2013年6月18日火曜日

子音字Kの突出

  ー北原白秋の歌について
 





 あくまで、ほとんどの作品を時間をかけて読み終えた上で言うのだが、北原白秋の短歌は大嫌いである。なるべくなら再読しないで済ましたいし、とりわけ幾つかの一連の個所には、二度と戻らないで生をすこやかに終えたいとさえ思う。
 とはいえ、もちろん、あの病的で繊細な感受性の効果や技術的な巧みさを認めないわけにはいかない。そればかりか、暗さや疲れ、倦怠感、方途を失った心の揺曳のさまを適当なところで抑えておいてくれれば、次のような歌には素直に感心しておいてもよかろうとさえ思う。

 ほのかなる水くだもののにほひにもかなしや心疲れむとする

 山羊の乳と山椒のしめりまじりたるそよ風吹いて夏は来りぬ

 前者は、なるほど「かなしや心疲れむとする」で締められるものの、「ほのかなる水くだもののにほひ」のやわらかな爽やかさが十二分に救っており、かなしさも心の疲れも、歌に色を添えうる程度の修飾に留まっている。夏の到来を詠み競うことは、万葉の昔から日本の詩歌では恒例だが、それへのあらたな挑戦として作られた後者は、季節を正確に示す「山羊の乳」と「山椒」を持ち込むことで、都会生活よりもわずかに田園寄りの近代日本の現実的な生活暦を提示し、「しめりまじりたるそよ風」が吹いてくる爽やかな夏の到来をあざやかに定着した。彼自身の俳句「温室の硝子一枚壊れて夏」ほどの面白さには達していないとは思えるものの、それでも、抜きがたい粘着性や曖昧さを招来しやすい短歌形式を白秋なりに駆使した結果、「しめり」けのある軽みをなんとか出し、そこに歌の印象を留めることには成功している。


 次のような歌ともなれば、読者のほうは、白秋のやや複雑な歌い口と技巧にしっかりと気づけるようでなければならない。

 青柿のかの柿の木に小夜ふけて白き猫ゆくひもじきかもよ

 なんということもない歌に見える。夜ふけ、青柿の木の近くをひもじそうな白猫が歩いていく。提示されている情景は、とりあえずはそれだけのように見える。ちなみに、「さよふけて」と読む「小夜ふけて」の「さ」は、語調を整えたり語彙を強めるものに過ぎないので、特段の意味は加わらない。
 しかし、考えてみれば、夜ふけなのだから、柿の実の青さはよく見えないはずである。白い猫の白さも、日中のようにはありありとは見えない。現代のように、夜でさえどこもかしこも照明されているような時代の歌でもない。夜ふけの闇は深く、「青」や「白」は一目瞭然に見えているとは言い難い。
 ここまでのことがすぐに見抜けるかどうか、この歌においては、じつは読者が試されている。白秋の怖さは、不注意な読者や鈍感な読者に見て取りやすい浅い情景を掴ませ、それで満足して済ませてしまう者たちを切り捨てていくところにある。ひとつの詩歌が読者たちのレベルを評価し、差別化し、低レベルの読者にもそれなりのサービスを提供し、高レベルの読者にはむろん、もっと高い詩的興趣の享受を許すのだ。わかりやすい詩興を読みとって楽しんでいる読者を、公然と侮蔑してくるのが白秋という詩人なのである。


 では、この歌の場合、柿の「青」も猫の「白」もよく見えないであろう夜ふけの情景を提示しながら、なおも「青柿」といい「白き猫」という時、なにが起こっているということになるのか。
「青柿」や「白き猫」、さらには「青」や「白」といった概念の層の重なりが発生しているのであり、その概念層における色彩の純粋な点滅効果と干渉効果が発生しているのである。夜ふけに「青」や「白」が見えようと見えまいと、白秋にはじつはどうでもよい。夜ふけの情景など、「青」や「白」を呼び込むための仮の舞台装置に過ぎないからだ。とりあえず、「青柿」に「青」を、「白き猫」に「白」を持って来させる。後は、「青」と「白」の概念に心ゆくまで耽溺すればよい。


猫のことを言うとともに、作者の心情をも語っているかのような「ひもじきかもよ」という表現はどう捉えるのか、重要ではないか… ふつうの短歌読者はそう思うだろうが、もちろん、さほど深いわけでもない一定程度の意味あいと効果は読みとっておくのに反対はしないにしても、やはり、これは短歌の常套の収め方のひとつに過ぎないと済ましておけばよい。いうまでもないことだが、短歌においては、頻出するこうした心情表現を適当にあしらって、正面から真顔で応対しないでおくというのも作法のうちなのである
こうも考えておくべきかもしれない。もし「ひもじきかもよ」の意義をこの短歌において捉え直そうとするならば、少々めんどうな作業に入り込まねばならないだろう、と。「ひもじき」が持つ一般的な意味を云々するよりも、音声面での検討をし直しておくべきだということになろう、と。


めんどうな作業に、少し踏み込んでみよう。この歌はひらがなで書き直すとこうなる。

あおがきのかのかきのきにさよふけてしろきねこゆくひもじきかも

 さらにローマ字で音声面を記述するとこうなる。

 Ao ga ki no
Ka no ka ki no ki ni
Sa yo fu ke te
Si ro ki ne ko yu ku
Hi mo ji ki ka mo yo

 これを子音+母音、ないしは母音のみの日本語の一音ずつに分解し、便宜的にアルファベット順に並べてみるとこうなる。

a
fu
ga
hi
ji
ka ka ka
ke
ki kiki ki ki
ko
ku
mo mo
ni
ne
no no no
 o
ro
sa
si
te
yo
yu
yo

 これだけでも、すでにkikaの使用頻度の突出が見てとれるが、これをさらに子音字と母音字に分解して、使用頻度を調べてみる。日本語の母音のみをまとめて先に示し、子音字はアルファベット順で示す。

aaaaaa
iiiiiiiii
uuu
eee
oooooooooo

f
g
h
j
kkkkkkkkkkk
mm
nnnnn
r
ss
t
yyy

 白秋のこの短歌における音声素を母音字と子音字レベルまで分解し、使用状態を示してみればこのようになる。短歌というものが自ずと要請してくる条件にもよるが、とりあえず突出している部分を見れば、この歌は、母音字系では10O9I6A3E3U、子音字系では11K5N3Y2M2S1F1G1H1J1R1Tという特性を持つ。突出している文字から見て、この歌はOIKAの歌であり、とりわけOIKの歌であり、日本語において母音の使用頻度は必然的に増すのを考えれば、なによりもKの歌であるということになろう。11個という特権的なまでの子音字Kの使用頻度は異様といってもよい。
 ここで、結句と、その上の初句から第四句との文字数比較を行ってみる。

〔結句〕
 ひもじきかもよ
Hi mo ji ki ka mo yo

 a
  iii
 ooo
  h
  j
  kk
  mm
  y

〔初句から第四句〕
あおがきのかのかきのきにさよふけてしろきねこゆく
Ao ga ki no
Ka no ka ki no ki ni
Sa yo fu ke te
Si ro ki ne ko yu ku

aaaaa
iiiiii
uuu
eee
ooooooo

f
g
kkkkkkkkk
nnnnn
r
ss
t
yy

 起こっていることは何だろうか。歌全体の文字数と、初句から大四句までの文字数、結句の七の文字数を比較してみよう。

 全体    
 母音字系10O  9I  6A  3E  3U
 子音字系11K  5N  3Y  2M  2S  1F  1G  1H  1J  1R  1T

 初句から第四句 
 母音字系7O   6I   5A  3E  3U
 子音字系9K   5N  2Y       2S  1F  1G           1R  1T

 結句 
 母音字系3O   3I   1A       
   子音字系 2K       1Y  2M               1H  1J      

 このように比較してみる場合、結句「ひもじきかもよ」で加えられたのは、とりわけて2M1H1Jであり、これは、結句より前にすでに七音使用されていたOがさらに三音増やされたことよりも大きな意義を持つ。母音に関していえば、すでに六音使用されていたIがさらに三音増やされて九音にされることで、十という最大使用頻度を持つOに拮抗するに到った点は大きいだろう。結句「ひもじきかもよ」の意味とは、つまり、Iを増やすことで歌全体がOの独占的母音字支配となるのを防ぎ、他方、特権的なまでの子音字Kの優越は認めるということなのである。Kについては、子音字における徹底的な優位ばかりか、母音字をも含めても頻度11という最高数を許すに到っている。


 北原白秋の短歌とはこのようなものなのであり、このように読まれなければ、全く読めたことにはならない。
彼は、日常のさまざまな生活情景の中に、ある種の雰囲気や形態の領域や系列、とりわけ色彩や音声の領域や系列を、意識の中でつねに抽象的に生き続けていた人だった。言語は彼にとって、概念としての純粋色彩や音声の数量的側面を招来するための契機であり、道具であり、目の前の光景や社会や世界を、ふつうの生活人のようには、おそらく全く見ていなかったし、捉えていなかった。
用いられている母音字の数がどうの、子音字の数がどうのと、そんなことになんの意味があるのかと訝しむような人には、白秋のような高度の抽象詩人の作品の富は、さほど開示されないままに終わるだろう。
問われているのは、それでは意味とはなにか、誰もが知ったふうに使う意味という言葉、その意味とはなにか、ということなのである。ある言語表現を言い替えれば足れりというのでは全くない文芸表現というものにおいて、そこに用いられた色彩系の効果評価や音声面の数値化などの措置もとらずに、意味だの読みだのが始まるとでもいうのか、ということなのだ。

 

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