2018年7月15日日曜日

第四次産業体としてのオウム真理教 1995年5月15日



Nouveau Frisson 37号(1995年5月17日発行)所収
(20世紀終わりに作っていた個人誌の古い文章であるが、 当時の知的感情的状況をなかなかよく伝えており、現在でも大筋で見解の変わっていない内容であるため、ここに採録する。先頃の幹部処刑に際して、オウム真理教がたんなる反社会的集団やテロ集団であるに過ぎなかったかのような貧しい受けとめ方が蔓延していることに衝撃を受けたことが、この採録の理由である)



   私はまた前にすでに、霊魂の中にはひとつのカがあると言った。
   時間も肉体もそれに触れはしない、精神から流れ出で、
   精神の中にとどまり、徹頭徹尾精神的な力なのである。
   この力の中にこそ神は全きものとして、己れの内にもち給うあらゆる喜び、
   あらゆる栄光をもって初々しく照り映え給いつつ在すのである。
      マイスター・エックハルト
      『ルカ伝第十章第三十八節についての説教』 (相原信作訳)


  オウム真理教の教義や組織、幹部たちの活動の実体がどれほど異様に映ろうとも、結局のところそれらは、程度の差こそあれ、他のさまざまな新々宗教にも見出されうる事柄であるにすぎない。この集団において真に注目されるべきは、それよりも、ここに集結されつつあった驚くべき多様な能力であり、また実行力である。
この集団はあきらかに、現代日本において希少な、文字通りの総合能力集団を形成する意志に突き動かされていた。この活動自体は、日本の将来を考えるうえで、きわめて重要な現象であったと考える必要がある。わたしたちがいま注意すべきことは、オウム真理教をたんなる犯罪集団や反社会的狂信集団とみなして葬り去ろうとするような言動を、厳しく自制することである。現代日本の個々人の能力開発を可能なかぎり行いつつ、社会の新たな全体性の獲得に努めるための実験例として、この集団の研究に取りかかるべきなのだ。サリン製造と地下鉄サリン事件を中心とする犯罪行為の実行者たちにたいして、法秩序の側も世論も当然死刑や無期懲役刑を望むだろうが、そうした方法を以て解決とするのは、将来の日本にとって必ずしも得策であるとはいえない。日本社会の構造的な停滞を破る秘密がこの集団にはあるからで、絶対にこの秘密の検討は試みられねばならず、そのためには、いま、この集団にたいする超法規的な特殊対応がすみやかに構想される必要がある。一般の日本人とちがう異質なひとびとの集まった、異質な犯罪・狂信組織ではなく、たとえ不幸な結果を生んでしまったとはいえ、現代日本のひとつの実験だったと考えるべきなのだ。
 オウム真理教事件から読み取るべき最も重要なことは、第四次産業への社会的な移行が本格的に始まりつつあるという事実であろう。かつてC=クラークは、産業を次のように分類した。
 [第一次産業農業·林業·水産業など、原材料·食料等の最も基礎的な、必須の生産物の生産にかかわる産業
[第二次産業製造業・建築業・鉱工業・ガス・電気・水道業(日本では、ガス、電気・水道業は第三次産業に分類)
[第三次産業]商業・通信・運輸・金融・公務・サービス業(日本では、これにガス・電気・水道業を加える)
第四次産業という用語はまだ十分に一般的ではないかと思われるが、これらの三つの産業を基盤にして形成される。無形物の販売・サービスにかかわる産業である。無形物とは、精神といってもいいし、霊的なものといってもいいし、こころの安らぎといってもいいが、そういった目に見えない、物質レベルや社会レベルを超える価値を持つと考えられるものである。それの供給によって、社会的でもあり、物質的でもある収益を獲得しようとする産業であるというのが、第四次産業のとりあえずの定義である。
 この産業に現代の多くの新宗教が含まれることは明らかだろう。非物質の供給の見返りとして多額の財を獲得するのが新々宗教の基本性質であるからだが、この行為は、商品が非物質であることを除けば完全な営利行為にあたり、これにたいして宗教法人法に見られるような税制上の特別対応を続けることは、不合理であり社会的に公正を欠く対応でもあるはずである。
 むろん、こうした無形物、非物質の販売・サービスにかかわる産業を、第三次産業のなかのサービス業の一種として整理しておけばよいという考えもありうるだろう。同じような分類上の問題を持つ産業でありながら、こちらの場合はサービス業の一種とほぼ見なしうるかと思われるもののひとつに、近ごろ都市圏ではあたりまえに見られるようになった、新しいかたちのセックス産業(娼婦の宅配サービス、テレフォン・セックス、テレフォン・クラブ、イメージ性戯等)があるが、これにしたところで、無形物·非物質の販売にきわめて近い形態をとるものがある。性交を目的とするものの場合は、たしかに身体が一定時間売られているか、貸し出しされているといえるため、物質的・有形的なものにもとづく営利行為といえるかもしれない。だが、客に電話で、店員でない他の異性客との交際交渉をさせ、電話料金や会費というかたちで収益をあげようとするものなどは、物質的・有形的な性質がより希薄になっていると考えられよう。女性に看護婦やスチュワーデスや女学生などの服装をさせ、さまざまな性的遊戯をしながらも性交そのものは行わないというコスチューム・プレイなどは、なるほど、その女性の身体と時間とエネルギーが一定時間ある限定のうえで貸し出され、消費されるとはいえ、ここで真の商品となっているものはあくまで客の意識内部のイメージレベルに生起するのであり、物質的・有形的のものはすべて、そのための媒体であるにすぎないと考えるほうが正しいように思われる。そうであるとすれば、コスチューム・プレイというセックス産業は、すでにきわめて新々宗教の商品に近いものを扱っているということになる。
 たしかに第三次産業としてのサービス業に、新々宗教等の無形物・非物質の販売・サービスにかかわる産業も含めておいてもそう問題はないのだが、現在すでに見られるように、いわゆる「精神」的・「霊」的なものを扱った事業の多様化や増加があきらかである以上、「精神」的・「霊」的な無形物・非物質の販売・サービスを業とする事業者や団体を、第四次産業として特定するのは、こうした産業の性質の研究・開発・管理に益するところが少なくないのではないかと考える。
 第四次産業の定義としてはさらに、第一次から第三次までの産業をすべて取り込んだうえで、それらを「霊」的なものや「精神」的なものによって秩序立てようという基本構造を持つ産業形態というのも妥当かと思われる。これは、言い方を変えれば、「精神」的・「霊」的なもの自体の産業資源化段階を第四次産業として認識することであり、もともと物質的利益のシステムには関わらない性質を持つとみえた「精神」的・「霊」的なものを、明確に営利の回路に取り込んだ新産業システムとして第四次産業を見なすことでもある。
オウム真理教がはじめに農業を試み、その後、食品生産や、薬品・農薬等の製造、出版、コンピューター産業などと、偏りはあっても第一次産業から第三次産業までをともかくも試みた事実には興味深いものがある。それらの産業がすべて、第四次産業の核である「精神」的・「霊」的なものの成就と発展のために結びつけられて、これまでの第三次産業段階社会において見られなかったような意味をその核より与えられた点にこそ、オウム真理教という現象の社会史的な意義があるのだといえる。
とはいえ、この第四次産業の時代は、霊的なものや精神的なものを、個の人生における個人的な価値づけにおいて、そのひとなりの納得のうちに追求しようとするひとびとにとっては、必ずしも好ましい時代とはなりえないだろう。というのも、この段階の社会において、霊的なものや精神的なものはあくまで商品として扱われることになり、必ずや規格化もなされ、価値判断上の差別化が導入されるはずだからである。個のたましいの居場所などなくなり、どのたましいにも、なんらかの明らかな商品価値が要求される。麻原彰晃氏が空中浮遊やクンバカや予言などの誇示に傾いたのも、まさにこの見えない商品の商品価値の顕示が必要とされたからである。霊的なものや精神的なものは、留保をつけて「精神」的・「霊」的なものとでも表現するしかなくなるといってよいだろう。つまり、霊やたましいのレベルで、この時代にほんとうに起こることは、偽りの「霊」や「たましい」による、霊やたましいの抑圧なのである。「神」が神を抑圧し、支配しようとする。シモーヌ・ヴェーユの言葉ではないが、こういう時代にあっては、神はまさに不在としてのみ、真に現われうることになろう。
 オウム真理教事件は、第四次産業の時代の幕開けを告げるものだと思われるが、こういう新たな産業の時代のはじまりにあたっては、当然それ以前の各産業とのあいだに摩擦が生じることになる。各産業はすでに社会のなかに市場を分け合っており、新たな第四の勢力を、それも、他の先行産業のすべてを支配統合しようとする勢力を、けっして受け入れようとはしない。このため、第四次産業の組織体には、第一次から第三次までの産業のなかに、旧産業の形態をとった関連企業や集団を潜り込ませる必要が生じる。そうして、それらの産業のなかに侵入しながら、しだいに懐柔策を進めるということになる。長期的な
展望と計画に立って、時間をかけて進めれば、これは社会に次第に生じる自然な変化というかたちをとり、うまくすれば社会学的分析さえも躱すことができるかもしれない。しかし、急いだ場合には、各先行産業および、それらを基盤とする当該社会自体を敵にまわすことになろう。この衝突を有利に乗り越えようとして、当該社会において犯罪とみなされる行為に再三及ばざるをえなくなる可能性も生じる。これらは現にオウム真理教において生じたわけだが、これはオウム真理教や教祖の体質というより、第四次産業そのものの避けがたい性質であると考えるべきであろう

以上、出版物やマスメディアにおいて十分に提出されているとはいえないオウム真理教事件の意味と、こういうかたちをとって日本に出現しつつある第四次産業の時代というものについて、簡単な指摘を行った。ここに述べた見解にもとづいて若干なりとも主張しておきたいのは、被告となるオウム真理教幹部たちの扱いには、きわめて特殊な配慮が必要とされるということであり、その配慮の有無によっては、未来的に日本は少なからぬ損失を負うことになりかねないということである。また、他方、宗教団体にたいしては厳格な税制上の義務を負わせ、宗教そのものを第四次産業として、つまり、営利事業として明確に位置付けることの必要も主張しておきたい。これは宗教の弾圧ではなく、むしろ、個人的なものとしての霊性や精神、たましいを守ろうとするためである。それらを社会のシステムに組み込むことは、是が非でも避けられなければならない。霊や精神やたましいなるものに社会的な場がないことは、じつはそれらにとって最高の状態であるということが理解される必要がある。
(一九九五年五月十五日)




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