったという。

何か呼ぶけはひと見れば水芭蕉ひとつ寂びたる帆を掲げゐし

 この歌人の自殺を知らぬままに、どこかでこの歌を目にして読んでいた。いい歌だと思い、心惹かれてきた。死について、あるいは耳にしていたかもしれないが、一九八七年頃、私の周囲にはもっと身近な死が溢れていた。事故死も自殺も多かった。そうした知らせの中に紛れてしまった可能性がある。女流というものに格別の関心もなかった。避けていたのではなく、女性たちが女流ということを持ち上げ、それを楯にして議論は勇ましく、うるさくさえあった。女歌の再考にしても女流の新たな展開にしても、女性たちに任せておく他なかった。
 遺歌集『翡翠のひかり』(昭和六十三年)にあるこの歌を詠んでから自死するまで、三国玲子がどれくらいの時間を生き延びたのか、わからない。死への歩み寄りを読みとろうと思えば読めなくはない歌ではある。しかし、「寂びたる帆」を掲げている「水芭蕉」は、荒涼な心境の中でふたたび力を得ていく表象にも思える。来るべき作者の死によって、読解を偏らせてしまっていい歌ではない。
 死への傾斜ということでは、むしろ、ひとつ前の歌集『鏡壁』(昭和六十一年)のほうにこそ色濃い歌が見出される。

   ノブ引けば全き闇なるわが住処浄めの塩はみづからに振る

   一揺れして昇降機止まりぬこの中に柩が立つてゐるかも知れず

   わが鬱を払へとばかり高鳴るや遠世ながらの駅鈴ふたつ

   すぐそこに「死」が見えてゐし夜は去りてバラの切口火に燻しをり

 生活の其処此処に口を開けている暗いもの、底知れぬ恐ろしさなどを引き受けて、これらの歌は重い魅力を凝縮させている。薄闇のなかを伸びていく古い廊下の艶を見せられるように感じる。死への傾斜、死への歩み寄り、そんなふうにひとくちに言って済むものではない。生の只中にあることに目を凝らしていけば、こういう境域はだれも避けえないはずである。死、衰微、滅び。格段の深みと充実を意識と表現にもたらすこの境域には、独特の闇黒があり、静寂があり、寒さがあり、孤独がある。何によっても支えられずに、ひとりでその中に立っていなければならない時がある。人によっては、其処でわずかにバランスを崩す。そうして肉体が損なわれることもある。世間ではこれを自殺と呼ぶのだが、もちろん、大げさに受けとめるべきではない。その人が行おうとしていた凝視のしかたに注意を向け続けるのが、残された者の常の課題である。
 自殺した芸術家の作品に触れつつ、ともすれば、自ら死を選ぶ人の徴を探そうと見入ってしまうことがある。だが、ある人が生の最期を自死で締めくくったからといって、先立つ長い歳月の中のカードの一枚一枚が、そうした結末に向けて切られていたわけではない。自死の決断は突然、脈絡なく来たかもしれず、そうであれば、あらゆる作品は、自死の影の及ばない日向で見つめられ直さなければならない。
 それでも猶、死の選択や覚悟を嗅ぎつけようとしてしまっているとすれば、知らず知らず探ろうとかかっているのは、あらかじめ表われうる自死一般の兆候であるに違いない。本当に知ろうとしているのは、作者の死の秘密などではないだろう。未だ生の側にあると安んじているこちらの自死の可能性をこそ、他人の死で計ろうとしているのではあるまいか。
 大正十三年生まれの三国玲子は、中城ふみ子が登場した昭和二十九年に第一歌集『空を指す枝』を刊行している。青春時代を戦争と戦後の時代によって乱された世代に属している。働く女性の生を一貫して問い続けた女流歌人、と概観されることが多い。
 
   働きて更に学ばむ鋭心にて吾は帰り来つ東京に来つ

   遂げざれば直ちに死する烈しさを遠き世のごと読み憧れき
 
   手触れつつ眠らむ胸のふくらみのかなし何時の日に燃ゆる心ぞ

   うつくしく人は結ばれゆくものを裁ちあやまちし吾は湯に来つ

 第一歌集の中のこれらの歌には、快い一途さこそ見出されるものの、死への傾きなどというものはない。一途さというものの危うさ、などと知ったふうなことをすぐ口にするのはどうかと思う。性格の傾向のひとつひとつは、人生の出来事をじかに招来するものではない。
一途さといっても、ここに見られるそれは闇雲に突き進むようなたぐいのものではない。これらの歌には、まっすぐに進んでいこうとする心を阻むものが詠み込まれている。一途なのは「憧れ」だけで、現実の自分は一途には進めないのが痛感されている。妨げとなっているのは、おそらく、生活の現実であったのだろう。ひとりの文学者の本質は、生活の現実にではなく、その人の「憧れ」のほうに存する場合が多く、現実という舞台に展開できない「憧れ」を大きく抱えざるをえない人の作品こそが成長していく可能性を秘めているものだが、三国玲子の場合、こうした可能性は、結晶度の高い整った歌として表われるばかりでなく、字余りの顕著な、甚だしく韻律の乱れた歌として露呈してくることがあった。

   苺の匂する紅溶きてゐる明るくならむ優しくならむ君の言ふやうに

すでに第一歌集にこんな歌が見られるが、それ以降の歌集にも次のような歌が見られる。

  フォークダンスの輪は眼下(まなした)に動きそむ若くあらば楽しきや今若くあらば
(『蓮歩』昭和五十三年)

  その毒を知らずその快を知らずニコチアナ・トメントシフォルミスの淡紅の花
(『晨の雪』昭和五十八年)

韻律にすんなりと合わせて幾らも詠える作者が、なめらかに読み過ごさせない歌をあえて作る時には、短歌から生活の側へと、生きるためのぎりぎりの糧のようなものを引き摺り出すような作歌をしているものだ。生を歌にするのではなく、歌を生にする。音ひとつ立てずに、韻律をたっぷりと壊しながら、ひとつの歌から次の瞬間の命を汲み出すような生き延び方というものもある。
こういう人が愛に向かっていく時、次のような歌が生まれる。

   めぐりあはむ一人のために明日ありと紅き木の実のイヤリング買ふ

   あざやかな乳首と思ひつつ着替へしぬ鋭き女と言はれ来し夜を

ただ一人の束縛を待つと書きしより雲の分布は日々に美し

   怠け者の手と何時も呼ぶ君の手の中に眠らんその夜をば待つ
(『花前線』昭和四十年)

 整った韻律の中に、「雲の分布」などという「鋭き」表現がことの他美しく収まって、奇跡的な一首となった。作者自身の感情と思想と生活の整いの奇跡が、ここには、そのまま刻印されている。
「めぐりあはむ一人のために」や、「ただ一人の束縛を待つ」といった表白は美しく、胸を衝かれる思いがする。しかし、危うい。純粋と呼ばねばならないだろうか。幼い、と言ってやることこそ必要ではないのか。愛についてのこうした見方の行く末は、恐ろしく感じられてならない。人間の体も、心も、「めぐりあはむ一人のために」など出来ていない。「ただ一人の束縛を待つ」心身は、それまでに他の複数の体と心を経なければならないこともあろう。三国玲子は、こんなところに未来の自死を準備していたか、などと思いたくもなる。
もちろん、間違った愚かな勘ぐりというべきだろう。「ただ一人の束縛を待つ」という表現の背後には、あるいは、誰とでも容易に蕩けていこうとする心身への認識があるのかもしれない。自己の意志で人工的な境界線を作ろうとしているのではないか。
このあたりに、男性的とも言えそうな決然とした感情の整理を感じる。誰もが当然のように三国玲子を女流とみなし、彼女の歌を「女」の歌と見るのだが、他の多くの女流と同じように、三国の作歌の方法は、くっきりと線引きをし、境界を定め、生の手ごたえを得ようとするものとみえる。これは「男」のやり方ではないのか。「めぐりあはむ一人のために明日ありと紅き木の実のイヤリング買ふ」といった対象確定、決意、行動は、遠い昔、「男」に求められてきた様式をなぞっているように感じる。戦後の新しい時代に「女」であろうとし、それを詠おうとするのは、遠い「男」になっていこうとすることではなかったか。「女」として生きようとするのは、そのまま、避けようもなく「女」でなくなっていくことであったのを、愛をめぐる三国玲子の歌は証明しているのではないか。
 それらに比べて、次のような歌になると、ふいに三国玲子の「女」は戻ってくる。

   ボーボワールの声鋭けれわれは生きてつひに日本をいづる日なけむ
(『噴水時計』昭和四十五年)

『第二の性』の作家の名が出てきているからではない。「鋭」い声の「ボーボワール」は、ここではじつは「男」の位置を担っている。女性の状況を認識し、告発し、女性の権利の代表者のひとりのようになった「ボーボワール」は、そうなったことによって「女」ではなくなっているのだ。この歌は、「われは生きてつひに日本をいづる日なけむ」によってこそ「女」を取り戻している。これは一見、限界の認識とも、方途のなさとも、諦観とも受け取れる表現だが、古来、優れて「女」の性質に満ちていた「日本」を「いづる日なけむ」と表白した時、二十世紀の女権論より遥かに深刻な「女」の発見に、おそらく三国は近づいていた。現在の自分の居場所を出ない、出るまい、そう決意するほど強い生というものはないが、ここにこそ「女」と呼ばれる生がありうる。この歌では、まだ認識は両義的だったとも見えるが、後年、次のような歌で、フォークランド紛争の際のマーガレット・サッチャーを断罪し捨て去った彼女は、確実に深い「女」の認識の道を辿っていっていたと言うべきだろう。

   画面より「鉄の女」の声ひびき東のわれの今日のをののき
(『鏡壁』昭和六十一年)

   妻にして母にして一国を負ふ者が撃て撃て撃てと叫びて止まず
  
「ボーボワール」やサッチャーのような「女」のあり方、あるいは「女」の捨て方に背を向けて、古代や自然を見つめるようになっていった三国の内的な歩みが健やかなものでなかったとは、思われない。

   雨ながら稚き緋桃の照るところ(すゑ)のをみなの立つにあらぬか
(『鏡壁』昭和六十一年)

   黒暗のそこひに沈む大歩危(おおぼけ)の湍ちを恋へどただに過ぎたり

   たぐりゆく古代はいよよ解きがたし夜空仄かにしろがねの富士
(『翡翠のひかり』昭和六十三年)
  
 彼女の心にはこうした歌が並んでいくのであり、はじめに引いた歌、


何か呼ぶけはひと見れば水芭蕉ひとつ寂びたる帆を掲げゐし
(『翡翠のひかり』昭和六十三年)

 これも、この流れの中に作られていったものだった。いずれの歌にも、居合わせた場所の「何か呼ぶけはひ」に対して、丁寧に、ちょっとのショックも生まないように、そっと答えようとする心が染み渡っている。自然のひとつであるべき自らの肉体を、病院六階の非常階段の窓から眼下のテニスコートにやみくもに叩きつけうる人の歌ではない。
ちょっとしたバランスの崩れの結果の、たまたまの自死。そう見なしておくべき理由というものは、三国玲子の自殺の場合にはやはりある、そう私には思える。あるいは、非常階段の窓の外からの「何か呼ぶけはひ」を感じ、それに答えたものか。律儀なまでに敏感な、やさしい自死であったかもしれないと想像するのは過ぎるか。
富小路禎子は、この三国玲子の死に際して、このような歌を詠んだ。

 闇空の広きにのがれゆきし魂鳥に憑き花と化し命継ぎゆけ
(『吹雪の舞』平成五年)

 昭和二十四年に発足した女人短歌会の会員として、四十年には馬場あき子や大西民子らとともに月例研究会を開いていたふたりだったので、富小路禎子には、三国の魂が宙を飛んで突き刺さってきたかのようだったかもしれない。平安貴族の歌の家の末裔として、しかも、貴族の廃止された戦後の没落生活を正面から受け止めるという厳しい運命にがんじがらめにされて生き、詠ってきた富小路は、他の理由もあるとはいえ、とりわけ、この三国の死を契機として作風の大転回を遂げることになった。
「鳥に憑き花と化し命継ぎゆけ」というのは、三国玲子の歩みを正確に読みとっていなければ詠まれえない表現である。「女」など疾うに詠わなくなっていた三国の歌心を受けて、「鳥に憑き花と化し」としている。「闇空の広きにのがれゆきし魂」は、なるほど、暗く寂しい印象をもたらすかもしれない。しかし、この「闇空」は喪の悲しみなのではない。「何か呼ぶけはひ」に敏感になり、それへの目をいったん開いた者たちは、闇の重要性を知るようになるがために、進んで「闇空」のほうへ向かうようになる。肉体を持たない霊的な師たちは、重過ぎ、粗雑すぎるものとして光を忌むという話がインドにはある。光や明るさを称揚するばかりの鈍い感性の終焉していく地点に三国玲子は居り、富小路禎子はそれを正しく見定めていたというべきだろう。肉体の命が終わったり、太陽が矮星化してやがて消滅したりと、それぐらいでは揺るがぬ境位へと染み出ていった魂があったのである。



百済観音再訪


 ひさしぶりに法隆寺の百済観音を見て、しばらくなんの感動もなく立っていた。
十年ほど前、何度も足を運んだ時に眺め過ぎたのか、記憶を確かめるように、幾多の災害を経て肌の焼け落ちたような顔や、あの薄い胸や、手から指の一本一本への流れのぐあいなどを見る。新たな発見はまったくなかった。

つまらないわけはない。おおげさな言い方になろうが、音もなく消滅していくような死を決意するべく、奈良や飛鳥に通っていた時期があった。百済観音堂には、それが薄明かりのように消えないでいる。十年前、正面の壁のあたりで、あるいは像の左側のあたりで、訪れるたび、一時間余りも眺めていた。そういう自分の様が見えるし、その頃の時間が去らないでいる。あれから物事がどう動いたか、自分の心や思いがどう流れたか、観音像を見ることはそれらを辿ることでもある。自分にむかって立ち続け、見つめ続ける、それはいくらでもできそうだった。

感動というのではないが、しだいに、感触が来ていた。見ている、百済観音像がある、直面しており、他の時でなく、思い出しているのでなく、今にいる、今なのだ、という感触。見続け、十年前をやがて思いもせず、ものの移り行きなども追わず、ときどき場所を換え、姿勢を変え、戻り、傾き、立ち続けで、見ている。

なんという無表情だろう、と思う。

この観音に、かつてはいろいろな思いを醸成されたというのに、どうしたことか、あれほど豊かに多様なことを語りかけてきていたのが、いま、なにも言っていない。こちらの些細な思念の末節まで吸い出すように、無主張ばかりがある。
おそらく、幾らか、それにたじろぐようだったのだろう、それにしても、人は主張しすぎる、などと思った。つまらない思いだ。つまらないか。つまらないだろうか。みな、くだらぬことを見せつけて生きている。自分はあれだ、これだ、何々を持っている、こんな能力がある、そう示して安心を得ようとするのか、うるさいだけだ。この観音の顔から読むべきもの、ひいては仏教から学ぶべきもの、諸説うるさくいろいろと言うが、主張するな、生きていけ、死ね、というに尽きるのではないか。

ドゥルーズとガタリの『哲学とはなにか』の一節を思い出した。
哲学者は話し合いも議論も好まない。ちょっと話し合おうではないか、などと聞けば、哲学者ならみな逃げ出す。話し合いは仕事を進めはしない、みんな同じふうに話さないからだ。だれかがこんな意見を持っている、ああではなく、こう考えている、そんなことが哲学にとってなんだというのか、直面している問題が語られていないというのに。しかも、問題が語られる時、すでに議論などはどうでもよい、その問題のための文句ない概念を作ることが重要になるのだ。コミュニケーションは、いつも早過ぎるか、遅過ぎる。会話はいつも過多だ、創造ということに照らした場合。……
読書の思い出というのは、遠い昔に吹かれた気のする風のようだ。なにかを読んだとはどういうことだろう。永遠に離れることのできないうるわしい未解決が、吉野の遠山から空に流れていく桜花のように心に漂っている。自分はどこまで来たか、という問いはむなしい。自分なるものほど無数の断絶からなる風景はないからだ。こちらの自分のとりまとめを、世間というものは無理に迫る。しかし、とりまとめようもないのが自分ではないか。反省だの、自己紹介だの、プレゼンだのと、愚かなことだ。そんなことができないところにこそ自分はある。自分はいつもいちばん遠い。言及不能性こそが自分というもので、他に自分などというものはない。

百済観音堂の中にひとりで立ち続けていて、いつまでいるか、いつまでいようか、と思う。いつまでもいることが大事なのではなく、そう思いながら、時間と場所、自分、からだというもののありようの共時をどう受け止めようか、おそらく、そんなことを迷っているのだ。さまざまなものを巻き込んで廻る渦、それをそのままにしておくことを迷うという。迷いだけがいつも答えなのだ。

もう行こうと思う、行く。遠い自分が下す、不可思議な決断。わたしとはだれか。笑うべき問いだろうか。どうして、いつもこんな問いが浮かぶのか、百済観音をふたたび後にする、こんな時にさえも。結局、自分はなにもわかっていない、わからない、そう結論するのはいかにも賢そうだし、謙虚にも見えるが、誤っている。問いの浮かぶところに、問いとともにあるべきだ。もし自我というものがあるのなら、それは問いだろう。問い、迷い、言及不能性という自分。意識と非意識の宇宙のひろがりのなかで、かりにも中心の役を担ってくれるものは他にはない。

百済観音の安置されている部屋は、多くの仏像が陳列されているべつの部屋に続いていく。そちらへ向かうところで、もう一度、観音の顔をふり返る。Un visage semblable à tous les visages oubliés*.忘れられたすべての顔に似た、ひとつの顔。ポール・エリュアールのそんな詩句が浮かぶ。百済観音の顔がそんな顔だと、安易な結句をつけたいのではない。エリュアールの詩句が浮かび、自分はなにかを見ようとここを再訪したのかと思い、前世のような十年前を思い、十年の時間やものの流れを肌に感じる、それだけだ。

今日は、他の仏像を見ずに退出することにしよう。観音堂を出てしばらく行くと、見事だがあっけらかんとした姿の大きな松があり、べた塗りされたような緑の松葉をつけている。日本の景物には、なぜつまらない松が多いのかと昔はよく思った。つまらないのではない、よけいな思いを洗うためにそれらは配されている、そう思うようになったのはいつからか。祭りのふんどし姿の男たちの尻、風呂屋の富士山の絵。それらは、現代に蔓延する無用の感受性を洗うという点で一致している。主張するな、生きていけ、死ね。どれもが、じつは、明瞭にこう示しているのではないか。

法隆寺を出て、洒落っ気のない蕎麦屋にでも入ろうか。安普請のアルミサッシの扉を開けて、木目に汚れのつまったベニヤ椅子か、ビニール椅子にでも座って。

二〇〇〇年に『アナタノ ナクサレタ ムスコサン ダレ? ダレノコトデスカ?』**という詩を書いた。法隆寺にバスで来て、その車中、途中から乗り込んできた背の高い、象のように皺だらけの長い顔の老婆に席を譲ろうとし、断られたことがあった。立とうとする肩を、老婆の手で押しとどめられた。その際のことを、ありのままに書いた。フィクションではない。死んだ息子の墓に供えるのだと、花を持っていた。息子は八〇歳で亡くなったと言い、「まだ若いのに…」と嘆いた。老婆は、少なくとも九〇いくつ、百歳以上にも達していたのかもしれない。親よりも早く死んで、本当に親不孝者、あなたも元気でね、ずっとね、若くて死んではいけないよ、と言われた。老婆は、法隆寺の横の寺に向かい、こちらは法隆寺に入った。百済観音を見た時、ああ、あのおばあさん、と思った。もちろん、似ているところがあるという程度だったに違いない。しかし、死ぬつもりだった。老婆と観音のかすかな類似も、心に響いた。

忘れられたすべての顔に似た、ひとつの顔。そういう顔もあってよい。仏像の顔とは、そういうものだろう。その顔があり続けることによって、消えていったすべての顔が忘れられずにある。だから百済観音を再訪した、というわけではない。しかし、百済観音がそんな顔を持っている、それはそれでよかった。

あの時の老婆の年齢を思えば、今も元気で息子の墓参りをしているとは考えづらい。しかし、それがなんだろう。あなたも元気でね、ずっとね、若くて死んではいけないよ、と言われた。この言葉がそのまま残っている。いつか、あの老婆のように、象のように皺だらけの顔を持つに至った時、あなたも元気でね、ずっとね、若くて死んではいけないよ、と、自分より若いだれかに言う。かならず、言う。生き続ける意義はある。ただこれだけを言うためでも。他のことはなにもできなかった。あなたも元気でね、ずっとね、若くて死んではいけないよ。これだけはできる。これだけは伝える。


*Paul Eluard : Belle et ressemblante in LaVie immédiate(1932)
**『アナタノ ナクサレタ ムスコサン ダレ? ダレノコトデスカ?』(駿河昌樹詩葉『ぽ』2号、二〇〇〇年四月)

本居宣長とトマス・グレイ

――詩歌をつくる人にとって縁のない問題




「いったいこの男は、どんな手だてを尽くして、全一者でありたいという欲望を鎮めているのだろう。犠牲的精神か、順応主義か、ぺてんか、詩趣か、倫理か、粋人気取りか、ヒロイズムか、宗教か、反抗、虚栄、または金銭? 以上いくつかの組み合わせか、それとも全部いっしょくたにか? 悪意が、愁いに陰った微笑が、疲労の渋面が、束の間に輝き過(よ)ぎる人間のまばたき――自分が全一者でないということの驚き、それどころか、狭苦しい限界を持つということの驚きから私たちの味わうひそやかな苦痛が、そのまばたきのなかに露呈する。かくも公言をはばかる苦痛というものは、やがては内心の偽善へ、遠大にして仰々しい諸要求へと私たちを引きたててゆくのである」。
           ジョルジュ・バタイユ『内的体験』
           (出口裕弘訳、平凡社ライブラリー、一九九八)







 書く、書かない、なんのために書く、書いてなにになる。
 ――もうふたつ付け加えよう。
だれが読む、はたして読まれるのか。

詩歌をつくる人には、もちろん、どれも縁のない問題である。
書きたければ書けばいいので、「なんのために」などという問いは、書きたいという思いの中で、すでに解決を見ている。書きたいから書くまでのことなのに、「書いてなにになる」と問うのは、なんだか意地汚い。かっこわるい。余得を求めすぎている。もともと自分が書きたくて始めたはずのものに、「だれが読む、はたして読まれるのか」などと、いちゃもんをつけるのもどうかしている。行為そのもののうちに最大の価値があるのを、人間というのはいつも、忘れがちになる。
これらの問いは、いわば言いがかりというやつで、まじめに考えるには値しない。書くことの外部に価値や意義を求めたいというのなら、まず、そうした価値や意義にぴったりと目標を定めて、そこにちゃんと当たるようなものを書けばよい。他人に読まれたいならば、読まれるようなものはなにか、しっかりとマーケティングをして、そういうものを書けばいい。いずれも、詩歌には直接はかかわりのないことである。
詩歌を書くというのは、書きたいことを好き勝手に書くということで、それ以外のなにごとかではない。人生にかかわることを書いてもいいし、ナンセンスの迷宮をこしらえてもいい、言葉あそびをしてもいい。眉間に皺をよせてキリキリと憂国警世するのも、なんだか白けてつかみどころのないような感情をたらたら描くのも、自由詩のかたちで言葉を並べる上では、みな同等である。
外的ななにかに擦り寄ったり、従ったりということをしたら、もう詩歌ではなくなってしまう。人間というのは、他人に見られたり、評価されたりしたくてたまらない生物だが、そんな感情自体が、すでに詩歌の外部のものである。他人の目や価値観を基準にしたら、詩歌という名の言語的絶対自由は崩れる。詩歌は、ただ言葉そのものが持つ性質や規制にのみ忠誠を尽くすもので、そういう意味ではきわめて貞節、それ以外の主はけっして持たない。


 むかし、本居宣長が『玉かつま』にこんなことを書いた。
「一七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた、師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき」
 扱われているのは作歌についてだが、詩歌全般に関わることとして読んでかまわない箇所だろう。詩歌をつくるとはどういうことか、どうあるべきか。その核心がこれほど平易に、しかし含蓄ぶかく語られるのも稀なことと思う。
 自らにおける作歌の発生をふり返りながら、宣長はここで、ひとつの姿勢を提示している。詩歌をつくる意義も効果もはじめから問わない、詩歌をつくりたいという思いの分析もしないという姿勢である。歌を詠みたいと思う心が出てくる、詠む。それだけでよいので、創作の意義など、まるごと「歌よままほしく思ふ心」に委ねておけばよい、というのである。
宣長における「心」には、なかなか興味深いところがある。それは明らかに、いわゆる私なるものとイコールではない。そんな「心」が「いで」くる時には、いかなる検討過程も省略して、「よみはじめ」るということを発生させればよい。現代でいえば、欲望というのが近いのかもしれないが、欲望には多くの検討や規制が義務づけられる。「心」はちがう。それが向いているほうへ、「(サブジェクト)」は忠実な臣下(サブジェクト)として、ただ向かっていけばいい。疑う必要はない。ブレーキもいらない。
ふいに出現してくるこうした「心」について、宣長が、反省や分析を加えないたぐいの鈍感な自我を持っていたとは考えにくい。『紫文要領』などを読めば、宣長が繊細な分析家であったのはよくわかる。ある種の「心」の発生と、それが要求してくる実践のあいだに、あえて検討過程を差し挟まないという姿勢を意図的に採って方法としていたと考えるべきように思う。検討、反省、分析、再考。それらによって、たちまち瓦解し消滅してしまうたぐいの領域があり、それを感知するのに、おそらく、宣長は敏感だった。
「師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき」という文からも、おもしろい的確な助言が導けるだろう。
詩歌にかぎらず、なにかものを書く場合、ことに、好き勝手に縦横無尽に書いていこうという場合、逆説的に聞こえるかもしれないが、言葉をならべたり組織していく現場では、基準・型・通念・常識といったものこそが重要になる。これらを身近な外部に持つことで、人はふつう、書くことを始めるのだし、書くことが可能にもなる。具体的には、ともに書く友人、批評者、さまざまなタイプの読者などからなる文芸環境に、それらは仮託されることが多い。
 宣長がここで述べているのは、それらを内在化せよということである。教えてくれる師を持たず、人に見せず、ひとりで好きなようにつくれ、などと言っているのではない。ふつうなら「師」に仮託されている機能、「人」に任されている機能、それらを自らの内部に設置せよ、と言っているのだ。文芸創造の原理に鋭い勘を持つ彼が、そうした機能なしにつくれ、などというわけがない。
 自らのうちに設置されるそれらの機能とは、「師」となるべき過去の古典(「師」とはつねに過去であり古典であって、したがって、けっして模倣も一致も許されない対象である)へのまなざしであり、また、「人」の目や価値判断の、自分の内部への常住である。
どうして、これらを内在化させなければならないのか。歴史的時間的に自分が存在させられている現在において、詩歌の世界がまったく自分の「心」に適っていない場合があるからである。これは、現在の詩歌を否定するということとは違う。自分に「いでき」た「心」が、現在行われている詩歌の多くとは違うものをつくるよう要求してくることがあるのだ。この場合、基準・型・通念・常識となるものを、周囲に見出しうる「師」や「人」に求めるわけにはいかない。時代的に遠く離れた過去の作品群に「師」を求め、また、来るべき未来に「人」を求める必要が出てくる。こうした作業は、必然的にこれらの機能の内在化を書き手に促すのである。
「人に見することなどもせず、たゞひとり」という表現を、孤独に、ひとりで、などと受けとるのも間違っている。心のなかで「師」や「人」との激しい対話があり、やりとりが起こっている状態を、古来、日本の文芸では「たゞひとり」と呼んできた。読んだり書いたりする者に、空間的孤独はあっても、精神的孤独などあるわけがない。エネルギーの極まりに発生する均衡状態においては、人はかならず「たゞひとり」になるのだが、言葉でものをつくる人びとにとって、これはもちろん至福の瞬間である。「師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき」とは、宣長による至福の瞬間の回想なのであり、この時、彼が内なる「師」と「人」の前で作歌していたのを思えば、この記述は、純粋詩の創造の瞬間をたくみに外面から掬いとったものともいえる。


 詩歌をつくる人にとって縁のない問題で、もうひとつ、付け加えておくべきものがあった。
 すなわち、詩人になりたい、詩人と呼ばれたい、詩人である、うんぬん。
 宣長などは考える必要もなかったし、そもそも思いつくことのなかった問題ではないかと思うが、これについては、十八世紀のイギリス詩人トマス・グレイがみごとな模範を示してくれている。晩年はケンブリッジの近代史および近代語教授で、同時代のジョンソンの『詩人伝』で酷評されながら、十九世紀にはマシュー・アーノルドに激賞されて古典詩人としての文学史的な地位を確保することになった彼は、生前、詩人と呼ばれるのを嫌った。福原麟太郎の伝えるところでは、彼を知る同時代人のこんな証言がある。
「彼は、唯単に一文人として見られることに堪え得なかった。生れも低く、産も乏しく、地位に恵まれてもいなかったが、彼は一人の独立した紳士として扱ってほしい、学問は娯楽のためにするのだと思って貰いたいと願っていた」。(ジョンソンの弟子ボズウェル宛のテムプル師の手紙)
「紳士として扱ってほしい」という要求がべつの問題を発生させるには違いないとしても、詩人というステイタスに固執するような、あまり健康的でない心理状態を改善するのにこれが効果的であったのは確かなようだ。
 テムプル師のこの手紙は、グレイの学問も娯楽のためであったと伝えているが、ヨーロッパ随一の学者とさえ呼ばれたグレイの学問というのは、生半な娯楽ではなかった。テムプル師の同じ手紙には、このように紹介されている。
「史学博物学のあらゆる分科に深く、英仏伊の斯道の権威書に通じ、考古学者としてもすぐれていた。批評、哲学、倫理、政治学は彼の学問の主要部をなして居り、海陸のあらゆる旅行記を読むことは彼の愛好する娯楽であった上、絵画、版画、建築、園芸にも立派な趣味を持っていた」。
 こういう人が、「学問は娯楽のためにするのだと思って貰いたい」と願って生き、ロマン主義に大きな影響を与える詩業を続けながらも「一文人として見られることに堪え得」ず、あくまで「一人の独立した紳士として扱」われるのを望んだということには、まともな神経の持ち主ならば、たぶん、多くを考えさせられるはずだろう。詩作に打ち込むとか、詩歌だけが命だとか、どうも近代以降になると、視野狭窄が増えてきて、息苦しい。打ち込むのはいいとしても、君、世界は広いんだよ、というグレイの言葉が、いつも聞こえるぐらいの余裕は持っておきたいものではないか。
 グレイより前の時代、劇作家ウィリアム・コングリーヴも、自分は紳士であって文人ではないと表明し、フランスの文人思想家ヴォルテールを怒らせたという。「紳士とは家柄があり、資産があって社会的地位が上流にあり、生活のために働かないで暮しの立っている有閑人の意」だとすれば、ヴォルテールの怒りは、たんなる偏狭さと捉えられるべきではない。とはいえ、現代において詩歌に関わろうとする人間にとっては、グレイやコングリーヴが「紳士」という言葉で表明しようとしたあり方には、汲むべきものが少なくない。ひとりの人間が生き死んでいく人生と呼ばれる過程での、詩歌というもののあるべき位置を、それが指し示しているのに違いはない。


*トマス・グレイに関する引用は、『墓畔の哀歌』(グレイ作、福原麟太郎訳、岩波文庫、一九五八年)中の解説より。

英霊について


わが霊師たちに


靖国神社へのA級戦犯合祀論も、分祀論も、不確かな盲信に立った上で考察を始めている点において、ともに意味をなしていない。英霊なるものの存在を、霊についてのなんらの反省もなく盲目的に措定した上での議論など、日本社会の再編に関わっていく社会問題の扱いにおいては、言語道断と認識すべきである。

英霊というものを、生者の側の心理的慰めの投影として受け止めるならば、なるほど幾許かの了解はできる。生者が心理的な複合感情を慰撫する施設として、ということならば、靖国神社の位置づけも知的に了解しやすいものとなってくる。
しかし、その場合、英霊という言葉をすすんで用いる人々自身にとっては、皮肉な事態が出来するということになろう。「英霊」と発語しながら、その実、自分たち生者の心の慰撫が賭けられているというのでは、真に存在しているべき英霊に対して侮蔑も甚だしいことになろうから。

英霊という言葉を用いる人々にとっては、「英霊」の意味は、なんら比喩的でない真の英霊でなければならないはずであり、真の英霊とは、心霊学上の心霊そのものでなければならない。心霊が問題とされるこのような場合、「英霊」という言葉の使用者は、心霊学における心霊の扱いを尊び、それを甘受しているのでなければならない。これは、自らが生きるこの世界を霊的な世界と認識し、霊界のしきたりに適った生き方に努めることを意味する。霊界のしきたりを知るのは、確実な能力を保持する霊能者たちや、運命と緊密に結びついた直観に恵まれるのでないかぎり、一般の人間には容易ではないので、霊能者たちの話につねづね耳を傾けて民俗学の伝承収集のような地道な作業を続けたり、五感や第六感を研ぎ澄ますための生活習慣の堅持や適切な心身の修養も行わなければならない。とりわけ、自我意識と自己顕示欲に対する峻烈な否定と解消の修養がなさなければならないのは言うまでもない(マイスター・エックハルトならば、「我ということ、それは欺くことである」と言うだろうか)。
そうした配慮を欠く者に「英霊」という言葉を使う資格がないとまでは言い得ないが、この語を、靖国問題のような場合に議論のひとつの礎として用いてしまえば、考察過程にしても、行き着く先にしても、いい加減なものにしかなりようがない。

現状においては、「英霊」という言葉を好んで用いる人々の多くは、なんら心霊的能力を持っておらず、心霊生活の最低限のしきたりにも鈍感であるため、彼らにとって「英霊」はまったく存在していないに等しいという事実がある。「正義」や「愛」や「平和」とまったく縁のない心魂の人間たちが、好んでこれらの言葉を旗印に掲げがちであるのと同じ事情である。
真に英霊とともにある者、心霊のしきたりを知る者ならば、たとえば靖国問題のような場合に際しては、身内である自国の英霊たちには当然ながらお待ち戴いて、大日本帝国が侵略し甚大な被害を与えせしめたアジア諸国民の英霊たちに対してこそ、なによりも先ず赦しを求め、祈りを捧げるというのが心霊学上の礼節なのであり、いわば霊節とでも言うべきである。「英霊」という言葉は、国語の範疇で考えれば、もちろんひとつの単語に過ぎないため、誰であっても思い通りに用いることができるが、しかしながら、使用者が言葉の真義を理解しているかどうか、使用者自身の態度にこれほど露骨に表われる単語も少ない。

英霊とともにある者、心霊のしきたりを知る者は、霊的な常識も持っていなければならないし、霊的なノブレス・オブリージュというべきものも強いられている。霊的な常識は彼に、「英霊」と呼ばれうるほどの霊たちは、特定の神社に縛られるものでなく、そもそも祈りそのものを必要としないレベルにあると教えるであろうし、国家や民族のために本当に命を投げ出した霊たちであれば、死後はやい段階で、すでにこの世とは関わりのない次元に達しているはずであるとも教えるだろう。また、霊的なノブレス・オブリージュは、自らの血に繋がる先祖の霊たちの慰撫を差し置いても、異民族の霊たちの慰撫を先行するように強いるだろうし、なにより、途方もない悲惨な過去を大陸に作りだした日本をごく当然に恐れる諸隣国に対して、侵略を二度と繰り返さないとの決意を何度もくりかえし明言する必要性を認識させるだろう。

はっきりと何度も確認しておかねばならないのは、「英霊」という言葉をあえて使用したがる者たちの側に英霊の存在したためしは一度もないということである。そういう者たちがなんらかの存在を心に感じ、それに衝き動かされる気がすると言ったところで、それはあくまで、彼らの統禦され切らぬ自意識と自己顕示欲が、無礼にも「英霊」という言葉とイメージを借りて表出してきたものに過ぎない。こうした表出現象の際に顕著なのは、「英霊」を語る人間たちの示す狭量さと激しやすさ、差別の容認、他者の辛苦と悲惨への無関心などである。これらが発言者や行為者に観察される場合、これらの者たちの傍らには、英霊は断じていない。霊は本性上、境界を作るものではなく、別けるものではなく、主客の位相にも存在できないものだからである。
万一、これと逆のことを生者に要求し、自らの帰属集団や民族や特定の地方の優位を主張してくる霊がいたとすれば、それは霊界のしきたりを認識できていない低級霊であって、祀る対象というよりも浄霊や訓導の対象というべきである。


権力破壊学、既得権益者排除学のために


 特攻隊にいて生き残った日本人たちと、特攻される側の軍艦にいて生き延びたアメリカ人の対面をテレビで見た。戦争から六十年以上が経ち、ともに、今では八十代に至った老人たちである。本音での回顧譚をする中で、かつての敵どうしは、お互いなんらかわりのない人間どうしだったとわかり、とくにアメリカ人側が抱いていた憎しみや恐れが解消されていったようだった。こういうのは、もちろん、悪い見ものではない。

 元アメリカ兵にとっては、長い間、特攻隊を志願して突っ込んでいった日本兵たちが理解できなかったらしい。それが苦悩と恐怖の大きな部分となっていた。元特攻隊の老人たちに、どうして特攻を志願したのかと聞いていた。かつての上官だった日本の老人は、志願したのではなく、突っ込めと上から命令されたのだと答えた。他の老人の場合、志願するかどうかを問われた時に、強く望む、望む、否、の三種の回答が可能だったが、否などと答えられる雰囲気ではなかったと言った。
 元アメリカ兵の老人たちを安堵させたのは、こうした発言である。上からの明らかな押し付けがあった。ひとりひとりの兵士たちには有無の言いようもなかった。特攻で突っ込んできた日本兵たちは、理解不能な怪物でも殺人機械でもなく、追い詰められた戦争の命令体系の中で発せられる指令の具体的な実現のかたちだった。これは、どんなに奇矯に見えるものであれ、戦争の通常形態であり、さらには一般社会のシステムの常態でもある。そう直観して、アメリカの老人たちは安堵したのかもしれない。これによって、若かった日本兵ひとりひとりが異常だったわけではなく、自分たちと同じ普通の青年たちが、上からの命令で異常な行動を強制されていたのだという合理化ができる。安堵とは、つねに成就された合理化である。

もちろん、これではなにも解決しないどころか、ここから本当の難問が始まるわけで、テレビを見ていて、過ぎ去った六十二年なるものはいったい何に役立ったのかと、暗澹たる思いになった。大戦争を経験した人々は、もちろん、二度と戦争を繰り返してはならないという教訓を唱える。そういう教訓が周知され、軍事的解決に向かおうとする国家の悪癖に対する方法的怠惰を、少しでも多量に発生させるのには少なくとも役立った、そう言おうとすれば、確かにそうは言える。しかし、国家規模での政治操縦論としては、これはあくまで消極的な手段に留まるものであり、六十二年という長い年月の産物としては貧困といわざるを得ない。
上からの命令で特攻に志願した、せざるを得なかった、という事実が明らかにされるのは価値のあることで、あれほどの大戦の中でのそうした事実が記録され積み上げられていくことは、人類的な遺産であるとさえいえる。しかし、事実や証言を掘り起こして記録するに留まっているだけでは、未来の生にむけて本当の価値を持つというには至らない。六十二年の間になにがなされるべきだったかは、明白なのである。人間社会において、愚劣な人間たちが命令系統を握ってしまった場合、それをいかに破壊し、その人間たちを排除するか、そこから発せられる命令をいかに無力化し、体制を、そこに属する人間たちのよりよい生存のためのいっそう合理的なものに速やかに転換するか。そうした学を深め、誰でも運用可能なまでに公式化する作業である。残念ながら、第二次大戦後の六〇年あまりの間に、この学が正しい方向に深められたとは思えない。排除されるべき人間たちが、自分たちの狭い既得権益を維持するために編み出す政治術はいっそう緻密になったが、権力破壊学としての、また、既得権益者排除学としての政治学は、まだ公共の知となるには至っていない。

こうした来るべき権力破壊学、既得権益者排除学の観点から見るかぎり、第二次大戦で日本人が得た最大の教訓は、巨大化しすぎた国内権力の破壊には、より強大な外国権力を衝突させればよいという一事に集約される。なんのことはない、古来からの戦争論の常道だが、大きく軌道をずれて動き続ける戦争機械(ドゥルーズ的な意味ではない)を破壊するには最良の方法であるし、唯一の方法でもある。「日本人」という呼称がともすれば隠してしまう悪平等を徹底して排除し、人格や才能や教養や創造力、さらには魂の純粋さなどからおのずと生まれてくるはずのよき差別の観点に立って、戦争当時いったいだれが日本人であったのか、日本人と呼ばれるべき日本人、生き残るべき日本人であったかを考えれば、連合軍の勝利は、どう考えても日本人の勝利そのものだった。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と続くなかで軌道を外れ、巨大化するばかりだった戦争機械との戦いを、十五年戦争時代のよき日本人たちは強いられていたと見たほうがよい。それが日本列島やアジアという枠からはじけ出し、世界に蔓延ろうとしたところで、外国からの救援を得るに至った。これが第二次大戦ということなのであり、おそらく数百年後、数千年後の学生たちは、眠い目を擦りながら、かつて存在したというニホンという国の遠い小さな戦争のレジュメを、このように習うことだろう。

直截に言えば、敵は、指示や命令を落としてくる「上」というものなのであり、権力なのであり、命令組織、命令系統なのである。課題は、かつての長い人類史においてそうだったように、未だに、こうしたものの破壊と変容をいかに速やかに、合理的、効率的に行うか、その学を公明正大に打ち立てるということなのである。
大がかりな知的挑戦といえるが、もちろん、もっと小規模なところから社会的実験が行われてもよい。かつて岸田秀は「集団においていちばん問題なのは、無能なリーダーをどのようにして排除するかということです」(「日本人と『日本病』」)と書いたが、無能なリーダーの蔓延している現代では、リーダー排除はあらゆる破壊学の実践練習として取り掛かりやすい。

もちろん、排除すべきは無能なリーダーなのであって、有能なリーダーは尊重されねばならない。有能なリーダーとはどんな人か。第二次大戦当時の太平洋艦隊司令官ウイリアム・ハルゼーの言葉を確認しておこう。
「どんな人物がすぐれた指揮官、すぐれた幕僚であるのか。これは容易には決めにくい。ただ、すぐれた幕僚であれば、どんな指揮官に対しても、その能力を最大限に発揮させうるようリードできるものだし、すぐれた指揮官もまた、それに対し、鋭敏な反応を示すはずである」。



河野多恵子の『秘事』

    
生物(いきもの)」であり「有機体」である小説は「冒頭から書きはじめる」

 これから小説を読みはじめようとする時に、はやくも書き出しの部分で、その作品の読みどころや構造めいたものをほのめかされてしまうというのは、言うまでもなく、ひどく興醒めなものである。
そもそも、小説を読むという行為は、骨組みや肉付きをきれいに腑分けしてみたり、それら相互の繋がりぐあいを縷々と述べて喜んでみることに収斂されるべきではない。読むにつれて、作品の結構があからさまに見て取れてしまうのではなく、見えた、摑めた、と思うや、すぐにもまた茫洋とした掴みどころのない思いに落とされてしまうようでなくては、わざわざ小説を読んでみる価値はない。濃厚な靄の味わいの中、思念と感情との喜ばしき孤立無援と茫然自失とをしばし保たせてくれることにこそ小説のなによりの値打ちはあって、世間によく言われる「読解」なる行為など、反動も甚だしいということになる。
とはいえ、いかなる小説も、結局はテーマパークとしての限界性の中に終始する他ない以上、当然のこと、あらゆる小説の冒頭は、負わされている独自の役割を放擲するわけにもいかない。多量に生産され続ける小説商品の中から選び取ってもらうために、思わせぶりな媚を冒頭で売らねばならないのはもちろん、これから読者に迷い込んでいってもらうことになる言葉の森について、最低限の楽しみを味わってもらうための推奨ルートの入口を示しておいたり、目立たないように腐心された表示ながら、やはり非常口の在り処も示しておかなければならない。
さらに、作者にとってみれば、冒頭なるものは、大きな普請作業を無事に遂行していくエネルギーを汲み上げるための掘削現場でもある。河野多恵子のように、文学作品としての小説を「生き物」とみなす作家にとってはなおさらのことで、彼女の経験的な小説創作作法論ともいえる『小説の秘密をめぐる十二章』(文芸春秋、二〇〇二年)においては、小説が「人形制作のように、マスクやボディや手足をばらばらに拵えておいて、繋ぎ合わせるというわけにはゆかない」ものであり、「嬰児が次第に育ってゆくように、全身的な育ち方をするのである」以上、かならず「冒頭から書きはじめる」必要があるとまで明言されるに到る。
この著書の中では、小説論における礎としてたびたび引用される谷崎潤一郎の言葉は格別の重みをなしているが、彼の『藝術一家言』における以下のような見解、すなわち、「組み立てと云ふと、或る静的状態――或る形を想像するが、形よりは寧ろ力である、緊張し切つた力の持ち合ひである」とか、「藝術は事実の記録ではなく美を創造するのであるから、其処に生み出された美は一箇の生物(いきもの)で――一箇の有機体でなければならず、既に生物である以上それはそれ自身に於いて統一された完全なものであり、部分は全体を含み全体は部分を含まねばならない。部分が成り立つと同時に全体が成り立ち、全体が成り立つと同時に部分が成り立つ」(『小説の秘密をめぐる十二章』より引用。原文では漢字は旧字体)といった見解は、河野多恵子にとっては殊に重要なものであろう。「生物(いきもの)」であり「有機体」である小説を「部分が成り立つと同時に全体が成り立ち、全体が成り立つと同時に部分が成り立つ」ように育んでいくやり方は、河野の諸作品のいずれにも共通する配慮として、比較的、容易に感じ取れるものといってよい。


肩透かしを喰らい続けていく快楽

このようなことを考えながら見てみると、河野多恵子の『秘事』は、現代の小説の中では、やはり絶品のひとつに映る。
タイトルとなっている「秘事」という言葉は、読者の心に謎めいたある種の淫靡さや禍々しさへの期待を呼び起こしがちのはずであるし、この作家のそれまでの作品傾向を知っていれば、そうした先入見はなおさら強まるはずだろうが、主人公ふたりが互いにどう呼びあったかをさっぱりと物語る冒頭の二行にはじまるこの作品は、そんな期待を爽やかに裏切りつつ、すぐに、ふたりの馴れ初めとなった大学時代のエピソードに入っていく。展開ははやく、十数ページも行かないうちに、もう、城崎への新婚旅行。あとは、順風満帆の商社マン夫妻の幸福譚がひといきに最後まで続いていくことになるのだが、冒頭ばかりか、作品全篇にわたって、読者が徹底した肩透かしを喰らい続けていく快楽といったら、おそらく、世界のいかなる小説も及ばないといっても誇張ではない。
いかなる肩透かしか? 
小説なるものが一般に依拠しがちな、なんらかの負や欠落の要素から物語の運動が始められるべきだという、執拗にひろく共有されてしまっている思い込みへの肩透かしである。
小説の読者というものは大抵、作品を読みはじめる時点で、すでに読者たる教育を厚く受けてきてしまっている。小説本を手にするや、物語の出発点として、なんらかの欠落の要素や、負の要素、悲劇などを当然のように待ち受けてしまいがちになるのが、他ならぬそうした小説教育のさびしい成果である。教育である以上、当然それは偏向しているわけだが、『秘事』が手厳しいのは、近代小説の発展過程において十二分に根拠も必要もあったはずでありながら、そろそろ根本的な見直しを図るべき時期に来ているこうした通念に対してである。
主人公夫婦の三村清太郎と麻子には、見事なまでに、いかなる不幸も悲劇も起こらない。学生時代からなにかのコンプレックスに悩んだ経緯もなく、家庭環境の複雑さに苦しめられたわけでもなく、なるほど、職場での清太郎にはそれなりに煩事は絶えないらしいとはいえ、作中であえて語られねばならないほどのものではない。結婚当初、まだ戦災の後遺症の残る関西でよい住居を見つけるのに多少の困難があったとはいえ、鉄筋ビルの社宅に移った後は、シドニー、東京本社、ロンドン、ニューヨークへと続いていくことになる転勤生活のどこでであれ、不自由ないどころか、快適な住まいを与えられている。欧州総支局であるロンドン支店では要職に就き、その後のニューヨークでは米国法人社長、帰国後は五十三歳で常務取締役に就任するのだから、出世という点でも申し分ない。麻子は虚飾のない有能な妻というべきだし、ふたりの息子にしても、その嫁たちにしても、相和して幸せな一家を形成しうるだけの資質を、みな十二分に発揮している。
このような設定は、ともすれば小説の退屈さを保証しかねないものというべきだろうが、『秘事』においてなにより大問題なのは、描かれていく主人公夫妻の物語が非常に面白いという点にある。トルストイはかつて、『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭で、「幸福な家庭はみな似かよっているが、不幸な家庭の場合、不幸さはそれぞれ異なっている」と書き、「不幸な家庭」や「不幸」なるものの説話論上の優越性を主張したものだったが、『秘事』で河野多恵子が敢行しようとしたのは、トルストイの時代には看過されがちだった「幸福」の、また、「幸福な家庭」の、説話論的潜在力を真っ向から開拓する行為だったというべきだろう。そもそも、「幸福」がみな似かよっているなら、「不幸」もみな似かよっているはずなのであり、近代以降の文学において真に問題とされるべきは、「不幸」の場合にいっそう開花されやすくなる傾向のあった説話論的感性の本質の探求にこそあったはずである。
読むにしろ、作り上げるにしろ、説話の快楽というものは、端的にいえば、作品を織り上げる各要素のあいだの落差の配分加減から生じてくる。「不幸」が好まれがちだったのは、落差づくりという点で効果的かつ安上がりだったからで、これを安易に乱用する傾向は、小説の興隆期だった十八世紀よりも、小説商品が過剰に生産されるようになった十九世紀後半にこそ顕著になった。あらゆるものが商品視されて過剰に供給される傾向の極まった現代においても、小説におけるこうした流れは変わらないのだが、やはり説話の快楽についての考究や認識にはそれなりの深まりが見られたためだろう、「不幸」に頼らずとも、落差を発生させたり、その按配を工夫したりするケースは多く見られるようになってきている。考えてみれば、そもそも近代日本文学そのものが、日本独特の感性とあいまって、説話論的落差に関するこうした微妙な発生の研究の場であったともいえそうで、試みの先見性においても成果においても、森鴎外の晩年の史伝が群を抜いているのは明瞭であるし、その後の志賀直哉の諸作品や谷崎潤一郎の『細雪』などばかりでなく、いわゆる私小説のうちの良質のものは、おしなべて、こうした落差研究の成果であったとさえ言えそうである。
河野多恵子の『秘事』がこうした落差研究の最新の、また最大の成果のひとつであることは疑いのないところで、ここで作者は、幸福の中でのさまざまなエピソード間の微妙な落差を用いながら、全篇を通じて読者を飽きさせずに導いていくという離れ業を成し遂げているのである。


呼称という問題、しかし主役を割り振られることはなく

主人公の三村清太郎は、妻のことを「〈麻子〉または〈あんた〉」と呼び、妻のほうでは「彼の名を呼んだことはなく、専ら〈あなた〉」と呼んだ… こんなふうに、『秘事』の冒頭で真っ先に語られるのは、三村夫妻が互いにどう呼びあったかということなのだが、この部分が、作品の核心をなす何かにじかに繋がっていく記述として受け取られてしまうという危険は、先ずはないと言っていいだろう。
大学時代のエピソードへと、すぐにスムーズに記述が移っていくことで、冒頭から作品の本質を見てとろうとするような堪え性のない不躾なまなざしは軽々とかわされ、作品の雰囲気や方向を決めることになる大切な五ページほどの分量の最初の部分は、いかにも平穏に、何ごともないかのように語り終えられる。その部分の最後に、じつは、ふたりの間の呼称に関する記述がふたたび出てくるが、語り出しで触れたエピソードにかたちの上での小さな終わりをつけておく常套的な手法として受けとめられるため、特別に目をつけられることは、やはり少ないだろう。
しかしながら、主人公夫妻どうしについてのみならず、息子たちをはじめとする他の登場人物たちの場合も含めて、作中に何度となく呼称についての記述が出てくるのに気づかされると、はたして、特に注目すべきほどのこともないと見えた冒頭の呼称の話に、本当に特別の機能がなかったと考えておいてよいのか、訝られてくるようになる。そればかりではない。『秘事』以前での最も注目すべき大作といえる『みいら採り猟奇譚』(一九九〇年)で、いささか風変わりとはいえ、やはりこの上なく幸福だったといえる一組の夫婦の間での呼称の問題が執拗に追及されていたのを思い出せば、もはや呼称の問題は看過できないものとしてくっきりとした輪郭を備えるに到り、あらためて冒頭から、呼称についてのあれこれの記述に注意し直しながら、この作品を読んでいかなければならないと思わされることになる。
ところが、『秘事』という作品の心にくさは、多少なりとも注意深い読者が気づくこんなモチーフに、けっして、決定的な主役を割り振ったりはしないという点にこそある。呼称の問題が、『秘事』の中で、また、河野多恵子の近年の作品世界全体の中で重要な太い縦糸のひとつであるのは確かなことながらも、作品の中心をなすテーマとはいくらか距離を保ったまま、解釈の多様性を保証されたままに放り出されて、それ自体の説話論上の系を進んでいくのである。
諸作品を通じての作者の創作の「秘事」に深く触れる、疑いようもなく重要なモチーフを提示している冒頭、それにもかかわらず、作品の核心をみだりに露呈してしまうことの決してないような〝外し〟の施された冒頭というのも、じつに稀な、貴重な造形というべきだろう。


「不幸」という粗い装置なしに小説を成功させる「秘事」

そもそも、この小説が『秘事』と呼ばれること自体には、さしたる謎があるわけでもない。
結婚前、妻の麻子は交通事故に遭って頬に傷を負う。清太郎が麻子と結婚するのは、彼女が「感じがいい」からであり、「ほんまに気持ちがいい」からであり、「何ともいえず好き」だからに過ぎないのだが、事故で生じた頬の傷は、清太郎が「義侠心や責任を感じて結婚」したのかもしれないといった憶測を周囲に生む。が、麻子がそう思ったかどうか、小説はついに最後まで明らかにはしない。きっとそう思ったにちがいない、などと清太郎が確信するわけでもないが、もし彼女がそう思っていたら、との推測を彼はつよく持ち続ける。ここから、もっとも親しみあい、睦みあっていて、この上なく近しいふたりの間に、底の知れない不通の部分、ディスコミュニケーション部分が生まれることになる。しかもそれは、他のなによりも強く即応し通底しあう感応能力を、比類なきコミュニケーション能力を持ったディスコミュニケーションなのである。
単に否定しようとするためでさえ、ひとこと口にされれば、頬の傷を過剰に意識しているかのような印象は生まれてしまう。だからこそ、けっして言葉にされてはならない。驚くべき幸福維持の機能を持つ、方法的とも呼ぶべきこうした輪郭明瞭な曖昧さをしっかりと互いの関係性の中心に置いて、相互に応えあい続けていく清太郎と麻子の心情の共鳴の妙は、繊細微妙であるとはいえ、むろん、少しも「秘事」でなどない。
そればかりか、彼らの鮮明な幸福は、「不幸」という粗い装置なしに小説が成功しうるための「秘事」をも、かなり明るく照らし出しているというべきなのである。