2010年12月14日火曜日

ベストセラーときもの(8) 泉鏡花『婦系図』



『婦系図』といえば、あゝ、湯島の白梅の…と来る。しかし、新劇ではいかに有名であれ、原作にそんな場面は出てこないし、悲恋いっぽうの物語でもない。それどころか、この小説、とんでもなく奇想天外な悪漢小説というべき。数々の見せ場や愁嘆場にくわえ、明治版弁天小僧とでもいうべきどんでん返し、登場人物たちも作者の筆も、毎行、キビキビ忙しく動く。鏡花の文体の特徴として、読んでいるうち、なんだかわからなくなる時も間々あるが、それも御愛嬌、漢字づかいも華やかな、看過できないトンデモ小説なのである。
 ようするに、小説のかたちをした歌舞伎だと思って当たればいいので、こういう小説には当然ながら、人物たちに着せる着物のいちいちがまことによく引き立つ。泉鏡花が着物好きなものだから、主人公早瀬主税をめぐる女たち、芸者あがりのお蔦から、成り上がりブルジョワ家庭河野家の女たちにいたるまで、そのまま俳優たちに着せ、映画にしていけそうなぐあいの描き込みようだ。

たとえば河野家の総領娘の道子、器量よしを誇る気もない引っ込み思案ながら、「きりりとして、然も優しく、媚かず温柔して、河野一族第一の品」。この彼女が、義弟に味噌汁をよそってやる場面。
「肉色の絽の長襦袢で、絽縮緬の褄摺る音ない、するすると長火鉢の前へ行って(…)、
『お装けしましょう、』と艶麗に云う。
『恐縮ですな。』
と椀を出して、理学士は、道子が、毛一筋も乱れない円髷の艶も溢さず、白粉の濃い襟を据えて、端然として白襟、薄お納戸のその紗綾形小紋の紋着で、味噌汁を装う白々とした手を、感に堪えて見て居た(…)」
 着物を描き込んだ小説も数々あれど、味噌汁をよそわせる時の着物をこのように描いたのなど、おそらく鏡花ひとり。着物、白々とした手、味噌汁、という組みあわせの妙と意外な魅力とに思い到れる作家など、そう多くはない。

 ただ描く、というのではない。描いていく言葉が、表現が、日舞さながら、そのまま華やかに舞ったり演技をしているような鏡花の文体。主要人物たちの、ここぞという場面の着物姿を、ちょっと通して御覧いただこう。ファッションショーふうに。

 まずは、子供を寝かしつけた後の菅子、「河野一族随一の艶」にして、校長夫人から。
「襖が開いた、と思うと、羽織なしの引掛帯、結び目が摺って、横に成って、くつろいだ衣紋の、胸から、柔かにふっくりと高い、真白な線を、読みかけた玉章で斜めに仕切って、衽下りにその繰伸した手紙の片端を、北斎が描いた蹴出の如く、ぶるぶるとぶら下げながら出た処は、そんじょ芸者の風がある」。

 彼女が神戸行きの急行列車中で初登場する場面もまた、圧倒的。
「真白なリボンに、黒髪の艶は、金蒔絵の櫛の光を沈めて、愈漆の如く、藤紫のぼかしに牡丹の花、蕊に金入の半襟、栗梅の褄を襲ねて、幽かに紅の入った黒地友禅の下襲ね、折からの雨に涼しく見える、柳の腰を、十三の糸で結んだかと黒繻子の丸帯に金泥でするすると引いた琴の絃、添えた模様の琴柱の一枚が、膨くりと乳房を包んだ胸を圧えて、時計の金鎖を留めて居る。羽織は薄い小豆色の縮緬に……一寸分りかねたが……五つ紋(…)」

 つぎは、主税の先生酒井俊蔵の愛娘、妙子、初登場の場面。
「『御免なさいよ。』
と優い声、はッと花降る留南奇の薫に、お源は恍惚として顔を上げると、帯も、袂も、衣紋も、扱帯も、花いろいろの立姿。まあ!紫と、水浅黄と、白と紅咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に孔雀を見るような」。
溝の汚れた水さえ、妙子のこの姿に澄んで、「霞をかけたる蒼空が、底美しく映るばかり」と鏡花は畳みかけていく。

さて、こんな妙子の父、有名な独逸文学者酒井俊蔵の着物にいたっては、男の着物姿をよくぞここまで、というほどの描写。やはり、小説に初登場する場面を。
「茶の中折帽を無造作に、黒地に茶の千筋、平お召の一枚小袖。黒斜子に丁子巴の三つ紋の羽織、紺の無地献上博多の帯腰すっきりと、片手を懐に、裄短な袖を投げた風采は、丈高く痩せぎすな肌に粋である。然も上品に衣紋正しく、黒八丈の襟を合わせて、色の浅黒い、鼻筋の通った、目に恐ろしく威のある、品のある、眉の秀でた、但その口許はお妙に肖て、嬰児も懐くべく無量の愛の含まるる」。

 こんな描写が文庫本にして約四〇〇ページ、幻惑され、翻弄されつつ、陶然としてこれらを受けとめ続けるというのが、泉鏡花を読むという体験。近ごろの世の中、薄味の小説ばかりで、とお嘆きの向きには、こってりと濃厚な泉鏡花、ぜひ再読あれ。



◆この文章は、若干の修正を加えた上で、「ベストセラーときもの・泉鏡花作『婦系図』」として「美しいキモノ」二〇一〇年冬号にも掲載された。

2010年10月14日木曜日

なんといっても正宗白鳥




苦労したって拙いものは拙いし、気楽に書き流してもいい者はいい。
                   正宗白鳥『明治文壇総評』


 批評家なら、なんといっても正宗白鳥である。文学作品の値打ちの在る無しを、ずけずけと判ずる。まさに、ずけずけであって、切れ味は名刀正宗そのもの。褒めたその手で、同じ相手をザッと切り捨てる。数ある批評家のなかで、あれほどの毀誉褒貶を散りばめて批評文を物する人は、そうはいない。批評家とはなにか。正宗白鳥のことであって、小林秀雄ではないし、吉本隆明でもない。なるほど、花田清輝はなかなかの批評家ではある。しかし、正宗白鳥、やっぱり、正宗白鳥。
 とはいえ、白鳥に出会うにはずいぶんと時間がかかった。

日ごろから、頭を柔軟に、しかし、きびきびと保つ助けになってくれるような文章こそが読みたいタチで、知識渉猟や研究といったことはまったく眼中にないし、筆者が意図的に仕組んでくる、わざとらしい味わいなどというものも、どうでもよい。いつも、こんな我がままな読者として本に付き合おうとしてきたが、さいわいなことには、欲求に適うものもけっして少なくはない。それでも、あれも読み、これも読みなどしていくうちには、うってつけの本もさすがに払底してくるわけで、突き抜けた感を与えてくれるよい本に出会えずに鬱々としているなぞというのは、もう、年中のことである。

 購入して仕舞い込んであった正宗白鳥の作家論集を手にしたのは、読み直しにかかっていたある作家についての評論を見る必要があった時だったのだが、少し読み出してみて、すばらしい本に逢着したのに気づいた。
もちろん、小林秀雄との論争の元になった有名な『トルストイについて』他、白鳥のものは以前、いくつかは読んでいる。だが、若気の至りというべきか、見る目がないというのはまことに恐ろしいもので、多くの評論家の文章のなかで、ことに傑出しているというふうには感じないで来てしまった。
高校時代、小林秀雄や花田清輝への没頭から始まった批評文好きは、唐木順三や磯田光一、平野謙、宮川淳、江藤淳、吉田健一などといった個性派を経つつ、大学に至って、ちょうど全盛期だった蓮実重彦や柄谷行人の仕事をリアルタイムで追うところに極まった。蓮実重彦には、教室でフランス文学や映画の先生として出会ってもいたので、格段の親近感を以て、その広範な仕事ぶりを網羅しようと努めた。おかげで、ずいぶん生意気な学生になったが、まずかったのは、一時、あの強烈な文体に完全にやられてしまったことだ。模範的な、それまでのあれこれの文章の逆毛を執拗に撫で上げようとでもするかのような、長い、無用の形容の羅列からなる、意味と調子の円環性を持った批評文体。クロード・シモン、プルーストやムジールに、デリダやジャン・ピエール=リシャールを融合させて編み出したかのような、日本のあらゆる先行文体を馬鹿にしきったあの文体は、当時の文科の大学生たちには否応ない浸透力を発揮し、いったんかぶれたが最後、今度はなかなか抜けないほどに、その魅力は強烈だった。あの文体には、蓮実重彦のあらゆる読書体験が混入しているのは確かだが、いま挙げたような作家批評家たちの他に、案外と強く内向の世代たちの文体が影響していたのかもしれないと思うこともある。いったいどのような文体に向けて、彼はあんな文体をぶつけていたのだろう。やはり、まずは三島由紀夫、次には、同時代の大江健三郎だったのだろうか。

吉本隆明も、ちょうど角川文庫に主著が入った頃でもあり、当然のこと、視野にあった。しかし、他の批評家よりも根源的と見えもする批評の仕事を行おうとしていた吉本は、なぜか、蓮実や柄谷に伴走した世代には、歯がゆく見えて仕方なかった。問題設定はわかるが、展開のしかたに納得がいかない。「問題」と書かずに、わざわざ「もんだい」と表記するところなどに、根源的とも言える時代の差を感じ取ってもいたかもしれない。廣松渉のあの独特の表記法にも苦笑を禁じえなかったものだが、文字選択の一字一句にまでこだわる文学青年には、哲学徒や学生運動の成れの果ての年長者たちの、無骨というよりも無粋というべき感性は、外国の風俗よりも遠い不快なものに感じられていた。こうした違和感が薄れたのはそう遠くないことで、詩人たちと関わるようになってみて、多くは、全共闘世代から団塊の世代までということになろうが、上の世代にもまともな人たちはいるのだ、と知るようになってからのことである。個人的な一例に過ぎないとはいえ、高度成長期の一世代に属する私のような人間が、どれほどの反感を、奇妙にも上の世代に向けて生きてきたかがよくわかる挿話と言えるかもしれない。個人的な批評読書史を辿ってもしかたがないが、とにかくも、こんな経過を辿ってきたのでは、白鳥になかなか出会えなかったのも当然だと言えよう。

だが、いま思うに、なかなか白鳥に出会わなかったというのも、意味のないことではなかったかもしれない。白鳥を読む以前と以後では、人間は変わる。小林秀雄以下、名立たる批評家の魅力がスッと消えてしまった経験には、まことに忘れがたいものがあるのだ。早く読みすぎていたら、それはそれで時間の節約にはなったかもしれないが、どんな批評家も馬鹿らしくて読まない、そんなことにならなかったとも言えない。少し遅れて出会うべきものというのは、やはり、厳然と人生には存在するものなのである。 

          *   *   *

すぐれた批評の裏には、当然ながら、すぐれた揺るぎない文学観、人間観がなければならない。目に狂いがあってはもちろんいけないが、無用の傾きを自分に許すのもいけない。ひとりの作家の傑出した面も愚鈍な面も、さらには計算高い面も、醜い面も、すべて、同時に見る。どれかだけを語って、他の面を隠すのではいけないのだ。
作品の出来というものを離れてまで、贔屓してやるべき作家などというものも、この世にはいない。逆に、作品が悪くても、心を惹かれる作家というものもいる。つまらないか、面白いか。誠実な探求があるか、あっても、不出来か。傑作を書いたといっても、品性下劣ではないのか。
たとえば、白鳥は、読売新聞主筆に頼まれて、漱石に入社を頼みに行った際のことを、このように書く。少し、長く引く。

当時の読売新聞主筆であった竹越三叉氏は、漱石招聘を企てて、自分で交渉に出掛けたようであったが、私も一度主筆の命を奉じて駒込の邸宅に漱石を訪問した。新聞記者として訪問ずれのしていた当時の私は、学生時代に鏡花訪問を試みた時のような純な気持ちは失っていて、「お役目に訪ねて来た」という感じを、露骨に現したらしかった。部屋の様子も、主人の態度も話し振りも、陰鬱で冴えなかった。『草枕』を発表して名声嘖々たる時であったのに関らず、得意の色は見えなかった。(…)読売入社の件は無論駄目であったが、間もなく日曜の文芸附録へ、一篇の評論を寄稿されたのが、漱石が読売に対する寸志と見るべきであった。
例の畔柳氏にこの話をすると、「漱石が新聞社なんかへ入るものか」と、頼みに行く方が馬鹿だといわぬばかりにいって、笑った。私はなるほどと同感した。
ところが、それから、半年も経たぬ間に、夏目漱石先生は、堂々と朝日新聞社に入社した。私は意外に感じた。人は、処世上の利害によってどうにでも動くものである。あの人に限ってそんなことはないと断言するのは浅墓な考えである。漱石先生といえども例外であるはずがない。竹越氏は私に向かって、「漱石は、読売入社については不安を感じているらしいが、社では約束は確実に守る。本野一郎君に僕からそういって、将来の地位の安全は保証する」といったが、そういう言葉をそのまま受け入れるべく漱石は、あまりに聡明であった。読売では前途に不安を感じて、乗り気にならなかった彼れが、朝日ならと乗り出したところに、彼れの人生観察の目の動きが見られる。*(1)

人間に対する批評とはなにか、ということを思う時、よくこの一節を思い出す。まことにあっさりと言ってのけていて、漱石とはどのような男だったかを描き出して、比類がない。芥川龍之介は、芭蕉の臨終を扱った短編『枯野抄』の中で、芭蕉の門弟たちの純粋ならざる心のうちを描きつつ、漱石臨終をめぐる弟子たちの心のうちを仄めかしたものだが、肝心の先生自身がこのような人であったことまでは、あの慧眼を以てしても、見抜いていたものかどうか。

よく知られるように、明治からの文学を見てきた人々は、概して漱石の文学には厳しいもので、白鳥の漱石評も、褒めるところは褒めつつも、全般的には情け容赦もないといっていい。いま引用した一節は『夏目漱石論』からのものだが、この評論の冒頭で触れられる『虞美人草』などは、惨憺たるものである。が、その惨憺に至るまでが面白い。

想いを構うること慎重に、プロットの上からいっても一糸乱れず、文章からいっても実に絢爛と精緻を極めたものである*(2)

という森田草平の賛辞を引用しながら、「この批評は当たっている」と引き取るものの、こう続けていく。

プロットが整然としていて、文章も絢爛と精緻を極めていることは、誰にでも認められる。この一篇だけを例に取っても、漱石が近代無比の名文家であることは、充分に証拠立てられる。それでは、「虞美人草は読んで面白かったか」と訊かれると、私は、言下に否と答える。「私にはちっとも面白くなかった。読んでいるうちは退屈の連続を感じた」と、私は躊躇するところなく答える。

(…)才に任せて、詰まらないことを喋舌りちらしているようにも思われる。それに、近代化した馬琴といったような物知り振りと、どのページにも頑張っている理窟に、私はうんざりした。

(…)余計なものを取り去ってしまって、小説のエッセンスだけを残すと、藤尾と彼女の母、甲野、小野、宗近など、数人の男女の錯綜した世相が、明確ではあるが、しかし概念的に読者の心に映ずるだけである。女性に対する観察はある。人生に対する作者の考察も膚浅ではない。しかし、この一篇には、生き生きとした人間は決して活躍していないのである。思慮の浅い虚栄に富んだ近代ぶりの女性藤尾の描写は、作者の最も苦心したところであろうが、要するに説明に留まっている。

(…)むしろ、菊池君などのほうが傑れているのである。わが仏尊しと見る偏見を離れて見るがいい。『虞美人草』の小説的部分は、通俗小説の型を追って、しかも至らざるものである。

 こういう白鳥でも、『猫』、『草枕』、『坊ちゃん』などは評価している。してはいるものの、

『坊ちゃん』は、(…)、いやみがなくって、いい通俗小説である。しかし、ここに現れている作者の正義観は卑近である。こういう風に世の中を見て安んじていられればお目出たいものだと思われる。

と、ちゃんと釘を刺す。その後、『心』、『行人』、『道草』等、あらかた駄目と見て、『門』の場合はせっ
くよかったのに、最後の宗助の参禅でぶち壊し。

鎌倉の禅寺へ行くなんか少し巫山戯(ふざけ)ている。……作者はどの小説にもなぜこんな筆法を用いるのであろうか。腰便宗助の平凡生活だけでいいではないか。

「運びがまどろっこしく退屈」な最後の『明暗』については、「はじめて、漱石も女がわかるようになっ
たと思った」と言い、お延やお秀といった女性の描写を評価して「意義のある作品」と認めながらも、
『心』、『行人』などと纏めて、

漱石晩年の作品に、私は、彼れの心の惑いを見、暗さを見、悩みをこそ見るが、超脱した悟性の光りが輝いているとは思わない。 

と漱石論を終えるのだ。まったく、漱石センセイもなにも、タマッタものではない。相手が誰であろう
と、文学であるならば面白い読み物を提供するのでなければならないし、単に面白いだけならば通
俗小説にすぎない。読者というのは、つねに勝手な要求をしてくるものだし、好悪は激しく、評価を
つけるにあたって情け容赦はない。白鳥はこういった読者の側をまったく離れずに批評しており、万
事に渡って、人の目を気にするということがない。ここに白鳥を読む快楽がある。言いたいことをた
だずけずけと言う人間が、一見溢れているようでいながら、実は払底している現代に、白鳥はまさ
に、古きよき時代の権化のように映る。

       *   *   *

 白鳥は、自分が生まれた明治という特殊な時代の限界性と矛盾を、いかなる時にも忘れなかった。その時代に開花した文学は、たしかに、西欧の新しい文芸の移入によって、過去の日本の文芸とすっかり袂を分かち、刷新されたかのように見える面もあるとはいうものの、彼にとっては、「徳川末期の溝泥文学」を引き摺り続けていると見え、同時に、欧米のものをあくせくと取り込むばかりの「植民地文学」とも見えていた。明治文学のこういう面についての彼の認識には、冷静、透徹、という以上に、ほとんど冷酷といっていいものがある。

   思えば、新日本の文壇は、種々雑多な思想によって刺激されたものである。徳川時代には、異端邪説といったところで概して孔孟の教えの範囲をうろついていただけであった。勧善懲悪は、芝居の作者にでも草双紙の作者にでも、確固不動の憲法とされていた。明治になってからは、基督教の博愛主義も入ってきた。「消極的な利他的な道徳を家畜の群の道徳だ」として侮蔑したニーチェの超人哲学も入って来た。スチルネルの自我主義も、ゾライズムも、社会主義も、「凡てか、皆無か」主義も、皆んな大なり小なり、やたらに文壇に刺激を与え、評論家に問題を提供し、作家の態度を動揺させたことを思うと、日本は欧米思想の植民地のようにも思われる。過去の王朝文学や元禄享保の文学、文化文政期の文学に比べると、明治文壇は色さまざまの百花繚乱の趣があるが、それとともに植民地文学の感じがする。そして、私などはその植民地文学を喜んで、自己の思想、感情を培って来た。今日のマルクス主義、共産主義の文学にしたって、今のところ、私には植民地文学に過ぎないように思われる。*(3)

 私は、日本はいつまでも翻訳国なのではないかと思う。*(4)

   時代時代の流行の変遷は世上の常であるが、新しい舶来者に対して敏捷に魅惑され、気ぜわしく動かされるのは、明治以来の日本の特有性である。悠然と構えたどっしりした文学芸術の起るに相応しくない国柄であり時代であるといっていい。しかし、人間には古えを尚ぶという性癖がある。また、いくら前代を卑んでも、前代の子孫である人間は、過去から全く絶縁した新たなるものを樹立することは出来ないのだ。*(5)

   明治文学中に見られるような個性の煩悶苦悶は、舶来物なのだ。西洋の過去の文学には、それが激しく現れていて、明治文学のは、その影を希薄にうつしたに過ぎないぐらいだ。旧時の日本が非常な感化を受けていた支那文学についていっても、私などは、支那の詩を読むと、李太白をはじめ、有名な詩人の多くが、枯淡な無欲な悟り澄ました口吻を洩らすか、磊落な豪傑気取りを見せつけるかした詩作を残しているのに、嫌悪を覚えることがあるが、日本の漢詩人は、最近までその支那の詩人の真似をしてきたのである。……明治文学中の懐疑苦悶の影も要するに、西洋文学の真似で、附け焼刃なのではないだろうか。明治の雰囲気に育った私は、過去を回顧して、多少そういう疑いが起こらないでもない。*(6)

   鴎外逍遥紅葉露伴が、自然主義勃興前までの新日本の文壇の代表的巨匠として、重んぜられていたのであるが、どれも皆根底には武士道儒者道の名残りを濃厚に留めていた。内村鑑三の基督教だって武士道的基督教であった。彼らの生れた時代が時代であったためではあるが、そればかりではあるまい。それが日本人の特質ではあるまいか。自然主義後の花袋藤村だってその主唱するところに徹し得なかった。*(7)

 批評は、明治文学に止まらず、ひろく日本文学全体や、日本そのものの本質にまで伸びていると言っていいだろう。舶来物の真似に終始し、付け焼刃で繚乱たる「植民地文学」を支え続ける日本という風土への批判である。
 こういう風土に育った彼自身も、当然ながら、甚だしい限界を持っていると見なければ嘘になる。批評家白鳥は、自分の足元を晒し、ある意味では、自分の批評の根をも、次のように、切って捨てる。

「偶然に生を享けたる国土の如きは、我故郷とするに足らず」と傲語した内村鑑三氏でも、幕末の日本に生れ明治初期の雰囲気に育ったために、武士道と基督教をチャンポンにしたような愛国心を有して、故郷とするに足らぬ故郷から心を脱却させることが出来なかったように、私も、明治の日本の風潮に、一から十まで支配されながら微々たる生を営み脆弱な心魂を養って来たことが、まざまざと回顧される。*(8)

 切り捨てられたのは、白鳥自身の批評の根だけではないだろう。彼以後のあらゆる日本人の根が、じつは、ここに見透かされている。内村のように、「偶然に生を享けたる国土の如きは、我故郷とするに足らず」と傲語しながら、日本人はひとりの例外もなしに、迷走し続けてきただけのことではないのか。し続けていくだけのことなのではないか。「植民地文学」の風潮に「一から十まで支配されながら微々たる生を営み脆弱な心魂を」いつまでも、いつまでも、養っていくに過ぎないのではないか。
 明治文学のなかで、奮闘して討ち死にしていったかのような作家や文学者たち、死後、名声の急落していく人々にも、白鳥は、手加減もせず、じつに辛辣な批評を浴びせているが、それでも、彼らに寄せるまなざしに不思議な温かさの感じられるのは、こうした「植民地文学」を強いられた戦友たちへの共感と慰撫とから来るものなのかもしれない。
 たとえば二葉亭四迷について、

   翻訳では文章が、ぴちぴち跳ねるように生きているのに、創作では、筆が著しくいじけている。原作の束縛を受けるべき翻訳において、自己の才気が随分に働いて、自由自在に書けるはずの創作が、かえって窮屈そうに見えるのは、いたましく思われる。*(9)

『浮雲』も第一篇と第二篇とが、今日なお読み応えのするものであるが、その続きはガタ落ちする。読むには耐えぬほどだらしのないものである。(…)
   第三作『平凡』では、二葉亭も、思い切って自分を投げ出したので、『其面影』ほど陳腐平凡ではなかったが、さしたる深みも厚みも、鋭さも、あるいは軽快な味いも見られなかった。*10

このように、翻訳の素晴らしさを讃えながらも、創作についてはまことに「見栄えがしない」と断言して憚らないのだが、しかしながら、彼が「人生とは何ぞや」ということをしきりに考えていたらしいと推測し、人生や生死について「真正直」に考えていたと語る時、白鳥の言は、一体、批判なのか、称揚なのか、区別がつかないところに達している。

   今日の目で見ると、何でそんな取り留めのないことに心を痛めていたかと陳腐に感ぜられるだろうが、そこに、明治二十年代の悩みが見られて、二葉亭の存在に興味が感ぜられる。彼れはその小説の主人公の如く、少し愚図で頭が冴えていなかったらしいが、正直であった。今日のある種の青年のように狡猾なところ、軽薄なところは少しもなかった。あの三つの小説は芸術として幼稚ではあるが、人間の正直さは現れている。*11

「こんなまずい物を書いて原稿料を取っては相済まん」という自責の念、自己の才能に対する過分の否定は、周囲の甘い賞賛によってもぐらつく時がなかった。これは、他に例のないことで、私などは、自己の創作については、常に不足を感じ続けて来たのに関らず、世間に推賞されると、うかといい気になるのである。夏目漱石でも、世間のおだてに乗せられて、自分を一ぱしえらいものになった気でいたらしい。芸術家で名誉の快感を覚えないのは、芸術家としての特権を失う訳であるが、ただ二葉亭にだけはそれがなかった。その点では不思議な人であり、また不幸な人であった。自作の世に認められないのを憤って、たまに悪評を下されると、親の敵のように深く記憶に留める文学者気質は、二葉亭の気持とは正反対である。*12

 作品については切って捨て、人物については讃える。文学者としての息の根を絶ちながら、同時に、人間としての面にこれだけの賛辞を送る。そんな手腕をこのように目の前で見せられると、やはり、白鳥以降、批評は落ちたものだと思える。たんなる温かいまなざしと、辛辣な批判の共存などといったものではない。文学における人間の扱いの、最低限の作法とでもいったものが、ここには模範的に展開されていると見るべきなのだ。日常の中でなら、だれもが他人について、批判いっぽうにも賛辞いっぽうにも傾きはしない。しかし、そうしたバランスを批評に持ち込むのは、なかなかに容易ではないのだ。言葉でなにかを対象とし、学術論文のようなもったいぶった迂路を事とせずに、簡明に短く多面性を提示するというのは、並大抵のことではない。白鳥の批評は、文芸批評でありつつ、そのまま、人間を語る秘訣を教えるものでもある。
坪内逍遥の死後に、逍遥に対して起こった批判に抗して、白鳥はこのように書いている。

「坪内博士には叛逆性がなかった。叛逆性のない所に真の芸術はない」などと、勿体振って説く者があるが、時世に対する反逆とは如何なる意味であろうか。博士は、旧文学に反抗して、『小説神髄』を草した。当代の演劇に反抗して、文芸協会の演劇事業に努力されたではないか。「叛逆」とは、そういう単純な芸術方面の意味ではなく、時代の道徳宗教、あるいは政治問題社会問題などに関していうので、坪内博士はそこに何らの反逆精神を持っていなかったと、非難者はいうのであろうか。しかし、そういう意味での反逆精神を発揮した文学者は明治時代にあったであろうか。明治以前にもあったであろうか。鴎外漱石紅葉露伴に無かった如く、西鶴にも芭蕉にも近松にも無かったのである。彼ら元禄時代の三傑も、徳川封建政治に従順に服従し、圧制の下に何の疑いも抱かず、ニーチェのいわゆる奴隷道徳に安んじ、家畜の群れの一員たるに甘んじていたのではないか。文学に反逆性の乏しいのは、古来の日本文学の特色なのである。坪内博士にのみケチをつけるのは当を得ないのだ。
   そうはいうものの、私も日本文学の諸先輩が、自己の生存に対して、晏如として悟道の域に達したらしいのを不思議に思っている。本当にそうであったのかと疑われないこともない。みんなが「則天去私」なのだが、これを、晩年のトルストイの苦悶、イプセンの凄惨たる孤独感、チェホフの氷の如き心境に比べると如何に相違していたことか。*13

 美しい文章で、やはり明治の、いや、日本の「植民地文学」という風土に苛まれ、足を取られ、奮闘して去っていった逍遥の生の意義を、白鳥自身、内面で生きてみた上での、生きてみたからこその、見事な追悼の文にもなっていると言えよう。
 もちろん、それだけではない。文学上の逍遥の反逆について評価し、弁護しながら、返す刀で、逍遥を含めての日本文学全体における「叛逆」の不在を語りつつ、しかしながら、「叛逆」が欠如しているからといって、日本の文学者たちが悟道の域に達していたのを意味するとは思えない、と白鳥は語っている。
これはすなわち、日本文学の大きな特色でもある「則天去私」性をまったく信じていないということだ。日本の文学者は、むしろ「則天去私」を強いられてきたのであり、そうした身振りの裏にある陰惨な演劇性の本質へ直ちに読者たちの考察を向かわせる態の、文学論上の見事なショートカットがここには提示されている。日本の近代文学の開始点に立つ逍遥を論じながら、ともすれば日本文学の達成と見えがちな核心部分を、容赦なく丸ごと疑え、と白鳥は言っているのである。
                                        (2003.12.18~21

(註)
*(1)『夏目漱石論』正宗白鳥著『新編 作家論』(高橋英夫編、岩波文庫、二〇〇二年)所収。以下の引用はどれも岩波文庫版による。
*(2)同『夏目漱石論』。以下、漱石作品についての八篇の引用は、どれもこの評論より引用。
*(3)『明治文壇総評』。
*(4)『二葉亭について』。
*(5)『明治文壇総評』
*(6)『明治文壇総評』
*(7)『明治文壇総評』
*(8)『明治文壇総評』
*(9)『二葉亭について』。
*10)『二葉亭について』。
*11)『二葉亭について』。なお、『内村鑑三』等によれば、白鳥自身にとっても「いかに生くべきか」は重要な問題であった。小林秀雄は未完の『正宗白鳥の作について』(昭和五十六年)でこの点に触れている。小林の絶筆となったこの論考は、『白鳥・宣長・言葉』(新潮社、一九八三)所収。
*12)『二葉亭について』。
*13)『文学者としての逍遥先生』。 


◆この文章は駿河昌樹文葉『トロワテ』4号(2004年1月)に掲載された。

2010年10月9日土曜日

高畑の志賀直哉旧居



明らかに道だとわかる道は、ほとんどいつも愚か者が通る。真ん中の道、つまり中庸、良識、慎重な計画という道には注意するがいい。          
(ウイリアム・S・バロウズ『ウエスタン・ランド』)


 十一月の半ば、ひさしぶりに高畑の志賀直哉旧居を訪ねた折、書斎から若草山が見えるのに気づいた。
以前に来た時、いちいちの部屋を覗いたり、廊下から身を乗り入れて雰囲気が染込んでくるのに任せたりして、その時はその時でのんびりと見させてもらったと思ったが、山が見えることまでは気づかなかった。九月も早い頃で、まだ庭木が盛んだったからだろう。
今回はたまたま植木屋が入っていて、木々の枝を払っているところだった。庭に突き出すように作られた書斎から、若草山がすっきりと望まれた。
書斎の中の志賀の机は、庭側の角に置かれている。この机に向かえば、どちらの壁の窓からも少し離れてしまうから、仕事中、原稿用紙や本に向かったまま、ふと山を望む、ということはできなかっただろう。しかし、休息の折など、椅子を窓際に寄せたりして、ぼうっと山を眺めることはできたに違いない。秋も更ける頃なら、木々に遮られずに、なだらかな若草山の山頂が望まれたことだろう。 
もっとも、志賀が此処に住んだ時に、今あるように机が置かれていたとも知れず、庭木にしてもずっと若く、低かったかもしれない。そもそも、木じたいが代替わりしているかもしれない。
現実に作家がどのように山と対したか、それに拘泥するつもりもなく、山を眺め、書斎を何度も覗き、植木屋の働いている庭を見ていた。
書斎から、このようにすっきりと山が望まれるということが、快い憧れとして、すっと心に入ってきた。

じつを言えば、これに少し驚かされた。
中学時代から志賀は好きな作家だったが、作家としての質とはべつに、志賀のあの裕福さが、彼の作品に触れるたび、こちらの心に抵抗を生んだ。親掛かりだった十代には全く気にならなかったが、いちいちのことが金の問題と絡まって身に被さってくる二十代三十代になってから、はっきり軋みとなって感じられるようになった。文芸趣味は私の今生のありようの核心まで染みたものなので、人生の時々にあたって志賀の作品を読み返すのを避けるわけにはいかない。読み返せば、そのつど教えられるし、感銘も受ける。しかし、やはり作品を通じて親しんだバルザックやスタンダール、ボードレールや、日本に限っても、たとえば太宰や秋成など、生活ではずいぶんと苦労した他の作家たちとくらべて、経済面や物質面での志賀のあの安楽ぶりはどうか、と訝られるところがあった。彼自身での収入では、あれだけの余裕ある生活はとても送れなかったにちがいないし、逆に、もしあれだけの経済的なゆとりがあれば、今あげた作家たちなど、どれだけ落ち着いて、いっそうも二層もよいものを書けただろうと想像される。当然、私自身の不如意も、おのれの能力の貧しさは棚に上げて、この想像には読み込まれていた。
いつか、志賀の生活上の幸運と作品とは切り離して読む癖がつき、冷静怜悧を気取る文学鑑賞の常道でもあることから、それはそれで、若かった私の自尊心を満たしたところがある。文学や芸術における読解や受容の冷静さ気取りは、いつも逃避や脆弱を隠しているものだ。まだロラン・バルトや他の構造主義的批評やロシア・フォルマリスムなどが十分に盛名を保っていた頃で、文芸作品を重力場や磁場のように扱って犀利な解析の真似事をして見せようとしている者が少なくなかった。それをそのまま真似てついていこうと思ったわけでもないが、私も、著名な批評家たちが扱っていない作家や作品についての分析成果を著してみたいとは思った。そのための読書や勉強に割いた時間は、少ないとはいえない。

考え方はいろいろあろうが、ある作家の作品の文学的価値と、彼の生活面に対するこちらの心の反応とを切り離して読むというのは、公平を旨とする科学者ふうの振る舞いのようでいながら、実際には、一種のニヒリズムを心のうちに固定化してしまうような危険なところがある、と今は思っている。
志賀の父親直温は、よく知られるように、銀行家から実業家に転じて巨富を成した人物であり、直哉は、そういう父に反抗しながらも経済的な恩恵を拒否することはなかった。高畑の旧居の作りを見ても、必要とあれば直哉がふんだんに資金を調達できたのがわかる。自分自身の働きのみでなんとか生き延びているような人間なら、志賀直哉のこうした幸運というものを前にして、多かれ少なかれ、羨望や不快の思いが湧いてくるのを禁じるのは難しいだろう。こんな思いにいちいち心を乱されていたのでは、せっかくの名品の鑑賞はもちろん、批評も研究も覚束ない。ここに、生活と作品の切り離しだの科学的批評だのという手管の捻出されてくる必要性が生じるわけで、周知の通り、文学研究の世界では常識的な態度としてずいぶんと重宝されている。
だが、こんな態度ばかりが常道とされてしまっては、実際には、粗暴から繊細の極みまでを一様に収めるべき道楽の場としての文芸は、粗相なくひたすら適度に振舞うだけが能の院生上がりに占められて、メスやピンセットのような冷たい言葉づかいの先に干上がっていってしまうばかりではないか。志賀のような恵まれた作家の、その恵まれた面に不公平を感じたり、父への反抗を言いながら経済的な恩恵を拒否しない態度を偽善と思ったり、そうした中で創作されていった日本語の名品をどう扱うかと迷ったりし続けるというのは、人心とはかけ離れた科学的現象のフィールドのように作品を扱うこと以上に、はるかに重要なことである。自分の心からも他人の心からも逃げられず、刻々の喜怒哀楽や悪心や羨望や劣心に足を奪われながら、読んだり、認識したり、判断したり、書いたりし続ける他ないということこそ文芸に関わる者の第一の覚悟であるべきで、これは時代の変遷には影響されようがない。作品であれ作家であれ、科学におけるようなかたちで対象化することは不可能であり、いかなる場合にも、もどかしさに痺れを切らして擬似科学へ逃げ込もうとしたりせずに、曖昧模糊とも見える無限の人間通への道に、また、幻術そのものというべき言語表現の掴み難さや、対象とこちら側との境界の定めがたさというものに、ずっと踏み止まり続ける必要があるはずなのだ。

志賀直哉という作家本人の生活上の幸福を、見ないように、見ないように、と努めつつ読んできた二十代三十代の頃の気持ちは、今でも忘れられない。あの頃には、高畑の旧宅をまだ訪ねたことはなかったが、数寄屋造りを改造したような、モダンで風雅な家だということは聞き知っていた。それを不快に思ったのを覚えている。書斎から若草山が望めるなどということを知ったら、どんなに嫌な思いを募らせたか、想像に難くない。今と違って、作家の生活への感情と作品そのものとをきれいに切り離して扱っているつもりになっていた頃だというのに、皮肉なことに、切り離したはずの感情が目の裏に張り付いて、さまざまなものを見るまなざしを歪ませていた。冷静に、客観的に作品を見る努力はしていたのかもしれないが、自分にないものを持っている作家の幸福のいちいちにピリピリと傷つき、見ないように、見ないように、と心に蓋をしてまわるような人間による客観視とはなにか。なにほどのものか。ものを見、考える秘訣というのは、冷静さなどというものがいかに怪しいものかを悟り、客観性というカドワカシにももはや乗らずに、今の自分の限界ある能力と条件とを以て、とにかくよく考えようと頭を絞ってみる、ただそれだけのことでいいというのに、たったこれほどのことに、なかなか思い至ることができなかった。
志賀の書斎からすっきりと山が望まれる、それを気持ちよく思い、快い憧れとして、すっと心に入ってくる。こんなことは、つい数年前には、考えられないことだった。

これが志賀直哉の書斎のことであったというのは、人生上のちょっとした符号のようにも思え、いくらか感じるところがある。
自分なりに志賀直哉を発見した時をよく覚えている。中学生の時で、図書館で短編や中編小説を見つけては、好んで読み漁っていた。書架の並ぶ中で、サキやモーパッサンとはまた違った面白さの予感を抱きながら、志賀直哉という名前をくりかえし眺めた記憶がある。
小学生時代からの長い疾患のさなかだった。平気で学生生活を送っているようでも、今から思えば、かなり人生を捨てて生きていた、そう言えるように思う。五年以上に及んだ慢性の病の中で、少年ながらに、他の小中学生が抱くようなさまざまな夢や希望を静かに捨てていくすべを、身につけていかざるを得なかった。捨てなければ、心が焼かれる。夢や希望というのは、そういう危険な両刃の剣なのだ。なにかの折、私にどこか悟ったところがあると言う人もあるが、おそらく、心の準備の仕様もない少年期にあれだけの病を負わされ、そうして生き延びてしまった者がおのずと身に帯びてしまう雰囲気が、未だに抜けないというだけのことだろう。ともかくも、元来、科学や歴史にしか興味がなかったのを文学に向かわせたのは、あらゆるスポーツや運動、生活上のちょっとした無理さえをも私に禁じてきたあの長い闘病生活だった。
お話や物語の書かれている本をたんに読む、という程度のところから、はっきりと、文学を読む、というところへの意識の移行地点に、私の場合、志賀直哉の名が入り込んできた。
そういう志賀直哉の、作品はあれほど認め尊敬しながらも、彼の生活上の幸福を、見まい、見まい、としてきた、もう三十年にも及ぶ長い時期が、たぶん今年、彼の書斎からの若草山の眺めへの気づきとともに、終わった。
心の健常者、というものがあるのかどうか。
少なくとも、自分にとっての〈いい心〉というべきものはあって、もう、そちらへ自分が向かおうとするのを隠しもしなければ、そちらへ進んでいく邪魔もさせない、と思う。
他人の、また、他人にとっての〈いい心〉は、もう、どうでもいい、ということだ。
                                                   (2003.11.30)

◆この文章は駿河昌樹文葉『トロワテ』2号(2003年12月)にも掲載された。

2010年9月27日月曜日

輪廻について

 

 輪廻について、説得力のある明快な叙述に成功している心霊書はそう多くはない。荒唐無稽に走るものは別としても、殆どが、過去の宗教聖典に則った抽象的な説明に終始するか、あるいは著者の能力の不確かさを通俗の道徳的輪廻観で補いつつお茶を濁している。心霊家の真贋は案外はっきりと露呈するもので、輪廻についての叙述は、それを知るに適した箇所のひとつといえる。

 大山白道氏の『浄霊の不思議』*を久しぶりに読み返していて、輪廻について実に的確な記述がなされているのに感心した。怨念霊の浄霊経験を重ねるにつれて、因果応報の掟が宇宙には厳として存在し、誰ひとりそれを逸れることはできないとの認識に達したと氏は言い、「人間はその掟に従って輪廻転生を通じて、自分がまいた種はちゃんと自分で刈り取らされている。例えその事に本人が全く気づいていないにしても、従ってこの世で起こる幸、不幸の根本原因は全て自分自身にあり、決して他を怨む事は出来ないという事になる。我々はその事を忘れてしまっているだけなのだ」と断言している。もともと、常軌を逸した事柄を語る書籍の類として扱われがちな心霊書の記述であるから、この程度は当然のことと思われるかもしれないが、多数の浄霊体験の積み重ねの上で、輪廻転生の原理を確信するに行き着いたと語る本は、実際には稀少である。心霊現象に関心を抱いて多くの関連書籍を渉猟する者にとっては、これは貴重な証言なのである。

 怨念霊は、殆どの場合、先祖の犯した非道な行いで死傷させられた相手が、子孫である現存者に祟っているものを云う**。この本に紹介されている例で言えば、中世や近世、正当な理由もなしに武士に切り殺された農民父娘がその武士の子孫に祟り続けるケースや、冷酷な庄屋に酷使された農民集団が怨念集団と化して、やはりその庄屋の子孫に祟るといったケースなどが、怨念霊による霊障の典型的なものである。
 むろん、ここまでなら単なる怪談の域を出ず、輪廻の原理に結びついていくものではない。大山氏の本の特質は、こういったケースの浄霊を試みる過程でわかってくる、複雑な輪廻の結びつきを記述している点にある。
 浄霊家としての大山氏は、怨念霊の憑依を解くに際して、霊としてのあるべき道を説くようなありきたりな方法は採らない。無駄だからである。全くと言っていいほどの不条理かつ非道な殺傷、抑圧を蒙ったからこその怨念である以上、上っ面な霊的道徳を説いてもどうにもならないのだ。そこで大山氏が採るのは、怨念霊に、その霊自身の過去世を見せるという方法である。

 先に挙げた農民父娘の場合は、娘が過去世において大名の奥方、父がその奥方に雇われて大名の側室母子を殺害した浪人であったという。庄屋に酷使されて怨みつつ死んでいった農民集団のほうは、過去世において多くの奴隷を牛馬のごとく使役した酷薄な監督たちであったという。つまり、不条理な非道の殺傷や抑圧を蒙った怨念霊たち自身が、過去世において非道な行為をしてきたわけで、異なった時代と設定のなかで、過去の自分たちが行った所業が、ほぼ同じかたちで自分たちに戻ってきているだけのことだったのだ。
 怨念霊の浄霊はすべてこの方法で解決してきた、と氏は言うのだが、大切なのはこの点にある。霊障のなかでも殊に解消しづらいといわれる怨念霊による霊障が、この方法ですべて解決されうるというのは、これが霊的な真理に基づいているからに他ならない。現世を生きている人間は霊的に盲目であるから如何ようにも騙しうるが、霊を騙すというのは、なかなか容易なことではない。霊は、霊的真理とそこから生じる力によってしか動いてくれないものだからだ。むろん、そうした霊的真理は、現世の人間が真に指針とすべきものとしての真理でもある。

 確かな霊的能力を備えた宗教家たちの殆どは、口をそろえて、世界は今あるままでよいのだと説く。これは、転生輪廻のこのような原理の機能している場として現世を見ているからである。なるほど、いかなる時代いかなる場所にも、不条理な運命、悲惨いっぽうの出来事、非道な行いは後を絶たないように見える。多数を巻き込むような大きな事態でなくとも、個人個人の小さな経験の中でさえ、これといった理由の見出せない不幸や不遇は数え切れない。だが、それらの根本には、現象の種子として、被害者たち自身の過去世の所業ひとつひとつが存在している、と彼らは考えるのである。
現在も絶えることなく続く多くの殺人事件や戦争や災害のあらゆる被害者たちは、ほぼ同じ行為を過去世において行っており、行っている以上、彼らの蒙った被害はまったく避けようがない。輪廻転生の原理を知る者は、当然のこととして、このような認識をする。霊的無知に陥ってしまっている一般人にとっては非情かもしれないが、徹底的な平等性に基づくこの原理が破られてしまうことこそ非情であるのは、少し考えれば容易にわかることだろう。

 行為は必ず同じかたちで戻ってくる。霊としての自己が絶えることがないため、自分の行為が今生で回帰してこない場合は、来世以降に回帰してくることになる。それだからこそ、来世で蒙りかねない不幸を少しでも避けようと望むならば、現在の人生を、最終的でも決定的でもない一時的な境遇にすぎないと認識し、過去世と来世を繋ぐ間として、つねに反省と修正に努めて生きなければならないということになる。確かに、こういうことに思いを至らしてみれば、ある程度年齢を重ねてきた人なら誰もが、自分の今回の人生の諸事のあれこれに、いわく言い難いような合点のいく経験をするのではないか。なぜ今生の自分がこのようであったか、なぜあのようなことに見舞われたのか、不幸や不遇や病についてだけでなく、自分の心がけや努力から生じたとは思えない幸運に恵まれた理由などについても、明瞭に見えはしないまでも、ものによっては、かなり確かな感知のできる気のすることがあるはずである。

 悟りに達したといわれる先達たちの決まって言うことに、世界の現状を気にせず、いかなる変革もしようとするな、という言葉がある。世界よりも、まず、自分にとって満足のいく自己を成就せよ、と彼らは言うのだ。これは利己的な自足への閉塞の促しではない。まず自分自身が、霊性にそぐわぬあらゆる行為を停止すること、普通の人間として、他人から受けたら幸福と感じるような行為を、特定の人に対してではなく、あらゆる人間に対して行い始めること、此処からしか世界は変わり得ないという了解に立っての現実的な方法論なのである。これは二〇世紀ヒューマニズム流の浅薄な平和主義ではない。輪廻転生の原理と展開の実例を現実に霊視してきた末の、きわめて実際的な結論なのだ。  
したがって、霊的に考えれば、あらゆる革命も、いわゆる「平和を守る」ための戦争も放棄されねばならない。いかなる口実のもとに行われようとも、行使された暴力や破壊や殺戮は必ずその行為者たちに回帰していくのだから、革命や正義のための戦争も、結局は数十年後、数百年後の戦乱を準備するだけのことになってしまうのである。

 今の人類のひとりひとりが、すでに、怨念霊のようなものと化してしまっていると認識するべきなのかもしれない。戦乱状態であれ、経済的な混乱状態であれ、自然災害に見舞われているのであれ、すべてが過去世の自分たちの所業の揺り戻しを受けているのであり、根源は自分たち自身の行為にあったのではないかと見直してみる必要が、おそらく、ある。もし本当に幸福を希求するのならば、いま此処で、現状を嘆く心を停止させる他に方法はない。現在の状況は、正確に、過去世の自分の所業からのみ発生してきたものであり、蒔かれた種子が成長して実り、刈取りの時期が来ただけのことだからだ。すべてが今まさにこのようであること、これは輪廻転生の原理が例外なき法則として厳密に顕現しているということであり、まさにこうあるべきであり、まったく正しく、このようにあることそのものが救いでもあるはずなのである。したがって、例えば、聖書の読解においてフローレンス・スコーヴェル・シン***が勧めるように、「主」という言葉を「法則」に置き換えて読むならば、「これ(=人生)はあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。(…)あなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主(=法則)があなたたちを救うのを見よ。」(歴代誌下二十・十五~十七)****、あるいは「主(=法則)に自らをゆだねよ。主(=法則)はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主(=法則)にまかせよ。信頼せよ、(…)、沈黙して主(=法則)に向かい、主(=法則の成就)を待ち焦がれよ。」(詩篇三十七・五~七)といった言は、輪廻転生の原理を読み込んでの行動指針として、まさに至言ということにもなる。

 心霊的な考察を行う人々にとっては、指と手のひらの関係のように、個人は人類と繋がっているものと見なされており、また、霊のレベルにおいては時間的差異と空間的差異は存在しない、とも考えられている。時間空間は、霊的な進化のために用意された練習舞台のようなものであって、ある意味では、現世での出来事はすべて架空の出来事であって、なにひとつ起こったこともなければ、今後も起こることはない、というのだ。幼稚園で園児たちによって演じられる劇のなかの物語のように、なにひとつ現実ではない。『バガヴァッド・ギータ』などの高度な霊性の書は、こうした見解を説いていると読んでよいだろう。
 こういう考え方に従うならば、人類が延々と殺戮や抑圧を互いに繰り返していってもかまわないということにもなるのかもしれない。確かに、それを喜んで受け入れるようになるくらいなら、霊が現世の状況によって影響されることもなくなるわけで、それはそれで至上の悟りに達したということになろう。とはいえ、私たち霊というものの本性は、よほどの例外を除けば、そうした激越なかたちでの進化には、なかなか耐え続けていけるものではない。霊性の道におけるキリスト出現の理由はここに在ったのだが、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書十一・二十八~三十)と語り、愛という魂の方法によって、輪廻転生という霊の法則そのものからの超出を説いたキリストの発想原理について考察するには、そもそもの枠組みを、愛という方法のそれへと替えて新たに考え直す必要があるだろう。


*大山白道『浄霊の不思議』(たま出版、一九九六年)
**怨念霊が自分に非道を働いた者の子孫に祟るという事実は、個人を基本単位として人間をとらえる現代の見方からすると、ひどく理屈にあわないようにも思われる。しかし、霊にとっては、仇の血を受けている子孫は、仇そのものと見做されるのが通例であるらしい。受け継いでいる血の一滴さえもが仇であって、最後の一滴まで祟るといった理屈が、怨念霊たちにはある。
***Florence Scovel Shinn : The game of life and how to play it (in The Wisdom of Florence Scovel Shinn, fireside, Simon&Schuster,1989).
****聖書よりの引用は、全て新共同訳1994年版によった。

◆この文章は駿河昌樹文葉『トロワテ』1号(2003年10月)にも掲載された。

2010年9月23日木曜日

円地文子 ――女がひとりで着物を脱ぐとき



『朱を奪うもの』の滋子は、赤坂離宮で催される観桜会に「一昨日三越から仕立て上って来たばかりの臙脂色に薔薇を染め出した派手な振袖」(*1)を着て列席します。

「こんなことがたのしいのかしらとひとり言して滋子は自分の着ている臙脂色の縮緬の重い袂をそっと片手につまんで眼に近くよせて見た。精巧な染色を見せた縮緬の皺(しぼ)は春の陽を吸って細かい艶を浮き上らせていた。胸を固く締めつけている糸錦(いとにしき)の重い丸帯には金地に白い孔雀と牡丹が見事に織り上げてある。頭の上には盛りの牡丹桜が鞠のように咲き集った花房をいくつとなく重ねていた。しかしこの咲き驕った花の下照る庭に立っている若い娘の眼には薄紅と緑に鮮明に縁どられた広い庭園のここかしこに散らばり、あるいはより集っている紳士淑女の群が色あせた風俗画のように無味乾燥にしか映らないのである。(…)現実の美とか調和とかは自分の身内に絶えず湧き流れ燃えふすぶっている混沌とした欲求や、無限の憧憬に較べて、何と白々しい興ざめな鈍さであろう。速さ、勁さ、烈しさ、きらきらしさ!すべての眩いもの、ひらめき過ぎるものからそれらの光景は遠く離れた凡庸さの中に無知に動き、笑い、満足しているように見える。すべてのものが清潔げに上品げに辛うじて一つの調和を保ちながらその保っているものの単なる惰力であるのをこの人々は知らないのだ」。(*2)

「摂政の宮や皇后さま」(*3)、「華族さんやさぞお立派な方々が大勢お出ましになる」(*4)ばかりか、特別にプリンス・オブ・ウェールズも迎えての「いつもの時より一層晴れのお催し」(*5)だというのに、これほどの失望なのです。自分自身についても、せっかく美しいきものを着ていながら、「いつまでも少女じみて胸幅の狭く発達しない」(*6)ことに「負け目を感じ」(*7)、「貧弱な肉付きのくせに」(*8)大きな「砥粉色の強い弾力を持った乳房」(*9)が「椀を伏せたように狭い胸の左右に盛り上ってい」(*10)るのを嫌っています。
 円地文子の文学の基調が、比較的、見てとりやすいかたちで表われている箇所といえましょう。「速さ、勁さ、烈しさ、きらきらしさ!すべての眩いもの、ひらめき過ぎるもの」にむかって「自分の身内に絶えず湧き流れ燃えふすぶっている混沌とした欲求や、無限の憧憬」があるにもかかわらず、それに比してあまりに色褪せてみえる現実世界や自分自身への、いかんともしがたいズレ、埋めようもない懸隔。霊媒的、巫女的想像力のうねりの中に創りあげられていった円地文学のすべては、ほぼここから生い立っていったと見てもよさそうです。

 これを書いた時、円地文子は五十歳、多くの障害やまわり道を経た後の、やや遅まきの本格的な活動を開始したところでした。乳腺炎(三十三歳)や子宮癌(四十一歳)を患い、すでに「砥粉色の強い弾力を持った乳房」も子宮も喪って、女としての肉体的な終わりとも見なされかねない地点に到ったところで、逆に炸裂するように、女としての真の内的誕生が起こっていました。

 同じ頃に、「自分の身体は年とった猫みたいにぐなりとしているのに、心の働きが自由すぎて気味が悪いの」(*11)と『妖』に書きつけてもいますが、日本の文化の隅々から古典の端々までをも自家薬籠中のものとした戦後最高最深のこの女性作家は、いつも「祝詞をよむような低い不確かな声」(*12)に内面をせっつかれ、「行動力のない癖に内心の働きだけは恐ろしく自由活発になりまさって行く異様な生々しさ」(*13)を生きていかざるをえない女たちを、ほぼ一貫して描いていったといえそうです。「恐らく男たちには理解されないであろう、自分のうちに時しらずざわめき動き出す、曖昧な形のさだまらぬものについて」(*14)考え続け、老いようとも変わることのない「性と密着した女の自我」(*15)を追い、「当事者にも気味の悪い」(*16)ほどのその飛翔のさまを描きつくして、ついに八十一歳まで。死の前日まで口述筆記をしていたといいますが、老いて佳境に入っていくほどに、露骨とも、残酷とも、淫猥の極みともいえる筆致で、女の内面にいつまでも若々しく滾る性と自我のマグマの諸相を抉り出し続けました。九十九歳まで書き続けた野上弥生子についで、女性作家としては二人目の文化勲章が授与されましたが、現代社会の表向きの浅薄な倫理など一顧だにしない、底知れぬほど深い反社会性を秘めた作品世界を思えば、一種、爽快な授与だったともいえそうです。

 こういう円地文子の世界で、作を追うごとに、きものの扱いや意味あいが複雑にも重層的にもなっていったのは当然のことでしょう。先に引用した『朱を奪うもの』でも、きものはすでに単なる美や喜びであることを止めていましたが、ある時は職人の労苦や悲惨を生々しく伝達する媒体になるかと思えば(『女面』、『蛇の声』)、ある時はまた、女に表面的な「女」性を強いて、「曖昧な形のさだまらぬもの」であるべき内的な力動としての純正さを抑圧するものとも受けとめられる(『遊魂』)というふうで、融通無碍というべき扱いには息を呑みます。

 だからこそなのでしょうか、ときおり目につく脱衣の場面、疲れきり、時には酔って帰った女が、老いの中で、ひとりできものを脱ぐ際のこんな光景も、まさに円地文子ならではの冴えです。きものを脱ぐことさえ、これほど深い行為なのだったと、どれほどの作家が表現し得てきたでしょうか。
 
 「帯を解かなければと、寝たまま帯上げの結い目をほどいていると、誰かの手が器用に働いて、ずるずると帯が解け、着物が肩から滑り落ちて行く……克子かしら、いやそうではない、たしかに男が寄り添って、自分の身体から着物を脱がして行くのだ、それが誰とも分からないのに、紗乃には快く、何の抵抗もなく、わが身をくねらせたり、撓(しな)わせたりしているのだった。ひどく重くて、その癖重量を感じさせない不思議な圧力がのしかかって来て、紗乃を押しつぶした。身体がその奇妙な重みの下敷きになって、逃げられない苦しさにいつまでも呻(うめ)いている。そんな時間がどれほどつづいたのか……深い眠りの底から紗乃が眼ざめたときには、カーテンの隙間から忍びこんだ光が仄(ほの)明るくしていた。
 (…)驚いてあたりを見まわすと、自分はちゃんと浴衣に着がえて、二人部屋の隣のベッドに昨夜の江戸小紋の着物が脱ぎ捨てられ、吉野広東(かんとん)の帯が縞をしどけなくベッドから滑り落して、長々と床にうねっていた」。(*17)



◆この文章は、『美しいキモノ』二〇〇七年冬号(アシェット婦人画報社)にも、「日本文学に見るおしゃれ・女性作家ときもの【円地文子】」として掲載された。駿河昌樹文葉『トロワテ』48号(2007年12月)にも掲載された。


[]
* *********10(あけ)を奪うもの』(円地文子全集第十二巻所収、新潮社、一九七七) 
*11『妖』(新潮社日本文学全集58、一九六〇)
*12*13*14『遊魂』(新潮現代文学19所収、一九七九)
*15*16竹西寛子『解説』(新潮現代文学19所収、一九七九)
*17『彩霧』(新潮社、一九七六)

2010年9月20日月曜日

宇野千代、「満艦飾」の「粋」



「着物と言うものは美術品ではありません。どんなに巧緻な作品でも、それは実用品なのです」(1)

『薄墨の桜』という小説の中の、作者本人にきわめて近く設定された語り手の言葉ですが、これはこのまま、宇野千代というひと本人の、あの広く長い活動のすべてを仕付けていた糸のようでもあり、根本の方針でもあったようです。
 小林秀雄や青山二郎といった、当代一流の美の求道者を友とした宇野千代が、おのずと培った姿勢のとり方ともいえそうですし、彼女の好んだフランスの哲学者アランの思想を自家薬籠中のものにした結果ともいえそうです。小林秀雄の思索の師でもあったアランは、実用を忘れないことや、制限や不自由などが、かえって、どれほど豊かな成果をもたらしうるか、思索を生き生きとさせるかを、つねに説き続けたものでした。
 もちろん、極貧も破産の苦渋も経験し尽くした末に、きもののデザイナーとして大輪の花を咲かせ、作家としての大きな成長も果たし、さらに、後に続く人たちのために、ユーモアにあふれた励ましの言葉を世に送り続けた宇野千代自身の人生そのものから、ごく自然な実りのように、ほとりとこぼれ落ちてきた感慨でもあるのでしょう。

『おはん』や『風の音』といった代表作に、華やかなきものの描かれ方が意外と少ないのは、こうした考え方のためかもしれません。
 時代背景から言っても、作中の人物たちは当然のようにきものを着た生活をしているのですが、そうしたきものはどれも、まさに「実用品」として扱われています。実用品というのは、もの自らは主役の座をかたくなに固辞し、あくまで持ち主や使い手である人間を主役として立て、生活のさまざまな場面にふさわしく生が流れるよう支えてくれる品々のことです。実用品としての役割をきびしくきものに課した宇野千代の小説というのは、じつは、とても厳格なきもの論に貫かれているともいえそうです。

 これとは逆に、今でも入手の容易な『きもの日和』(2)や『宇野千代きもの手帖』(3)、『宇野千代 女の一生』(4)など、きものデザイナーとして、また、ファッション雑誌の編集者としての活躍を一望できる本を覗くと、ワンダーランドとでもいわんばかりに絢爛たるきもの世界がひろがり、まるで美しい花々を集めた写真集を見るかのよう。陶然とさせられるのですが、 

「『粋』とはとりつくろわないもののことである。化粧はしていても、決してしてはいないように、素顔であるように見えなければならぬ」。(5)

 こんな言葉を思い出せば、彼女のきもの創作時の心構えが、じつは、小説世界の一見地味とも見えるきもの使いに通底していたのに気づくのも、そう困難なことではありません。
「とりつくろわない」ことのよさは、宇野千代のきものデザインの現場では、「単一の印象、単純明快の印象」をいかに創造するか、という配慮において追求されました。

「この単一の印象、単純明快の印象、と言うものが、美しい、と言うことの根源であるように、私には思われる。私のきもののデザインの印象も、これを踏襲している。この、単一である、と言う印象を決して離れない。色も柄の配置も単一である。これが、シックとか、知的とか言われるものの印象である」。(6)


 同じ方針は、きものの着かたにおいても、宇野千代の勧めるところでした。

「和服をすっきりと近代的なセンスで着るのには、何はさておき、全身の色を、色の数を出来るだけ、単純に統一すること、その感覚を持つことが、一番近道ではないか知ら、と思うのです」。(7)

 せっかくですから、着かたについて、ご本人に、もう少し語ってもらうことにしましょう。

「何と言っても、全身の印象が騒がしくないことが肝腎である。知的に見える。それには、まず、自分の好きな色を決めておくこと。その好きな色で、全身を統一すること。私の例で言うと、私は墨色と紫と藍が好きである。きものが墨色の濃淡で染め上げた小紋の場合は、帯は白地、羽織はパールグレーの無地、と言う風に。羽織の紐と帯〆とはなるべく同色に。この頃では、殆ど羽織と言うものを着ない習慣だと聞いたが、羽織のない場合には、帯〆だけをただ一色、朱色とかにして、全身の利き色にして見るのも、面白い。お洒落は絵を描く積もりになってすること。まァ、こんな愉しいことがまたとあろうか、そう思ってすることである」。(8)

 なるほど。
 こんな話を聞いた上で、あれこれ、彼女の小説の中のきものを振り返ってみると、たとえば、

「おはんは白い浴衣きて、髪を一束(いっそく)にたばねたまま裏手からはいってきました。あなたさまもご存じのように、七夕のあけの朝は、どこの女(おなご)も川で髪洗うて、その一日束ねたままでいてますのが、ここいらの習慣(ならわし)でござります」(9)

 なにげないこうした描写も、まさに宇野千代流の「粋」に、すっ、と通じていくものだったことに気づかされるのです。

 とはいえ、彼女の「粋」が、色づかいや印象をつねに「単一」に絞って、無難に破綻を避けようとするたぐいのものでなかったのも、やはり事実というべきでしょう。
 尾崎士郎と馬込に住んでいた頃、「それほど好い着物ではない、ぴらぴらした安物を身につけ、顔だけ、満艦飾に化粧して、にこにこしながら歩いていた」(10)のを、「生粋の江戸っ子で洒落者である広津和郎」(11)に「初荷の馬」(12)と言われた、という有名な話があります。
 千代自身が持って生まれた本性であるらしい、この「満艦飾に化粧して、にこにこしながら歩」く喜びや愉しさへの傾向を、いかに「粋」の枠組みの中にいっぱいに取り込むか、いかに「満艦飾」の「粋」を花開かせるか。宇野千代一生の美的挑戦の核心は、そんなところにこそあったように思われます。
 そうした挑戦の中で、実際の仕事に携わる時の思い、心意気といったものは、きっと、みずから聞き書きした人形師久吉のそれと同じでもあったでしょう。

 「わがが拵えたものでござりますけに、いつでも、まだこの上のものが出来ると思うております。死んだらそれではじめて、ここまでしか出来なんだというくぎりがつくようなものでござりましょうぞ。飛騨の匠(たくみ)でも、左甚五郎はんでも、これならええと思うて死んだのやないと思います。もっと長生きしてましたら、どれだけのことをしてのけたろうぞと思います。ほんに、死んだのが、一番のおとまりでござります。芸のお了いでござります」。(13)

 八十五歳から書き出した『生きて行く私』で、宇野千代は、自分自身のそれまでの人生と、なお「生きて行く」現在そのものを、どの小説よりも柄の大きなひとつの作品とすることに成功しました。彼女自身が、彼女にとっての最大の、永遠の生成過程にある作品となったのでした。それ以降のエッセイ集や人生論集の数々は、さすがに高齢ということもあってか、断章形式やくりかえしが目立つようになりますが、それでも、彼女のきものデザイナーとしての第一歩のひとつともなった「きりばめの着物」(14)同様、それらが、文章の「きりばめ」であるということを思うと、つねに新たな始まりであり続けるかのような宇野千代の生の、不思議なまでの様式美に感嘆させられます。それらの中に散りばめられているこんな言葉の数々、

「どこまで行きつけるか、見本があるとしたら、私がその見本になりたい。そして、それがどんな見本であっても、誰にでも、何らかの参考になれるような見本になりたい」。(15) 
 これらは、人生の苦渋も華やぎも、どん底も頂点も経験し尽くし、百歳近くまで生き切った宇野千代の言葉だからこそ、今後、ますます説得力を増していきそうです。経験にしっかり裏打ちされた、実質のこもった意欲ある言葉、自他への励ましの言葉というべきでしょう。女学校を出て、すぐに代用教員となって人生を始めた「宇野先生」(16)は、本当に長いながい人生をかけて、容易には真似のできない、まことに立派な人生の先生になられた、といえそうです。

 宇野千代はドストエフスキーを非常に好み、家にも別荘にも全集を置いていたといいます。そのドストエフスキーの本質を評した、世界的な文芸評論家バフチンの言葉を思い出しておきたく思います。一見、宇野千代と関わりがないようにも思われますが、これほど彼女の精神に通じる言葉もないでしょう。

 「世界には未だかつて何ひとつ決定的なことは起こっていない、世界についての、また、世界の最後の言葉は未だ語られていないし、世界は開かれたままであり、自由であり、いっさいはこれからであり、永遠にこれからであろう」。(17) 

 生前、「宇野先生」は、これをお読みになったかどうか。きっと、大いにうなずかれたことと思うのですが。
 
 
 
◆この文章は、修正をくわえた上で、『美しいキモノ』二〇〇七年秋号(アシェット婦人画報社)にも、「日本文学に見るおしゃれ・女性作家ときもの【宇野千代】」として掲載された。駿河昌樹文葉『トロワテ』43号(2007年9月)にも掲載された。
[注]
(1)『薄墨の桜』(集英社文庫)
(2)『きもの日和』(世界文化社)
(3)『宇野千代きもの手帖 お洒落しゃれても』(二見書房)
(4)『宇野千代 女の一生』(新潮社)
(5)(6)(8)『幸福は幸福を呼ぶ』(集英社文庫)
(7)『行動することが生きることである』(集英社文庫)
(9)『おはん』(新潮文庫『おはん』。他に中公文庫『おはん・風の音』所収、平凡社ライブラリー『宇野千代聞書集』所収)
(10)(11)(12)(16)『生きて行く私』(角川文庫)
(13)『人形師天狗屋久吉』(平凡社ライブラリー『宇野千代聞書集』所収)
(14)『しあわせな話』(中公文庫)
(15)『生きる幸福 老いる幸福』(海竜社、集英社文庫)
(17)『ドストエフスキー論――創作方法の諸問題』(新谷敬三郎訳、冬樹社、一九六八年)

有吉佐和子 ――きものが絶対価値へと暴走する時



老人性痴呆と介護の問題を描いてベストセラーになった『恍惚の人』には、きものはほとんど出てきません。にもかかわらず、この作品の終わり近くの描写が、有吉佐和子の作品世界のなかでも最も重要なきものの描写のひとつなのだといったら、やはり、奇異に響くことでしょうか。

「常々ズボンと毛糸のカーディガンを家着にしていた茂造だったが、一組だけお対の和服があるのを、彼の死装束として着せたものか、あるいは信利への形見頒けとして残すべきか、まず最初にそういうことを思案し、それは京子が来てから相談してきめよう。京子は現実家だから、あんないい着物を焼くのはもったいないと言うに違いないというところで考えがきまった」*

 購入されて茂造の手に渡ったときには、この「お対の和服」にもしっかりした価値があったはずでしょう。どんな時にどのように着ようか、着させてみようか…… そんな思いを向けられているあいだこそ、きものはきものであるはずです。茂造のこの「一組だけのお対の和服」には、しかし、きものとしてのそんな未来は、もう来そうにもありません。購入時にいくらだったか推し量ろうとして、嫁の昭子や娘の京子が脳裏に思い描いてみるであろう数字が、いまとなってはかろうじて、この和服にいくばくかの価値づけをする程度のことでしょう。持ち主の人生や思い出、あるいは親から子へといった密な人間関係によって付与されてきていたはずの、きものにふさわしい価値づけのされ方などすっかり削ぎ落とされて、かぎりなく意味あいを薄めてモノとなったきもの。零度のきものとでもいうべきで、数多い有吉作品のなかでも、これほど凄絶に寂しいきものが描き込まれた箇所は他にはありません。

きものを愛してやまなかった有吉佐和子には、『紀ノ川』や『香華』、『芝桜』、『木瓜の花』、『真砂屋お峰』、『和宮様御留』、『華岡青洲の妻』、『地唄』など、まさにきもの文学とでも呼ぶべき作品群があります。
いたるところ、贅沢にも豪奢にも、あまりに豊かにきものの諸相が描き込まれていて、ひとたびこれらのページを開こうものなら、きもの好きの読者はたちまちのうちに、絢爛たる錦の渦に巻き込まれかねません。
しかし、ふり返ってこれらの作品世界の底に思いをこらしてみると、一枚のきものというものが、それに携わるひと一人ひとりに応じて、どれほど容易に価値を増したり損ねたりするものか、ときには宙に浮いたように軽々と無価値にもなってしまうものか、そんな宿命的な不安定さに、作者がことのほか敏感だったらしいのが感じられてきます。
衣の過剰として発生し発展してきたきものが、どうにも避けえぬものとして含み持つ恒なる危機、とでもいえましょうか。

たとえば『紀ノ川』のなかで、主人公の花があれほどの心尽くしをして、娘・文緒の婚礼衣裳を贅沢に作ってやりながらも、「衣裳は、それを好んで身につけるのでなければ、人に印象づけることができない」*ものであるため、あまり映えぬままに式が終わることになったり、せっかく帯まで見立てて拵え、文緒に送ってやった戦前の高島屋の立派な絽の訪問着が、「新しい生活には洋装が最も適している」*として、むげに花につき返されてきたりするのも、同じ一枚のきものが、母と娘それぞれの心に、あまりにかけ離れた意味をかきたててしまうからでしょう。
あるいはまた、孫娘の華子が戦中に三越本店で花に買ってもらう「牡丹の模様を染め抜いた派手な縮緬」*の反物が、戦後の食糧難のなかで小麦や野菜類に交換されていったりするのも、きものが含み持つ美的価値がいったん無視されて、布としての実用的価値ばかりが拡大される瞬間を物語っているようです。

『華岡青洲の妻』では、主人公の加恵が、祖父の葬儀の際、のちに姑となる於継の美しい喪服姿にほれぼれ見惚れてしまうという場面がありました。
「衿の抜き具合といい、合わせ具合といい、帯の形から締め具合といい、於継には寸分の隙もな」*く、しかも「帯の下の背縫が、まるで絹糸に錘をつけて垂らしたようにぽんと一本の直線になって」*いて、「きりっと結上げた浅葱色の手がらがはっとするほど鮮やかに美し」*い。
そんなさまに心を奪われる加恵でしたが、しかしこの時、於継という秀でた女性の美しさに、じつはそのまま露呈しているはずの、もうひとつ別の意味、すなわち、将来の自分にとって、最大の理解者とも最大の敵ともなる魂のすがたについては、まだまだ見抜けないでいるのです。

そして、読後のこころの震えのとまらぬような、あの不朽の名作『和宮様御留』。朝廷と幕府という、巨大な〈家〉どうしの間の大がかりな婚礼小説ともいうべきあの作品では、立場を異にする人々のあいだで、同じきものがどれほど異なった価値や意味の投影されるスクリーンとなってしまうか、微に入り細を穿って描き出されていました。
(好(せいごう)の濃紅の袴の上に、薄紅色の単衣、葡萄(えびぞめ)(の打衣、茜色の上衣、そして一番上に萌黄色の綾織の小袿((こうちぎ))*
皇妹和宮の身替りとされた主人公フキに、身につけるべきものとして与えられるのはこんなお召物の山でしたが、この「精好の袿袴というのは、仙台平よりもっと部厚く、おまけに能衣裳のように幅がひろい」*もので、「袿姿にしても精好の袴まであわせると、それはそれは重」*10く、しかも、「宮様お袴召さぬはよくよくおくつろぎの折ばかり」*11で、たとえば「関東にて徳川((とくせん)御本家に御謁見遊ばされる折は必ず御袴御着用遊ばされ」*12るべきものなのでした。
なるほど立派なお召物ではありますが、フキにとっては、これがそのまま、豪奢で過酷な責め具として機能することになり、他方、徳川家と大奥の滅亡を知る読者たちには、壮麗なまでに無意味でむなしい悲劇の象徴として映るわけです。
まことに有吉佐和子の世界にあっては、きものやそれに付随する小物と、それらがそのつど持たされる価値や意味あいの絡みあいが、大小無数にはりめぐらされ、緻密なアラベスク模様さながら、組み尽くせぬほど豊かな物語の綾となって織り出されていくことになるのです。

しかしながら、彼女の小説世界でなにより注目されるべきは、きものが、世間一般の社会的・経済的な価値づけの支配を受ける身分からいきなり超え出て、なにものにも拘束されない、きものそのものとしての絶対価値のほうへ、絶対美のほうへと急速度で暴走していく瞬間の、あの比類ない美しさとカタルシスでしょう。
屈指の傑作というべき『真砂屋お峰』では、経済的にも精神的にも病んで「いつまでもこんな世の中が続くものですか」*13と人々が思っている文化・文政期、主人公お峰は、自分が継いだ老舗の材木屋を意図的に潰すために、三条西家の姫君も大奥最高職の上臈〈姉小路(あねがこうじ)さま〉も凌ぐ豪奢極まりないきものの数々を買って財を蕩尽していきます。お峰によって普通の価値づけから完全に脱線させられた金銭ときものとが奏でる名場面の連続、ことに京の都の桜の下での衣裳競べの場面など、有吉文学の頂点というべき迫力です。

これに拮抗しうるのは『芝桜』でしょうか。
たとえば、あの「艶々と光るような黒」*14に染めた縫取ちりめんに、漆糸の「金の小菊が、ぽうっ、ぽうっと蛍のように浮き上がって見える」*15きものを、主人公の正子ばかりか蔦代までがしつらえ遂(おお))せて歌舞伎座に現われる場面。
あるいは、大正十五年、正子も蔦代も鶴弥も、それぞれにいっぱいの趣向を凝らして出かけた正月の衣裳競べの席に、「戦争成金の旦那を後盾にして、七枚の百円札を裾に散らして綴じつけ」*16「帯止めには金貨をつけた」*17小猿という若い芸者の出現してくる、あの場面。

もちろん、『香華』の郁代も忘れるわけにはいきません。
自堕落でわがまま勝手、淫蕩で奔放、「台所も掃除も洗濯も何一つしない」*18この美女は、しかし、「自分を粧う為に」*19だけは「努力家」*20で、無限の情熱をそこに発揮するアンチヒロインです。
軍国主義や拝金主義などの下に姑息に胸を張る権威的な〈家〉など一顧だにせず、いわば絶対きもの主義者として装いの美に邁進していく姿には、「常識のタガをはめ」*21ず、「出来た人」*22でもなかったという有吉佐和子本人の魂や理想が大きく投影されているのかもしれません。
読後しばらく経って、心の深くにいちばん愛しく思い出されてくるのは、世間が自分をどう見るかも、きものの値段も意に介さず、ひたすらきものそのものを愛して、「自分を粧う」*23喜びに生きた郁代の姿なのです。





◆この文章は、かなりの修正を加えた上で、『美しいキモノ』二〇〇七年夏号(アシェット婦人画報社)にも、「日本文学に見るおしゃれ・女性作家ときもの【有吉佐和子】」として掲載された。駿河昌樹文葉『トロワテ』38号(2007年6月)にも掲載された。

(1)『恍惚の人』(新潮文庫) 
(2、3、4)『紀ノ川』(新潮文庫) 
(5、6、7)『華岡青洲の妻』(新潮文庫) 
(8,9、101112)『和宮様御留』(講談社文庫) 
13)『真砂屋お峰』(中公文庫) 
1415)『芝桜(下)』(新潮文庫) 
1617)『芝桜(上)』(新潮文庫) 
181923)『香華』(新潮文庫) 
20)『悪女について』(新潮文庫) 
(21、22)有吉玉青『身がわり ―母・有吉佐和子との日日―』(新潮文庫)