2012年3月15日木曜日

詩人たちがいなくなってしまってから



シャンソンの好きな人なら誰でも知っているシャルル・トレネの歌、もともとジャクリーヌ・フランソワのために作られた『詩人の魂』の歌詞を思い出すと、詩とはなにか、詩人とはなにか、というより、「詩人」という存在を世間一般の人間がどうとらえているか、とらえたがっているか、それがよく出ているように思う。
トレネが歌っているのは、もちろん、シャンソンの作り手たちや、気のきいたちょっとした小詩をつくるような詩人たちのことではあろうが、誰もが抱きがちな広義の「詩人」のイメージというのも、ふつう、こんなところではないだろうか。


詩人たちがいなくなってしまってから、
長いこと、長いこと、長いこと経ったけれど、
かれらの歌はまだ、ちまたに流れ続けている。
作者の名前とか、
誰のために心が弾むのかとか、
あまり気にせずに人びとは歌っている。
ときどき言葉をかえたり、文をかえたり、
歌詞が思いつかなくなったりすると、
ララララララララララ、
ララララララ、とやってみたり。
 
詩人たちがいなくなってしまってから、
長いこと、長いこと、長いこと経ったけれど、
かれらの歌はまだ、ちまたに流れ続けている。
いつの日か、私がいなくなってだいぶ経った頃にも
歌われているだろう、きっと、
悲しみをやわらげるこの歌。
しあわせな運命もいくつか育み、
老いぼれた乞食をも生かし、
子どもを寝かしつけ、
どこかの水辺で、
春、プレーヤーでかけられて。
 
詩人たちがいなくなってしまってから
長いこと、長いこと、長いこと経ったけれど、
かれらの歌はまだ、ちまたに流れ続けている。
 
かれらの軽い魂、かれらの歌に、
愉しまされたり、かなしまされたりする。
わかい娘たちも、青年たちも、
ブルジョワたちも、芸術家たちも、
宿なしたちさえも。*
 
 
  〈Après que les poètes ont disparu〉を「詩人たちがいなくなってしまってから」と訳したが、「亡くなってしまってから」という意味あいももちろん強いだろうし、「姿を消してしまってから」や「詩人たちの姿が見られなくなってから」とすれば、これはこれで、時代の流れや風潮というもののどうしようもなさも読み込んで、意味ぶかくなる。「詩人」というものは、勝手に自分の才能や能力だけで現われうるものではなく、どうしようもなく時代の子であり、世間が舞台を準備しないかぎり現われないものだからだ。
 この「詩人たちがいなくなってしまってから」というところに、このシャンソンの核心がよく現われているように思う。「詩人」というものの核心も、ここにあるのだろう。
「いなくなってしまってから」、たとえば写真を現像して、だんだんと現われて確認されてくる映像のようななにかが「詩人」なのであって、天皇の諡(おくりな)ではないが、どこか、本人が去っていった後であること、絶対的に死後であること、本質が消滅した後であること…、欠くことのできない属性として、そういったところがどうしようもなくあるような気がする。
ある人が「詩人」だとした場合、その人は、もうそこにはいない。もう去っていってしまっている。かつて肉体を持ち、考えや心を持ってこの世に生き、確かにペンを執って書いたのだろうけれど、もういない、探したところでもう会えず、決定的に失われてしまっている。
もういないのだ、というこの感じ、〈もういなさ〉とでもいうべき著しい特性、これにたっぷり浸されていない「詩人」など、ありえない。絶望的に、いつも後からふり返って、遅れてきた気づきの取り返しようもなさの中で、「ああ、あの人は詩人だったのだ…」と思う。「詩人」というのは、こんな強烈、鮮烈な過去性、喪失感そのもの中に浮き上がる、曖昧なようでいて、ずいぶんとはっきりした影のようなものなのではないか。


そうして、「詩人」という、遠ざかり続けるそういう不在の一点につながり続けて、なおも、街に、「ちまた」に、「流れ続けている」歌や言葉が、「詩」なのだ。
図書館やどこかの古本屋の片隅や、あるいは大学の研究室などにご大層にしまわれているのではなく、…と付け加えたくもなるが、そう考えるのは正しくないだろう。「詩」の領域では、そういった場所も街や「ちまた」の一部にすぎない。差別化を図って箔をつけようとしたり、文化的価値をうんぬんしようとしても、「詩」というものほど「文化」に馴染まないものはない。なにかの近代的な政治形態や社会形態を支える思想の網で掬おうにも、必ずすり抜けてしまうのが「詩」なのだ。そんなもので掬えるのは、せいぜいが「詩」の〈文化干し〉のような部分だろう。
「詩」においては、作者の名などもどうでもいいのだし、口ずさむ人びとは、「ときどき言葉をかえたり、文をかえたり、歌詞が思いつかなくなったりすると、ララララララララララ、ララララララ、とやってみたり」してもいい。こういったいい加減さを平気で受け入れるものが「詩」であって、一字一句もゆるがせにしてはならぬ―という方向に流れはじめると、「詩」らしさは一気に衰弱する。こういうところにも、「詩」の重要な特徴があるように感じる。可変性というか、受容のさまざまな条件にやすやすと合わせてしまえる曖昧さというか。


「わかい娘たちも、青年たちも、ブルジョワたちも、芸術家たちも、宿なしたちさえも」というふうに、つねに万人向きの言葉であろうとするところも「詩」の重要な姿勢だが、「かれらの軽い魂、かれらの歌に、愉しまされたり、かなしまされたりする」というところにも大事な性質が垣間見られているような気がする。
 それは、理知を逃れる、理知に対してはずいぶんツレナイ、ということだ。
 もちろん、言葉がわかる、意味がつかめる、ということ自体、理知的作業には違いないので、どこまでいっても「詩」は理知の領域にあるにはちがいないが、しかし、分析や学問などの理知の働かせ方に対しては、つねに、すり抜けていく身振りをし、誘惑的でもある。理知を居どころとしながら、その理知に対し、いつもイヤイヤをする、すねる、ごねる、わがままを言う、…これが「詩」で、「詩」がこれ以外の姿態をさらす時には、絶対に嘘をついているか、猫をかぶっている。


しかし、それは理知に対してであって、心に対してはちがう。
心とはなんだろうか。
「どこかの水辺で、春、プレーヤー」をかけて、ぼーっと昔の歌を聴いていたり、アリスとその姉のように、春の木に寄って本を読んでいたり夢想していたりする人の中に、奇跡のように現われ、ひととき動めくような、そんななにものかだろうか。
知にも理性にも作れないような独特の空間、それを、意識のなかに作りだすなにか…


唐突なようだが、曾晳のことが思い浮かぶ。政治を任されたらどうするか、と孔子に問われた時、他の弟子たちと違う答え方をしたあの曾晳、曾参の父のことだ。「どこかの水辺で、春、…」というところからの連想だろうが、『論語』巻第六先進第十一の二十六、例の有名な「莫春春服既に成り…」の箇所である。

点(曾晳)よ、爾は如何。瑟を鼓くこと希(や)み、鏗爾として瑟を舎(お)きて作(た)ち、対(こた)えて曰わく、三子者の撰に異なり。子の曰わく、何ぞ痛まんや、亦た各々其の志しを言うなり。曰わく、莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人を得て、沂に浴し、舞雩に風して、詠じて帰らん。夫子喟然として歎じて曰わく、吾れは点に与せん。**
(點爾如何、鼓瑟希、鏗爾舎瑟而作、対曰、異乎三子者之撰、子曰、何痛乎、亦各其志也、曰、莫春者春服既成、得冠者五六人童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而帰、夫子喟然歎曰、吾與點点也。

「点、おまえはどうかね」。点は瑟を弾くのをやめ、それをカタッと置いて立ち、お答えした。「いままでの三人のような立派な考えとは違うのですが…」。先生は「気にすることはない。それぞれ、自分の思うところを述べるまでのことだ」とおっしゃった。そこで、点はお答えして言った。「春の終わり頃、春着もできましたら、五六人の青年と六七人の子供をともなって行って、沂水で水浴びをし、雨乞いを舞う台地に涼んで、そうして、歌いながら帰ってこようと思うのです」。あゝ、と先生は感嘆して言われた。「わたしは点に賛成するね」。

 心と「詩」がすっかり一緒になり、理知と知恵の権化の前で、全幅の承認を得た瞬間であろう。
 こう言って韜晦に見えるならば、やはり、「詩」も心も難しい地点に追い詰められているということになるのだろう。「ララララララララララ、ララララララ」と、「あまり気にせずに」乗り越えるべき、あるいは、持ちこたえるべき地点かもしれない。
少なくとも、曾晳は知っていたし、孔子もよくわかっていたのである。







*フランス語の原詞は次の通り。なお、Youtubeにあるシャルル・トレネ自身の歌唱映像リンクを参考に付しておく。

L'âme des poètes (Charle Trenet)

Longtemps, longtemps, longtemps  
Après que les poètes ont disparu  
Leurs chansons courent encore dans les rues  
La foule les chante un peu distraite  
En ignorant le nom de l'auteur  
Sans savoir pour qui battait leur coeur  
Parfois on change un mot, une phrase  
Et quand on est à court d'idées  
On fait la la la la la la  
La la la la la la
Longtemps, longtemps, longtemps  
Après que les poètes ont disparu  
Leurs chansons courent encore dans les rues  
Un jour, peut-être, bien après moi  
Un jour on chantera  
Cet air pour bercer un chagrin  
Ou quelque heureux destin  
Fera-t-il vivre un vieux mendiant  
Ou dormir un enfant  
Ou, quelque part au bord de l'eau  
Au printemps sur un phono
Longtemps, longtemps, longtemps  
Après que les poètes ont disparu  
Leur âme lére court encore dans les rues
Leur âme lére, c'est leurs chansons   
Qui rendent gais, qui rendent tristes  
Filles et garçons  
Bourgeois, artistes  
Ou vagabonds.





**金谷治訳注『論語』(岩波文庫)より引用。現代語訳には手を加えてある。






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