2012年4月24日火曜日

浅香社と落合直文



 本駒込の大きく立派な名刹、吉祥寺を訪ねたおり、寺から出た南側の小路を歩いていて、浅香社の旧跡を見つけた。本駒込三丁目あたりだったと思う。格別感慨があったわけでもないが、ここに落合直文が越してきて、あの浅香社を作ったのかと思い、吉祥寺のほうを見ながら、当時のありさまを想像した。
今は寺の壁がめぐり、眺望を遮っているが、昔は壁などなかったかもしれない。寺の多い土地だから、あちこちに寺が見え、墓もそこ此処に見えたかもしれない。


明治二十六年のことだったという。本郷のこの地は、当時は浅嘉町といった。落合直文はここに移ったのを機に、結社・浅香社を立ち上げる。創世期の同志には、実弟の鮎貝槐園、与謝野鉄幹、大町桂月、塩井雨江、内海月杖ら。やがて、久保猪之吉、服部躬治、武島羽衣、尾上柴舟、金子薫園、丸岡桂なども集まってくる。
今でも短歌や俳句では結社というものがあり、これによって創作や考究の励みを得る人も多いだろうが、集団というものはそもそも、集団として存続し続けようとするがための独自の運動体になっていくもので、なにかと煩わしい窮屈さが出てくる。浅香社は、この点でなかなかユニークだった。結社でありながら、主義も綱領も掲げず、機関紙も出さない。同人たちは、短歌改良の思いをともにする程度の緩いつながりで結ばれている程度で、はっきりしない曖昧な集まりだった。これがかえって功を奏し、同人たちは自由に才能を伸ばし、各人の創作活動に向かっていったらしい。
 

 こうした浅香社の雰囲気は、落合直文という人の人柄に負うところが大きい。包容力ある自由人だったという。
同志の与謝野鉄幹の伝えるところによれば、「独自な歌を詠め、古人にも今人にも追随するな。勿論予の歌も眼中に置くな」と指導したらしい。大らかな指導方針に見えるが、短歌においては、これは最も厳しい指導ともいえる。
「独自な歌を詠め」と言われて、はい、そうですか、と独自な歌が詠めるならば、それは天才というものだろう。「予の歌も眼中に置くな」はまだしも、「古人にも今人にも追随するな」というのは殆ど不可能に等しい。橘曙覧の歌に追随しまいとすれば、藤原良経に傾くかもしれない。万葉にも古今にも寄らないというのは難しく、ともすれば新古今、あるいは、もっと真似のしやすい千載和歌集に傾くかもしれない。人麻呂から距離を取るのは意外に容易でも、山部赤人、山上憶良などには、いつの間にか近づいてしまう。気にしていないようでも、ひょんなところで西行が待っている。ふいに実朝が身近に迫ってもくる。家持の近代性も、いつも、ひしひしと泌みる。
どうしたらいいか、どう進んだらいいか、そんなことは、落合直文にもわからなかったのではないか。「独自な歌を詠め、古人にも今人にも追随するな。勿論予の歌も眼中に置くな」とは、誰よりも、自分にこそ向けて言った言葉だっただろう。自分のこれまでの歌、自分の中にしつこく巣食っている和歌の古色蒼然たる部分、それを「眼中に置くな」と自らに叱咤していたに違いない。
仙台藩に生れ、東京帝大古典講習科に学んだこの国文学者は、森鴎外らのS.S.S(新声社)の同人にもなり、訳詩を発表したり、「日本文学全集」を編纂刊行したり、長詩「孝女白菊の歌」創作などをしてきたが、よき教養人であり過ぎたというべきか、激しい改革運動を展開するだけの蛮勇は持ちあわせていなかった。『新体詩抄』以来、短歌否定論や短歌改良論が盛んに議論されたが、その中にあっての彼は、旧派にも新派にも理解を示すような人物であり、折衷派と呼ばれることになる。「私は新派であるか、旧派であるかといふに、やや新派に左袒して居るものです、また旧派もすてない、否旧派より出でたる新派にあらざれば、到底、善美なる歌は望むべからざるものと思ふ」と語り、「詞は古きにとりて調は新しきにとる」行き方とともに「調はふるきにとりて詞は新しきにとる」行き方をも認めるとなれば、確かに、どっちつかずと見られても仕方がないところがあっただろう。


しかし、国学の伝統を深く身につけた人として、旧派の表現技巧・措辞にも通じ、伝統和歌の美意識の味わい方を知っていた人にとって、新しい短歌がどうあるべきものと映っていたかと想像すると、落合直文の態度はそれなりに納得がいく。新しい歌が生れるべきであり、改革はなされるべきであったが、しかし、新たな歌の姿はまったく見えていない時期に彼はいたのである。そういう時期に、「旧派もすてない、否旧派より出でたる新派にあらざれば、到底、善美なる歌は望むべからざるものと思ふ」との見解を持つのは、まっとうな、正確な選択であったというべきだろう。改革や新しさが要請されているとはいえ、それが歌の魅力や風格を破壊しては元も子もない。
魅力というものは、しかし、恐ろしい。なにかを魅力と感じうる素地を育んだ人にしか魅力とはなり得ないし、彼にとっては、その魅力の素地から外れる新たなものは、先ずは魅力でないものとして到来するだろう。非常に困難な、苦しい美意識の多様な闘争が起こる。そういう闘争の大きな一局を落合直文は担い、その現実的な場所が浅香社なのだった。


残された実作は、古い美意識に心の髄まで浸されたよき教養人が、過去から伸びて来る無数の手にがんじがらめにされ、引き戻されつつ、それでも新たなものに首を向けようとする必死の爪あとにも見える。もし時間や時代というものが進まないのならば、その中にいくらも憩っていたいような景が表現されており、それなりの充実があり、風通しのよい古典的詩歌精神の爽やかさがあるが、逆の見方をすれば、どのように歌ってはいけないか、どこを除き、どこを変更すればいいのか、よくわかる実例が並んでいるともいえる。

緋縅の鎧をつけて太刀はきて見ばやとぞおもふ山桜花
ひとつもて君をいははむひとつもて親をいははむふたもとある松
玉すだれゆらぐともなき春風の行方を見せて舞ふ胡蝶かな
萩寺の萩おもしろし露の身のおくつきどころ此処と定めむ
小瓶をば机の上に載せたれどまだまだ長し白藤の花
をとめらが泳ぎしあとの遠浅に浮環のごとき月浮び出でぬ
父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり
さわさわと我が釣り上げし小鱸(をすずき)の白きあぎとに秋の風ふく
近江の海夕霧ふかしかりがねの聞ゆるかたや堅田なるらむ
渡殿をかよふ更衣のきぬすそに雪とみだれてちるさくらかな
原町にめしひふたりが杖とめて秋のゆふべを何かたるらむ
町中の火の見やぐらに人ひとり火を見て立てり冬の夜の月
馬屋(まや)のうちに馬のもの食ふその音も幽かに聞ゆ夜や更けぬらむ
父と母と何れがよきと子に問へば父よと云ひて母をかへりみぬ
桜見に明日は連れてと契りおきて子はいねたるを雨降り出でぬ
木枯よ汝が行方の静けさのおもかげ夢みいざこの夜寝む

 風向きががらりと変わっていく瞬間。潮の流れが反転する場所。これらはみな、そういう場に居合わせ、自分の作歌の現場で転回点というものを引き受けた人の歌である。「独自な歌を詠め、古人にも今人にも追随するな。勿論予の歌も眼中に置くな」というのは、思えば、詩歌永遠のまことに純粋な要請であり、誰もが思いながらも、これほど純粋にはっきりとは、なかなか容易には発言できない。日本近代の詩歌の精神を鮮明に示した人として、落合直文は、やはり生半な歌人ではなかったというべきだろう。

 文学活動のかたわら、一高、早稲田、跡見、東京外語学校などで教えたが、特に國學院には、四十二歳の若さで亡くなるまで在職し続けていたという。



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