2016年1月5日火曜日

1983年3月18日

  
 日本にいる時、ふつうの勤め人のような休みが年末年始に取れるようになったのは、いつ頃からだっただろう。

 いつも複数の仕事を平行してやりながら生きてきたが、年末年始は進学塾や予備校の冬期講習で、12月29日までは仕事だったし、場合によっては30日までのこともあった。1月は、遅くとも3日には仕事が始まった。2日に始まった場合もある。それどころか、バブル期頃までは、31日や元日に景気付けで特訓をやることもあって、そうなると一日も休まない年末年始となった。
 馬鹿げた働きぶりのようだが、この時期は他の仕事とかち合わないため、逆に仕事が入れやすい。その上、他の祝日の時と同様、世間が休んでいる時の仕事というのは、じつはどこか楽なところがあるもので、疲れぐあいが格段に少ない。日本の正月の休みぶりには愚かしいところがあり、寺社詣をしても帰郷しても、ただ疲れるだけでなにもいいことはない。家でおせち料理を食べても旨くもないし、餅も体にいいことはない。テレビを見続けるのは愚の骨頂だろう。そうなると、いつも通りに本を読んだり勉強したりということになるが、それならば、外に出て行く仕事を入れておいて、生活リズムを強制的に保ちながら暮らすのがいちばんだし、電車内で読むほうが本は遙かに捗るしで、ようするに、働くに如くはなし、なのである。

 フランス人のエレーヌ・セシル・グルナックと暮らしていた頃、さすがに元日は休みをとって、近くの下北沢や渋谷に歩きに出たりした。しかし、今と違って元日には店の多くは休んでいて、ちょっとなにか外で食べるにも苦労するし、ろくな喫茶店もないしで、結局、日が暮れてからロッテリアあたりに入って、つまらないものを食べることがあった。ハンバーガーを食べるが、これが旨くない。コーヒーも不味くて、「ピピ・ド・シャ」だと、よくエレーヌは言った。これは「猫のおしっこ」という意味で、不味い飲み物のことを言う。
 まわりを見まわすと、金まわりの悪そうな若者たちばかりで、なんだかなァ、と思った。私も若かったし、もちろん裕福でもなかったけれど、元日ぐらいは、もう少しまともな店でコーヒーを飲みたいと思った。しかし、当時は元日というと、本当に、まともな店はみな休んでいるので、チープな内装のファーストフードぐらいしか選択肢がなかったのだ
 エレーヌはしかし、こういう気取らない休息が気に入っていた。クリスマスにも、よく、ケンタッキーでディナーをした。単に店に入って、から揚げをひとり宛二三本買い、ガレットみたいなパンを買い、コーヒーを買って、クリスマス・ディナーとする。プラスチックのイスに座り、クリスマスの曲が流れ続ける中で、似たようにシンプルな気取らない夕食を好む他の若い客たちに交じって、いつもと同じように、文学のことや哲学のこと、神秘主義やオカルトのことを話し続ける。
 食べ終わると、これもいつものように、彼女は煙草のゴロワーズかジタンを出し、何本も吸い始める。当時は禁煙などというものはなかったから、ケンタッキーであろうとロッテリアであろうと、ミスター・ドーナッツであろうと、誰もが平気で煙草を吸っていた。
 クリスマス・ディナーは、下北沢のロッテリアでやったこともある。確か、彼女が、フランス語を教えている金持ちのマダムたちのクリスマス会を断って帰ってきた時で、お金持ちのマダムたちといっしょに仕事以外の時にもつき合うのは疲れる、と早々に帰ってきたのだった。その人たちとのつき合いはその後も長く続いたし、雰囲気は悪くなかったはずだが、それでもこんな小さな我儘さがエレーヌの持ち味でもあった。
 ロッテリアではハンバーガーを食べて、コーヒーをもちろん取って、その後はなにかデザートを取ったのではないかと思う。どれもろくなものではないし、たいして旨くはないのだが、ふたりでこんなものを食べながらクリスマスを過ごすというのが楽しかった。世間ではもっとちゃんとしたものを食べたりするのに、ロッテリアで、こんなものを食べてさ、ひどいもんだよね、僕らは、というのが楽しかった。私以上に、なによりエレーヌがこれを楽しんでいた。

 晩年にいっそうはっきりしていくことになったが、彼女には粗衣趣味というようなものがあって、女物を着るのを嫌い、高価なものを着るのを嫌った。もっとも、その頃はまだイッセイ・ミヤケやアニエスb.を好んで着ていたので、この趣味はさほど強く発現してはいなかった。フランスのチベットと言われるロゼール県の山奥の町で生まれ育った、裕福でない家庭の出ということが、こうした好みの根底にはあったのかもしれない。
しかし、いったんパリに出て大学生になってからは、彼女には金持ちの男たちが集まった。19歳の時には、地中海に島をいくつか持ち、城もいくつか持っている初老の男から結婚を申し込まれ、カフェでダイヤの指輪や金のネックレスを差し出された。他の金持ちの老人は、やはりエレーヌに結婚を持ちかけ、金銭面では将来なんの不如意も味あわせない、が、いつも髪を完璧な金髪に染めるのだけは受け入れてくれ、と頼んだという。エレーヌの性格の強さは、自分が愛していない男は全く受け入れないという態度で現われ、その後、たくさんの男たちが拒絶されていくことになる。
そんな中で婚約者になりかけたベトナム人は、よほど素敵な男だったのだろうか。医学部を終え、医師免許を取って、すでにパリでインターンになっており、いずれはベトナムに帰って開業するつもりの若い医師だった。それはそれで悪くなかっただろうが、ベトナム人の習俗がエレーヌには問題だった。ベトナム人はつねに大家族で行動する。結婚したら、エレーヌはベトナムの家族の中に入らねばならず、夫の母や祖母や姉妹たちの中でうまくやらねばならない。それはどうしても受け入れられないということで、彼とは別れることにした。家族のしがらみだけは、彼女にとって、なにがあっても受け入れられない障壁だった。
その後、ベトナム人の後輩のフランス人医学生と知り合い、つき合うようになった。エレーヌはパリ大学在学中、プーシキン研究で修士を取ったり、その後、日本語研究に進んでも、医学部の学食で食事を取ることが多かったようだが、それは、この医学生やその友人たちと食べる機会があったためらしい。

エレーヌのこの新しい恋人、ジャン‐フランソワ・ジュランは、後に、特に心臓を得意とする内科医となる。裕福な家の出身で優秀だったし、パリから遠くない町で開業できる見通しもすでに立っていて、彼はエレーヌを妻に迎えて、地方都市の医師として順風満帆の人生を送って行けるものと思っていた。エレーヌにとっても、悪い環境ではない。医師の奥様として、とりあえずは不足のない人生が保証されていた。ジャン‐フランソワの母とも関係は良好で、威圧的な風を吹かすような姑ではなかった。彼らは婚約し、ヴァカンスにはいっしょに、世界のさまざまなところへ旅に出た。1970年、大阪で万国博覧会が催された時には来日し、万博だけでなく、日本中を旅してまわった。
しかし、ジャン‐フランソワが医師免許を取り、いよいよ開業もして、後は結婚するばかりとなった時、エレーヌは婚約を破棄した。この理由を、機会あるたびに私は聞いたが、どうしても地方の医者の妻に収まるという人生が受け入れられなかった、とエレーヌは言っていた。医師の妻がどういう生活を送るものか、60年代のフランスでは一定のイメージがあった。ブランド品を持って、町の名士の妻に恥じないよう品よく振舞い、家を切り盛りし、夫を助け、子供たちのよき母であること。多くの女たちには願ったりのイメージであるはずだが、エレーヌにはこれが地獄だった。彼女は左翼思想に固まってはいなかったが、それでもこのブルジョワの典型のような人生にだけは嵌りたくなかったらしい。五月革命前後のパリにいて、活動家などでは全くなかったが、一部始終を見続けたような経験が、やはり影響したものだろうか。医師の妻として、平穏に生きていくという道が始まろうとするところで、彼女は自分からその可能性を断ち切ったのだった。
ジャン‐フランソワは、この婚約破棄を受けて、エレーヌに見せしめをするように、すぐに他の女と結婚をした。前から仲睦まじかったのではなかったらしく、衝動的なところのあるものだったらしい。妻となったその女を愛してはいなかったので、数年もしないうちに、クリニックで働く看護婦と不倫関係に陥る。婚姻関係は維持したものの、家庭生活は苦しいものとなった。やがて別居し、彼は看護婦との再婚を望んだが、妻はそれを妨害すべく、離婚に応じようとはしなかった。60歳も過ぎた頃の彼が日本に来る時、私はエレーヌに頼まれて、何度か彼のためにホテルの手配をしたことがある。その頃でも、そろそろ妻が離婚に応じてくれるかもしれない、といった状態だった。ジュラン医師は、医者としては成功したものの、結婚生活はずっと暗雲の中だった。

そんなジャン‐フランソワの相談事を時どき聞きながら、エレーヌはパリで図書館員として働き、ロシア語、英語、ドイツ語、アラビア語、日本語などを学び続けた。1977年、パリ東洋語学校教授ジャン‐ジャック・オリガスJean-Jacques Origasの強い推薦を受け、東京に留学させられることになった。駒場の東大教養学部脇にある留学生会館に住むことになったが、そこに滞在できるのは一年間だったので、翌年には他の住まいを見つける必要があった。他のふたりのフランス女性とともに三人で、池ノ上の一軒家を借りることができ、そこの二階に住み始めた。
 エレーヌの留学目的は、一応、二葉亭四迷研究だったが、東京に来るとすぐに、彼女はこれに研究上の興味を失った。留学生会館の自室にいたある日、彼女は、身のまわりのすべてがホワイトアウトのようになる強烈な光の経験をする。神秘体験と呼ぶべきもので、この瞬間に、二葉亭四迷研究も、日本語の勉強も、日本研究も、すべてが興味から消滅してしまった。元々、彼女の本当の関心は神秘主義やオカルティズムにあったので、それが津波のように押し寄せてきて、意識の前面を領するようになったとも言える。
 とはいえ、二葉亭四迷などについても、本当は、興味を失ったとは言えないだろう。パリに居た時に講義や本だけの情報から研究対象と決めた二葉亭四迷のまわりに、あまりに多くの日本の現実の文物が押し寄せたため、興味の対象が急激に増加し拡大し過ぎたのに違いない。日本の梅雨や湿り気、暑さ、四季、豆腐や納豆などの食べ物と接するうち、かつて自分がこの風土の中にいたことがあると確信するに到り、彼女は奇妙な文化的眩暈の中に入り込むことにもなった。

 この頃から2年ほど経った後、1980年頃、私は初めて、偶然にエレーヌに出会った。しかし、しばらく話した程度で、継続的に会ったりすることもなかった。電話番号だけは聞いていた。
 1983年の春先のある朝のこと、目覚めると、私の頭の中にふいに、「エレーヌさんに電話しろ」という男の声がはっきりと響いた。もちろん、私は訝った。何年も連絡さえ取らなかった外国人にそのような電話をする必要はなかったし、夢を見ているのでもない目覚めた頭の中で、異様な声が響いてきて命令してくるなど、そのまま受け止められるようなことではなかった。この奇妙な命令の通りに行動するわけにも、もちろん、いかなかった。
 しかし、私はすぐに電話した。異常な時の異常な行動だと、今では思う。
 電話にエレーヌが出たので、数年前に会ったことがあるが覚えていますか、と聞くと、覚えていると思います、と言った。誰とでもカフェで話すのが好きだったエレーヌは、それでは、3月18日の夕方なら大丈夫ですから、と言った。
 1983年3月18日、16時に、新宿通りの旧紀伊国屋書店1階で待ちあわせた。
 暖かい日で、私は白いセーターだけで行った。16時よりはやく着き、紀伊国屋ビルの地下にあるトイレに先に寄っておこうと思いながらビルに近づいて行くと、エレーヌが表のエスカレーターを昇って行くのが背後から見えた。まだ時間があるので、洋書の階に行って、少し見てくるつもりだろうか、と思った。

 その時から33年になろうとする。
 昨年12月、新宿通りの紀伊国屋書店に久しぶりに二度行く機会があった。最近は南口の高島屋のほうの店舗に行くことが多く、旧館にはほとんど行かない。店の様子はずいぶん変わったようだが、基本的な構造は昔通りだった。地下のトイレに寄ってみると、少し内装は変わったが、33年前と同じ配置で、特に洗面台の位置や様子は全く変わっていなかった。
 33年前、この洗面台の前に立って、鏡を見ながら、たぶん、髪を直したりしたはずだろう。そうして、16時になろうとする少し前に出て、急いで一階の正面に向かって行ったはずだ。
 長い時間が過ぎた後の紀伊国屋書店で、手洗いから出て、誰と待ち合わせしているのでもない一階の正面に出て行ってみたが、もちろん、エレーヌはいない。見知らぬ人たちが数人立っていて、誰かを待っている。ちょうど互いを見つけ合ったばかりらしい人たちもいて、お辞儀をし合っていた。
 33年前、あの場所であんなふうにしていた私とエレーヌを、傍から、今私がいるあたりから見た人もいたかもしれない。
その時の傍観者はどちらのほうへ歩いていったものだろう。あの後の私とエレーヌの物語など、もちろん、追いもしないで。私のことはともかく、幸福にならないというわけでもなかったはずの結婚を破棄して、わざわざ極東にまで来て、その後2010年まで生きて、東京で死んでいったひとりのフランス女の物語の全容を、全く知りもせずに。
1983年3月18日、41歳のエレーヌ・セシル・グルナック。まだ若い、しかし、同時に、人生のすべてをやり直すにはもう若くない、そんな意識で新宿の紀伊国屋書店の一階正面にやって来ようとする彼女を、見えるわけもないのに、あるいは、見え尽している気でいるのに、私は見出し直そうとして、しばらく佇んだ。

しらけ世代だの無共闘世代だの

 
  また新年が来たようだが、いつもながら、感動もなければ、気分を一新して何かをどうしよう、こうしようなどと思うわけでもない。
 世代という曖昧この上ない括りで、なにかわかったつもりになろうとしても意味はないとはわかっているけれども、全共闘ならぬ無共闘世代とか、しらけ世代とかいうものに自分が属しているのを思い出すと、新年の思いというのも、やはりいつまでもこんなものかな、と思うところもある。
とにかく、頑張る、ちゃんとやる、大仰な目的を持つなどといったことを、この上なく恥ずかしいことと見なすのが私の世代だった。
中学の頃、先生たちは、なにかというと「頑張れ」とか「根性を入れろ」とか声を荒げてきた。それに対して、誰からともなく、童謡の『しゃぼん玉』の替え歌で、
♪しらけ鳥飛んだ  屋根まで飛んだ
  屋根まで飛んで  しらけて落ちた
  落ちるなら飛ぶな しらけ鳥落ちた
と声が流れてくる。前世代や前々世代ならば声を合わせて唱和したりするのかもしれないが、私たちの世代はそういうことはしない。他人のやること、他人が始めたことに合流するとか、世の中の流れに積極的に乗るとか、いっしょにやるということがカッコわるいので(これを、私たちの後の世代は「ダサイ」と呼び始めた)、唱和なんかしたりはしないものの、それでも、うまく言ってるなァ、と思ったり、褒めたりはする。そうして、ひとりになった時に、♪し~らけ鳥飛んだァ…などと鼻唄してみたりする。

 私の世代は、幼時から安保闘争だの大学紛争だのテレビニュースや週刊誌の写真を見て育ち、現在80歳以上の年齢になっている親の世代からは、念仏のように毎日、「ああいった学生に育ってはいけない」と言い含められてきた。私の指導教授たちの世代も親かそれ以上の年齢なので、全共闘世代や団塊の世代は、まァ、穏やかにいえば“不良”、厳しく言えば“悪”の塊であるかのように教育されたものである。
 とはいえ、子供の頃から、私の場合、教育されるということに見事なまでに秀でておらず、なにかを強く教え込まれると、左にであれ右にであれ必ず反抗するという生まれつきで、いかに親たちの世代から、全共闘=悪人、団塊の世代=人数ばかり多い不良たち、と叩き込まれようとも、あまり効果があったとはいえない。だいたい、母方の叔父のひとりは全共闘世代だったし、10しか歳の変わらない最年少の叔母は団塊の世代で、祖父母の家に遊びに行ったりすると、なにかというと無軌道に逸れようとするガキなどには、こんな叔父や叔母のほうがなにかと楽しいことが多かったので、どうも親の言うことは違うような気がすると思っていた。
 それに子供というのは、なんといっても、過激なものに反応する。これは小学校の時代のことだが、どこぞの大学で昨日騒ぎがあったぞと聞くと、それを真似して、近所のあばら家をオーッと襲撃したりするのである。最近の幼稚園児や小学生はずいぶんヤワになったようだが、私たちの頃は、登校時には決まってポケットに小石を詰め込み(これは、当時、ごく普通にそこらにいた野良犬と戦うための必須品である)、カッターや肥後ナイフを持ち、長い棒を削って刀にしたものを必ず持って出かけたものだ。そうして、仲間同士で毎日決闘や果たし合いはやるし、野良犬は追うし、猫は半殺しにする。カエルや蛇やトカゲは、見つければ必ず殺す(私は、個人的にはそうでもなかった)。友だちの手や腕はナイフで切る。登下校の家の窓には爆竹を投げ込んで襲撃する。こんなのが普通だったので、大学紛争などというのは、ほぼ、想像力の延長線上に位置していた。

 しかし、こんなふうにつらつら書いてくると、ちょっと待てよ、と思う。今書いたばかりの小学校時代のことは、思い出すだに、どうにも“しらけ世代”や“無共闘世代”の雰囲気ではない。むしろ、戦意高らかな小国民の趣がある。方々の粗大ゴミ置き場でテレビのブラウン管を割って楽しんだり、蛍光灯を破壊したり、瓶や缶を路上にぶちまけたり、トラックが来ると見れば石を投げて襲撃したり、どこかへ電車で出かけて駅の改札を通る時などには、必ず切符を雪のように小間切れにしておいて駅員の顔に投げつけて走り抜けるのを繰り返していた私たちは、むしろ戦闘世代そのもののように思い出されてくる。
 どうやら、“しらけ世代”だの“無共闘世代”っぽくなったのは、中学生になってからではなかったか。
 入学した中学は大したところではなかったが、それでも高校の続いていない受験校で、あいかわらず先生たちからは、何ごとであれ、頑張れ、頑張れ、と鼓舞され続けたが、先輩の二年生や三年生の男子たちのカッタルイ気分にはずいぶんと確立されたものがあって、どうしても身につけなければならない重苦しい作法のように、ぶ厚い雲海としてつねに漂っていた。放課後や文化祭には、なぎら健壱の『悲惨な戦い』はもちろん、団塊の世代が喜んで歌っていたフォークソングの弾き語りがそこ此処に開かれる。深夜放送の『セイ!ヤング』や『オールナイトニッポン』、『パックインミュージック』などを毎晩聴くのは当たり前で、落合恵子が視聴者の恋愛体験談を語る『ロスト・ラブ』をちゃんと毎回聴き逃さないように注意し、さらに朝の3時を過ぎて『歌うヘッドライト』や『走れ歌謡曲』まで聴いてしまう者も多く、学校に出てくると、今日は二時間も寝てないよ、などと言ってから机に突っ伏していたりする。
それでいて、じつはみんな、本当は頑張るのである。ダラッとした雰囲気をプンプンさせながら、成績はいいし、逸脱はしない。不良のようでいながら、不良とは程遠い。口ではいつも、「やってられねェよ」とか「頑張りたければ、頑張ればァ…」などと言っているけれど、たいていの学生たちは事務能力が高いし、平然と勉強も運動もこなしてしまう。

…と、こんなふうに書き続けてみて、今になってはじめて判然としてくるのは、どうやら中学時代が、『巨人の星』的根性路線と50年代生まれ的“しらけ世代”路線との混入地点らしかったことである。私たちの世代の心の中には、この両方の流れが入り込み、どちらが強く出るかは、個人個人に応じて違ったり、場合に応じて違ったりしたのではないか。
大事なのは、両方が私たちには流れこんでおり、逸脱し過ぎないように、場面に合わせて自動調整するようにできているということだろう。全共闘世代の失敗やアホラシさはさんざん見てきたし、その上の世代に属する親や先生からは、あの世代のようにだけはなってはいけない、と釘を刺され続けてきた。団塊の世代は、たとえば塾や進学教室などに行くといちばん若い先生をやっているオニイサンだったり、試験官のオニイサンだったり、いろいろな店のバイトのオニイサン、オネエサンだったりして、ずいぶん身近な存在で、良いも悪いもなく、日常の小“社会”でもっとも馴染みのある世代だったが、親の世代とはくっきりと好みや主張が違っていて、なんだかわからないが、頼まないうちから私たちの側にいつも立ってくれる感触があった。

新年になったからといって、サッパリと目出度い気分になれない私の昔ながらの心を、自分が属する世代のせいだという話に持っていこうとして考え始めたのに、考えたり思い出したりするほどに、どうもクッキリとした輪郭が出せなくなってきた感じだが、まァ、もう少し漠然と、私の世代ははっきりと何かを表明したり、主張したり、言上げしたりするのを嫌うところがある世代だという程度に、確認をしておけばいいのかもしれない。ペラペラとしゃべる親を持つ子は寡黙になったりするものだが、全共闘世代や団塊の世代を上に持った私たちの世代が、主張したり騒いだりしない世代になったのも、位置づけから見て当然と言えるような気がする。

私たちのすぐ後の世代は、社会人になった頃から新人類と呼ばれて、これはもう、二十代のはじめから歴然と違った行動様式を持っていた。上の世代の言うことをはじめから聞かないし、人の顔色も窺わずに好き嫌いを平気で表明する。集団行動をあまりにしなさ過ぎる。たいした能力も知識もないのに、マニュアルを見よう見まねでうろ覚えして偉がりたがる。私たちの世代が、卒業式も入社試験も、わざとジーンズで出かけて行くような“下げる”振る舞いをしていたのに、新人類は新しいスーツなど来て大挙して出かけて行く。クリスマスにはホテルを予約し、ガールフレンドとディナーをして、流行の宝石店で買った指輪やネックレスをプレゼントして、一泊するというような、信じがたい軽佻浮薄なことをやる。私たちの世代では逆立ちしても考えられなかったようなそんなことを平然とやってのけるような世代は、この新人類から始まったのだった。私たちの世代ならば、クリスマスや新年はわざとガールフレンドとは会わず、逆に距離感を演出したりして、一週間ほど過ぎた頃から連絡を取り始めたりした。
この新人類世代が出て来た時、職場のいちいちの場面で、私は腹立たしくて、怒りを抑えながら彼らとつき合うのにひどく苦労したのを覚えている。私たちの世代がどうにか全共闘世代や団塊の世代の我儘ぶりに合わせて無難に行動しようとしていたというのに、新人類世代は、私たちの世代が防壁になって先行世代からの重圧を抑えてやっていた陰で、楽々と勝手気ままに振舞っていたと見えた。じゃあ、私たちが防壁を一挙に取り去ってやろうか?、そうしたら、この連中も思い知るだろうに、などとよく思ったものだった。
もっとも、彼らも、団塊ジュニア世代が出てきた時には、彼らを上回るあまりのいい加減さと勝手さに憤慨するようになった。それどころか、私たちほどの忍耐力や政治性(これは、自分の世代以外のすべてがバカであるという認識を持っているということであり、ひいては、自分の世代もバカだらけだとわかっているということであるが…)をもともと備えていなかった新人類世代は、陸続と続いて出現してくる下の世代たちの異星人ぶりに対して遙かに耐性がなく、心理的に崩れていく場合が少なくなかったように見える。時代が経ってみると、自分の主張を一旦は隠して、他の人間に先ずは好きにやらせたり、騒がせてみるやり方が魂にまで染み込んでいる私たちの世代のほうが、どんな場合にも耐えられる潜在能力を持っているのではないかと見える。

こんな粗い世代論がたいして意味を持たないということは、たびたび経験させられるものだが、世代的には新人類と団塊ジュニアの間ぐらいに属するある男といっしょに歩いていた際、こんなことがあって、やはり世代論の無意味さを思わされた。公園をふたりで通りかかったら、鉄棒で初老の人が運動をしていた。それを見て、私よりはるかに若いその男が、
「あれ、恥ずかしいなァ。鉄棒なんかやって。恥ずかしいですよねェ。よくできるな、あんなこと」
 そんなふうに言った。
「どうして?ちょっと運動しているんでしょう?」
 そういうと、
「だって、あの人、スポーツ選手じゃないでしょう。それなのに、戸外に出てきて、鉄棒をやったりしている。専門家じゃない人間がなにかをやるなんて、人間として恥ずかしいなァ。よくやりますよねェ」
 男はこう答えた。
 彼は、どうやら、専門にしていること以外をやるのは、誰にとっても恥ずべきことだと思っているらしいのだ。じゃあ、趣味でなにかをやるのも恥ずかしいのか、と聞くと、趣味は趣味だからいいのだという。趣味でなにかをやるというのは、専門家ではないのにやってみています、だから大目に見てくださいね、そうはっきり明示しているのだから許される、という。
「でも、あの鉄棒のやり方は、あれは趣味ってもんじゃないですよねェ。体を鍛えるためにやっている。体を鍛えるなんて、恥ずかしいじゃないですか。スポーツ選手でもないのに」
 この思考に私は唖然とし、これほど縛られた考え方をしているのでは、生きるのもなかなか楽ではあるまいと感じ、可哀相にも思ったが、他人事なので放っておいた。
ただ、この時、あの中学時代の“しらけ鳥”の歌が自然に頭に蘇ってきたのだ。
あゝ、ここに、我らの世代の末裔がいる。どこをどう流れて、この男まで届いたものだか、それはわからないが、しらけ世代の精髄が純化されて、おそらく自らの人間的な魅力を減殺するほどに鋭くなって、この男の中に蠢いている。そう思い、私が彼ほどまでには酷いしらけ病に罹っていないらしいことを、とりあえずは幸せに感じた。
この男とはもう交流もないが、彼があんな考えを開陳してくれた頃より後、世の中は健康ブームやスポーツブームになり、もし彼があゝした考え方を変えていなければ、ますます生きにくい思いをすることになっただろうと思う。老人でもないのに世を批判し続けるような古い人間を気取るようにでもなったか、それとも、ガラリと転向して、スポーツおたくにでもなったか。
この男のしらけ病が癒えたとしても、おそらくどこかに病は受け継がれて、必死に世の中が変化しないようにブレーキをかける人間たちの姿を取っていたりするのではないか、と、やはり思われてならない。

一本針の腕時計

     「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な事件」
                        フリードリヒ・ニーチェ
         

 深夜、しばらく湯に浸かろうと浴槽に入ると、脇の桶の中にカード会社の情報誌があったので、温まりながらページを繰った。いつも、妻は雑誌を見ながら入浴する。それが置かれたままになっていたのだ。
 たいていの記事には興味が持てないが、高価な商品の広告は入浴時の暇つぶしには悪くない。カード会社の雑誌にはけっこうな高級品の広告が並んでいるものだし、商品が鮮明な写真や気取ったミニエッセーとともに紹介されているのはなかなか楽しく、場合によっては小さな充実感さえ味わえる。時計にしても、バッグにしても、ハーレー級のバイクにしても、高級品を買う嗜好は私にはないので、自分のための実地の役には全く立たないのだが、仮に買うとするならば…という視点を仮想して眺め続ける。このページのものより、むこうのページのもののほうが自分にはいいようだとか、質はどうだとか、ウィンドウ・ショッピングよりもいい気な誇大妄想ショッピングを脳中で展開するわけで、時計の値段など、数十万円などというのは安いほうで、数百万円はざら、一千万円を超えるものさえ範疇に入れて、ああでもない、こうでもないなどと考えてみるのだから、お気楽この上ない。
 そんなふうに見るうちに、アントワーヌ・プレジウソというデザイナーが作った《シエナ》という時計に目が止まった。デザインはシンプルで、一見、地味である。高級時計としては値段も安く、74万8000円しかしない。はじめは、実は、つまらない時計と感じて、飛ばして次のページに進んだのだが、しばらくしてから戻って見直したくなった。「世界一優雅な時計」とコピーにある。74万程度の値段の癖に、なに言ってんだか、と思ったが、広告文を読み、写真をよく見直してみて、どこが「世界一優雅」なのかわかった。
 針が一本しかないのだ。
時針しかない。分針がない。もちろん、秒針などない。今、何分何秒かなど、この時計ではわからない。はじめから、「大体の時間しかわからない」ようにできていて、さらに広告文に従えば、「この時計を所有できる人は、もはや分刻みのスケジュールから解放された人である。そして、古の時計に夢を馳せ、優雅な時間を楽しめる人」だということになるらしい。
もちろん、この広告文は間違っていて、書き手が、ヨーロッパの有閑階級がどれほど腕時計をしないものか、実地で見知っていないことがすぐにわかる。時計そのものを付けたがらないのだから、いくら時針だけのものを拵えたところで腕に巻きたくなるわけがない。有閑階級ばかりでなく、ふつうの庶民階級であっても、ヴァカンスなどの際、フランス人たちなどは腕時計を捨て去る。それどころか、日常生活の中でも、腕時計などしない人たちが多い。時間など、知りたい時には、街ですれ違う人に聞けばよい。
こんなふうだから、欧米の商品を日本人に紹介するのはなかなか難しい。ちょっと気取った宣伝文句を書こうとすると、すぐに経験の浅さが露呈する。発想が日本人ふうだということなど、すぐに臭う。だいたい、腕時計など、喜んで付けるのは日本人かアングロ・サクソン系ぐらいの隷属趣味の染み込んだ人種なので、この書き手、どうやら、ラテン系の恐ろしいまでのいい加減さを知らないらしい、とすぐにわかる。フランス人など、毎晩、ベッドに入る時には男女とも全裸になることが多いが、とにかく、なるべく体になにも付けたくないというそんな連中が、ちょっとやそっとのデザイン的な小細工を施した程度で腕時計を喜ぶわけもない。
ヨーロッパはフランスばかりではあるまい、などと反論が出るかもしれないが、そういう反論そのものが、実はヨーロッパについての最大の無知を露呈することになる。ヨーロッパとはフランスのことであって、さらに言えばパリのことである。乱暴な話のようだが、パリやフランスを除いてヨーロッパを語り得るかと考えてみれば、すぐにわかる。そんな概算も含めて、外国についての知というものは成立してくるのだ。
この《シエナ》という商品は、神の手を持つ時計師と言われるアントワーヌ・プレジウソが、シエナのカンポ広場に聳えるマンジャの塔の時計に感動して成ったものだという。14世紀、ヨーロッパに機械式時計が広まっていったが、そのうちのひとつで、当時はほとんどが一本針だった。《シエナ》という腕時計は、それを再現しようとしたものらしい。それとともに、一本針で足りていた時代の精神やゆとりをも再現しようとしている、と広告文の書き手は導いていきたいらしく、最古の時計である日時計も針に当たる部分は一本だったし、昔はそれで十分だった、などと書き続けていく。広告文だから、世界に高級腕時計は無数にあるとはいえ、時針一本の格調高い腕時計はこの商品ぐらいですよ、という結論が読み手の頭の中で響くようにできている。
湯船に浸って、いい加減な頭で眺めていると、なるほど、そんな時計はこの商品ぐらいしかないかもしれない、と思えてくる。そういう意味では貴重な一品で、それゆえに欲しがる腕時計マニアも居たりするものなのか、と…

とはいえ、私は以前、これとは別の一本針の腕時計を見たことがある。自分の腕に付けたことはないが、手に取って見たことはあった。今、湯に浸かりながら見ている時計の写真よりよほど繊細な作りだったのを覚えている。時計の持ち主によれば、それは唯一の試作品とのことだったが、中のムーブメントはしっかり作られていて、量産はできないものの、その現物一本だけはずっと使えるはずとのことだった。

懐かしい遠い話である。
青春のみぎり、勤め先を次々替えて生き延びていた頃、ようやく落ち着いた勤め先で奇妙な仕事を頼まれたことがあった。会社に入って数か月後、本業とは全く違うことなのだが…という話で、社長室に呼ばれた。大男で精悍な体躯の社長は、私が文科出身で、しかも殊のほか文芸趣味の強いらしいのを見込んでのお願いなのだ、と言い置いてから、奇妙な頼みを切り出した。
蓼科高原に別荘があり、そこにひとりの老人がいる。元気そうだが、じつは末期ガンに罹っていて、長く保ったとしても数年ほどの余命だろう。その老人の世話を引き受けてはもらえないか。月々の給与はちゃんと出す。それどころか、社で普通に働いてもらうよりも遙かに多めに支払う。おそらく、一年もせずに亡くなることになろうが、そうしたら、また社に戻ってきて、普通の業務に就いてもらいたい。
こういった内容の話だったが、もちろん私は、看護師免許など持っていないし、病気のお年寄りの世話のできるような心得は全く持っていない、と答えた。すると社長は、そんなことは気にしないでいい、ちゃんと看護師が付いているから、身体的な看護はそちらに任せればいい。君に頼みたいのは、精神的な世話とでもいうか、秘書的な仕事とでもいうか、そんなことのほうで、なにも心配するには及ばない。ただ、我儘な老人なので、昼夜を問わず、なるべく頼みを聞き入れて世話をしてやってほしい。睡眠や食事の時間は、もちろん、ちゃんと取ってもらってかまわないが、老人がもし夜中に君を必要とするような場合には、悪いが、うまく生活を合わせて付き合ってやってもらいたい…
頼みのかたちで切り出されたとはいえ、入社して数か月の新入社員にとっては社長命令に等しいもので、私はすぐに受け入れて、その週のうちに下宿を引き払い、蓼科高原に赴いた。
待っていたのは93歳の温和な老人で、私に任された仕事の内の主なものは、彼のために本や新聞の朗読をしたり、彼が執筆するのを補助したり、資料探しをしたり、時には代筆したりという作業だった。老人は作家だったのだ。しかし、全く無名の。彼は一冊も出版していなかったし、仮にどこかの出版社に原稿を持っていったところで、本になるはずもなかっただろう。日本の文芸界の抜きがたい感傷性好みは、世界文学を好む者なら誰でも知っているが、そんな文芸風土には全く向かない作風だった。彼の作品は、しかも、19世紀風の小説の型には収まらないもので、ジョイスやプルースト、フォークナーなどの後で書いているのを強く意識したもので、散文から詩になったり、論文ふうに変わったり、断章が並んだかと思うと、また散文になって、延々数十ページも風景描写が続くといった塩梅で、若かったとはいえ、様々な文学作品を見てきていた私には、現代文学の最前線に果敢に挑んでいる作品と見えた。少なく見積もっても、クロード・シモンの凄みには拮抗しているように感じられた。幾つかを平行して創作していたが、私が到着した時点で、すでにどの作品もドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』より長かったし、一作などはプルーストの『失われた時を求めて』より長いのではないかと見えた。日本のこんな高原で、友もなく、読者もなく、批評もされず、たったひとりの頭脳だけでこんなに大量に書き続けているという事実に私は圧倒され、敬意や脅威を持つというより、壮絶な哀れさを豪雨のように浴びた気持ちになった。彼の書き継いでいるこれらが、どうしようもない下らないものだったら、私はかえって楽だっただろう。その場合、自分の能力の無さや執着の異常さに自ら気付けない老人が、老いの日常を創作という夢に縋って書き継いでいるというだけのことになり、ひとつの症例として見続けていけばいいからである。しかし、すぐに全容を見通すことはできなかったとはいえ、私が目のあたりにした部分だけを見ても、彼の執筆しているものは、決して軽んじ得るようなものではなかった。すぐに惹き込まれるとか、感動するとか、感心するとか、そういった文章ではないが、これは私などを遙かに凌駕した精神から出てきている言葉の奔流だということぐらいはわかった。
老人が、若過ぎた私では到底太刀打ちできないようなレベルの文学者であるということはそれでいいとしても、全く発表もされない厖大なこれらの紙束の増加を、いったいどうしていけばいいのか。社長が言ったように、本当にこの人が数年以内に、あるいは一年以内に亡くなっていくのだとしたら、彼が書き溜めたこれらの言葉はどうなるのか、どう扱われるべきなのか。他人事ながら、それを思うと、ひどく心細い気持ちになり、眩暈がするようだった。
しかも、これはさらに私の能力を超えた話になるが、老人が執筆に用いる言語は日本語だけではなかった。リヒティエン・ムーキェイという名のこの老人がどこの人なのか、じつは私はとうとう聞き出せないで終わってしまったのだが、ヨーロッパ生まれで、長くフランス語で暮らし、英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、ロシア語で物を書き、ラテン語やギリシャ語を理解していたのは、身近にいながら見てとれた。韜晦趣味の深く染み込んだ文学者だったので、「私は何人でもない。私には国籍はない」などと嘯いていて、とうとう最後まで詳しいことは教えてもらえなかったが、ドイツ語の趣のある姓名や、そのわりにはドイツ人らしくない雰囲気、どちらかといえばフランス中心の教養のあり方などから、複雑な背景が想像された。
彼はよく詩も書いたが、日本語だけでなく、フランス語や英語、イタリア語でも書いたので、朗読してくれながら、
「マサキ、君に日本語しかわからないのが残念だ。今日書いたこの詩の響きを君に確かめてもらえたらと思うんだよ」
 そんなふうに、よく私に言ったものだった。私が各国語の習得に強い興味を、というより、衝動を、義務感を、切迫感を持つようになったのは、この人のそばにいたからだった。
 
 私が以前に見た一本針の腕時計というのは、この老人作家、リヒティエン・ムーキェイが持っていたものだった。普段は腕にはしていなかったが、散歩に出る際に腕につけた。
 珍しい一本針なのを自分でも楽しんでいたし、私にもよく見せてくれた。彼の従妹のひとりが、20世紀前半、女だてらに時計職人を志し、変わったデザインの時計をいろいろと試作したうちのひとつだということで、世界にたった一本しかない一本針の腕時計なのだ、と彼は言っていた。
「その従妹は、どうなったんです?」
 こう聞いたことがあったが、
「ああ、彼女はね、マサキ、彼女は…」
 そう言ってリヒティエンは、白樺の林の上のほうを仰いで、言葉に詰まってしまった。話しづらいことも、いろいろあるのだろう。私はその後、それ以上、彼の従妹について聞くことはなかった。
散歩の時、高原の林や、草原の脇を歩きながら、彼は時々、この時計を覗いた。なるほど、リヒティエンは分刻みの生活を強いられていたわけではなく、だいたいの時間さえわかればいい生き方をこの頃はしていたので、持ち主としてはうってつけだったかもしれない。時計など見なくても、空や風景の光の移り行きを見ていれば、だいたいの時間はわかったほどなのだ。時計の文字盤を見る時、リヒティエンは、周囲の雰囲気との一致を確かめるようにしていたのではないかと思う。
アントワーヌ・プレジウソの《シエナ》の広告文には、「実はこの時計では、大体の時刻しかわからない」とあるのだが、実際に何度もリヒティエンの腕の時計で時間を読み取った私の経験によれば、これは全くの嘘であり、大きな間違い、完全な錯誤である。時針一本だけの時計でも、何分かはかなり正確に読み取れる。
文字板には1から12までの時刻表示の間に、たいてい、30分を示す表示が付けられている。そうであれば、時の表示と30分の表示の間の空間の真ん中は15分ということになる。15分の表示となる点や線がなくとも、それを目算するのは容易である。あるいは、時の表示から30分の表示までの間を目算で三等分するのも存外に容易で、現在時が0分から30分の間のどのあたりかを知るのは、実はそう困難なことではない。見慣れてくれば、分単位でかなり正確な時間が直感的に把握できるのだ。

 リヒティエン・ムーキェイのことや、当時の私の生活のことについては、いわば、一本針の時計のような趣で、ここで私は中途半端に語りを止めるつもりである。もののわかりやすさや、ある対象についての最低限の把握を重視するかぎり、これはもちろん好ましからぬ文章姿勢なのだが、一本針の時計について語り出したかぎりにおいては、個人的な人生上の情報について、十分な開示を行ったものと感じる。
しかも、語りを形成するとりあえずの筋の役割を担った一本針の時計に倣って、話の分針に当たるものも秒針に当たるものも意図的に抜いておくというのは、実用文や論文の類を逸れようとする散文行為においては、なにより推奨されるべきものと言われるべきでもあろう。「論文は、書かない」というニーチェの宣言をここでうっかり思い出したりするのは不遜の極みであろうが、ボルヘスやレイモン・クノーの味わいを呼び起こしながら、「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な事件」である『ツァラトゥストラ』を、世間が「一種の高級な文体練習」としか受け止めなかったとニーチェが苦く感じていたことぐらいは思い出しておいてもよいかもしれない。
私は「一種の高級な文体練習」を装いながら、リヒティエン・ムーキェイとの出会いと日々という、あの「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な事件」の片鱗を、今、はじめて言葉に落とし、…そうして、ここでは猶、片鱗以上のことは言うまいと努めなければならないと感じているのだが、それでも、なぜあの会社の社長が、リヒティエン・ムーキェイの世話をしていたのかについてだけは、少し記しておかねばならない。社長の「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な」恋人がリヒティエンの姪だったためであり、このことは社に帰ることになった後に、社長自身の口から聞いた。
もちろん、それ以上のことを今の私は知っているが、それらについて語るには、珍しい時針のみの腕時計をめぐって、たいした準備もせずに不用意に書き出してしまったこの小文とは別の、もっと長い周到な散文を器として準備し直す必要が、どうしてもある。