2012年4月27日金曜日

サマー・クリエイション





無用の事を為さずんば何をもって有限の生を尽くさん。
(吉川幸次郎)



 美しい白い砂浜だったように思うが、白くはなかったかもしれない。
 炎天下、白いワンピースの女が立ち止まり、片足から靴をはずして、中に溜まった砂を落とす。砂時計のように、砂はさらさらと浜に落ちていく。
 靴はヒールだったか、サンダルだったか。
 靴も白かったか。
 つばの広い日よけの帽子をかぶっていたようでもある。
 …ただそれだけの光景。
 そこに歌が流れていく。
英語の女声で、「マイ・サマー・クリエイション…」と聞える。


子供の頃、決定的な印象を受けたMAX FACTORのテレビCMだ。
面白いCMや印象的なCMは毎年いくらもあったが、このCMには美学的といっていいレベルでの衝撃を受けた。記憶の奥で、うろ覚えの「マイ・サマー・クリエイション…」という歌の流れをなんども辿り直した。
映像も鮮烈だった。高度成長期の子供心のどこかが、以後、このCMにあったような異国の浜辺のヴァカンスの光景へと誘われることになった。日本の夏の光景は、物たりなく、侘しいものと映るようになった。どこへ旅行しても、日本の夏は貧相だった。
それほど強烈な印象を受けたにもかかわらず、本当に映っていた光景はどうだったのか、今あらためて甦らせようとすると、細部はどこもあやふやになっている。スタイルのいい、裕福なさっぱりした雰囲気の外国人女性が靴に入った砂を出す。それはよく覚えているのだが、他の部分はどれも、自分が想像で付け足してしまったもののように感じる。


10年以上前にインターネットでなんどか調べてみたが、それらしきものは、なかなかヒットしなかった。あのCMにも、歌にも、二度と接近することはできないものと諦めるようになった。先日、ふと思い立ち、ひさしぶりに調べ直してみた。すると、意外に容易に歌に行き着いた。ブログで言及したり、Youtubeにアップしたりする人たちが増えていた。
CM映像自体はネットでも見つからないが、歌だけは聴くことができる。
1971年夏の大ヒット曲だったとはじめて知ったが、当時は、ときどきテレビで見かけるCMだけで満足していた。歌っているのがジョーン・シェパードJoan Shepherdというアメリカ人歌手だというのも今頃になって知ったことだが、これが、あの千昌夫の元夫人の〝シェパードさん〟だったとわかり、驚かされた。60年代にはニュー・グレン・ミラー楽団の専属歌手だったという。今さらながら、これにも驚かされた。
Summer Creation』はジョーン・シェパード自身の作詞作曲で、歌詞はこのようなものだったらしい。


I'm as free as I can be
Flying high above the clear blue sea
In a world waiting just for me
Waiting just for me, Mm-mm-m-m-m
My summer creation

You have taken me
Far away from all the everyday life
Oo-oo-ooh, I am free
There's nothing that I cannot do
No one I cannot be
In a world waiting just for me
Waiting just for me
My summer creation

I'm as free as I can be
Doo-doo-doo-doo-doo
In a lovely world that's mine, all mine
Waiting just for me, hmm-mmm-mmm
Summer breeze

Whisper softly through my hair
Far away from all the everyday life
Oo-oo-ooh, I am free
Doo-doo-doo-doo-doo
There's no one I cannot be
In a lovely world that's mine, all mine
Waiting just for me
My summer creation
  
  全曲を聴くのもはじめてだし、全部の歌詞を読むのもはじめてだが、こうして見てみると、きれいで気持ちはいいが、さほど大した歌詞ではない。しかし、CMで使っていた2連か4連のところの効果には見事なものがあった。「In a world waiting just for me」から「Waiting just for me」に移って、「My summer creation」に流れていくところのメロディーは絶妙で、大阪万国博が終わった翌年の子供の心は、陶然とさせられてしまった。この歌の奇妙なまでの晴れやかなやさしさ、さっぱりしていながら潤いのある心持ちは、いくらか牽強付会ながら、前年に三島由紀夫の自死とともに多くの蟠りが消滅していったためでないか、と思いたくなる。
 


1971年は、南沙織が『17歳』でデビューした年でもある。6月だった。「誰もいない海、ふたりの愛を確かめたくって、あなたの腕をすり抜けてみたの。走る水辺のまぶしさ、息もできないくらい、はやく、つよく、つかまえに来て…」と始まる歌は新鮮で、『サマー・クリエイション』同様、〈海〉へと時代を誘っていた。
 http://www.youtube.com/watch?v=SRWQKfoemiE


17歳といえば、この年には、やはり17歳だった荒井由実、今の松任谷由実が、元タイガースの加橋かつみに『愛は突然に…』を提供することで作曲家デビューをしている。八王子の老舗荒井呉服店の娘である彼女は、翌年の1972年、染色を専攻するために多摩美術大学に入学するが、この年に歌手デビューもする。ファーストアルバム『ひこうき雲』は73年。しかし、数年かけて深夜番組などで盛り上げられ、有名になっていった荒井由実の最初期は、テレビぐらいからしか歌謡曲に接しない子供には、まだ存在していないも同様だった。むしろ、アラン・ドロン最盛期を捉えたレナウンのダーバンのCM(1971年)のほうが、よほど身近だった。
このCMは、淀川長治が解説していた「日曜洋画劇場」の枠で放映されていたという。あるブログによれば、「レナウン」という社名と「ダーバン」というブランド名の結びつきにはちゃんとした必然性があるらしい。イギリスの皇太子エドワードが1923年に来日した際の御召艦は「レナウン」、供奉艦としてそれに同行してきた巡洋艦が「ダーバン」だったという。面白いトリビアだが、使われている音楽が小林亜星の作曲だったというのにも驚く。アラン・ドロン出演のダーバンのこのCMシリーズは、今でもずいぶん人気があるらしく、ネット上では様々な情報が手に入る。


 レナウンのテレビCMといえば、シルヴィ・バルタンが日本語を歌っているワンサカ娘のCMがある。何年のCMかわからないが、60年代だろう。「いいわ」と言うべきところだけ、フランス語で「C’est bien!(セ・ビヤン!)」と歌っていて、これがとてもかわいい。シルヴィ・バルタンはふたつの前歯のあいだの隙間がチャームポイントだが、それもよく見える。初期のけだるいような、どことなく死顔のような特徴もありのままで、ソフィア近郊生まれのブルガリア人である彼女の、身体的な非フランスらしさを感じさせる。
 

 話を70年代に戻すが、『サマー・クリエイション』や『17歳』から遠くない頃、子供の心には「ケンとメリー」という歌がしみじみと流れていた。BUZZのデビューシングルの『ケンとメリー~愛と風のように~』で、これは1972年の日産スカイラインのCMのテーマソングだった。
「虹のむこうへ出かけよう、今が通り過ぎて行くまえに…」という歌詞には、青春の自由さとうるわしさがあると同時に、喜びも軽さも束の間のものだという認識が出ていて、どこかさびしげだ。「忘れた朝を、ふたりここで見つけたよ…」と始まる赤い鳥の『忘れていた朝』につながる雰囲気があるように感じるが、調べ直してみたら、赤い鳥のこの曲は1971年のものだった。ちなみに、あの『翼をください』も同年の作品。ともに村井邦彦作曲、山上路夫作詞だが、村上邦彦は東海林修に学び、『シェルブールの雨傘』のミシェル・ルグランに師事したという。時代に共通して流れる雰囲気を、村井邦彦もBUZZも捉えたのかもしれないが、むしろ、村井邦彦のほうが影響を与えたのかもしれない。荒井由実をデビューさせたり、YMOをプロデュースした人なので、深入りして研究していくべき面白さがある。
 ところで、「虹のむこうへ出かけよう…」という『ケンとメリー~愛と風のように~』の歌詞は、もちろん、ジュディー・ガーランドが歌った『Somewhere over the rainbow』を思い出させる。
だが、EMIによれば、この歌のヴァージョンとしては、今はハワイの歌手、崇高なまでの肥満体で有名だったIZこと、故イズラエル・カマカヴィヴォオレIsrael Kamakawiwo’oleがカヴァーしたヴァージョンのほうが有名になりつつあるし、求められてもいるそうだ。
『ケンとメリー~愛と風のように~』のCMに出ていたイケメンのハーフのお兄さんは陣内たけしというそうだが、この後すぐに事故で亡くなったという。当時は知るよしもなく、子供としては、あんなかっこいい青年になってドライブできたら楽しいだろう、と思うばかりだった。


 1970年版の「愛のスカイライン」というCMも記憶につよく残っている。
見直してみると、これはずいぶん古めかしいCMに感じられるが、これに比べて「ケンとメリー」版は格段になにかが新しくなっているし、ポエジーの出し方に大きな変化が起こっているのがわかる。1971年から72年、73年あたりにかけて、日本の感性のギアが入れ替えられたのではないか。たんに、70年代に入った、というだけの意識の変化が影響しただけなのか、もっと本質的な変貌がポップスの感性の底に起こっていたのか。


 子供時代から青春期に入りつつあった、その頃の自分自身のポップス方面の感性は、どう変わっていっていたのだろうと思い起こしてみる。だいたいのところ、72年からは、解散後2年のビートルズに没入していくことになり、73年には、カーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』をリアルタイムで聴き、デビューしたてのクイーンにも嵌っていくことになったはずだった。いちおう幕が下りたビートルズの成果を捉え直し、吸収し直すという作業は、この時期、全世界的に青少年の様々な年代層を通じて行われたのだろうと思う。ちょうどラジカセが普及した頃で、ビートルズの曲を録音したカセットテープを文字どおり擦り切れるまで聴いて、彼らの一呼吸や雑音さえも吸収しようと努めた。バンドを組んだりしなくても、まわりでは誰もがそのように聴き込んでいた。
友人たちの影響でラジオの深夜放送も聴くようになり、〈セイヤング〉、〈パックインミュージック〉、〈オールナイトニッポン〉から始まって、〈走れ!歌謡曲〉、〈歌うヘッドライト〉などまでを毎日のようにはしごするようになる。落合恵子が担当する「ロスト・ラブ」のコーナーなどは楽しみで、恥ずかしい気持ちでどきどきしながら、自分よりだいぶ上の人たちの恋愛話を聴いていたものだった。
しかし、そういうものを聴くのは深夜ひとりでだったし、ビートルズやクイーンにしても、親とはまったく共有できなかった。食事の際や夜の団欒、日曜日などに家族で聴くのは、テレビから流れてくる歌謡曲ばかりだったが、そういうテレビの世界のほうでも、1971年には『スター誕生!』が始まっており、森昌子がグランドチャンピオンになっていた。翌72年には桜田淳子、山口百恵が登場する。
1969年の決定的名作『港町ブルース』で日本レコード大賞最優秀歌唱賞をとった森進一は、71年には『おふくろさん』で二度目の歌唱賞をとり、彼のかすれ声がどこでも響いていた。
五木ひろしもまた、どこでも聞かれた。71年には『よこはま・たそがれ』と『長崎から船に乗って』が発売され、山口洋子作詞・平尾昌晃作曲の作品を五木ひろしが歌うことの成果が、はっきりと出てきていた。


 60年代から70年代にかけての日本レコード大賞の受賞曲を見直すと、非常にわかりやすい断層が露呈しているように感じる。

1965年、美空ひばり『柔』
1966年、橋幸夫『霧氷』
1967年、ジャッキー・吉川とブルーコメッツ『ブルー・シャトウ』
1968年、黛ジュン『天使の誘惑』
1969年、佐良直美『いいじゃないの幸せならば』
1970年、菅原洋一『今日でお別れ』
1971年、尾崎紀世彦『また逢う日まで』
1972年、ちあきなおみ『喝采』
1973年、五木ひろし『夜空』
1974年、森進一『襟裳岬』 
1975年、布施明『シクラメンのかほり』
1976年、都はるみ『北の宿から』
1977年、沢田研二『勝手にしやがれ』
1978年、ピンク・レディー『UFO』 

 尾崎紀世彦とちあきなおみの受賞は、それまでと違う大きな変化が起こったことを表わしていたように感じる。五木ひろしや森進一では、少し時代が戻ったように見えるかもしれないが、五木ひろしの歌は山口洋子+平尾昌晃によるもの、森進一の歌は岡本おさみ+吉田拓郎によるもので、演歌と歌謡曲、さらにはフォークのフュージョンが自然に行われている。布施明の歌は小椋佳によるもの、都はるみの歌は阿久悠+小林亜星によるもので、沢田研二とピンク・レディーに到っては、もうはっきりと時代は変わった印象がある。


個人的には、75年頃から日本の歌謡界を離れはじめていた気がする。この年は、イギリス生まれ、オーストラリア育ちのオリビア・ニュートン=ジョンが、アメリカ移住にともなって『そよ風の誘惑』を出した年だし、カーペンターズは『プリーズ・ミスター・ポストマン』をカバーし、『オンリー・イエスタデー』を出し、イーグルスは『呪われた夜』を出し(『ホテル・カリフォルニア』は76年)、ロッド・スチュアートは税金を軽くすべくイギリスを去り、渡米して、『セイリング』の入っている『アトランティック・クロッシング』を出し、と忙しい年だった。
これらの曲から受ける刺激ももちろんあっただろうが、やはり、どんどん深化していくばかりのビートルズへののめり込みのために、外国のポップスに興味が完全に偏っていったように思える。
74年にスタイリスティックスが出した『愛がすべて』は、75年にも友人たちのあいだで大変なブームが続いており、レコードの貸し借りが絶えなかった。
スティービー・ワンダーが74年に出した『サンシャインYou are the sunshine of my life』もずいぶん聞かれていた。
76年になればアバの爆発的なヒットが来ることになるが、…しかし、こんなふうに数え上げていくときりがない。
個人的にもっとも偏愛するバグルスThe Bugglesの『ラジオスターの悲劇Video Killed The Radio Star』が大ヒットする1979年まで、そしてもちろん、西ドイツのあのジンギスカンDschinghis Khanもデビューした奇跡の1979年まで、延々とだらだら思い出し続けていきたくもなるが、このあたりで止めよう。ここまでお読みになった皆さん自身が、これからは、ひとりひとり、あの頃を思い出し直していく番だ。




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