2010年9月27日月曜日

輪廻について

 

 輪廻について、説得力のある明快な叙述に成功している心霊書はそう多くはない。荒唐無稽に走るものは別としても、殆どが、過去の宗教聖典に則った抽象的な説明に終始するか、あるいは著者の能力の不確かさを通俗の道徳的輪廻観で補いつつお茶を濁している。心霊家の真贋は案外はっきりと露呈するもので、輪廻についての叙述は、それを知るに適した箇所のひとつといえる。

 大山白道氏の『浄霊の不思議』*を久しぶりに読み返していて、輪廻について実に的確な記述がなされているのに感心した。怨念霊の浄霊経験を重ねるにつれて、因果応報の掟が宇宙には厳として存在し、誰ひとりそれを逸れることはできないとの認識に達したと氏は言い、「人間はその掟に従って輪廻転生を通じて、自分がまいた種はちゃんと自分で刈り取らされている。例えその事に本人が全く気づいていないにしても、従ってこの世で起こる幸、不幸の根本原因は全て自分自身にあり、決して他を怨む事は出来ないという事になる。我々はその事を忘れてしまっているだけなのだ」と断言している。もともと、常軌を逸した事柄を語る書籍の類として扱われがちな心霊書の記述であるから、この程度は当然のことと思われるかもしれないが、多数の浄霊体験の積み重ねの上で、輪廻転生の原理を確信するに行き着いたと語る本は、実際には稀少である。心霊現象に関心を抱いて多くの関連書籍を渉猟する者にとっては、これは貴重な証言なのである。

 怨念霊は、殆どの場合、先祖の犯した非道な行いで死傷させられた相手が、子孫である現存者に祟っているものを云う**。この本に紹介されている例で言えば、中世や近世、正当な理由もなしに武士に切り殺された農民父娘がその武士の子孫に祟り続けるケースや、冷酷な庄屋に酷使された農民集団が怨念集団と化して、やはりその庄屋の子孫に祟るといったケースなどが、怨念霊による霊障の典型的なものである。
 むろん、ここまでなら単なる怪談の域を出ず、輪廻の原理に結びついていくものではない。大山氏の本の特質は、こういったケースの浄霊を試みる過程でわかってくる、複雑な輪廻の結びつきを記述している点にある。
 浄霊家としての大山氏は、怨念霊の憑依を解くに際して、霊としてのあるべき道を説くようなありきたりな方法は採らない。無駄だからである。全くと言っていいほどの不条理かつ非道な殺傷、抑圧を蒙ったからこその怨念である以上、上っ面な霊的道徳を説いてもどうにもならないのだ。そこで大山氏が採るのは、怨念霊に、その霊自身の過去世を見せるという方法である。

 先に挙げた農民父娘の場合は、娘が過去世において大名の奥方、父がその奥方に雇われて大名の側室母子を殺害した浪人であったという。庄屋に酷使されて怨みつつ死んでいった農民集団のほうは、過去世において多くの奴隷を牛馬のごとく使役した酷薄な監督たちであったという。つまり、不条理な非道の殺傷や抑圧を蒙った怨念霊たち自身が、過去世において非道な行為をしてきたわけで、異なった時代と設定のなかで、過去の自分たちが行った所業が、ほぼ同じかたちで自分たちに戻ってきているだけのことだったのだ。
 怨念霊の浄霊はすべてこの方法で解決してきた、と氏は言うのだが、大切なのはこの点にある。霊障のなかでも殊に解消しづらいといわれる怨念霊による霊障が、この方法ですべて解決されうるというのは、これが霊的な真理に基づいているからに他ならない。現世を生きている人間は霊的に盲目であるから如何ようにも騙しうるが、霊を騙すというのは、なかなか容易なことではない。霊は、霊的真理とそこから生じる力によってしか動いてくれないものだからだ。むろん、そうした霊的真理は、現世の人間が真に指針とすべきものとしての真理でもある。

 確かな霊的能力を備えた宗教家たちの殆どは、口をそろえて、世界は今あるままでよいのだと説く。これは、転生輪廻のこのような原理の機能している場として現世を見ているからである。なるほど、いかなる時代いかなる場所にも、不条理な運命、悲惨いっぽうの出来事、非道な行いは後を絶たないように見える。多数を巻き込むような大きな事態でなくとも、個人個人の小さな経験の中でさえ、これといった理由の見出せない不幸や不遇は数え切れない。だが、それらの根本には、現象の種子として、被害者たち自身の過去世の所業ひとつひとつが存在している、と彼らは考えるのである。
現在も絶えることなく続く多くの殺人事件や戦争や災害のあらゆる被害者たちは、ほぼ同じ行為を過去世において行っており、行っている以上、彼らの蒙った被害はまったく避けようがない。輪廻転生の原理を知る者は、当然のこととして、このような認識をする。霊的無知に陥ってしまっている一般人にとっては非情かもしれないが、徹底的な平等性に基づくこの原理が破られてしまうことこそ非情であるのは、少し考えれば容易にわかることだろう。

 行為は必ず同じかたちで戻ってくる。霊としての自己が絶えることがないため、自分の行為が今生で回帰してこない場合は、来世以降に回帰してくることになる。それだからこそ、来世で蒙りかねない不幸を少しでも避けようと望むならば、現在の人生を、最終的でも決定的でもない一時的な境遇にすぎないと認識し、過去世と来世を繋ぐ間として、つねに反省と修正に努めて生きなければならないということになる。確かに、こういうことに思いを至らしてみれば、ある程度年齢を重ねてきた人なら誰もが、自分の今回の人生の諸事のあれこれに、いわく言い難いような合点のいく経験をするのではないか。なぜ今生の自分がこのようであったか、なぜあのようなことに見舞われたのか、不幸や不遇や病についてだけでなく、自分の心がけや努力から生じたとは思えない幸運に恵まれた理由などについても、明瞭に見えはしないまでも、ものによっては、かなり確かな感知のできる気のすることがあるはずである。

 悟りに達したといわれる先達たちの決まって言うことに、世界の現状を気にせず、いかなる変革もしようとするな、という言葉がある。世界よりも、まず、自分にとって満足のいく自己を成就せよ、と彼らは言うのだ。これは利己的な自足への閉塞の促しではない。まず自分自身が、霊性にそぐわぬあらゆる行為を停止すること、普通の人間として、他人から受けたら幸福と感じるような行為を、特定の人に対してではなく、あらゆる人間に対して行い始めること、此処からしか世界は変わり得ないという了解に立っての現実的な方法論なのである。これは二〇世紀ヒューマニズム流の浅薄な平和主義ではない。輪廻転生の原理と展開の実例を現実に霊視してきた末の、きわめて実際的な結論なのだ。  
したがって、霊的に考えれば、あらゆる革命も、いわゆる「平和を守る」ための戦争も放棄されねばならない。いかなる口実のもとに行われようとも、行使された暴力や破壊や殺戮は必ずその行為者たちに回帰していくのだから、革命や正義のための戦争も、結局は数十年後、数百年後の戦乱を準備するだけのことになってしまうのである。

 今の人類のひとりひとりが、すでに、怨念霊のようなものと化してしまっていると認識するべきなのかもしれない。戦乱状態であれ、経済的な混乱状態であれ、自然災害に見舞われているのであれ、すべてが過去世の自分たちの所業の揺り戻しを受けているのであり、根源は自分たち自身の行為にあったのではないかと見直してみる必要が、おそらく、ある。もし本当に幸福を希求するのならば、いま此処で、現状を嘆く心を停止させる他に方法はない。現在の状況は、正確に、過去世の自分の所業からのみ発生してきたものであり、蒔かれた種子が成長して実り、刈取りの時期が来ただけのことだからだ。すべてが今まさにこのようであること、これは輪廻転生の原理が例外なき法則として厳密に顕現しているということであり、まさにこうあるべきであり、まったく正しく、このようにあることそのものが救いでもあるはずなのである。したがって、例えば、聖書の読解においてフローレンス・スコーヴェル・シン***が勧めるように、「主」という言葉を「法則」に置き換えて読むならば、「これ(=人生)はあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。(…)あなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主(=法則)があなたたちを救うのを見よ。」(歴代誌下二十・十五~十七)****、あるいは「主(=法則)に自らをゆだねよ。主(=法則)はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主(=法則)にまかせよ。信頼せよ、(…)、沈黙して主(=法則)に向かい、主(=法則の成就)を待ち焦がれよ。」(詩篇三十七・五~七)といった言は、輪廻転生の原理を読み込んでの行動指針として、まさに至言ということにもなる。

 心霊的な考察を行う人々にとっては、指と手のひらの関係のように、個人は人類と繋がっているものと見なされており、また、霊のレベルにおいては時間的差異と空間的差異は存在しない、とも考えられている。時間空間は、霊的な進化のために用意された練習舞台のようなものであって、ある意味では、現世での出来事はすべて架空の出来事であって、なにひとつ起こったこともなければ、今後も起こることはない、というのだ。幼稚園で園児たちによって演じられる劇のなかの物語のように、なにひとつ現実ではない。『バガヴァッド・ギータ』などの高度な霊性の書は、こうした見解を説いていると読んでよいだろう。
 こういう考え方に従うならば、人類が延々と殺戮や抑圧を互いに繰り返していってもかまわないということにもなるのかもしれない。確かに、それを喜んで受け入れるようになるくらいなら、霊が現世の状況によって影響されることもなくなるわけで、それはそれで至上の悟りに達したということになろう。とはいえ、私たち霊というものの本性は、よほどの例外を除けば、そうした激越なかたちでの進化には、なかなか耐え続けていけるものではない。霊性の道におけるキリスト出現の理由はここに在ったのだが、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書十一・二十八~三十)と語り、愛という魂の方法によって、輪廻転生という霊の法則そのものからの超出を説いたキリストの発想原理について考察するには、そもそもの枠組みを、愛という方法のそれへと替えて新たに考え直す必要があるだろう。


*大山白道『浄霊の不思議』(たま出版、一九九六年)
**怨念霊が自分に非道を働いた者の子孫に祟るという事実は、個人を基本単位として人間をとらえる現代の見方からすると、ひどく理屈にあわないようにも思われる。しかし、霊にとっては、仇の血を受けている子孫は、仇そのものと見做されるのが通例であるらしい。受け継いでいる血の一滴さえもが仇であって、最後の一滴まで祟るといった理屈が、怨念霊たちにはある。
***Florence Scovel Shinn : The game of life and how to play it (in The Wisdom of Florence Scovel Shinn, fireside, Simon&Schuster,1989).
****聖書よりの引用は、全て新共同訳1994年版によった。

◆この文章は駿河昌樹文葉『トロワテ』1号(2003年10月)にも掲載された。

2010年9月23日木曜日

円地文子 ――女がひとりで着物を脱ぐとき



『朱を奪うもの』の滋子は、赤坂離宮で催される観桜会に「一昨日三越から仕立て上って来たばかりの臙脂色に薔薇を染め出した派手な振袖」(*1)を着て列席します。

「こんなことがたのしいのかしらとひとり言して滋子は自分の着ている臙脂色の縮緬の重い袂をそっと片手につまんで眼に近くよせて見た。精巧な染色を見せた縮緬の皺(しぼ)は春の陽を吸って細かい艶を浮き上らせていた。胸を固く締めつけている糸錦(いとにしき)の重い丸帯には金地に白い孔雀と牡丹が見事に織り上げてある。頭の上には盛りの牡丹桜が鞠のように咲き集った花房をいくつとなく重ねていた。しかしこの咲き驕った花の下照る庭に立っている若い娘の眼には薄紅と緑に鮮明に縁どられた広い庭園のここかしこに散らばり、あるいはより集っている紳士淑女の群が色あせた風俗画のように無味乾燥にしか映らないのである。(…)現実の美とか調和とかは自分の身内に絶えず湧き流れ燃えふすぶっている混沌とした欲求や、無限の憧憬に較べて、何と白々しい興ざめな鈍さであろう。速さ、勁さ、烈しさ、きらきらしさ!すべての眩いもの、ひらめき過ぎるものからそれらの光景は遠く離れた凡庸さの中に無知に動き、笑い、満足しているように見える。すべてのものが清潔げに上品げに辛うじて一つの調和を保ちながらその保っているものの単なる惰力であるのをこの人々は知らないのだ」。(*2)

「摂政の宮や皇后さま」(*3)、「華族さんやさぞお立派な方々が大勢お出ましになる」(*4)ばかりか、特別にプリンス・オブ・ウェールズも迎えての「いつもの時より一層晴れのお催し」(*5)だというのに、これほどの失望なのです。自分自身についても、せっかく美しいきものを着ていながら、「いつまでも少女じみて胸幅の狭く発達しない」(*6)ことに「負け目を感じ」(*7)、「貧弱な肉付きのくせに」(*8)大きな「砥粉色の強い弾力を持った乳房」(*9)が「椀を伏せたように狭い胸の左右に盛り上ってい」(*10)るのを嫌っています。
 円地文子の文学の基調が、比較的、見てとりやすいかたちで表われている箇所といえましょう。「速さ、勁さ、烈しさ、きらきらしさ!すべての眩いもの、ひらめき過ぎるもの」にむかって「自分の身内に絶えず湧き流れ燃えふすぶっている混沌とした欲求や、無限の憧憬」があるにもかかわらず、それに比してあまりに色褪せてみえる現実世界や自分自身への、いかんともしがたいズレ、埋めようもない懸隔。霊媒的、巫女的想像力のうねりの中に創りあげられていった円地文学のすべては、ほぼここから生い立っていったと見てもよさそうです。

 これを書いた時、円地文子は五十歳、多くの障害やまわり道を経た後の、やや遅まきの本格的な活動を開始したところでした。乳腺炎(三十三歳)や子宮癌(四十一歳)を患い、すでに「砥粉色の強い弾力を持った乳房」も子宮も喪って、女としての肉体的な終わりとも見なされかねない地点に到ったところで、逆に炸裂するように、女としての真の内的誕生が起こっていました。

 同じ頃に、「自分の身体は年とった猫みたいにぐなりとしているのに、心の働きが自由すぎて気味が悪いの」(*11)と『妖』に書きつけてもいますが、日本の文化の隅々から古典の端々までをも自家薬籠中のものとした戦後最高最深のこの女性作家は、いつも「祝詞をよむような低い不確かな声」(*12)に内面をせっつかれ、「行動力のない癖に内心の働きだけは恐ろしく自由活発になりまさって行く異様な生々しさ」(*13)を生きていかざるをえない女たちを、ほぼ一貫して描いていったといえそうです。「恐らく男たちには理解されないであろう、自分のうちに時しらずざわめき動き出す、曖昧な形のさだまらぬものについて」(*14)考え続け、老いようとも変わることのない「性と密着した女の自我」(*15)を追い、「当事者にも気味の悪い」(*16)ほどのその飛翔のさまを描きつくして、ついに八十一歳まで。死の前日まで口述筆記をしていたといいますが、老いて佳境に入っていくほどに、露骨とも、残酷とも、淫猥の極みともいえる筆致で、女の内面にいつまでも若々しく滾る性と自我のマグマの諸相を抉り出し続けました。九十九歳まで書き続けた野上弥生子についで、女性作家としては二人目の文化勲章が授与されましたが、現代社会の表向きの浅薄な倫理など一顧だにしない、底知れぬほど深い反社会性を秘めた作品世界を思えば、一種、爽快な授与だったともいえそうです。

 こういう円地文子の世界で、作を追うごとに、きものの扱いや意味あいが複雑にも重層的にもなっていったのは当然のことでしょう。先に引用した『朱を奪うもの』でも、きものはすでに単なる美や喜びであることを止めていましたが、ある時は職人の労苦や悲惨を生々しく伝達する媒体になるかと思えば(『女面』、『蛇の声』)、ある時はまた、女に表面的な「女」性を強いて、「曖昧な形のさだまらぬもの」であるべき内的な力動としての純正さを抑圧するものとも受けとめられる(『遊魂』)というふうで、融通無碍というべき扱いには息を呑みます。

 だからこそなのでしょうか、ときおり目につく脱衣の場面、疲れきり、時には酔って帰った女が、老いの中で、ひとりできものを脱ぐ際のこんな光景も、まさに円地文子ならではの冴えです。きものを脱ぐことさえ、これほど深い行為なのだったと、どれほどの作家が表現し得てきたでしょうか。
 
 「帯を解かなければと、寝たまま帯上げの結い目をほどいていると、誰かの手が器用に働いて、ずるずると帯が解け、着物が肩から滑り落ちて行く……克子かしら、いやそうではない、たしかに男が寄り添って、自分の身体から着物を脱がして行くのだ、それが誰とも分からないのに、紗乃には快く、何の抵抗もなく、わが身をくねらせたり、撓(しな)わせたりしているのだった。ひどく重くて、その癖重量を感じさせない不思議な圧力がのしかかって来て、紗乃を押しつぶした。身体がその奇妙な重みの下敷きになって、逃げられない苦しさにいつまでも呻(うめ)いている。そんな時間がどれほどつづいたのか……深い眠りの底から紗乃が眼ざめたときには、カーテンの隙間から忍びこんだ光が仄(ほの)明るくしていた。
 (…)驚いてあたりを見まわすと、自分はちゃんと浴衣に着がえて、二人部屋の隣のベッドに昨夜の江戸小紋の着物が脱ぎ捨てられ、吉野広東(かんとん)の帯が縞をしどけなくベッドから滑り落して、長々と床にうねっていた」。(*17)



◆この文章は、『美しいキモノ』二〇〇七年冬号(アシェット婦人画報社)にも、「日本文学に見るおしゃれ・女性作家ときもの【円地文子】」として掲載された。駿河昌樹文葉『トロワテ』48号(2007年12月)にも掲載された。


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* *********10(あけ)を奪うもの』(円地文子全集第十二巻所収、新潮社、一九七七) 
*11『妖』(新潮社日本文学全集58、一九六〇)
*12*13*14『遊魂』(新潮現代文学19所収、一九七九)
*15*16竹西寛子『解説』(新潮現代文学19所収、一九七九)
*17『彩霧』(新潮社、一九七六)

2010年9月20日月曜日

宇野千代、「満艦飾」の「粋」



「着物と言うものは美術品ではありません。どんなに巧緻な作品でも、それは実用品なのです」(1)

『薄墨の桜』という小説の中の、作者本人にきわめて近く設定された語り手の言葉ですが、これはこのまま、宇野千代というひと本人の、あの広く長い活動のすべてを仕付けていた糸のようでもあり、根本の方針でもあったようです。
 小林秀雄や青山二郎といった、当代一流の美の求道者を友とした宇野千代が、おのずと培った姿勢のとり方ともいえそうですし、彼女の好んだフランスの哲学者アランの思想を自家薬籠中のものにした結果ともいえそうです。小林秀雄の思索の師でもあったアランは、実用を忘れないことや、制限や不自由などが、かえって、どれほど豊かな成果をもたらしうるか、思索を生き生きとさせるかを、つねに説き続けたものでした。
 もちろん、極貧も破産の苦渋も経験し尽くした末に、きもののデザイナーとして大輪の花を咲かせ、作家としての大きな成長も果たし、さらに、後に続く人たちのために、ユーモアにあふれた励ましの言葉を世に送り続けた宇野千代自身の人生そのものから、ごく自然な実りのように、ほとりとこぼれ落ちてきた感慨でもあるのでしょう。

『おはん』や『風の音』といった代表作に、華やかなきものの描かれ方が意外と少ないのは、こうした考え方のためかもしれません。
 時代背景から言っても、作中の人物たちは当然のようにきものを着た生活をしているのですが、そうしたきものはどれも、まさに「実用品」として扱われています。実用品というのは、もの自らは主役の座をかたくなに固辞し、あくまで持ち主や使い手である人間を主役として立て、生活のさまざまな場面にふさわしく生が流れるよう支えてくれる品々のことです。実用品としての役割をきびしくきものに課した宇野千代の小説というのは、じつは、とても厳格なきもの論に貫かれているともいえそうです。

 これとは逆に、今でも入手の容易な『きもの日和』(2)や『宇野千代きもの手帖』(3)、『宇野千代 女の一生』(4)など、きものデザイナーとして、また、ファッション雑誌の編集者としての活躍を一望できる本を覗くと、ワンダーランドとでもいわんばかりに絢爛たるきもの世界がひろがり、まるで美しい花々を集めた写真集を見るかのよう。陶然とさせられるのですが、 

「『粋』とはとりつくろわないもののことである。化粧はしていても、決してしてはいないように、素顔であるように見えなければならぬ」。(5)

 こんな言葉を思い出せば、彼女のきもの創作時の心構えが、じつは、小説世界の一見地味とも見えるきもの使いに通底していたのに気づくのも、そう困難なことではありません。
「とりつくろわない」ことのよさは、宇野千代のきものデザインの現場では、「単一の印象、単純明快の印象」をいかに創造するか、という配慮において追求されました。

「この単一の印象、単純明快の印象、と言うものが、美しい、と言うことの根源であるように、私には思われる。私のきもののデザインの印象も、これを踏襲している。この、単一である、と言う印象を決して離れない。色も柄の配置も単一である。これが、シックとか、知的とか言われるものの印象である」。(6)


 同じ方針は、きものの着かたにおいても、宇野千代の勧めるところでした。

「和服をすっきりと近代的なセンスで着るのには、何はさておき、全身の色を、色の数を出来るだけ、単純に統一すること、その感覚を持つことが、一番近道ではないか知ら、と思うのです」。(7)

 せっかくですから、着かたについて、ご本人に、もう少し語ってもらうことにしましょう。

「何と言っても、全身の印象が騒がしくないことが肝腎である。知的に見える。それには、まず、自分の好きな色を決めておくこと。その好きな色で、全身を統一すること。私の例で言うと、私は墨色と紫と藍が好きである。きものが墨色の濃淡で染め上げた小紋の場合は、帯は白地、羽織はパールグレーの無地、と言う風に。羽織の紐と帯〆とはなるべく同色に。この頃では、殆ど羽織と言うものを着ない習慣だと聞いたが、羽織のない場合には、帯〆だけをただ一色、朱色とかにして、全身の利き色にして見るのも、面白い。お洒落は絵を描く積もりになってすること。まァ、こんな愉しいことがまたとあろうか、そう思ってすることである」。(8)

 なるほど。
 こんな話を聞いた上で、あれこれ、彼女の小説の中のきものを振り返ってみると、たとえば、

「おはんは白い浴衣きて、髪を一束(いっそく)にたばねたまま裏手からはいってきました。あなたさまもご存じのように、七夕のあけの朝は、どこの女(おなご)も川で髪洗うて、その一日束ねたままでいてますのが、ここいらの習慣(ならわし)でござります」(9)

 なにげないこうした描写も、まさに宇野千代流の「粋」に、すっ、と通じていくものだったことに気づかされるのです。

 とはいえ、彼女の「粋」が、色づかいや印象をつねに「単一」に絞って、無難に破綻を避けようとするたぐいのものでなかったのも、やはり事実というべきでしょう。
 尾崎士郎と馬込に住んでいた頃、「それほど好い着物ではない、ぴらぴらした安物を身につけ、顔だけ、満艦飾に化粧して、にこにこしながら歩いていた」(10)のを、「生粋の江戸っ子で洒落者である広津和郎」(11)に「初荷の馬」(12)と言われた、という有名な話があります。
 千代自身が持って生まれた本性であるらしい、この「満艦飾に化粧して、にこにこしながら歩」く喜びや愉しさへの傾向を、いかに「粋」の枠組みの中にいっぱいに取り込むか、いかに「満艦飾」の「粋」を花開かせるか。宇野千代一生の美的挑戦の核心は、そんなところにこそあったように思われます。
 そうした挑戦の中で、実際の仕事に携わる時の思い、心意気といったものは、きっと、みずから聞き書きした人形師久吉のそれと同じでもあったでしょう。

 「わがが拵えたものでござりますけに、いつでも、まだこの上のものが出来ると思うております。死んだらそれではじめて、ここまでしか出来なんだというくぎりがつくようなものでござりましょうぞ。飛騨の匠(たくみ)でも、左甚五郎はんでも、これならええと思うて死んだのやないと思います。もっと長生きしてましたら、どれだけのことをしてのけたろうぞと思います。ほんに、死んだのが、一番のおとまりでござります。芸のお了いでござります」。(13)

 八十五歳から書き出した『生きて行く私』で、宇野千代は、自分自身のそれまでの人生と、なお「生きて行く」現在そのものを、どの小説よりも柄の大きなひとつの作品とすることに成功しました。彼女自身が、彼女にとっての最大の、永遠の生成過程にある作品となったのでした。それ以降のエッセイ集や人生論集の数々は、さすがに高齢ということもあってか、断章形式やくりかえしが目立つようになりますが、それでも、彼女のきものデザイナーとしての第一歩のひとつともなった「きりばめの着物」(14)同様、それらが、文章の「きりばめ」であるということを思うと、つねに新たな始まりであり続けるかのような宇野千代の生の、不思議なまでの様式美に感嘆させられます。それらの中に散りばめられているこんな言葉の数々、

「どこまで行きつけるか、見本があるとしたら、私がその見本になりたい。そして、それがどんな見本であっても、誰にでも、何らかの参考になれるような見本になりたい」。(15) 
 これらは、人生の苦渋も華やぎも、どん底も頂点も経験し尽くし、百歳近くまで生き切った宇野千代の言葉だからこそ、今後、ますます説得力を増していきそうです。経験にしっかり裏打ちされた、実質のこもった意欲ある言葉、自他への励ましの言葉というべきでしょう。女学校を出て、すぐに代用教員となって人生を始めた「宇野先生」(16)は、本当に長いながい人生をかけて、容易には真似のできない、まことに立派な人生の先生になられた、といえそうです。

 宇野千代はドストエフスキーを非常に好み、家にも別荘にも全集を置いていたといいます。そのドストエフスキーの本質を評した、世界的な文芸評論家バフチンの言葉を思い出しておきたく思います。一見、宇野千代と関わりがないようにも思われますが、これほど彼女の精神に通じる言葉もないでしょう。

 「世界には未だかつて何ひとつ決定的なことは起こっていない、世界についての、また、世界の最後の言葉は未だ語られていないし、世界は開かれたままであり、自由であり、いっさいはこれからであり、永遠にこれからであろう」。(17) 

 生前、「宇野先生」は、これをお読みになったかどうか。きっと、大いにうなずかれたことと思うのですが。
 
 
 
◆この文章は、修正をくわえた上で、『美しいキモノ』二〇〇七年秋号(アシェット婦人画報社)にも、「日本文学に見るおしゃれ・女性作家ときもの【宇野千代】」として掲載された。駿河昌樹文葉『トロワテ』43号(2007年9月)にも掲載された。
[注]
(1)『薄墨の桜』(集英社文庫)
(2)『きもの日和』(世界文化社)
(3)『宇野千代きもの手帖 お洒落しゃれても』(二見書房)
(4)『宇野千代 女の一生』(新潮社)
(5)(6)(8)『幸福は幸福を呼ぶ』(集英社文庫)
(7)『行動することが生きることである』(集英社文庫)
(9)『おはん』(新潮文庫『おはん』。他に中公文庫『おはん・風の音』所収、平凡社ライブラリー『宇野千代聞書集』所収)
(10)(11)(12)(16)『生きて行く私』(角川文庫)
(13)『人形師天狗屋久吉』(平凡社ライブラリー『宇野千代聞書集』所収)
(14)『しあわせな話』(中公文庫)
(15)『生きる幸福 老いる幸福』(海竜社、集英社文庫)
(17)『ドストエフスキー論――創作方法の諸問題』(新谷敬三郎訳、冬樹社、一九六八年)

有吉佐和子 ――きものが絶対価値へと暴走する時



老人性痴呆と介護の問題を描いてベストセラーになった『恍惚の人』には、きものはほとんど出てきません。にもかかわらず、この作品の終わり近くの描写が、有吉佐和子の作品世界のなかでも最も重要なきものの描写のひとつなのだといったら、やはり、奇異に響くことでしょうか。

「常々ズボンと毛糸のカーディガンを家着にしていた茂造だったが、一組だけお対の和服があるのを、彼の死装束として着せたものか、あるいは信利への形見頒けとして残すべきか、まず最初にそういうことを思案し、それは京子が来てから相談してきめよう。京子は現実家だから、あんないい着物を焼くのはもったいないと言うに違いないというところで考えがきまった」*

 購入されて茂造の手に渡ったときには、この「お対の和服」にもしっかりした価値があったはずでしょう。どんな時にどのように着ようか、着させてみようか…… そんな思いを向けられているあいだこそ、きものはきものであるはずです。茂造のこの「一組だけのお対の和服」には、しかし、きものとしてのそんな未来は、もう来そうにもありません。購入時にいくらだったか推し量ろうとして、嫁の昭子や娘の京子が脳裏に思い描いてみるであろう数字が、いまとなってはかろうじて、この和服にいくばくかの価値づけをする程度のことでしょう。持ち主の人生や思い出、あるいは親から子へといった密な人間関係によって付与されてきていたはずの、きものにふさわしい価値づけのされ方などすっかり削ぎ落とされて、かぎりなく意味あいを薄めてモノとなったきもの。零度のきものとでもいうべきで、数多い有吉作品のなかでも、これほど凄絶に寂しいきものが描き込まれた箇所は他にはありません。

きものを愛してやまなかった有吉佐和子には、『紀ノ川』や『香華』、『芝桜』、『木瓜の花』、『真砂屋お峰』、『和宮様御留』、『華岡青洲の妻』、『地唄』など、まさにきもの文学とでも呼ぶべき作品群があります。
いたるところ、贅沢にも豪奢にも、あまりに豊かにきものの諸相が描き込まれていて、ひとたびこれらのページを開こうものなら、きもの好きの読者はたちまちのうちに、絢爛たる錦の渦に巻き込まれかねません。
しかし、ふり返ってこれらの作品世界の底に思いをこらしてみると、一枚のきものというものが、それに携わるひと一人ひとりに応じて、どれほど容易に価値を増したり損ねたりするものか、ときには宙に浮いたように軽々と無価値にもなってしまうものか、そんな宿命的な不安定さに、作者がことのほか敏感だったらしいのが感じられてきます。
衣の過剰として発生し発展してきたきものが、どうにも避けえぬものとして含み持つ恒なる危機、とでもいえましょうか。

たとえば『紀ノ川』のなかで、主人公の花があれほどの心尽くしをして、娘・文緒の婚礼衣裳を贅沢に作ってやりながらも、「衣裳は、それを好んで身につけるのでなければ、人に印象づけることができない」*ものであるため、あまり映えぬままに式が終わることになったり、せっかく帯まで見立てて拵え、文緒に送ってやった戦前の高島屋の立派な絽の訪問着が、「新しい生活には洋装が最も適している」*として、むげに花につき返されてきたりするのも、同じ一枚のきものが、母と娘それぞれの心に、あまりにかけ離れた意味をかきたててしまうからでしょう。
あるいはまた、孫娘の華子が戦中に三越本店で花に買ってもらう「牡丹の模様を染め抜いた派手な縮緬」*の反物が、戦後の食糧難のなかで小麦や野菜類に交換されていったりするのも、きものが含み持つ美的価値がいったん無視されて、布としての実用的価値ばかりが拡大される瞬間を物語っているようです。

『華岡青洲の妻』では、主人公の加恵が、祖父の葬儀の際、のちに姑となる於継の美しい喪服姿にほれぼれ見惚れてしまうという場面がありました。
「衿の抜き具合といい、合わせ具合といい、帯の形から締め具合といい、於継には寸分の隙もな」*く、しかも「帯の下の背縫が、まるで絹糸に錘をつけて垂らしたようにぽんと一本の直線になって」*いて、「きりっと結上げた浅葱色の手がらがはっとするほど鮮やかに美し」*い。
そんなさまに心を奪われる加恵でしたが、しかしこの時、於継という秀でた女性の美しさに、じつはそのまま露呈しているはずの、もうひとつ別の意味、すなわち、将来の自分にとって、最大の理解者とも最大の敵ともなる魂のすがたについては、まだまだ見抜けないでいるのです。

そして、読後のこころの震えのとまらぬような、あの不朽の名作『和宮様御留』。朝廷と幕府という、巨大な〈家〉どうしの間の大がかりな婚礼小説ともいうべきあの作品では、立場を異にする人々のあいだで、同じきものがどれほど異なった価値や意味の投影されるスクリーンとなってしまうか、微に入り細を穿って描き出されていました。
(好(せいごう)の濃紅の袴の上に、薄紅色の単衣、葡萄(えびぞめ)(の打衣、茜色の上衣、そして一番上に萌黄色の綾織の小袿((こうちぎ))*
皇妹和宮の身替りとされた主人公フキに、身につけるべきものとして与えられるのはこんなお召物の山でしたが、この「精好の袿袴というのは、仙台平よりもっと部厚く、おまけに能衣裳のように幅がひろい」*もので、「袿姿にしても精好の袴まであわせると、それはそれは重」*10く、しかも、「宮様お袴召さぬはよくよくおくつろぎの折ばかり」*11で、たとえば「関東にて徳川((とくせん)御本家に御謁見遊ばされる折は必ず御袴御着用遊ばされ」*12るべきものなのでした。
なるほど立派なお召物ではありますが、フキにとっては、これがそのまま、豪奢で過酷な責め具として機能することになり、他方、徳川家と大奥の滅亡を知る読者たちには、壮麗なまでに無意味でむなしい悲劇の象徴として映るわけです。
まことに有吉佐和子の世界にあっては、きものやそれに付随する小物と、それらがそのつど持たされる価値や意味あいの絡みあいが、大小無数にはりめぐらされ、緻密なアラベスク模様さながら、組み尽くせぬほど豊かな物語の綾となって織り出されていくことになるのです。

しかしながら、彼女の小説世界でなにより注目されるべきは、きものが、世間一般の社会的・経済的な価値づけの支配を受ける身分からいきなり超え出て、なにものにも拘束されない、きものそのものとしての絶対価値のほうへ、絶対美のほうへと急速度で暴走していく瞬間の、あの比類ない美しさとカタルシスでしょう。
屈指の傑作というべき『真砂屋お峰』では、経済的にも精神的にも病んで「いつまでもこんな世の中が続くものですか」*13と人々が思っている文化・文政期、主人公お峰は、自分が継いだ老舗の材木屋を意図的に潰すために、三条西家の姫君も大奥最高職の上臈〈姉小路(あねがこうじ)さま〉も凌ぐ豪奢極まりないきものの数々を買って財を蕩尽していきます。お峰によって普通の価値づけから完全に脱線させられた金銭ときものとが奏でる名場面の連続、ことに京の都の桜の下での衣裳競べの場面など、有吉文学の頂点というべき迫力です。

これに拮抗しうるのは『芝桜』でしょうか。
たとえば、あの「艶々と光るような黒」*14に染めた縫取ちりめんに、漆糸の「金の小菊が、ぽうっ、ぽうっと蛍のように浮き上がって見える」*15きものを、主人公の正子ばかりか蔦代までがしつらえ遂(おお))せて歌舞伎座に現われる場面。
あるいは、大正十五年、正子も蔦代も鶴弥も、それぞれにいっぱいの趣向を凝らして出かけた正月の衣裳競べの席に、「戦争成金の旦那を後盾にして、七枚の百円札を裾に散らして綴じつけ」*16「帯止めには金貨をつけた」*17小猿という若い芸者の出現してくる、あの場面。

もちろん、『香華』の郁代も忘れるわけにはいきません。
自堕落でわがまま勝手、淫蕩で奔放、「台所も掃除も洗濯も何一つしない」*18この美女は、しかし、「自分を粧う為に」*19だけは「努力家」*20で、無限の情熱をそこに発揮するアンチヒロインです。
軍国主義や拝金主義などの下に姑息に胸を張る権威的な〈家〉など一顧だにせず、いわば絶対きもの主義者として装いの美に邁進していく姿には、「常識のタガをはめ」*21ず、「出来た人」*22でもなかったという有吉佐和子本人の魂や理想が大きく投影されているのかもしれません。
読後しばらく経って、心の深くにいちばん愛しく思い出されてくるのは、世間が自分をどう見るかも、きものの値段も意に介さず、ひたすらきものそのものを愛して、「自分を粧う」*23喜びに生きた郁代の姿なのです。





◆この文章は、かなりの修正を加えた上で、『美しいキモノ』二〇〇七年夏号(アシェット婦人画報社)にも、「日本文学に見るおしゃれ・女性作家ときもの【有吉佐和子】」として掲載された。駿河昌樹文葉『トロワテ』38号(2007年6月)にも掲載された。

(1)『恍惚の人』(新潮文庫) 
(2、3、4)『紀ノ川』(新潮文庫) 
(5、6、7)『華岡青洲の妻』(新潮文庫) 
(8,9、101112)『和宮様御留』(講談社文庫) 
13)『真砂屋お峰』(中公文庫) 
1415)『芝桜(下)』(新潮文庫) 
1617)『芝桜(上)』(新潮文庫) 
181923)『香華』(新潮文庫) 
20)『悪女について』(新潮文庫) 
(21、22)有吉玉青『身がわり ―母・有吉佐和子との日日―』(新潮文庫) 

2010年9月19日日曜日

幸田文のおしゃれ



 きものによく通じた作家として知られる幸田文ですが、いまの世のきもの好きの方々がこの人のものを読むと、いたるところでハッとさせられるのではないかと思います。

「着物というものを、そう我儘に着ていいとは思えない。何のために着、どうこしらえて着るか、それによる。ただひたすらにきれいに見せたい、美しく装いたいという着方もある。あまりいい着かたとはいえないが、まだしもそれにはかわいげなところがある。(…)追従(で着る着物はいやしい。みえを張るつもりなら馬鹿らしい」。*

 追従で着ていないか、みえを張っていないか。考え出したら、心の中など怪しいものです。きれいに見せたいのも人情でしょうに。きびしい人です。
 けれども、「おしゃれは女一代、かっきりと誰かの胸に焼きつくほどなおしゃれがいつかはやってみたい*ともいうのですからわがままに着ずに「何のために着、どうこしらえて着るか」*を考えるのは、どうやら、最高のきもののおしゃれに到るための道程のよう。そもそも、幸田文的おしゃれとはどんなものなのでしょう。
 まずは、よくない例の検討から。

「おしゃれと云われる人とつきあっていれば、なるほどなあと感心させられることがたびたびあります。けれどもその感心が、どのくらい深くどのくらい長く残っているかということになると、残念ながら大概の場合あとあとまではっきり残っていることは、まあ少いのです」。*

おっしゃるとおり。手間隙かけ、精魂込めたせっかくのおしゃれも、これではむなしいかぎりです。どうして、こうなってしまうのでしょう。

「多くが化粧・髪がた・衣装・持ちものといった限界内でしている、いわば平面的なおしゃれにすぎないから、印象が深くなって来ないのでしょうか」。*

こんな推測をしたのち、幸田文が下す処方はこれです。

「鏡の映す範囲をはずしてみると、おしゃれは声とことばづかい、しぐさと気もち・考えかた、つまり心の置きどころへ行き着きます。ことが((かたち)から心に及んで来ると、平面でなく立体となり、浅くない深さを見せます」。*

 こう言われてみて思い出されるのが、芸者置屋を舞台とする小説『流れる』が映画化された時、田中絹代が演じた梨花という女中の役。場所柄、様々なきものが毎日行きかう中で、たったひとり身軽で地味な洋装をして立ち働くこの女中の「声とことばづかい、しぐさと気もち・考えかた、つまり心の置きどころ」は、なににも増して慎み深く見え、しかし明るく、つよく、思わずじっと見入ってしまうような深い魅力を湛えていました。
こんな梨花が、女主人の正月の装いを見ながら抱く感慨、「衣裳は人を美しくするものではないが、人は衣裳を美しく見せるものだと思わせられる」*というのは、なかなかに含蓄のある、こわい言葉です。「衣裳を美しく見せる」だけのものを奥底に持っていない人は、出直していらっしゃい、と言われているようで。
少女時代のことを書いた『みそっかす』や、父・幸田露伴から受けた家事修行の日々を描いた『こんなこと』を読めば、なにより幸田文自身が、たびたび「出直していらっしゃい」ときつく言われ続け、なんとか及第したり、時には落第もしたりを繰り返してきたのがよくわかります。とび抜けたセンスと才気、それに思い切った創意を進めさせる「快活性とでたらめ性」*が備わっていたのはたしかとしても、けっして裕福ではなかった生活のやりくりをさんざん重ねながらの、きもののおしゃれの追求でした。
粋とおしゃれの髄を親しみやすいエッセーで説いた『番茶菓子』の中に、ひとりの女性の美しさの秘密にせまった「ことぶき」という文章があります。「別に御器量がいいというのではないし、御衣裳もそう格段というわけでもないのに、どうしてああ美しく見えるんでしょう」と言われる「真佐子さん」というひとの話。
三人兄弟の三人妻の一番下という、楽ではない位置に嫁いでいった先の家の老いた姑に、誕生日の際いつも、上の義姉たちが贈り物をする習慣がありました。資力でも経験でも智恵でもかなわない自分が、さあ、なにを贈ったらと悩んだ末、真佐子さんは、結婚祝いに貰った白生地を裁って、手製で絵羽の襦袢を贈ることにします。「苦心して、細腰にあたる部分へ小さい亀甲形を一列に並べて、たんねんに絞り、そこだけをさびた朱に染め」たもの。「袖口もふりも裾もただ薄鼠色の平凡な襦袢としか見えない」ながら、「隠れて人に見えない胴のところには朱の亀甲模様がある」のが、着ている姑だけにはわかる。もちろん、「亀甲は千年という亀の齢にかけての祝意」です。これはとても喜ばれ、嫁の心も十分に汲まれて「姑と嫁とのあいだを温かい糸がつないだ」ようになりました。
四五年後、ひどく病んで衰えた姑を元気づけようとお祝いが催された時、あれこれ思いわずらった挙句、真佐子さんは、そっけないとは思いながらも、無地の襦袢を贈ることにします。けれども、別布に自分で赤い寿という字を絽刺しし、それを襦袢の上に置き添えるというかたちで。
姑さんはこう言ったということです。

「あたしも無地の襦袢が来ると思っていましたよ。もし一度朱の絞りが来るようだったら、あなたにはまだほんとのおしゃれがわかっていないのだけれど。……よかったこと!」*

その場の当事者ふたりにしかわからない、「かっきりと誰かの胸に焼きつくほどなおしゃれ」の、静かな達成でした。
こんな場面をさんざん見聞きし、経験してきた幸田文のおしゃれとは、一言でいえば、どうやら、「ひっきょう心づかいの深さ」ということになりそうです。いいかえれば、

まずいところをそっと庇ってやりたい心、いいところをより磨きあげて大切にしたい心、それがおしゃれの本心です。優しいのは本来のものだと思います」。*10

 ということにも。



◆この文章は、若干の修正を加えて、『美しいキモノ』二〇〇七年春号(アシェット婦人画報社)にも、「日本文学に見るおしゃれ・女流作家ときもの【幸田文】」として掲載された。駿河昌樹文葉『トロワテ』30号(2007年2月)にも掲載された。
[]
*1 『きもの』(新潮文庫)
*2 「雨の萩」(講談社文芸文庫『晩茶菓子』の「おしゃれの四季」所収)
*3  1に同じ
*4  2に同じ
*5  2に同じ
*6  2に同じ
*7 『流れる』(新潮文庫)
*8 『父・こんなこと』(新潮文庫)
*9 「ことぶき」(講談社文芸文庫『晩茶菓子』の「おしゃれの四季」所収)
*10 2に同じ

2010年9月14日火曜日

雪濡れの袖、雪埋もれの袖



  降ってきたかと思うと、さっとあがり、ときにはしばらく降り続くこともある時雨。
 寂しいながらも、しみじみとした趣きのある冬の雨です。

 きもの好きならば、中里恒子の『時雨の記』を愛読されている方々も多いことでしょう。
 主人公の壬生と多江が京都で落ちあい、小倉山のふもと、嵯峨の二尊院をのんびりと散策する場面は、この小説の中でももっとも味わい深いところ。藤原定家が小倉百人一首を選んだ、時雨亭と呼ばれる草庵の跡を探しながら、二尊院の墓地の中をふたりして歩いていくさなか、やはり時雨が来ます。
 濡れてはいけないと思っていそぎ足になる壬生に、
 「時雨だわ、さあっと来て、さあっと過ぎるわ、」
と、人生すべてにわたる悟りを含ませたように言う、多江。

 「時雨か。
  壬生は、堂の下にはいって、煙るような細い雨が、松の葉を光らせて消えゆくのを見つめた。
  多江の髪の毛が濡れて、油のように光った。
 『髪の毛を拭きなさい、』
  僕は、半巾を出した。多江の手を待たず、多江の髪の毛を半巾で抑えた。衿先に、細い縮れたような白毛が、二、三本ちらついているのが、媚めいてみえる。ほかに多江には、性的な感じは殆どみえないのに、縮れた三本の白毛が、妙に、僕を刺激するんだ。
 『なにをしてるの、髪がつぶれるわ、』
                                  (文春文庫『時雨の記』より)

 晩秋かと思われる作中の風景なのですが、あえて、冬のものと知りつつ時雨を出してきている作者には、やはりそれなりの意図があるのでしょう。
 初老になって多江に会い、はじめて本当の恋を知り得たというのに、壬生にはこの時、死が間近に迫ってきています。実りや成就を意味する季節である秋のさなかに、終焉の形象として入り込んでくる冬の時雨。
 ここでは、作中の季節としての秋と、壬生の人生の秋とが重ねられており、彼らふたりに降る時雨は、まもなく壬生に訪れようとしている人生の冬、すなわち終焉の先触れなのです。
 きものの衿先にちらつく多江の白毛も、「二、三本」に過ぎないことで、予兆としての意味あいを含み持つようです。「媚めいてみえる」のも、そのためかもしれません。

 多江のようには、どうやら、さっぱりとは雨を受け入れられなかったであろう人に、あの清少納言がいます。
 日頃から、「雨は、心もなきもの(雨は風情に乏しいもの)」と思っているくらいですから、しばらく降り続けでもすれば「いとにくくぞある(本当にいやになってしまう)」となります。雨に濡れて、愚痴をこぼしながらやってくる男の姿なども、「めでたからむ(すばらしいはずがあろうか)」と、わざわざコメントしているほど。
 ところが、これが雪となると、彼女の評価は一変します。雪の夜に男の人が訪ねてきてくれたら、もう最高、と言わんばかりの書きようです。しかも、古今の文芸の中でも稀な、独自のこんな美学を披露してくれています。

「直衣(なほし)などはさらにも言はず、うへの衣(きぬ)、蔵人(くらうど)の青色などの、いとひややかに濡(ぬ)れたらむは、いみじうをかしかべし。緑衫(ろくさう)なりとも、雪にだに濡れなば、にくかるまじ」。
〔直衣などは言うまでもないけれども、蔵人の青色の袍などにしても、いかにも冷え冷えと濡れているさまなど、たいへん風情があるにちがいない。六位の着る緑衫の袍であっても、雪にさえ濡れるなら、見苦しいものではないだろう〕
                          (本文は小学館日本古典文学全集18『枕草子』より)

 もともと清少納言は、あの有名な『枕草子』第一段の「冬はつとめて。雪の降りたるは言うべきにもあらず(冬は早朝がすてき。雪の降っている時のすばらしさといったら、言うまでもない)」からもわかるように、ともすれば嫌われがちな冬を喜び、この季節の美しさにとても敏感な人でした。が、きものの色が、冬の雪に濡れて栄えるさまに心を奪われるとなれば、これは古今東西でも珍しい、まったく新しい美意識の表白と言えそうです。モダンな、というより、未来の美とでもいうべきものを鮮烈に突きつけられるようではありませんか。

 彼女よりも後の時代にあって、平安期の美意識を超克しようと努めていた稀代の美の追求者、あの藤原定家が、こうした清少納言の、雪濡れのきものという美学にどう反応したかはわかりませんが、やはり雪ときもの(袖)とを結びつけた

   駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

という彼の和歌を見ると、美も、なにかしらの趣きさえも脱落していくような、景色と呼ぶのも憚られる抽象度の高い美学へと向かっているのが見てとれます。ここでは、きものの袖は、雪に濡れて美しく色栄えするどころか、雪の白にすっかりと色をふさがれ、しかも夕暮の闇の迫りにも隠されてしまっています。
 袖に降り積もった雪を、馬をとめて払おうにも、身を寄せる物蔭さえない佐野の渡し場の、雪のこの夕暮であることよ。
「秘すれば花」の心を見てとったからでしょうか、世阿弥をして、「名歌なれば、元より面白く聞えて、さて面白き所を知らず」とも「言われぬ感もあるやらん」とも言わしめたこの歌は、美というものが出現もし、また消滅しもする危うい境域に踏み込んで、孤立無援の美的経験を積む定家の魂の姿そのもののようにも見えます。究極というものを日常とした人の、常人には及びがたい静寂と安定が、悠揚せまらぬ韻律におのずと露われ出てもいます。

 時代はずいぶんと飛ぶのですが、雪ときものを印象爽やかに結びつけたという点で、芥川賞を受賞した三浦哲郎の小説『忍ぶ川』にも忘れがたい場面がありました。
 不幸を抜けて、貧しいながらも純粋な心で結ばれていく主人公と志乃の質素な結婚風景は、晴れ渡った雪国の冬の一日のこと。

「あくる日、雪はきれいにはれて、夜、十三夜の月がのぼった。
 私は大島絣の対を着て、袴をはいた。父と母は紋つきを着た。出不精の上に病気の父は、ここ十数年袖を通したことのない紋つきを箪笥の底から自分でだして、羽織の襟の深い折れ目にいそいで火熨斗をかけさせるのであった。志乃はふり袖をもたなかったので、たった一枚ある訪問着を着て、姉は志乃にあわせて訪問着に白地に金糸の縫いとりのある帯をしめた。そうしてガラス戸越しに、白い雪野がみえる座敷のまんなかに私と志乃、その両脇に父と母、母のとなりに姉の五人が、コの字に膳をならべてすわった。膳には大きな鯛の塩焼きがあった」。
                                          (新潮文庫『忍ぶ川』より)

 ここを読みかえすたび、普通の庶民のきものとの付きあいというのは、こんな場合もずいぶんと多いのではないか、と思わされます。平安朝の優雅とも、中世の幽玄とも遠いものの、豪華でもないきものをなんとか調えて、生涯の一大事に身につける、そんな光景には、なかなかに得がたい人の心の温かさも切実さもあって、これはこれで、きものというものの最高の装い方なのではないでしょうか。
 私たちの多くは、本当はこんなふうに生き、こんなふうにきものと付きあい続けてきたのではなかったでしょうか。



◆この文章は、『美しいキモノ』二〇〇六年冬号(アシェット婦人画報社)にも、「典雅の心を歌に詠む 日本文学ときもの」として掲載された。
◆駿河昌樹文葉『トロワテ』27号(2006年11月)にも掲載された。

2010年9月10日金曜日

ただ過ぎに過ぐるもの



 ただ普通に生活しているだけでも心が澄み、まわりのものの輪郭や彩りがくっきりと見えてくるのは、なんといっても、秋の喜びのひとつです。

    ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは  (在原業平)

 竜田川の流れに点々と散る紅葉を、真っ赤に施されたくくり染めに見立てたこの有名な歌も、そんな秋の澄明さがあってこそ。
 同じ趣向の歌は古今集に幾つかあり、なかでも、

    龍田河紅葉みだれて流るめりわたらば錦なかや絶えなむ   (読人しらず)

などは、きものの文様として知られる竜田川文の元になった歌とも云われます。紅葉が乱れ流れる竜田川、もし渡ろうとして足を踏み入れたら、水面に織り出された美しい錦が断ち切られてしまうだろうというほどの歌意で、ひとときのことながら、足の肌と、水面に織り出された紅葉の艶やかな錦との接触を想像させられ、爽やかにして高雅、官能的でさえあります。

 外界の風景にこうして満ちるばかりか、内面にまで容易に入り込んでくるのも秋の澄明さの特徴のようで、自我というものの煩わしさもいつのまにか減じ、自分の中のさっぱりした部分が広がっていくような気持ちのよさがあります。

 そんな秋の気分と着物との出会いを伝えるのは、文芸にあってはむしろ、俳句の独擅場とこそ言うべきかもしれません。あの十七音の形式にもともと備わっている爽やかさと潔さは、どうやら秋の空気にそのまま通じているようです。

    秋袷(あきあわせ)自分で出して着たりけり  (風間啓二)

 着物のことを、ふだんは家人に任せたままにしてある男性でしょうか。肌寒さを感じ、秋袷を出して着てみたというのですが、「自分で」としたところに、かえって、この男性のために日ごろ心を配っている家人の姿が浮かんできます。
 文芸に現われてくる着物というのは、いつも、近しい人びとの中でのその人物のありようを示すもので、たんに衣食住の衣に留まるものではありません。
 実生活においても同じことでしょうか。
 数ある選択肢の中から、あえて選んできて身に纏う衣服、それが内面を表わすのは当然のことでしょうが、衣服というものはそれにとどまらず、家族や近しい人びとからその人が受け取って来たものや、彼らとの今現在の関わりのあり方までをも、かなりはっきり映し出してしまうものかもしれません。
 そう思いつつ見直してみると、秋袷という同じ季語を用いた句のうちでも、

    秋袷距てし母へ妻を遣る    (軽部烏頭子)

    薄倖の秋の袷を身ぎれいに   (小坂順子)

    秋袷襟のさみしき餉につけり  (石原八束)

などは、やはり、家族や家の雰囲気をよく表わした作品として見えてきますし、

    秋袷育ちがものをいひにけり  (久保田万太郎)

ともなれば、着物ひとつ着るにも、自分ひとりの域を超えた代々の〈家〉の姿まで晒しながら着る覚悟が、やはり要るものなのかと、いささか恐ろしくなるぐらいです。

 さて、そうした恐ろしさというものが、喜びや心のときめき同様、着物には必ず伴うのだと知り尽していた人の代表格のひとりに、あの幸田文がいます。
 彼女には、毎年、秋になると必ず出してきては手を通す、着なれた大事な着物がありました。戦後、文筆生活をするようになって、人に会うことが増え、着物を何枚か新調しなければならなくなった時、借金までして拵えた赤と白の小さな飛び絣の入ったお召。
 ある秋、招かれた席に着ていこうとして、これを着付けてみた時のことを、娘の青木玉が次のように書いています。

「秋の日が明るく部屋に差し込んで姿見の鏡の中を確かめるように母は目を凝らした。何を見咎 めたか凝視したまま母は止ってしまった。私は着替えの手伝いをしていたが、どうしたのかと、こちらも動けなくなった。くるっと向き直り、机の前に膝をついて硯をひょいひょいと撫でた。色はしぼの立った部分が墨で消され目立たなくなった。
 あっけにとられ、きょとんとしている私に母はにやっと笑って、
『うまいでしょ』
 と一ト言。
『どうもお待たせしました』
 と迎えの人と連れ立って定刻ぴたりと家を出て行った」。
                            (『幸田文の箪笥の引き出し』)

 秋の日の着物の、ちょっといい光景ではないでしょうか。
 注意して大事に着たり、「帯や小物で少しずつ上手に補なっても、やはり限りがあるもの、消耗品なのだ」と重々承知した上での、着物との付きあい。一瞬の花のように咲き出る、とっさの機転。

 こういうふうに大事に着古されていった着物ならば、いずれ役目を終えて、本の栞などに転用された時など、たとえば清少納言のような人の心をつよく惹いてやまないに違いありません。『枕草子』には、こんな一節がありますから。

「過ぎにし方恋しきもの。枯れたる葵。雛びの調度。二藍、葡萄染などのさいでの押しへされて、草子の中などにありける、見つけたる…」
 [過ぎ去った昔を恋しく思わせるもの。枯れた葵。人形遊びの道具。綴じ本の中に、二藍染や葡萄染の布の切れ端が押しつぶされてあるのを見つけた時…]

 時間ばかりか、あらゆるものの過ぎゆく早さに、おのずと思いが向かっていくのも、やはり、秋という季節ならでは。ならば、やはり『枕草子』にある、こんな一節も思い出しておきましょうか。

「ただ過ぎに過ぐるもの。帆かけたる舟。人の齢(よはひ)。春、夏、秋、冬」。
 [ひたすら過ぎ去っていくもの。帆をかけて走る舟。人の歳月。そして、春、夏、秋、冬]


◆この文章は、『美しいキモノ』二〇〇六年秋号(アシェット婦人画報社)にも、「典雅の心を歌に詠む 日本文学ときもの【短歌編】」として掲載された。
◆駿河昌樹文葉『トロワテ』25号(2006年8月)にも掲載された。

2010年9月5日日曜日

花のやうなるうすものに



 浴衣も近ごろは色とりどりで、お祭りや花火のある日など、まだ暗くならないうちから目を楽しませてくれます。ふだん着物に馴染んでいない若い女性たちが、夏の特別の晩のためにぎこちなく着ているのも、悪いものではありません。着物に親しんだ姿からは得られない華やぎというものもあって、見ているこちらの心にもお祭り気分が伝わってきます。

 しかし、当然のように着物を着ていた時代、日が暮れてさえ暑い時候に、ただの白い浴衣でさっぱりと現われる女性の姿にも不思議な魅力があります。宇野千代の名作『おはん』でも、読者を物語に引き込んでいくのは、やはり印象的な夏の着物の白さでした。

 「あれは去年の夏、盆も間近かの或る晩のことでありました。
 町の寄合ひのくづれで、よそのお人と二三人あの臥(ぐわ)龍(りよう)橋(ばし)の橋の上でええ心持になつてふかれてゐてたのでござります。すると誰やら、白い浴衣きた女がすうつと私のすぐ傍(ねき)をすりよつて通るのでござります。(…)」

 主人公が、一度は別れたおはんと再会する場面ですが、かつての日本の夏では、ごくありふれた浴衣姿だったに違いありません。今では、こんな光景もすっかり見られなくなりましたが、夕方から繊細なレース状の花を咲かせるカラスウリの花のように、闇の中に夢とも幻ともつかない白さを灯らせる浴衣にして、はじめて、私たちを導いて行ってくれる世界というものもあります。

 夏の着物の「白」ということで言えば、宇野千代より前に、与謝野晶子はこのような短歌を作っています。

   水にさく花のやうなるうすものに白き帯する浪華(なには)の子かな

 晶子も二十六歳ごろで若く、描かれている対象も若いからでしょうか、ここでは帯の白が、人生の重みに染まらない素敵な軽みを体現しています。水に咲く花が喩えで、白い帯をしている浪華の子のうすものが実景なのですが、まるで、水に咲く花のほうこそが、いっそうの真実として目の前に浮かび上がってくるかのような印象を与えられます。生きてある喜びというのは、幻のようなこんな光景が、ありありと心に得られている時に感じられるものではないでしょうか。

 彼女が夏の着物を歌い込んだ作品には、次のようなものもあります。

   誰が子かわれにをしへし橋納涼(はしすずみ)十九の夏の浪華風流(なにはふうりう)

   夏まつりよき帯むすび舞姫に似しやを思ふ日のうれしさよ

   うすいろを著よと申すや物焚(ものた)きしかをるころものうれしき夕(ゆふべ)

   半身にうすくれなゐの羅(うすもの)のころもまとひて月見るといへ

   あざやかに漣(さざなみ)うごくしののめの水のやうなるうすものを著ぬ

 はじめの三首が二十六から二十八歳頃の作、最後のものは三十一歳頃のもので、一見たおやかにも見える歌の姿ですが、日本の夏の風物を存分に楽しみ、どこか酔い心地にさせられるこの暑い季節を、日本女性として全身で生きつくそうとするつよい姿勢が感じられます。日本という風土と社会の中で、ひとりの女性がどう生きていくか。生涯を通じて彼女の課題となったこの問題意識は、まず、日本の風物の中での、男性に押し付けられたのではない女性自身の美意識の追及というかたちで、若き日の作歌に結実したのです。

 浴衣から、夏の着物の「白」に導かれるかたちでたどって来ましたが、夏を告げる「白」を、爽やかにことばに定着した女帝・持統天皇の『万葉集』中の名歌を、やはり思い出しておくべきでしょう。

   春過ぎて夏来るらし白たへの衣干したり天の香具山

 「あゝ、春も過ぎて、もう、夏が来たのですね。ご覧なさい、香具山を。夏衣が、まあ、真っ白に干してありますよ」。
 こんな歌意ですが、現代の感性にもそのまま通じるような、夏という季節の生き生きした素晴らしさの発見が、たった三十一音で、みごと、ひと息に歌い上げられています。
 後年、藤原定家は、この歌を次のように変えて、『新古今和歌集』や『百人一首』に採りました。

   春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山

 この歌では、香具山で衣が干される風景は、すでに伝承のかなたのもの。すでに失われた心の景です。持統天皇の頃と同じように夏はめぐってくるものの、それはもはや、若々しい鮮やかな夏ではありません。
 すでに中世という老いの時代に入った日本の詩歌が、若かりし頃を懐古しながら生み出した切実な改作ということができそうです。


◆この文章は、『美しいキモノ』二〇〇六年夏号(アシェット婦人画報社)にも、「典雅の心を歌に詠む 日本文学ときもの【短歌編】」として掲載された。
◆駿河昌樹文葉『トロワテ』22号(2006年5月)にも掲載された。

2010年9月2日木曜日

更衣の頃 夏のはじまり



 平安王朝の貴族に愛唱され、詩歌や美意識の教科書ともなっていた『和漢朗詠集』を紐解くと、夏の巻は更衣の歌から始まっています。はじめに出てくるのは、日本人の作った詩歌ではなく、平安貴族に特に愛好された白居易の詩句です。

    壁に背ける燈は宿を経たる焔を残せり

    箱を開ける衣は年を隔てたる香を帯びたり

「夜も短くなった。壁に向けた燈火は、一夜を経てもまだ燃え尽きずにいる。今日は衣替え。箱を開いて取り出した衣は、去年焚き染めた薫香をいまだに帯びている」。
  こういった歌意ですが、むかしの夏というものが、前の年に炊き染めた夏衣の香りとともに始まったのを教えてくれる詩で、リアルな生活感をそのまま詩に昇華させています。中国の詩ではあっても、この部分が『和漢朗詠集』に採られたのは、平安貴族たちにも、強い実感とともに受け止められたからでしょう。前の年の衣に染みた薫香は、虫除けのために焚かれたものでしょうか。それとも、個人的に好んで多く用いた香りや流行った香りでしょうか。いずれにしても、心は、過ぎ去った前年の夏へと戻り、喜怒哀楽や失ったことの数々を蘇らせながら、また新たな夏を迎える準備をすることになります。香りというのは、心の過去と今をつなぐもの。過ぎ去った様々なものを香りの中に思い出し、心の中で遡行を繰り返しながら、人は現在を生きる力を得ていくもののようです。

 衣替えの時期は、また、美しかった春に別れを告げなければならない時でもありました。『和漢朗詠集』には、源重之のこのような歌も見られます。

    花の色にそめしたもとの惜しければ衣かへうき今日にもあるかな

「桜をはじめ、せっかくとりどりの花の色に袂を染めて楽しんで着ていたのに、夏の薄衣に替えなければならない日が来てしまって、心の重いことよ」という歌意。『装束集成』によれば、当時、陰暦四月一日の衣替えまでは、桜がさねの衣や、表の白い裏あさぎの衣、紅の単、紅梅のうわぎ、蘇芳の小袿、桜山吹の色目の衣などを着るのが通例でした。

 同趣向ながらも、『新古今和歌集』の時代まで下ってくると、皇太后宮大夫俊成女の歌などは、衣替えの風景にも、人の心の変わり易さを静かに見定めるものとなっています。   

    折ふしも移れば替えつ世の中の人の心の花染めの袖

「季節も移ったので、夏衣に替えました。世の中の人の心は、花染めのように変わりやすいといわれますけれども、本当にその通り。あんなにも綺麗だった花染めの衣でさえ、あっさりと捨てられて、簡易な夏衣に替えられてしまうんですからね」。
 こんなふうに読める歌ですが、この歌は、『古今和歌集』のふたつの歌、

   世の中の人の心は花染めの移ろひやすき色にぞありける (読人しらず)

   色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける (小野小町)

を本歌取りしたものです。前の時代の名歌ふたつを踏まえて、世の人の心の移り変わりのはやさ、ひいては、恋心の醒めやすさを、いかにもさっぱりと、世に生きねばならぬ人間の心の宿命として歌っているところに、作者自身の達観が見られるのはもちろん、中世に入った日本の詩境に深く染み入る諦念も、達成も、冷徹さも見られるようです。

 
◆この文章は駿河昌樹文葉「トロワテ」21号(2006年4月)にも掲載された。
◆『美しいキモノ』(二〇〇六年夏号(アシェット婦人画報社)にも、「典雅の心を歌に詠む 日本文学ときもの【短歌編】」として掲載された。