昭和衰へ馬の音する夕かな
昭和四十一年のこの句で、三橋敏雄は、高度成長に入った昭和に別れを告げたといわれる。
隆盛期に入った時代など要らない、ということでもあったろうか。仁平勝によれば、「老人」の準備であったとも、「老人」を決意したのだともいうことになる。*
しかし、平成元年に纏められた句集『疊の上』においてさえ、三橋の作には戦争がなお濃いのを思えば、戦争とその前後の昭和というものを生き続けるためにこそ、経済成長を「昭和衰へ」と見、自史の中の区切りとしたのかもしれない。
戦争と畳の上の団扇かな
十二月八日を過ぎて生残る
死に消えてひろごる君や夏の空
戦争にたかる無数の蝿しづか
戦前の一本道が現るる
沈みたる艦船の数海燕
ここに読まれる「戦争」や「戦前」という言葉は、一見抽象的ながら、その実、具体的な魅力のある手触りを感じさせる。昭和四十八年の『眞神』にある
鬼赤く戦争はまだつづくなり
における「戦争」と比べれば、差は歴然としている。平成元年の『疊の上』に現われたこれらの言葉は、戦争や戦前というものを語ったり、指し示したりしていない。「戦争」や「戦前」という言葉がモノとして此処にはあり、すでに歴史でもなく人事でもない。モノとして稔り、遠くというのではないが、すでに近くにはなく、強く黒い光を重く発するようにして、言語表現を裏から固める。非距離の黒球のようになった「戦争」であり、長い年月をかけて作者が捏ね上げ、磨き上げて温めてきたのがよくわかる。
平和なる樟脳や冬の樟脳や
銀座銀河銀河銀座東京廃墟
信ずれば平時の空や去年今年
待つとなき天変地異や握飯
或時の操帆術を夏の夢
モノとなった「戦争」という言葉の磁場に置かれれば、「樟脳」も「平時」も「握飯」も、同様、このように強い存在となる。過ぎ去ってなどおらず、これらの言葉と表裏一体に「戦争」はある。これらの言葉が即「戦争」であるとさえ言ってもいい。
もともと、三橋敏雄の俳壇への出現は、その名も「戦争」と題された無季五十七句が山口誓子に激賞されたことによる。
撃ち来る弾道見えずとも低し
嶽を撃ち砲音を谿に奔らする
砲撃てり見えざるものを木木を撃つ
そらを撃ち野砲砲身あとずさる
あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ
戦争の記録映画を見て作られたのだろうが、これら十七歳の作は、山口誓子の業績にぴったり寄り添って、その原理をもぎ取った模倣作ともいえる。戦争という現象の場に現れる物体を言葉にしつつ、描くというより、言語表現の切磋琢磨を行っている。戦争を描くのではなく、むしろ戦争の場に集まるイメージを使って、言葉の「操帆術」を深めようとしている。「戦争」という総括語を「野砲」の「砲身」や「煉瓦の壁」のように用いようというところはまだ見られないが、言葉のモノ性を極まらせ、表現の強度の存在感そのものをこそ自らの意識にしようとするかのような意志は、後年の三橋に通じると見るべきだろう。
そういう意味では、昭和四十一年刊『まぼろしの鱶』中の有名な
かもめ来よ天金の書をひらくたび
少年ありピカソの青のなかに病む
などよりも、「我」をモノへと向かわせることで、より強度の存在感を掴もうとした
我多く精虫となり滅ぶ夏
のほうが、「戦争」を扱わない作の中では、三橋の根本的な作法をありありと示すものであるかもしれない。ここでの「我」は肉体ではなく、自足し充溢した物質的存在としてのモノの「我」でもない。それが「精虫となり滅ぶ」というのは、よりよいモノ化が他に考えうるにもせよ、少なくとも、レベルを異にした存在強度を持つモノの域への変容なのである。
いわば、創作意志の比喩とでもいうものとして、この「我」をとらえてみてもよい。その場合、「精虫」は三橋敏雄のもとに参集する言葉であり、作られていく作品ということにもなる。彼の創作観を、これほど露骨に表わす句もないということになろう。
「滅ぶ」という表現は負の意味合いで捉えられがちだが、日常の使用例においてさえも、その正確な意味あいは、つまるところ、存在次元の本質的な変化というに尽きる。寿ぐべき、とまで思う必要はないにせよ、創作者がこのように用いる「滅ぶ」は、なにより創作者本人にとって、創造のあざやかな成果を物語っている。そう見て、差し支えない。
*『三橋敏雄 自選三百句』(春陽堂 俳句文庫、平成四年)所収の「三橋敏雄ノート」による。
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