2016年1月5日火曜日

1983年3月18日

  
 日本にいる時、ふつうの勤め人のような休みが年末年始に取れるようになったのは、いつ頃からだっただろう。

 いつも複数の仕事を平行してやりながら生きてきたが、年末年始は進学塾や予備校の冬期講習で、12月29日までは仕事だったし、場合によっては30日までのこともあった。1月は、遅くとも3日には仕事が始まった。2日に始まった場合もある。それどころか、バブル期頃までは、31日や元日に景気付けで特訓をやることもあって、そうなると一日も休まない年末年始となった。
 馬鹿げた働きぶりのようだが、この時期は他の仕事とかち合わないため、逆に仕事が入れやすい。その上、他の祝日の時と同様、世間が休んでいる時の仕事というのは、じつはどこか楽なところがあるもので、疲れぐあいが格段に少ない。日本の正月の休みぶりには愚かしいところがあり、寺社詣をしても帰郷しても、ただ疲れるだけでなにもいいことはない。家でおせち料理を食べても旨くもないし、餅も体にいいことはない。テレビを見続けるのは愚の骨頂だろう。そうなると、いつも通りに本を読んだり勉強したりということになるが、それならば、外に出て行く仕事を入れておいて、生活リズムを強制的に保ちながら暮らすのがいちばんだし、電車内で読むほうが本は遙かに捗るしで、ようするに、働くに如くはなし、なのである。

 フランス人のエレーヌ・セシル・グルナックと暮らしていた頃、さすがに元日は休みをとって、近くの下北沢や渋谷に歩きに出たりした。しかし、今と違って元日には店の多くは休んでいて、ちょっとなにか外で食べるにも苦労するし、ろくな喫茶店もないしで、結局、日が暮れてからロッテリアあたりに入って、つまらないものを食べることがあった。ハンバーガーを食べるが、これが旨くない。コーヒーも不味くて、「ピピ・ド・シャ」だと、よくエレーヌは言った。これは「猫のおしっこ」という意味で、不味い飲み物のことを言う。
 まわりを見まわすと、金まわりの悪そうな若者たちばかりで、なんだかなァ、と思った。私も若かったし、もちろん裕福でもなかったけれど、元日ぐらいは、もう少しまともな店でコーヒーを飲みたいと思った。しかし、当時は元日というと、本当に、まともな店はみな休んでいるので、チープな内装のファーストフードぐらいしか選択肢がなかったのだ
 エレーヌはしかし、こういう気取らない休息が気に入っていた。クリスマスにも、よく、ケンタッキーでディナーをした。単に店に入って、から揚げをひとり宛二三本買い、ガレットみたいなパンを買い、コーヒーを買って、クリスマス・ディナーとする。プラスチックのイスに座り、クリスマスの曲が流れ続ける中で、似たようにシンプルな気取らない夕食を好む他の若い客たちに交じって、いつもと同じように、文学のことや哲学のこと、神秘主義やオカルトのことを話し続ける。
 食べ終わると、これもいつものように、彼女は煙草のゴロワーズかジタンを出し、何本も吸い始める。当時は禁煙などというものはなかったから、ケンタッキーであろうとロッテリアであろうと、ミスター・ドーナッツであろうと、誰もが平気で煙草を吸っていた。
 クリスマス・ディナーは、下北沢のロッテリアでやったこともある。確か、彼女が、フランス語を教えている金持ちのマダムたちのクリスマス会を断って帰ってきた時で、お金持ちのマダムたちといっしょに仕事以外の時にもつき合うのは疲れる、と早々に帰ってきたのだった。その人たちとのつき合いはその後も長く続いたし、雰囲気は悪くなかったはずだが、それでもこんな小さな我儘さがエレーヌの持ち味でもあった。
 ロッテリアではハンバーガーを食べて、コーヒーをもちろん取って、その後はなにかデザートを取ったのではないかと思う。どれもろくなものではないし、たいして旨くはないのだが、ふたりでこんなものを食べながらクリスマスを過ごすというのが楽しかった。世間ではもっとちゃんとしたものを食べたりするのに、ロッテリアで、こんなものを食べてさ、ひどいもんだよね、僕らは、というのが楽しかった。私以上に、なによりエレーヌがこれを楽しんでいた。

 晩年にいっそうはっきりしていくことになったが、彼女には粗衣趣味というようなものがあって、女物を着るのを嫌い、高価なものを着るのを嫌った。もっとも、その頃はまだイッセイ・ミヤケやアニエスb.を好んで着ていたので、この趣味はさほど強く発現してはいなかった。フランスのチベットと言われるロゼール県の山奥の町で生まれ育った、裕福でない家庭の出ということが、こうした好みの根底にはあったのかもしれない。
しかし、いったんパリに出て大学生になってからは、彼女には金持ちの男たちが集まった。19歳の時には、地中海に島をいくつか持ち、城もいくつか持っている初老の男から結婚を申し込まれ、カフェでダイヤの指輪や金のネックレスを差し出された。他の金持ちの老人は、やはりエレーヌに結婚を持ちかけ、金銭面では将来なんの不如意も味あわせない、が、いつも髪を完璧な金髪に染めるのだけは受け入れてくれ、と頼んだという。エレーヌの性格の強さは、自分が愛していない男は全く受け入れないという態度で現われ、その後、たくさんの男たちが拒絶されていくことになる。
そんな中で婚約者になりかけたベトナム人は、よほど素敵な男だったのだろうか。医学部を終え、医師免許を取って、すでにパリでインターンになっており、いずれはベトナムに帰って開業するつもりの若い医師だった。それはそれで悪くなかっただろうが、ベトナム人の習俗がエレーヌには問題だった。ベトナム人はつねに大家族で行動する。結婚したら、エレーヌはベトナムの家族の中に入らねばならず、夫の母や祖母や姉妹たちの中でうまくやらねばならない。それはどうしても受け入れられないということで、彼とは別れることにした。家族のしがらみだけは、彼女にとって、なにがあっても受け入れられない障壁だった。
その後、ベトナム人の後輩のフランス人医学生と知り合い、つき合うようになった。エレーヌはパリ大学在学中、プーシキン研究で修士を取ったり、その後、日本語研究に進んでも、医学部の学食で食事を取ることが多かったようだが、それは、この医学生やその友人たちと食べる機会があったためらしい。

エレーヌのこの新しい恋人、ジャン‐フランソワ・ジュランは、後に、特に心臓を得意とする内科医となる。裕福な家の出身で優秀だったし、パリから遠くない町で開業できる見通しもすでに立っていて、彼はエレーヌを妻に迎えて、地方都市の医師として順風満帆の人生を送って行けるものと思っていた。エレーヌにとっても、悪い環境ではない。医師の奥様として、とりあえずは不足のない人生が保証されていた。ジャン‐フランソワの母とも関係は良好で、威圧的な風を吹かすような姑ではなかった。彼らは婚約し、ヴァカンスにはいっしょに、世界のさまざまなところへ旅に出た。1970年、大阪で万国博覧会が催された時には来日し、万博だけでなく、日本中を旅してまわった。
しかし、ジャン‐フランソワが医師免許を取り、いよいよ開業もして、後は結婚するばかりとなった時、エレーヌは婚約を破棄した。この理由を、機会あるたびに私は聞いたが、どうしても地方の医者の妻に収まるという人生が受け入れられなかった、とエレーヌは言っていた。医師の妻がどういう生活を送るものか、60年代のフランスでは一定のイメージがあった。ブランド品を持って、町の名士の妻に恥じないよう品よく振舞い、家を切り盛りし、夫を助け、子供たちのよき母であること。多くの女たちには願ったりのイメージであるはずだが、エレーヌにはこれが地獄だった。彼女は左翼思想に固まってはいなかったが、それでもこのブルジョワの典型のような人生にだけは嵌りたくなかったらしい。五月革命前後のパリにいて、活動家などでは全くなかったが、一部始終を見続けたような経験が、やはり影響したものだろうか。医師の妻として、平穏に生きていくという道が始まろうとするところで、彼女は自分からその可能性を断ち切ったのだった。
ジャン‐フランソワは、この婚約破棄を受けて、エレーヌに見せしめをするように、すぐに他の女と結婚をした。前から仲睦まじかったのではなかったらしく、衝動的なところのあるものだったらしい。妻となったその女を愛してはいなかったので、数年もしないうちに、クリニックで働く看護婦と不倫関係に陥る。婚姻関係は維持したものの、家庭生活は苦しいものとなった。やがて別居し、彼は看護婦との再婚を望んだが、妻はそれを妨害すべく、離婚に応じようとはしなかった。60歳も過ぎた頃の彼が日本に来る時、私はエレーヌに頼まれて、何度か彼のためにホテルの手配をしたことがある。その頃でも、そろそろ妻が離婚に応じてくれるかもしれない、といった状態だった。ジュラン医師は、医者としては成功したものの、結婚生活はずっと暗雲の中だった。

そんなジャン‐フランソワの相談事を時どき聞きながら、エレーヌはパリで図書館員として働き、ロシア語、英語、ドイツ語、アラビア語、日本語などを学び続けた。1977年、パリ東洋語学校教授ジャン‐ジャック・オリガスJean-Jacques Origasの強い推薦を受け、東京に留学させられることになった。駒場の東大教養学部脇にある留学生会館に住むことになったが、そこに滞在できるのは一年間だったので、翌年には他の住まいを見つける必要があった。他のふたりのフランス女性とともに三人で、池ノ上の一軒家を借りることができ、そこの二階に住み始めた。
 エレーヌの留学目的は、一応、二葉亭四迷研究だったが、東京に来るとすぐに、彼女はこれに研究上の興味を失った。留学生会館の自室にいたある日、彼女は、身のまわりのすべてがホワイトアウトのようになる強烈な光の経験をする。神秘体験と呼ぶべきもので、この瞬間に、二葉亭四迷研究も、日本語の勉強も、日本研究も、すべてが興味から消滅してしまった。元々、彼女の本当の関心は神秘主義やオカルティズムにあったので、それが津波のように押し寄せてきて、意識の前面を領するようになったとも言える。
 とはいえ、二葉亭四迷などについても、本当は、興味を失ったとは言えないだろう。パリに居た時に講義や本だけの情報から研究対象と決めた二葉亭四迷のまわりに、あまりに多くの日本の現実の文物が押し寄せたため、興味の対象が急激に増加し拡大し過ぎたのに違いない。日本の梅雨や湿り気、暑さ、四季、豆腐や納豆などの食べ物と接するうち、かつて自分がこの風土の中にいたことがあると確信するに到り、彼女は奇妙な文化的眩暈の中に入り込むことにもなった。

 この頃から2年ほど経った後、1980年頃、私は初めて、偶然にエレーヌに出会った。しかし、しばらく話した程度で、継続的に会ったりすることもなかった。電話番号だけは聞いていた。
 1983年の春先のある朝のこと、目覚めると、私の頭の中にふいに、「エレーヌさんに電話しろ」という男の声がはっきりと響いた。もちろん、私は訝った。何年も連絡さえ取らなかった外国人にそのような電話をする必要はなかったし、夢を見ているのでもない目覚めた頭の中で、異様な声が響いてきて命令してくるなど、そのまま受け止められるようなことではなかった。この奇妙な命令の通りに行動するわけにも、もちろん、いかなかった。
 しかし、私はすぐに電話した。異常な時の異常な行動だと、今では思う。
 電話にエレーヌが出たので、数年前に会ったことがあるが覚えていますか、と聞くと、覚えていると思います、と言った。誰とでもカフェで話すのが好きだったエレーヌは、それでは、3月18日の夕方なら大丈夫ですから、と言った。
 1983年3月18日、16時に、新宿通りの旧紀伊国屋書店1階で待ちあわせた。
 暖かい日で、私は白いセーターだけで行った。16時よりはやく着き、紀伊国屋ビルの地下にあるトイレに先に寄っておこうと思いながらビルに近づいて行くと、エレーヌが表のエスカレーターを昇って行くのが背後から見えた。まだ時間があるので、洋書の階に行って、少し見てくるつもりだろうか、と思った。

 その時から33年になろうとする。
 昨年12月、新宿通りの紀伊国屋書店に久しぶりに二度行く機会があった。最近は南口の高島屋のほうの店舗に行くことが多く、旧館にはほとんど行かない。店の様子はずいぶん変わったようだが、基本的な構造は昔通りだった。地下のトイレに寄ってみると、少し内装は変わったが、33年前と同じ配置で、特に洗面台の位置や様子は全く変わっていなかった。
 33年前、この洗面台の前に立って、鏡を見ながら、たぶん、髪を直したりしたはずだろう。そうして、16時になろうとする少し前に出て、急いで一階の正面に向かって行ったはずだ。
 長い時間が過ぎた後の紀伊国屋書店で、手洗いから出て、誰と待ち合わせしているのでもない一階の正面に出て行ってみたが、もちろん、エレーヌはいない。見知らぬ人たちが数人立っていて、誰かを待っている。ちょうど互いを見つけ合ったばかりらしい人たちもいて、お辞儀をし合っていた。
 33年前、あの場所であんなふうにしていた私とエレーヌを、傍から、今私がいるあたりから見た人もいたかもしれない。
その時の傍観者はどちらのほうへ歩いていったものだろう。あの後の私とエレーヌの物語など、もちろん、追いもしないで。私のことはともかく、幸福にならないというわけでもなかったはずの結婚を破棄して、わざわざ極東にまで来て、その後2010年まで生きて、東京で死んでいったひとりのフランス女の物語の全容を、全く知りもせずに。
1983年3月18日、41歳のエレーヌ・セシル・グルナック。まだ若い、しかし、同時に、人生のすべてをやり直すにはもう若くない、そんな意識で新宿の紀伊国屋書店の一階正面にやって来ようとする彼女を、見えるわけもないのに、あるいは、見え尽している気でいるのに、私は見出し直そうとして、しばらく佇んだ。

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