2015年8月5日水曜日

どこで「ついて」を捨てるか


 批判ということを考える際には、たぶん、ヘンリー・F・チョーリイがメルヴィルの『白鯨』に下した呵責ない断罪文が、最も深甚な教育的効果を持つ。以下がそれである。

  これは、創作と事実の羅列がごた混ぜになった作品である。多様な要素を集め、結びつけ、ひとつの物語にするつもりだったのだろうが、執筆しながらたびたびそれを試みようとしつつも、諦めてしまっているのが見てとれる。著者の文体は、方々に現われる下手くそな、というより、変な文章で台なしになっており、破滅的な結末の処理のしかたは急ぎ過ぎていて、説得力もないし、わかりにくい。貶すにせよ褒めるにせよ、この呆れた作品については、これ以上言うべきことはほとんどない。メルヴィル氏のおぞましくも大袈裟な作品が、発狂文学とでもいうべき最低の流派に属する完全なゴミとして、一般読者から見捨てられたとしても、自業自得という他あるまい。作家としての技量を身につけられないという以前に、身につけるのを見下しているとしか思えないからである。
週刊文芸評論誌『ロンドン・アシニーアム』より
 
 メルヴィルの大作が世界的な傑作と見なされるようになった現代、チョーリイはあきらかに分が悪い。しかし、長い空の旅の間にちょっと気晴らしに小説でも読もうか、という人々に『白鯨』を手渡せば、いまだに歓迎されない場合が多いであろうことを思えば、チョーリイのこの批評文に現われたのは、小説における趣味の分断の瞬間であり、相容れない流派どうしの截然たる分岐点出現の瞬間である。
メルヴィルが自らの創作を以て否定し去ろうとし、時代遅れにしてしまおうとする古い趣味の系統を、チョーリイは守ろうとしている。詩歌や小説が芸事の世界のことである以上、そういう態度を否定する根拠はない。演劇というカテゴリーの中で、能や浄瑠璃は駄目で歌舞伎こそが新たな総合表現である、という主張は愚かしい。チョーリイが守ろうとする小説群よりもメルヴィルのほうが面白い、そう感じる人はそちらの贔屓になっていくというだけのことだ。
芸術や文芸の鑑賞者たちには、こうした点で物わかりのよくない者たちも多い。こうあるべきだ、そうあるべきだ、とりわけ現代の作品は云々、といった批評に日々あまりに多くの言葉が浪費され続けているが、創作作品は、創りたい人が好きなように、好きなかたちで、好きな内容を、好きなかたちで創ればそれでいいので、出来上がったものを他人がどう好み、どう嫌うか、それもどうでもいいことである。好きだと思い、貴重だと思う、そんな人々が寄り集まって歓談したり、少し気取った難しめの言語を使って交流しあう“学会”なるものを組織してもかまわない。
反対に、作品や作者を批難する集まりが作られてもかまわないのだが、ロラン・バルトもかつて書いたように、最高の完膚無き批難は視線を逸らすことであり、たゞ目を逸らせば済んでしまうのだから、わざわざ言葉を弄したり理屈を捏ねたりしての批難に時間を費やす必要はないだろう。現代も居るであろう多くのチョーリイたちは、わざわざ宿敵メルヴィルを貶す文を書き下ろすより、自分が称揚したい作家や作品の旨味をこってりと書いていくほうが、本人たちもよほど楽しかろうし、すこぶる怪しい表現ながら、いわゆる“建設的”と見えもするではあろう。もちろん、それとて、“土建屋的”であったり、“箱物的”であるかもしれない難は逃れ得ないのだが。
言わずもがなだが、どこまでも他人でしかない作家や他人事でしかない他人の作品について、すなわち、つねに「ついて」越しに書いたり(言語配列をしたり)、想を練ったり(概念配列をしたり概念網を張ったり)するよりも、自ら作品を立ち上げようとするほうが、芸事としてはいっそう足が地に付いた行為である。他人の視線がこちらを向こうが向くまいが、どこで「ついて」を捨てるか、他人や他人事を捨てるか、芸事の真の問題はこの一点にのみある。


“メッセージ”無化装置としての映画


映画『永遠の0』(山崎貴監督、2013)には、潤沢な経費+人気アイドルも含めての思うままの贅沢な配役+日本人の気持ちを揺さぶる感傷的なツボを幾つも狙った巧みさ…等々の点で注目し、四回見直して検討した。
不要なセリフがけっこうあったり、衣装に問題があったり、もう少しブレッソンに学び直すべきではないかと思わせられるほどの説明しすぎのシーンもあったりして、やはり編集し直して決定版に近づけるべきではないか、と思わされはしたものの、それでも、一度だけ見て去っていくような普通の観客相手のものとしては、それなりにうまく出来た通俗商業映画と言える。
 あらゆる作品を分け隔てなく観る決意をしている映画好きのひとりにとってみれば、予期もしない映像的快楽を与えられるシーンがふいに挿入されることもあって、意外な映画的悦楽に恵まれる作品でもある。
 なにより、まだ演技経験も少ないはずの若手の俳優たちが、ベテランの年配俳優たちよりもはるかに滑らかな演技をしている場面が多いことに快く驚かされるだけでも、近未来の日本映画を予想したい者にとっては必見の映画といえる。やはり贅沢な配役で騒がれた三谷幸喜の『清洲会議』などと比べても、はるかに若手俳優のわざとらしくない演技が引き出せている部分が多いのではないか、とさえ思われる。(とはいえ、脇役には下手すぎる俳優たちもやはりいるが…)。

原作小説の作者が現政権寄りでなにかと物議を醸したこともあってか、この映画をあたかも戦争礼讚映画であるかのごとく批評する文が、時おりネット上に散見されるが、歪曲も甚だしい。
 この映画のシークエンス構成の束から発生する説話論的な流れが、あたかもNHKの朝ドラで多用されるがごとき通俗さに堕し過ぎているとか、あまりに手垢にまみれた常套であるとか批評するのならそれなりに首肯もできるが、特攻を称賛しているわけでもなく、特攻隊員たちを英雄化しているわけでもないこの映画を、わざわざ戦争礼讚映画として否定し去ろうという、いわゆる“平和主義者”たちの心理の異常さには驚かされるばかりか、そうした人々が持つ創作作品への鑑賞力や基本的態度のレベルの低さには薄ら寒ささえ感じさせられる。
 こういう人々は、マルクス兄弟の『我輩はカモである』さえも戦争礼讚映画として見てしまいかねないのではないのか。フェルナンデルが主演したアンリ・ヴェルヌイユ監督作品『牝牛と兵隊』などは事実に基づくものらしいが、これも戦争の過酷さを甘く見すぎているとでも批評しかねないのではないか。ロッセリーニの『無防備都市』や『戦火のかなた』は、逆にリアルさのゆえに現代日本では禁じるべきだと主張するかもしれないし、なにより、あの素晴らしい『兵隊やくざ』シリーズをテイスト的に頭ごなしに否定しようとしてしまうのではないか。もちろん、園子温監督の『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』などをお茶の間で息子や娘たちと鑑賞するなどとんでもない、などと叫びかねないだろう。

後から後から膨大な数の映画が作られ続けている現代なのだから、ひとつの映画を、その映画が利用した駒のひとつに過ぎない素材の、それも一面から見ての反射具合にばかりかかずらわって、ご丁寧にも物好きにも、寄ってたかって舌たらずの非難を浴びせている暇があるのなら、同じ時間を使って1020の別の映画を見てしまうべきなのであり、そうする中で、二度と或る映画には意識が戻らないとか、言及さえしないとかいうことが起こったならば、それこそが、まさにひとつの映画に対する真の断罪であるはずだ。映画を映画的に批評しないで、どうするのか。観客がどう怠惰な鑑賞ぐあいからトボケまくった印象を持とうが、監督がどんな“メッセージ”を潜ませたがろうが、原作者がどんな偏向思想を持っていようが、映画なるものは、あらゆる「作品」と同様、いかなる“メッセージ”をも無化し、予期もしない多様な意味や錯乱を呼び込み続けてしまう、危険きわまりない、かつ、混沌と浄化を同時に発生させ続ける天界的な装置である。或る映画を批難するなら、さらには否定し断罪しようとまでするなら、そもそも映画が、小説や詩歌などと同様、社会的であれ倫理的であれイデオロギー的であれ、いかなる“メッセージ”伝達においても、どこまでも裏切り続けるモノであることを、考察の前提にしっかり置いた上ででなければならない。