2013年6月7日金曜日

つかのま海に霧ふかし

―寺山修司と富澤赤黄男




マッチ磨るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

  知らぬ者のない寺山修司の有名な短歌だが、これが富澤赤黄男の次のふたつの俳句から合成されたことも、むろん、いうまでもない周知の事実である。

   一本のマッチをすれば湖と霧


   めつむれば祖国は蒼き海の上


  短歌に馴染んだ者や寺山修司から短詩形文学に入っていった者は、つい、うっかりと寺山の力量を評価して終えがちになるが、多量の短歌をすでに読み終え、いまさら寺山修司の歌でもあるまいという者なら、当然のこと、富澤赤黄男の俳句にこそ惹かれる。

 もちろん、寺山の作風がいくらこれみよがしで鼻につくとはいえ、あれも当時としては、いや、いまだに画期的であざやかな作風には違いないのだから、どちらがいい悪いという問題なのではない。寺山が強調したかった部分はなにか、富澤が達成したことはなにか、そんなところにあらためて目がいくということなのである。

  短歌も俳句も、いまだに個人の嗜好をつよく維持しつつ付きあうべき文芸形態であり続けているから、私の今の好みにもとづいて言わせてもらえば、寺山と富澤とでは、富澤赤黄男のほうが詩的には清々しい達成を遂げている、と言っておきたい気もする。もちろん、清々しさとは、こってりした料理の後で清涼感ある飲料を口が求める、そんな程度の精神の感官の欲求に従って云々してみているほどのことではあるが。

どういう達成かといえば、ようするに、捕捉した世界がひろいということである。「一本のマッチをすれば」や「めつむれば」によって、心身に拘束されて世界経験をせねばならぬ人間存在の条件と詩作上の視点の位置をしっかり明示し、その上で動作と時間性を導入しつつ、一句目の場合は、そこに「湖と霧」を加えることで、潤いを湛えた自然、世界のひろがりと距離的に確保された明瞭さ(=遠くまで続く清澄な湖面)、世界の限りなさ、見わたしや理解し尽くすことの不能性(=霧)を確保している。
二句目においては、「祖国」という永劫変わらぬ限定作用をもたらす人事概念を読み込んだ上で、「蒼き海の上」によって、人界を外れ、超えた、清浄な、自然界と地続きに展開していく抽象世界へとなめらかに読者の精神を走らせていく。
二句とも、確認するまでもない詩歌上の最高度の達成であって、しかもこれが十七音程度で成されてしまっている点、世界の古今東西における詩歌史上での日本俳句の優位を物語ってもいる。

創作活動が戦前戦中戦後にわたった俳人である富澤赤黄男にとって、「祖国」はさまざまな時期のさまざまなイメージの「祖国」であったろう。もちろん、いちばんイメージの強かったのは戦争機械の「祖国」であり、それを支えさせられる中途半端な近代を強いられた民の「祖国」であり、混乱と滅亡の「祖国」であったに違いない。「めつむれば祖国は蒼き海の上」という表現は、そうした「祖国」の救い出しに成功した結実である。言語に助けられて距離の伸縮を自在にあやつり、想像の中に俳句的眺望を開けば、「祖国」は「蒼き海の上」に浮かぶ静かな、ひそやかな謎をなおも秘めさえする自然の列島に戻る。そこでは住民さえまばらな様子ではないか。これほどの救国、愛国を私は目にしたことがないが、まさに詩的言語によってのみ可能な行為といえる。この世に今ある人間は、なにもこの世だけを、ひとつやふたつの地平だけを生きているのではない。世界や宇宙のはてなき全容をふくめて、界とよぶべきものは、目の前に煩わしく展開されるいわゆる現実や現代なるものの他にも、多様無数の展開を持つものであり、富澤赤黄男はそうしたべつの界へとわずかに出てみることで、「祖国」なるものへの処し方を見事に示したのである。

寺山のほうは、富澤に比べれば、はるかに「祖国」への愛は少ない。「身捨つるほどの祖国はありや」という反語表現は、もちろん、すぐに否定的確信を導いてくる。そんな「祖国」などない、という強い確信から来ている表現であり、この思いからしか今後の思想も言動も始まらないという動かしようもない事実そのものでもある。
「マッチ磨るつかのま海に霧ふかし」が描出するのも、富澤が採った「湖」よりはるかに広大な「海」にもかかわらず、まったく見通しのきかない「海」であり、その広大無辺さが人心に希望や未来として機能しない「霧ふか」い「海」である。この「霧」にしても、富澤が描いた爽やかな「霧」とは違う、どこか汚れのような、べたついてくるような「霧」である。かりに晴れたところで、ろくな海面が見えるわけでもなかろうと思わされるような「霧」なのだ。
もちろん、あまりに安易に、人に感傷的な明るさや希望を見させがちな「海」のような語や、やはり感傷的な浪漫性を喚起しがちにさせる「霧」のような語、また、愚劣な集団幻想をいつまでも燃え上がらせ、個人的な不満の簡便な解消先として用いられ続ける「祖国」のような語を、寺山がいちいち注意深く否定し、見切り、断罪しながら作歌したのを忘れてはならないので、寺山にくらべれば驚くほど富澤が素朴に「湖」も「霧」も「海」も用いてしまっていることの、その安易さ、安直さをも見ておかないわけにはいかない。寺山の場合は、たとえば次のような歌におけるほど、「海」を毀貶せずにはおかないのである。

灯台に風吹き雲は時追えりあこがれきしはこの海ならず

 富澤赤黄男が1902年(明治三十五年)生まれ、寺山修司が1935年(昭和10年)生まれという大きな世代差ももちろん影を落としていよう。複雑な屈折や乱反射を含みながらも、富澤が「祖国」なる語の周囲に発生する高揚を経験したことがあった一方、寺山の「祖国」体験は、狭量いっぽうの軍国化と窮乏と虚偽と腐敗と崩壊のそれであった。「身捨つるほどの」ものでありうるのは、より大きな寛い身体や精神となりうるものでなければならないが、そんなものでありうる「祖国」など、寺山の経験にはありようもなかったはずである。

それにして、なお、「マッチ磨るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」とはよく言ったもの、言い得たもの、とも思う。
「身捨つるほどの祖国」などとは、詩歌上のレトリックとしてさえ、口が裂けても言いたくはなかったかもしれないのに。戦後派に不可能だったあっけらかんとしたこんな言語表現が彼に可能だったのは、もちろん、「マッチ磨るつかのま海に」分厚くふかく浮び出る「霧」のほうこそをみずからの身体となし得る見とおしを、寺山がつけていたからである。ともに言葉にすぎない「祖国」と「霧」は、ともに空虚であり、本来なんの内容物も持たないがゆえに、もし使用者の側が容易に自我なるものの感傷的な根をこれらの語から引き上げるすべを獲得しさえすれば、じつはいかようにも置き換えが可能である。そもそも、厳しく現実的に考えれば、個の精神にとってはふかい「霧」程度のものでしかない「祖国」ではなかったか、という発見もあったであろう。ここには、吉本隆明の共同幻想論にそのまま通じるものがある。いかなる場合であれ、詩人や歌人、俳人とは、徹底して言葉を信じない種族たちなのでもある。信じないから、言葉に使われるということがない。言葉を使う種族は、言葉になど使われてはならないのである。

 「霧」のほうこそをみずからの身体となすこと。これは演劇的人間の行動原理でもあろう。やがて演劇へと向かうことになった寺山が、腎臓病でのながい闘病中に、すでに一首一首を舞台上のスポットライトの当たった部分のように鮮やかに演出して作っていたというのは、どこかわかり易過ぎる危険な構図なのだが、この構図の善し悪しはともかく、いずれにしても彼の作歌の底には、自分の《今》や《ここ》でないあらゆる概念やイメージを瞬時に自分の身体とすることのできる、もっと注目すべきすべが、能力があった。この能力の起動時、もちろん、自分などというものは即座に括弧つきの「自分」となり、他のあらゆる概念やイメージ同様、いくらでも取り換え可能なパーツに過ぎなくなるのである。


 「自分」などというものは、どこの誰の「自分」であれ、アントナン・アルトーのいうCsO器官なき身体にまったく達していない表層的なとりあえずのラベルに過ぎない。そんな「自分」たちがわさわさと、もさもさと語ってやまない喜怒哀楽や個人史など、もちろん一顧だにする必要もないのだが、世俗的には冷酷とも見えるかもしれないこんな態度からのみ、もちろん、はじめて言語表現の界は始まろうとするものでもある。
   



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