2010年10月9日土曜日

高畑の志賀直哉旧居



明らかに道だとわかる道は、ほとんどいつも愚か者が通る。真ん中の道、つまり中庸、良識、慎重な計画という道には注意するがいい。          
(ウイリアム・S・バロウズ『ウエスタン・ランド』)


 十一月の半ば、ひさしぶりに高畑の志賀直哉旧居を訪ねた折、書斎から若草山が見えるのに気づいた。
以前に来た時、いちいちの部屋を覗いたり、廊下から身を乗り入れて雰囲気が染込んでくるのに任せたりして、その時はその時でのんびりと見させてもらったと思ったが、山が見えることまでは気づかなかった。九月も早い頃で、まだ庭木が盛んだったからだろう。
今回はたまたま植木屋が入っていて、木々の枝を払っているところだった。庭に突き出すように作られた書斎から、若草山がすっきりと望まれた。
書斎の中の志賀の机は、庭側の角に置かれている。この机に向かえば、どちらの壁の窓からも少し離れてしまうから、仕事中、原稿用紙や本に向かったまま、ふと山を望む、ということはできなかっただろう。しかし、休息の折など、椅子を窓際に寄せたりして、ぼうっと山を眺めることはできたに違いない。秋も更ける頃なら、木々に遮られずに、なだらかな若草山の山頂が望まれたことだろう。 
もっとも、志賀が此処に住んだ時に、今あるように机が置かれていたとも知れず、庭木にしてもずっと若く、低かったかもしれない。そもそも、木じたいが代替わりしているかもしれない。
現実に作家がどのように山と対したか、それに拘泥するつもりもなく、山を眺め、書斎を何度も覗き、植木屋の働いている庭を見ていた。
書斎から、このようにすっきりと山が望まれるということが、快い憧れとして、すっと心に入ってきた。

じつを言えば、これに少し驚かされた。
中学時代から志賀は好きな作家だったが、作家としての質とはべつに、志賀のあの裕福さが、彼の作品に触れるたび、こちらの心に抵抗を生んだ。親掛かりだった十代には全く気にならなかったが、いちいちのことが金の問題と絡まって身に被さってくる二十代三十代になってから、はっきり軋みとなって感じられるようになった。文芸趣味は私の今生のありようの核心まで染みたものなので、人生の時々にあたって志賀の作品を読み返すのを避けるわけにはいかない。読み返せば、そのつど教えられるし、感銘も受ける。しかし、やはり作品を通じて親しんだバルザックやスタンダール、ボードレールや、日本に限っても、たとえば太宰や秋成など、生活ではずいぶんと苦労した他の作家たちとくらべて、経済面や物質面での志賀のあの安楽ぶりはどうか、と訝られるところがあった。彼自身での収入では、あれだけの余裕ある生活はとても送れなかったにちがいないし、逆に、もしあれだけの経済的なゆとりがあれば、今あげた作家たちなど、どれだけ落ち着いて、いっそうも二層もよいものを書けただろうと想像される。当然、私自身の不如意も、おのれの能力の貧しさは棚に上げて、この想像には読み込まれていた。
いつか、志賀の生活上の幸運と作品とは切り離して読む癖がつき、冷静怜悧を気取る文学鑑賞の常道でもあることから、それはそれで、若かった私の自尊心を満たしたところがある。文学や芸術における読解や受容の冷静さ気取りは、いつも逃避や脆弱を隠しているものだ。まだロラン・バルトや他の構造主義的批評やロシア・フォルマリスムなどが十分に盛名を保っていた頃で、文芸作品を重力場や磁場のように扱って犀利な解析の真似事をして見せようとしている者が少なくなかった。それをそのまま真似てついていこうと思ったわけでもないが、私も、著名な批評家たちが扱っていない作家や作品についての分析成果を著してみたいとは思った。そのための読書や勉強に割いた時間は、少ないとはいえない。

考え方はいろいろあろうが、ある作家の作品の文学的価値と、彼の生活面に対するこちらの心の反応とを切り離して読むというのは、公平を旨とする科学者ふうの振る舞いのようでいながら、実際には、一種のニヒリズムを心のうちに固定化してしまうような危険なところがある、と今は思っている。
志賀の父親直温は、よく知られるように、銀行家から実業家に転じて巨富を成した人物であり、直哉は、そういう父に反抗しながらも経済的な恩恵を拒否することはなかった。高畑の旧居の作りを見ても、必要とあれば直哉がふんだんに資金を調達できたのがわかる。自分自身の働きのみでなんとか生き延びているような人間なら、志賀直哉のこうした幸運というものを前にして、多かれ少なかれ、羨望や不快の思いが湧いてくるのを禁じるのは難しいだろう。こんな思いにいちいち心を乱されていたのでは、せっかくの名品の鑑賞はもちろん、批評も研究も覚束ない。ここに、生活と作品の切り離しだの科学的批評だのという手管の捻出されてくる必要性が生じるわけで、周知の通り、文学研究の世界では常識的な態度としてずいぶんと重宝されている。
だが、こんな態度ばかりが常道とされてしまっては、実際には、粗暴から繊細の極みまでを一様に収めるべき道楽の場としての文芸は、粗相なくひたすら適度に振舞うだけが能の院生上がりに占められて、メスやピンセットのような冷たい言葉づかいの先に干上がっていってしまうばかりではないか。志賀のような恵まれた作家の、その恵まれた面に不公平を感じたり、父への反抗を言いながら経済的な恩恵を拒否しない態度を偽善と思ったり、そうした中で創作されていった日本語の名品をどう扱うかと迷ったりし続けるというのは、人心とはかけ離れた科学的現象のフィールドのように作品を扱うこと以上に、はるかに重要なことである。自分の心からも他人の心からも逃げられず、刻々の喜怒哀楽や悪心や羨望や劣心に足を奪われながら、読んだり、認識したり、判断したり、書いたりし続ける他ないということこそ文芸に関わる者の第一の覚悟であるべきで、これは時代の変遷には影響されようがない。作品であれ作家であれ、科学におけるようなかたちで対象化することは不可能であり、いかなる場合にも、もどかしさに痺れを切らして擬似科学へ逃げ込もうとしたりせずに、曖昧模糊とも見える無限の人間通への道に、また、幻術そのものというべき言語表現の掴み難さや、対象とこちら側との境界の定めがたさというものに、ずっと踏み止まり続ける必要があるはずなのだ。

志賀直哉という作家本人の生活上の幸福を、見ないように、見ないように、と努めつつ読んできた二十代三十代の頃の気持ちは、今でも忘れられない。あの頃には、高畑の旧宅をまだ訪ねたことはなかったが、数寄屋造りを改造したような、モダンで風雅な家だということは聞き知っていた。それを不快に思ったのを覚えている。書斎から若草山が望めるなどということを知ったら、どんなに嫌な思いを募らせたか、想像に難くない。今と違って、作家の生活への感情と作品そのものとをきれいに切り離して扱っているつもりになっていた頃だというのに、皮肉なことに、切り離したはずの感情が目の裏に張り付いて、さまざまなものを見るまなざしを歪ませていた。冷静に、客観的に作品を見る努力はしていたのかもしれないが、自分にないものを持っている作家の幸福のいちいちにピリピリと傷つき、見ないように、見ないように、と心に蓋をしてまわるような人間による客観視とはなにか。なにほどのものか。ものを見、考える秘訣というのは、冷静さなどというものがいかに怪しいものかを悟り、客観性というカドワカシにももはや乗らずに、今の自分の限界ある能力と条件とを以て、とにかくよく考えようと頭を絞ってみる、ただそれだけのことでいいというのに、たったこれほどのことに、なかなか思い至ることができなかった。
志賀の書斎からすっきりと山が望まれる、それを気持ちよく思い、快い憧れとして、すっと心に入ってくる。こんなことは、つい数年前には、考えられないことだった。

これが志賀直哉の書斎のことであったというのは、人生上のちょっとした符号のようにも思え、いくらか感じるところがある。
自分なりに志賀直哉を発見した時をよく覚えている。中学生の時で、図書館で短編や中編小説を見つけては、好んで読み漁っていた。書架の並ぶ中で、サキやモーパッサンとはまた違った面白さの予感を抱きながら、志賀直哉という名前をくりかえし眺めた記憶がある。
小学生時代からの長い疾患のさなかだった。平気で学生生活を送っているようでも、今から思えば、かなり人生を捨てて生きていた、そう言えるように思う。五年以上に及んだ慢性の病の中で、少年ながらに、他の小中学生が抱くようなさまざまな夢や希望を静かに捨てていくすべを、身につけていかざるを得なかった。捨てなければ、心が焼かれる。夢や希望というのは、そういう危険な両刃の剣なのだ。なにかの折、私にどこか悟ったところがあると言う人もあるが、おそらく、心の準備の仕様もない少年期にあれだけの病を負わされ、そうして生き延びてしまった者がおのずと身に帯びてしまう雰囲気が、未だに抜けないというだけのことだろう。ともかくも、元来、科学や歴史にしか興味がなかったのを文学に向かわせたのは、あらゆるスポーツや運動、生活上のちょっとした無理さえをも私に禁じてきたあの長い闘病生活だった。
お話や物語の書かれている本をたんに読む、という程度のところから、はっきりと、文学を読む、というところへの意識の移行地点に、私の場合、志賀直哉の名が入り込んできた。
そういう志賀直哉の、作品はあれほど認め尊敬しながらも、彼の生活上の幸福を、見まい、見まい、としてきた、もう三十年にも及ぶ長い時期が、たぶん今年、彼の書斎からの若草山の眺めへの気づきとともに、終わった。
心の健常者、というものがあるのかどうか。
少なくとも、自分にとっての〈いい心〉というべきものはあって、もう、そちらへ自分が向かおうとするのを隠しもしなければ、そちらへ進んでいく邪魔もさせない、と思う。
他人の、また、他人にとっての〈いい心〉は、もう、どうでもいい、ということだ。
                                                   (2003.11.30)

◆この文章は駿河昌樹文葉『トロワテ』2号(2003年12月)にも掲載された。

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