2012年8月15日水曜日

三橋敏雄の「戦争」と「滅ぶ」




   昭和衰へ馬の音する夕かな

 昭和四十一年のこの句で、三橋敏雄は、高度成長に入った昭和に別れを告げたといわれる。
隆盛期に入った時代など要らない、ということでもあったろうか。仁平勝によれば、「老人」の準備であったとも、「老人」を決意したのだともいうことになる。*
しかし、平成元年に纏められた句集『疊の上』においてさえ、三橋の作には戦争がなお濃いのを思えば、戦争とその前後の昭和というものを生き続けるためにこそ、経済成長を「昭和衰へ」と見、自史の中の区切りとしたのかもしれない。

戦争と畳の上の団扇かな

十二月八日を過ぎて生残る

死に消えてひろごる君や夏の空

戦争にたかる無数の蝿しづか

戦前の一本道が現るる

沈みたる艦船の数海燕

 ここに読まれる「戦争」や「戦前」という言葉は、一見抽象的ながら、その実、具体的な魅力のある手触りを感じさせる。昭和四十八年の『眞神』にある

   鬼赤く戦争はまだつづくなり

における「戦争」と比べれば、差は歴然としている。平成元年の『疊の上』に現われたこれらの言葉は、戦争や戦前というものを語ったり、指し示したりしていない。「戦争」や「戦前」という言葉がモノとして此処にはあり、すでに歴史でもなく人事でもない。モノとして稔り、遠くというのではないが、すでに近くにはなく、強く黒い光を重く発するようにして、言語表現を裏から固める。非距離の黒球のようになった「戦争」であり、長い年月をかけて作者が捏ね上げ、磨き上げて温めてきたのがよくわかる。

平和なる樟脳や冬の樟脳や

銀座銀河銀河銀座東京廃墟

信ずれば平時の空や去年今年

待つとなき天変地異や握飯

或時の操帆術を夏の夢

 モノとなった「戦争」という言葉の磁場に置かれれば、「樟脳」も「平時」も「握飯」も、同様、このように強い存在となる。過ぎ去ってなどおらず、これらの言葉と表裏一体に「戦争」はある。これらの言葉が即「戦争」であるとさえ言ってもいい。
 もともと、三橋敏雄の俳壇への出現は、その名も「戦争」と題された無季五十七句が山口誓子に激賞されたことによる。

   撃ち来る弾道見えずとも低し

   嶽を撃ち砲音を谿に奔らする

   砲撃てり見えざるものを木木を撃つ

   そらを撃ち野砲砲身あとずさる

   あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ

 戦争の記録映画を見て作られたのだろうが、これら十七歳の作は、山口誓子の業績にぴったり寄り添って、その原理をもぎ取った模倣作ともいえる。戦争という現象の場に現れる物体を言葉にしつつ、描くというより、言語表現の切磋琢磨を行っている。戦争を描くのではなく、むしろ戦争の場に集まるイメージを使って、言葉の「操帆術」を深めようとしている。「戦争」という総括語を「野砲」の「砲身」や「煉瓦の壁」のように用いようというところはまだ見られないが、言葉のモノ性を極まらせ、表現の強度の存在感そのものをこそ自らの意識にしようとするかのような意志は、後年の三橋に通じると見るべきだろう。
 そういう意味では、昭和四十一年刊『まぼろしの鱶』中の有名な

   かもめ来よ天金の書をひらくたび

   少年ありピカソの青のなかに病む

などよりも、「我」をモノへと向かわせることで、より強度の存在感を掴もうとした
 
我多く精虫となり滅ぶ夏

のほうが、「戦争」を扱わない作の中では、三橋の根本的な作法をありありと示すものであるかもしれない。ここでの「我」は肉体ではなく、自足し充溢した物質的存在としてのモノの「我」でもない。それが「精虫となり滅ぶ」というのは、よりよいモノ化が他に考えうるにもせよ、少なくとも、レベルを異にした存在強度を持つモノの域への変容なのである。
いわば、創作意志の比喩とでもいうものとして、この「我」をとらえてみてもよい。その場合、「精虫」は三橋敏雄のもとに参集する言葉であり、作られていく作品ということにもなる。彼の創作観を、これほど露骨に表わす句もないということになろう。
「滅ぶ」という表現は負の意味合いで捉えられがちだが、日常の使用例においてさえも、その正確な意味あいは、つまるところ、存在次元の本質的な変化というに尽きる。寿ぐべき、とまで思う必要はないにせよ、創作者がこのように用いる「滅ぶ」は、なにより創作者本人にとって、創造のあざやかな成果を物語っている。そう見て、差し支えない。



*『三橋敏雄 自選三百句』(春陽堂 俳句文庫、平成四年)所収の「三橋敏雄ノート」による。

クリシュナムルティとオショー(ラージニーシ)



二十世紀のインドは、ラーマクリシュナ、ヴィヴェカーナンダ、ヨガナンダといった個性的なヨギを生んだ。あらゆる宗教の本質を取り込みつつ、硬直し堕落した制度としての宗教や政治に反旗を翻したインドの風雲児ラージニーシ(いつからかオショウと名乗るようになった)はアメリカに渡って、ヒッピーたちを結集しつつトリックスターを演じたが、アメリカ政府やCIAと正面衝突するに至り、おそらく巧妙に仕組まれたものだろうが、犯罪者の汚名を着せられてインドに帰ることになる。六十年代七十年代ふうの流行りの瞑想が退潮していく中でも、うんざりするような階級制度とミニマルな師弟制度で瞑想道場の網の目を世界に展開したマハリシ・マヘシュ・ヨギだけが健在だったのは、あの瞑想法のわかりやすさと、とかく何かのシステムに従属したいという人心の性質によるものだっただろうか。
なぜか日本では紹介が途絶え、フランスでいまでも根強い人気を誇るシュリ・オロビンドと伴侶のフランス女性〈メール〉による、ヨーガ原理主義ともいえる緻密で純粋な探求は、多くの弟子や信奉者を集めるに到って、オロヴィルという街を南インドに形成するまでになった。
もちろん、南インドの聖者と呼ばれるラマナ・マハリシの厳しい教えも忘れがたい。
ヨーロッパでは、十九世紀のアラン・カルデックなどの影響を受けたものだろうが、神智学協会の強力な幻視家ブラバツキー夫人やリードビーター、アニー・ベザントの活躍があり、その流れの上に救世主としてクリシュナムルティが準備されるに到る。しかし彼は、超越者の存在を前提とした救世主の役目を否定・放棄し、生涯を通じて人々に、真理や愛や神や価値について問いかけ続けるという方法を創出し、ある意味ではいっそう超越的なユニークな世界教師となっていく。
いっぽう、神智学協会が少年クリシュナムルティを探し出し、救世主として準備したことに反対して離反し、独自の道を歩むことになったルドルフ・シュタイナーの活動も広範なものになり、今では文庫にも著作が加えられるようになった。
魔術師的な雰囲気が濃厚で、いまでも世界中で信奉者の多いグルジェフのヨーロッパでの活動や、謎に満ちたあれらの著作は、徹底して超越的な次元から人類の行く末を扱っている点で、今後、さらに注目されていくだろう。
シュタイナーとはべつの、入眠による方法で、主に健康についての有益な言説を残した〝眠れる預言者〟エドガー・ケイシーの仕事も、いまでは定着したといっていい。
まだアメリカにはラム・ダスがおり、チベット密教の師たちはアメリカやヨーロッパに散らばっている。一九六七年に渡仏してヨーロッパに禅を広めた弟子丸泰仙の後継者は絶えることがないし、オロビンドの弟子シュリ・チンモイは国連の活動に関わって活躍しているはずである。

        ☆

瞑想家の死というものは、どんな場合にも大ごとではありえない。この世にはあらかじめ居ないというのが、瞑想家のあり方だからだ。マハリシ・マヘシュ・ヨギの死もそのように捉えるべきだが、瞑想の二十世紀が彼の死とともにはっきりと幕を閉じる、という気はする。
彼の超越瞑想が、徹底した階級制度なみのシステム信奉を必要としていた点、あれはまさに二十世紀の人物だった。システム信奉は、道具的理性に対するアドルノのそれのような批判をつねに向けるべき対象で、周知のように、この批判を欠いたところにナチズムは繁茂した。オウム事件もここから生まれた。
瞑想については、最近、ずいぶん軽い、安易ともいえるアプローチが散見されるようになってきたが、クリシュナムルティやラージニーシを近い先達として持つわれわれは、現時点では、彼らの見解を重視しながら探求を進めるのがよいように思う。
クリシュナムルティは、人間の心性のあらゆる機械的な部分を批判し再考をうながしたが、システマティックな瞑想にも当然ながら批判的だった。システムに従うことは理性的な批判や探求を停止させることで、彼にとってこれは、瞑想から最も遠ざかることを意味した。多くの覚者たちが「瞑想」という言葉を多用するが、その言葉の意味はひとりひとり微妙に違っており、クリシュナムルティのような人物の場合、世間一般の宗教で用いられる「瞑想」とは甚だしく異なっている。彼の場合、端的に言えば、「瞑想」とは不可能性の同義語で、こちらから求めても実現されない内的状態のことを言っている。もちろん、心を鎮め、雑念に乱される思考を流れゆくままにして、日常の論理の流れから離れるところまでは試みを許されるにしても、その後に「瞑想」が起こるか否かは、彼の場合、人間の側からの意志や努力ではコントロールできないこととされる。彼はおそらく、「瞑想」という言葉によって、俗に「悟り」と呼ばれる状態を呼んでいたと考えるべきなのだろう。
クリシュナムルティの著作や講話録、対談などは英語でくりかえし刊行され続けており、邦訳も出ているが、それらのどれにも共通するのは、理性をつねに分析的に使用して、われわれが超越的なことを思索する時の用語の曖昧さやそこに絡みつく矛盾、用語の成立そのものに伴う誤解の歴史や、それを一個人が受容する際に必然的に発生するさらなる誤解や偏見を削ぎ落とすという基礎作業の要請である。愛や神の存在について尋ねに来る人々を、彼らの抱いている愛概念や神概念の根本的な過ちを指摘することで一蹴する光景は、クリシュナムルティの著作の読者にはお馴染みのものだろう。愛や神とはなにか、愛や神という言葉をどこから質問者は受け取り、どのような幻影で飾りながらそれを弄んできたか。そういったことを逆に質問者に向けて執拗に問いながら、クリシュナムルティは、質問者の思考や欲望の中にある矛盾を抉り出していく。超越性への架け橋を求め、悟りや救いを求めてクリシュナムルティに縋ってくる人々を、彼らのそうした欲望の構造の欺瞞性を突きつけることで打ち砕くのがクリシュナムルティの日常的な作業だったのであり、そうした熾烈な基礎作業を経ないかぎり、「神」にも「愛」にも「価値」にも「生」にも向かいようもないのだということを、長い生涯を賭けてくり返し語り続けた。「真理は、そこに行き着く方法のない孤島である」という有名な言葉がクリシュナムルティにはあるが、これはなるほど、生真面目一方のせっかちな修行者には絶望的と映る教えでありながら、超越的なものと人間との関わりを端的に表現したものとして、正確この上ない。たどり着くための方法のない孤島とは言いながら、クリシュナムルティが真理の存在を否定していないということこそが此処では重要である。真理へ、つまり悟りへ、超越へ到ろうとするあらゆる方法とシステムは誤っており、そこには必ず権力の悪用と商売が介入し、早期に適切な批判と破壊がなされない場合には、キリスト教が全世界にもたらしたような災厄が招来される。祈りや真言の文句のかわりに「コカコーラ!」と唱えてもなんら変わりはないのだ、脳と意識はそういう性質を持っており、そこに発生し続ける欺瞞を徹底して暴かないかぎり、聖なるものに向かうことは危険なだけである、そう訴え続けた柔和な二十世紀の最高覚者の、講話の際の非常な厳格さには忘れがたいものがある。
ラージニーシは、ほぼクリシュナムルティと同じ観点に立っていたと思われるが、世界中から押し寄せた弟子たちや追従者たちに、あえて「コカコーラ!」という類の言葉を唱えさせ、それを真言とさせたところに、ユニークさも、ユーモアも、危険もあった。人間の精神活動というものが、基本的に自己欺瞞の巨大な活動体であって、この瞞着の泥沼を抜け出るのには世間的な常套手段では埒があかないと知悉していたところに、また、実際に思い切った修行法を大がかりに実行したところにラジニーシの導師としての天才はあった。彼がクリシュナムルティと異なるのは、人間というものが常になんらかの行動をしないではいられない性質だという認識に立って、あらゆる日常的活動をすべて「瞑想」と見なすダイナミック・メディテーションという方法を作り出した点にある。
心を鎮めて座るのももちろん「瞑想」、しかし、行住坐臥のすべて、掃除から料理からスポーツから、はては読書、排便、睡眠、セックスに至るまですべてを「瞑想」と呼んで、いわば「瞑想」を一般人たちに解放したラージニーシの方法は、もちろん、霊的修行の歴史の中ではそれほど異質なものではなく、むしろ様々な宗教的修行の伝統の一端を担うものといってよい。しかし、これがまさに二十世紀に相応しいと考えたところにラージニーシの慧眼はあった。
ダイナミック・メディテーションで重要なのは、どんな行為においても、行為者本人が内的凝視を行うという点である。行為・凝視・凝視者の融合と分裂の同時生起によって、否応もなく、現実分析と現実乖離が発生し、ここから現実の再構成へと向かう意識が新たに形成されてくる。昔よりもはるかに外界からの刺激に馴染み、それを求めるようにもなった二十世紀人たちにあてがうには、なかなか優れた修行法だったというべきだろう。本来、悟りというのは、出生や成長とともに強制され続けてきた現実の、主体的再受容、ないしは脱構築的再受容を意味する。世俗界から一時的に身をひいたり、隠居や隠棲が容易にできないほどに監視システムが張り巡らされてしまった近代において、あえて世俗界の中に身を置いて、そのまま社会活動を続けつつ常時「瞑想」状態に入れさせようとするラージニーシの方法は、「瞑想」者の内部において世俗界が激烈に異化され続けていくがゆえに、まさに革命そのものといってよかった。
敏感な文学者たちは、もちろん、どんな時代にあっても自らこうしたラージニーシ風の「瞑想」方法に到達するもので、シュルレアリストたちは言うまでもなく、ビート・ジェネレーションの詩人や作家たちの創作行為に、明らかなかたちでこのダイナミック・メディテーションが顕われたのは忘れがたい。瞑想詩人ともいうべきケルアックの『オン・ザ・ロード』は、彼の創作行為の中では比較的「瞑想」に遠いものに見えるが、しかし、長い経典のようにひと続きに張りあわせた一枚の紙にタイプしていったという記述行為は、たとえ早く打つという実用性の要請から出たとはいえ、考え直してみれば「瞑想」行為に相応しい象徴性を持つものであり、写経であり、祈りそのものだった。たんなる類似に過ぎないとして、『オン・ザ・ロード』原稿の経典との形体上のこうした対応関係は軽視されかねないのかもしれないが、ボードレールが『Correspondances(照応関係)』という詩で定着して以来、文芸の世界では、ありとあらゆる象徴関係の網の目が、精神界に現実に張り巡らされていると認識する倣いである。たとえば私がいま、目の前に一輪の花を想像し、その花びらに軽く触れるとする。そして、同じその指先で、傍らに開かれた地図のアドリア海に触れるとする。この時、私は花とアドリア海を、私の指を以て、また一身を以て結んだのであり、アドリア海には私の指先から花が流れ込んだことになる。これは空想ではなく、言葉の綾でもなく、象徴の網の目の張り巡らされた界において現実なのである。ある人間が詩人となるか否かは、ひとえに、ここの現実性の享受の厚みにかかっている。これはもちろん、幻想の中に埋没し去る度合いの強さということではない。幻想界と呼ばれかねない微妙で複雑な関係性の海が精神の領域には確かにあり、そこを巧く泳げば、途方もない即時のコミュニケーションが獲得できるとの知を持つ、ということだ。文芸も魔術もここのネットワークを駆使する。

         ☆

ビート・ジェネレーションたちは、ラージニーシのアメリカでの活動に先行するので、ラージニーシの影響を蒙ったとはいえない。むしろ、ラージニーシが、自分の活動すべき場所の調査の際に、ビート・ジェネレーションたちの著作を参照したというべきだろう。
人間の世界では、ひとつの精神的なうねりが起こる時というものがあって、様々な個人の出現は、そうしたうねりの表面を飾るモザイクに過ぎず、個人間の影響関係や前後関係を細かく問題にし過ぎると、本質を逃す場合がある。第二次大戦後の世界で起こった「瞑想」現象は、ひとつのうねりとして、いまだ裾野の見定められないほど大きいものだったが、今回亡くなったマハリシ・マヘシュ・ヨギも、これを彩ったモザイクの一片だった。
クリシュナムルティもラージニーシもマハリシ・マヘシュ・ヨギも知らず、ヨーガや瞑想やヒーリングに関わって悪いということはない。しかし、現在、世界中で見られるそうした心身調節法は、すべて、あの五十年代六十年代の「瞑想」の山系から流れ落ちてきた末の末の、そのまた末の加工品だと知っておくほうが、なにかと安全には違いない。二十世紀の覚者たちの言説にたっぷり接しておけば、オウム信者になるはずもなく、新興宗教のどれひとつ認めもしないだろうし、既成宗教の欺瞞にも一切の容赦をしなくなるだろう。
あそこに立っている一本の木を、あなたは本当に見つめたことがあるだろうか、と、対話の最中、話をふいに止めて、相手にクリシュナムルティは問うことがあった。あれを、木だとか、どんな種類の木だとか、なにかの象徴だとか、自分の家の庭に植えたらいいだろうといった思いなしに、親しかった友人とあの種類の木の側で語り合ったことがあったといった思い出などもすべて抜きで、ただ見つめたことがあなたにはあるだろうか。
そのように見つめた時になにが起こるか、それを、あらゆる人間が、まず生きなければならない。この数千年、あるいは数万年、無数の人間が生まれてきて、たったこれだけのことを殆どの人が成しえずに死んでいった。人類は一度も前向きに歩みを進めたことはない。地上にはいまだかつて、記憶されるほどのことはなにも起こったことがなく、すべては有史以前のままにある。あなたがあの一本の木を、言葉なく、概念なく、記憶もなしに見つめるならば、その時にのみ、初めて、人類は一歩踏み出す…
こういう彼の言葉を無視したり、否定できるようならば、いかなる「愛」とも「神」とも無縁の意識というべきだろう。文化や時代の流れや流行、さらには、すでにニーチェが抉り出した価値評価欲のおぞましい宴などは、そうした意識たちに投げ与えておけばよい。

春日井健のほうへ ふたたび、くりかえし… 




春日井建が亡くなって、三ヶ月ほどして現代詩手帖特集版『春日井建の世界』が編まれた。
 それを手にとったのは偶然からだが、絶筆となった短歌六首が最初のページに載っており、次の一首に惹かれた。

  ヴェネッチア、仮面(マスカ)行列(レード)が行く阜頭金の灯白金の灯は列なりて
 
ページを繰っていくうち、また、目を惹かれた。
  
マーラーの第五番第四楽章のアダージェット 月は全円を影となしたり
 
こちらのほうは『白雨』からの撰だった。
 どちらも、天才の名、寵児の名を恣にした『未青年』頃の春日井建の歌ではない。ある程度長きに亘って作歌を重ねてきた歌人ならば、春日井建ならずとも作りうる歌と見えた。もちろん、マーラーとあの第五番第四楽章への言及から始めた歌を、「月は全円を影となしたり」と収めるのは至難の業で、誰でもできるなどというものではない。ほとんど、誰にも叶わぬ類の下の句とみなすべきことに変わりはない。
 しかし、この二首に共通する、いわば作歌の心のカメラの固定ぐあいとでもいうべきものを、春日井建の署名を持つ歌のうちに発見したことは、私にはひどく新鮮だった。これらの歌の作者は、作歌しつつ、すでに死んでいる。なにかのために見る目、なにかのために感じる心、それらをすでに失って、単に、いまだ見開かれている目、いまだ感じつづける心として、景を捉えている。そのように私には見えた。
春日井建が、一気に、私の同志とも先達ともなった瞬間であった。

         *
    
その後、この特集版に載せられた水原紫苑撰による代表歌三〇〇首をゆっくり読み進みながら、私ははじめて、春日井建の魅力に啓かれていったという気がする。名歌にもかかわらずその撰に漏れたものも多いようだが、多彩な執筆者によるエッセイを読めば、ある程度の補完も難しくはなかった。三島由紀夫が「つきつめた魂の叙情」のゆえの名歌と呼んだ

火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐き出しか死顔をもてり
                  (『行け帰ることなく/未青年』)

には、あいかわらず私は不感症のままだったが、たとえば、

 今に今を重ぬるほかの生を知らず今わが視野の潮しろがね     (『友の書』)
  
噴泉のしぶきをくぐり翔ぶつばめ男がむせび泣くこともある    (『朝の水』)        

あとさきと言へ限りあるいのちにて秋分の日の日裏日表
  
片照りて片翳る原いちやうに葦は枯れたるままに直立つ
  
打ち寄せる波の白扇見てあれば礼節を知れといふ声はして
  
弱冠とふ冠われにありしころ晴ればれと読みしかの対話篇

などの歌の数々は、最近の短歌にすっかり倦み切っていた私を、ふいに清涼な詩歌の山稜に出たような思いにさせた。春日井建を読み違えていた、そう恥じる気持ちになったが、考えてみれば、これらの歌を集めた集を私は読んでいない。二十代の私が意気盛んに学んだのは、国文社現代歌人文庫『春日井建歌集』に収められた『未青年』と『夢の法則』全編、および『行け帰ることなく』抄までだった。その後、おそらく十年余を経てから、古書店で偶然購い求めた『青葦』初版を読んだものの、次のような歌を除けば、さほどの感銘は受けなかった。

  ただよへる雲に応えて石ながら男の腹部照り翳りゐつ
  
うちつけに大運河ふりむけば小運河黒き喪の舟はわれを誘ふ
  
男とや沈めとや水圏に棲むものの冷たかりける皮膚の誘へる
 
この歌集については、中井英夫が、あえて毀誉褒貶とりまぜた、親身と見なすべき書評を書いたが、彼をして次のように書かせしめたものを、私なりに正確に読み取っていたのだと思う。
「この稿も前半まではそのつもりで書いたのだが、さらに何遍かノートを取りながら『春の餞』以下を読み返すと、せっかく兄の代わりに勇んで未知の曠野に旅立った弟も、地の涯に立つかのような三島由紀夫の巨大な壁の前で、また力尽きて引返してきたような気がするので、あえて苦言めいたことを記した」。

  まひるまに夢見る者は危しと砂巻きて吹く風の中に佇つ
 
この歌集中、代表歌のひとつに数えられることの少なくないこの歌にしても、私の心を打つには足りなかった。「まひるまに夢見る者は危しと」という一息の歌い出しに魅力を感じないわけではなかったが、ただでさえ一時代前の気取りを匂わすこの表現に「砂巻きて吹く風の中に佇つ」と繋げるのは、ほとんど噴飯物と思えた。二十歳そこそこの若者がこのように書くのならば、ナルシシズムの通過過程のレトロな詩化の試みとして、微笑ましくないでもない。しかし、これを発表しているのは、すでに四十六歳の春日井建であり、『青葦』刊行は一九八四年なのだ。しかも、私がこれを読んだのは、八四年どころか、二十世紀も終わる頃、たしか九十五年以降だった。青年も壮年も、「砂巻きて吹く風の中に佇つ」よりは、寸暇を惜しんでテレビゲームやインターネット、パソコン通信などにのめり込むようになっており、携帯電話でのメールのやりとりは誰にも容易なものになろうとしていた。一時代前のようなナルシシズムやロマンティシズムが生まれ得るだけの恵まれた空隙は、生活や心の隅々から失われていきつつあった。じつは、そこにこそ、新たな時代の問題の核が浮き上がってきつつあったし、若者のみならず、あらゆる人間にとっての内面の保ち方の危うい新条件が露呈しつつあったのである。
 春日井建の短歌に、私はそのあたりで愛想を尽かしたと言ってもよい。一九九九年以降に刊行されていく『友の書』、『水の蔵』、『白雨』、『井泉』、最後の歌集『朝の水』といった春日井建の後期の歌業にまったく触れないで来たのにも、私なりに理由はあったと言える。

         *
 
『春日井建の世界』に集められた多くの評論やエッセイの中には、三島由紀夫や澁澤龍彦、中井英夫などによる、まさに春日井建の名声を定立したリアルタイムの文章もある。稀な才能の出現を惜しみなく寿ぐそれらの文章は、まことに煌びやかで、かつ、含蓄も深く、今読み直してもいろいろと考えさせられるものなのだが、しかし同時に、これらの文章が、どれだけ春日井建の、未来のよき読者を遠ざけてしまったかをも、私は感じずにいられなかった。
 三島由紀夫の文章は、華麗に自らの美学に春日井を引き込みつつも、若き歌人の今後の創作を阻まないだけの批評的間隙を残していて、その点、見事なものであるとは言える。中井英夫の場合も、春日井建を見出して、歌壇に引き出した人だけに、手離しの賛辞をけっして送らぬかわり、古い歌壇からの無思慮な非難には自ら矢面に立つごとき愛情がある。
にもかかわらず、恐ろしいのは、彼らがよかれと思って用いたであろう、そうした修辞のひとつひとつが、その後の春日井建のイメージを、なにより来るべき読者に対して縛っていった事実である。
たとえば、春日井建の歌に「現代の只中に生きてゐる少年の、いつにかはらぬ心細さ、うひうひしさ、残酷さ、孤独、などが、純一無垢にあらはれて」おり、「彼はただ、『絶望の容器』を探してゐるだけ」だという三島の批評が、いかにも説得力を持って読まれてしまうにしても、そこに並べられた「少年」、「悪」、「反社会性」、「自己破壊」、「青春といふものの挫折の主題」などといった、実際にはなにも語っていないに等しいキーワードは、どれもメッキ物の強い煌めきを以て、そうしたキーワードに引き摺られない魂をすでに備えた若者たちを素通りさせてしまいかねないだろう。むろん、「少年」をはじめとするこれらの観念は、壮年になり、老年になるにつれ、悔恨と快楽のアマルガムとして精神の中に激しく逆流してくるものなので、そうした意味も込めて三十五歳前後の三島が語っていたと考えられないこともないのだが、彼の語り口は、しかし、それらの観念の危険さへの配慮を潜めるにしては、浮かされたところが目立つように感じられる。
澁澤龍彦の批評も見事なもので、三島のそれよりも、春日井の本質を見抜いた分析を行い得ている。とはいえ、たとえば『現代日本における〈性の追求〉』と題された評論の中で、春日井建はやはり、「少年は少年であるが故に、表現に対する不信と絶望とから、猥雑な現実と相わたることを本能的に避け、定型という避難所を選んだまでのことだった」と評され、「『未青年』一巻に、みずみずしく匂うように息づいているエロティシズムは、申すまでもなく、幼いナルシシズムのそれである。愛する者に変身したいという願望、不可能を夢みる欲求、――これらは少年期特有のあこがれと言ってよい」と追いつめられ、引き合いに出されたコクトーやジュネと絡まされた上で、「少年期特有の屈折したナルシシズムのあらわれ」としての格好の文学的症例のひとつたるお墨付きを貰った挙句に、「何にまれ自分の愛するものに変身したいと一度も望んだことのない少年は、おそらく一人もいないだろう。少年院や非行少年や、戦争すらも、作者がただ遠くから眺めてあこがれている、美しい悪の象徴にすぎない」と断定されるに到る。これでは誤解されかねないと思ったのか、澁澤は九首を並べた後、「もし春日井建が短歌以外の表現形式に頼っていたら、とてもこれだけ自由な青春の魂の、魂自体の論理の志向するところに全的に惑溺することは不可能だっただろうと思われる」と書き、『未青年』を「稀に見る美しい歌集」と賞賛して終えるのである。
三島の場合にしても、澁澤の場合にしても、いろいろな側面が文章に盛り込まれていて、彼らの文章について一面的な断定をするつもりは私には毛頭ないのだが、それでも冷静に見直してみれば、ともに、唖然とするほどのテーマ批評であり、短歌にとってなにより至上価値のある文体論上の批評には、まったく踏み込んでいない。春日井建がどのように言葉を置き、動かしているか、そういった歌体上の創意や継承に関わる問題に少しも触れられていないのは、真に驚くべきことと言うべきではないか。歌人にとっては、テーマもモチーフも素材以上のものではない。歌体を形成すること、語やイメージや音や意味を練り、融合し、時には切断し、省略し、冗漫や崩れさえも用いて、歌の体を捏ね上げること、それこそが重要なのであって、そのためにならば、いかなる言葉もいかなるテーマも用いようとするのである。三島や澁澤の、読むにはまことに面白い批評文が、こういう点を平然と看過しつつ闊歩しているさまを、私はじつに恐ろしいことと思う。「これだけ自由な青春の魂の、魂自体の論理の志向するところに全的に惑溺する」… こうした空疎な言辞を弄して、何事かを語ったと思っていられるのが、はたして文才とでも呼ばれるべき豪胆さなのだろうか。
さいわい、『春日井建の世界』という特集版には、こういう点での補完の役割を演じうる文章も集められている。短い文章なのだが、藤井貞和と長谷川龍生のエッセイは、短歌についての文章のあり方として、模範とするに足るほどのものである。

  大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき

『未青年』の巻頭を飾る有名なこの名歌について、藤井はこのように書く。

没ちし、という字法や、日輪、のこすむらさきなど、語彙的一つ一つが、たたずまいというべき相貌で、先端性をひらく。そういう先端性は表現のすみずみで、何によって保証されているということであろうか。このことこそ、万葉歌という古くささを去り嫌う平安歌人たちが、思いっきり五七五七七を新しくしてみせた、革新性の再来と同様である」。
一方、春日井の短歌から「ぶつかって」くる「抒情をこえる波濤」を受けつつ、「その展開し、ひろがり、定着する描像は、私が手なづけようとする操作の水準以上を描ききっていて、舌を捲いたものである」と書き出す長谷川龍生は、批評文の一見した整いぐあいの保持にかまけることなく、たとえば、やはり『未青年』中の

 荒蕪地の野に曇天に放たれし血忌の朝のけものかわれは

という歌についてこう書く。
「私の好きな作品の一つである。自毒作用を持って解放、自由の道を歩まんとしている意気ごみが存在している。『血忌』という言葉に、人系の怖しい、わけのわからない、いまわしい運命が、うねりの様相を呈している。人系を、けものの系として、降りかかってくる苦難をのり切ろうとしている。『血忌』という言葉が、その意味するものの領域をはみ出して、大海人皇子のように野に放たれるのである。すさまじい」。
 藤井にしても、長谷川にしても、意味やイメージ、音、言外の意味作用などに繋がる微小装置としての言葉の使い手たる詩人として、春日井建の言葉の扱いに先ず注目し、そこから離れずに、テーマやモチーフの導入意義を捉えていこうとしている。三島や澁澤のような煌びやかさはないものの、こういう文章で探求される時にこそ、詩歌の人間の栄誉はあるというものだろう。玄人が他の玄人の技を、技量を凝視する。分析し、盗めるだけのものは盗もうとする。そしてついに、天賦の才という他ない、どうにも盗み得ぬ神技に遭遇し、心底からの静かな敬服を捧げる。時代を超えていくべき詩人誕生の認知は、こういうふうに為されていくのである。

         *

 一九九九年の春に咽頭に見つかった腫瘍は、二〇〇四年五月二十二日の中咽頭癌による他界へと、ひとすじに春日井建を導いていった。すでに歌壇においてはよく知られた事実である。必要に応じて入退院を繰り返していたようだが、存外、活動は活発で、二〇〇三年までは講演や旅行、催しへの出席に忙しかったらしい。この間の様子は、年譜を追ってみるかぎりでは、病気とも思えないほどの充実した、元気なものとも見える。二〇〇一年に九十四歳の母親を失ったのが、あえて言えば、生涯独身だったこの歌人にとっては、いちばん応えたのではないかと思えるが、その折りにさえ、

  てのひらに常に握りてゐし雪が溶け去りしごと母を失ふ     (『朝の水』)
  
熄むといふ一語をおもふ火の息ののちのしじまに母は横たふ
  
告げ足りぬ言ひ足りぬこと羽閉ぢて冬の孔雀がうづくまりゐる

といった名歌を成している。
 闘病の、というべきなのか、それとも伴病の、また、運命の受容の、とでもいうべきなのか、五年間におよぶ歌のすべては、治療の過程での、そして、次第に現世の領土を狭められていく過程での歌であったといえる。それらの中には、

  病むにさへ幸不幸ある劣化ウランにガンとなりたる少年もゐて   (『朝の水』)
  
滴下する薬はハムレットの父王の鼓膜濡らせしと思ひつつ差す

  のどは暴ける墓()とぞ嚥下できかぬる一句が夜のしじまをふかむ  *ロマ書
  
  宇宙食と思はば管より運ばるる飲食(おんじき))もまた愉しからずや
  
神託はつひに降れり日に三たび麻薬をのみて痛みを払へ
  
神を試してタンタロスは飢餓を得しといふ神知らぬわれにも何かが迫る 

舌の根はもはや渇けりわれは神を知らぬ持たぬと呟きしゆゑ

など、病そのものに直接向かった歌ももちろん多いが、直接に向かうほどに、「ハムレット」や「タンタロス」や「宇宙食」や「神」や「神託」が現れるのが興味深い。 
これらの歌を読んでいると、私には、春日井建が四十代半ばだった頃の『青葦』の
 
 死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ
  
一歩一歩空の梯子をのぼりゆく堕ちなむ距離を拡げむとして
  
夏嵐すぎし暁ひろげ読むギリシャの古詩の尾根晴れわたる

などの歌が思い出されてならない。そうして、彼の晩年の詩想から、四十代の詩法、さらにデビュー当時の煌めきへと思いをめぐらせて遡りながら、はたして、春日井建の出自が、どの程度まで日本であったのか、日本の詩歌であったのかと、突拍子もないような疑念にとらわれる。日本人であったことさえ、怪しいと思われてくるのだ。
三島由紀夫は、春日井建における「象徴言語」の「ふんだん」な「復活」のゆえに、『未青年』の序文を「われわれは一人の若い定家を持ったのである」との有名な一文で終えたが、少なくとも、春日井が「定家」でなかったことだけは確かなことではないのか。もとより、ひとりの優れた歌人が「定家」に通底していないわけがない。「定家」とはゆかりもないと言いたいのではなく、彼を「若い定家」と呼んでしまえば、決定的に欠落してしまうものが出てくる、そういうことには敏感でありたいと思うのだ。そういう点には、いくら注意を払っても足りないほどだろう。周囲にそうした配慮があれば、春日井建の壮年はもっと軽快であり得たに違いない。
『豊饒の海』の後に定家についての小説を構想していたという三島が、おそらくは、自らの創造世界の領土拡大における無意識な発露として語ったにすぎない「若い定家」なる評言に、いつまでもかかずらう必要はあるまい。ここではむしろ、澁澤龍彦の『異端者の美学』の中の、次のような考察を思い出しておくべきかもしれない。
「様式化とはむき出しの状態における現実の全的な拒否でもなければ、現実の断片をひとつひとつ拾って無意味な現象のモザイクを造ることでもない。様式の創造とは、生のままの現実を峻絶すると同時に、現実のある未知なる様相を昂揚することによって、そこから得た要素を作家の世界観に従って再び構成し直すことより以外の操作ではあり得ない。この努力の持続は弁証法的であり、強力な現実否定のモメントによる以外には、一瞬間たりともその運動を開始すべき端緒をつかみ得ない」。
 春日井建についての考察へ進む途上に見られるこの箇所は、読みようによっては、春日井ばかりか、他の歌人たちをも、日本固有の短詩型におけるローカルな詩人であることから解放している。ここまで来れば、世界中の詩人たちが、土俵を同じくして討論に参加することができる。こういうところは、あくまでヨーロッパの文芸思潮を自らの批評の核に据えて、日本や世界の文芸・芸術のあいだを往還した澁澤ならではの成果というべきだろう。
「この努力の持続は弁証法的であり、強力な現実否定のモメントによる以外には、一瞬間たりともその運動を開始すべき端緒をつかみ得ない」とは、美しくも極めて具体的な方法論である。春日井建への私の遅ればせながらの賛嘆が、彼の生涯の作歌に「強力な現実否定のモメント」が一貫していたと感知できたことから来ているのは確かだ。現実の春日井建は、瀟洒にして温厚な紳士であったらしいが、そうした振る舞いと「強力な現実否定のモメント」との交差するところに、「礼節」というべき詩歌の倫理が言葉の血肉を備えたのだ。僥倖が、確かに起こっていたのである。 

打ち寄せる波の白扇見てあれば礼節を知れといふ声はして     (『朝の水』)
 
人生観と詩法と景との幸福な一致が歴然たるかたちで此処には提出されており、さらに此処では、歌が、導きの呼び声となって、白扇の波の心象の上を作者自身へと渡っていく。作者とは、もちろん、詩歌という神託の最初の受け取り手のことであるから、この呼び声はすべての読者に、すなわち世界に響き渡っていくのである。

         *

 さて、死は? 
はたして、こういう春日井建の詩魂にとって、それがなにほどのことか?『青葦』にこういう歌がある。

  仰向けの額に晩夏の陽は注ぎ微笑まむ若年といふは過ぎきと

 人生といふは過ぎき、との静かな微笑みの持続をも、おそらく、この歌はつよく後世に向けて構成し続けてやまない。そう感じとるのが、自然な詩歌の読み方というものではないか。そもそも、先に挙げた歌をもう一度引きつつ言えば、

死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ

ということだったはずでもある。
打ち寄せる波、さざなみ、古代微笑、微笑まむ、という用語のゆるやかな連関によって、これら三首は、春日井建という歌人についての輪郭を巧まずして形作るかのようである。死というよりも、永遠のいのちの生誕が継起し続けている大洋上の結界に、春日井建のもろもろの歌を通じて、私はたどり着いたように感じる。

                               (2004.12.20





  
[参考]春日井建略歴

一九三八年一二月二〇日、愛知県江南市生。父春日井瀇は太田水穂に師事する歌人で「潮音」同人。さらに、「覇王樹」「短歌」(中部短歌会)を創刊し、その同人でもあった。母政子も「短歌」同人。
一九五八年『短歌』(角川書店)八月号に、中井英夫推輓により「未青年」五〇首掲載。現代歌人アンソロジー「新唱十人」に加わり、「生誕」一〇〇首を発表。
一九六〇年『未青年』刊行(作品社。序文・三島由紀夫。三五〇首)。
一九七〇年『行け帰ることなく』(深夜叢書社。七〇〇首)を、『未青年』全編を併録し、全歌集として刊行。これを以て、短歌と別れる。
一九七四年『夢の法則』(湯川書房。八〇首と詩三編)。
一九七九年、父瀇死去に伴い、「短歌」の編集発行を引き継ぐ。短歌再開。
一九八四年『青葦』(書肆風の薔薇。三七五首)。
一九九九年春、咽頭に腫瘍発見。
一九九九年『友の書』(雁書館。三八七首)。
一九九九年『白雨』(短歌研究社。三六七首)。
二〇〇〇年『水の蔵』(短歌新聞社。二七五首)。
二〇〇〇年『井泉』(砂子屋書房。三七〇首)。
二〇〇四年『朝の水』(短歌研究社。四一一首)。
二〇〇四年五月二十二日、中咽頭癌により死去。六十五歳。

*現代詩手帖特集版『春日井建の世界』所収の喜多昭夫編の年譜、大塚寅彦編の書誌を参考にした。