2019年12月1日日曜日

ウェイリーからシャンポリオンまで



語学の天才だったアーサー・ウェイリー[i]は、古典日本語と古典中国語も独学で習得し、『源氏物語』[ii]を詩的で美しい見事な英語に翻訳して全世界に知らしめた。第二次大戦後に日本政府に招聘された際、平安朝の日本にしか関心はない、と断ったという。 「日本の古文、文語を読めるようになるには三か月あればいい。三か月で誰にでもできる」と言うほどの天才として、当然の拒絶でもあったというべきだろう。彼が翻訳した『老子道徳経』には「不出戸知天下、不闚牖見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人、不行而知、不見而名、不爲而成」とある。「戸を出でずして天下を知り、窓より窺わずして天道を見る。その出ずることいよいよ遠ければ、その知ることいよいよ少なし。これを以て聖人は行かずして知り、見ずしてあきらかにし、為さずして成す」。ここに述べられているのは意識に扱わせる対象の積極的な限界づけの勧めであり、大小や遠近、上下、全体と部分の違いが精神や宇宙には本来存在しないことを当然のこととして踏まえた上での、より効率的な精神の旅の指南である。
平安朝の日本にしか関心はない、というのは誰かが拵えた伝説であろう。阿倍仲麻呂の和歌について、漢文で創作したのちに和訳した可能性を指摘しているし、ラフカディオ・ハーン[iii]が日本を理解できていないと批判もしている。本人に会ったドナルド・キーン[iv]は、日本語も中国語も自由に読めるウェイリーにして、どちらも話すことはできなかったと言っているが、「日本語は、話せないというより、決して話そうとしなかったという印象」[v]だったとの留保をつけている。
ウェイリーの関係者には、単に、彼が長旅を嫌ったから、と言っている者もあるそうだが、実相はそんなところかもしれない。誤ってアームチェア人類学者と呼ばれがちな、フィールドワークをしないイギリスのジェームズ・フレイザー[vi]のことが思い出されもするし、旅行嫌いで有名だった哲学者ジル・ドゥルーズ[vii]も思い出される。ちなみに、アームチェア人類学者という表現を作って、フィールドワークをしない人類学者を批判したブロニスラウ・マリノフスキー[viii]は、批判対象にフレイザーを含めていない。彼の『西太平洋の遠洋航海者』出版にあたって、フレイザーから序文を貰ってさえいる。
 ウェイリーに並ぶ古典日本語の名手といえば、『源氏物語』を二番目に完訳したエドワード・G・サイデンステッカー[ix]がすぐに思い出される。こちらの場合は現代日本語の翻訳の名手でもあって、谷崎、川端、三島、荷風などは彼の文章で世界に知られることになった。彼の英訳による『雪国』や『千羽鶴』が世界に読まれたからこその川端康成のノーベル賞受賞だったのは疑いようもないところだから、川端は正当にも「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と考えて、賞金の半分をサイデンステッカーに渡している。この彼が、『源氏物語』の原文の読み方について、こう書いている。
平安時代の散文を勉強するのなら、十分に読めて、原文で『源氏』の偉大さが感じ取れるくらいにならなければいけないと、いつも学生に強調している。『源氏』の本当の偉大さは原文でなければわからない。そしてその感じがわかるためには、ある程度以上のスピードで読めるようにならなくてはいけない。頭をひねりながら判読するのではなく、要するに普通に読めるようにならなくてはいけないのである。[x]
 しかし、『源氏物語』について、おそらく最も刺激的で面白い文芸評論のひとつと思われるものを書き上げた吉本隆明は、サイデンステッカーのこの見解に敢然と反論する。
わたしには、『サイデン』はとんだホラを吹いているとしかおもえない。わたしはたぶん、現存する文芸評論家では、比較的日本古典を読んでいる方に属しているが、『源氏』の原文を「頭をひねりながら判読」してみても、たった二、三行すら正確には判読できない。また「ある程度以上のスピードで読める(正確にだ)ような『源氏』研究者が現存するなどということを、まったく信じていない。
(…)『源氏』のほんとの偉大さが、原文でなければわからないなどという外人の日本文学研究者のホラが、ホラでないというのなら、現代語訳や外国語訳や注釈や解説書のたぐいなど、『源氏』研究者は一切つくらぬがよい。だいいちこの「『源氏』の十年」程度の文章を自国語(英文)で書いて、日本人に訳させる程度の語学力で、E・G・サイデンステッカーが『源氏』を「ある程度以上のスピード」で正確に読めるなどと、信じようにも信じようがないのだ。
   わたしは以前に宣長の『古今集遠鏡』の口語お喋言り調の『古今集』の読み下し評釈を読んでいて、宣長がすらすらと正確に『古今集』を読むことができているかどうか疑わしいと思ったことがあった。宣長のような偉大な古典学者でもそんなところだ。すこしばかり原文が読めるなどということは、何程の意味ももたない所以である。
(…)あまりに長編で、しかもその割に物語の進行は遅く反復的であることに退屈したら、きみが悪いわけではない。『源氏』が悪いのだ。わたしの経験では、『若菜(上・下)』の章が、いちばん出来がよくまとまりもあるから、まずそこを読んで、これはいけるとおもったら、みんな読んでみるのがいいとおもう。原文で「ある程度以上のスピードで」読もうなどと考えちゃいけない。一生何もせずにそれでつぶれることになるぜ。現にそんなひとは、大学へゆくとたくさん先生をしているのだ。[xi]
 批評家とはかくあるべきもの、とでも言うような面白いお喋りだが、『源氏物語』は、長いには長いが「あまりに長編」というほどでもないし、「物語の進行は遅く反復的」では全くないし、「退屈」するどころではないはずで、すこし誇張し過ぎだろうと思われる。そこに批評家の芸風があるといえばあるが、もともと知的娯楽の一領域であるはずの文芸批評など真面目に受け取り過ぎる必要もないので、観客はその場その場の芸を面白がっておけばよい。
 ひとつ、吉本隆明が間違っていると思うのは、語学を含めた言語の能力というのは、個々人においてずいぶんと多様な展開のしかたをするものだということを忘れている点である。おそらく、脳の使い方の多様さや我儘さ、好き勝手さ、それをいくらでも可能にする脳そのものが持つ使われ方における縦横無尽の潜在力から来るものだろう。ある程度以上のスピードで正確に古文が読めるのに、現代文はうまく書けないとか、現代語がしゃべれないなどという外国人は、いくらでもいるだろうと思われる。だいたい、吉本隆明の代表的な文章をどれでも読んでみればわかるが、彼自身がずいぶんと奇妙な言葉づかいで日本語を書く人で、わかりやすい現代文がうまく書けないということなら吉本隆明だってそうではないか、と、たぶん普通の日本人は思うに違いない。
しゃべれないということについては、現代フランス語からルネサンス期の難解なフランス語までをあれだけ見事に読解した渡辺一夫が、はじめて渡仏して恐る恐る煙草を買ってみた時に自分のフランス語が煙草屋に通じてひどく喜んだのを、弟子筋の仏文学者たちから聞いた話として思い出される。たしか、ピエール・ベールを見事に翻訳した野沢協も、話すほうはからっきしダメだったと聞いた。旧制浦和高校時代からの友人には渋澤龍彦や出口裕弘がいるが、渋澤龍彦などは、あれだけの翻訳家でフランス語の理解者でありながら会話はダメだったはずではないか。出口裕弘の場合は二度留学しているので、普通の会話には不自由はなかっただろうが、出口さんとは外苑前にかつてあったバー《ハウル》[xii]の三階で会って、ロートレアモンについての愛着をながながと聞かされたことがあったから、その時に、語学にまつわるこんな益体もない話もついでに聞いておけばよかったかもしれない。
もう少し遠い人だと、もちろん会ったこともない人だが、やはり、ヒエログリフを読解したジャン=フランソワ・シャンポリオン[xiii]のことが思い出される。9歳でラテン語をマスターするところから始まって、ギリシア語、ヘブライ語、アムハラ語サンスクリット語アヴェスタ語パフラヴィー語アラビア語シリア語ペルシア語、中国語、コプト語を習得していく。ロゼッタストーンの写しを18歳の頃には入手していたというから、止まるところを知らぬ天才、得体の知れないようなやる気満々の怪物である。とはいえ、現存していた言語やラテン語などは話すことができただろうが、さすがにヒエログリフの音を話すことは、彼でさえもできなかったに違いない。
 吉本隆明なら、ここで、シャンポリオンの場合はヒエログリフを「頭をひねりながら判読」したのであって、「ある程度以上のスピードで」など読んでいたわけがなかろう、と茶々を入れてくるかもしれない。「ある程度以上のスピードで」読めたがしゃべれない場合の例を並べてきたくせに、おまえ、「頭をひねりながら判読」できるもののしゃべれはしないシャンポリオンなど持ち出してきて、撞着を起こしてるじゃないか、と。
 そんなことはわかっているが、想いに随いながらの言葉並べをしてきての末尾には、シャンポリオンほどのお飾りも据えておきたくもなるというものではないか。この野郎、シャンポリオンをお飾りになんぞしやがって、と怒られれば、そこはまあ、もちろん、素直に怒られておくほかない。



[i] Arthur David Waley
[ii] The Tale of Genji19211933
[iii] Patrick Lafcadio Hearn
[iv] Donald Lawrence Keene
[v] ドナルド・キーン『わたしの日本語修行』
[vii] Gilles Deleuze
[viii] Bronislaw Kasper Malinowski
[ix] Edward George Seidensticker
[x] E・G・サイデンステッカー「『源氏』の十年」(安西徹雄訳)
[xi] 吉本隆明「わが『源氏』」
[xiii] Jean-François Champollion





2018年7月17日火曜日

問いかけ 1995年5月14日


  Living is easy with eyes closed
  Misunderstanding alI you see
   John Lennon & Paul McCartney
       “Strawberry Fields Forever
  

あなたは、もう六十歳を越えていよう。落ち着いた上品な顔と振る舞いが、あなたの魅力だ。入信する前は苦しかった。ひとりで苦しみ、ひとに相談しても、ありきたりの答えしか返ってこなかった。尊師との出会いがあなたを救った。静かに座り、なにも所有しないこころで、目を閉じる。こんなに充実した時間が、これまでの人生にどれほどあっただろうか。秋の山奥の日溜まりにひとりでずっといるようなこんな静寂を、これまでどれほどこころに深く感じる暇があっただろうか。
上九一色村の女性信者となったあなたに、テレビのインタヴュアーがマイクを差し出している。サリン事件や、こんどの捜査をどう思いますか? 報道されているように、オウムがサリン事件を起こしたのだとしたら、どうしますか?…
そんなことは絶対ないというのが、あなたの答えだ。が、困惑がある。さびしそうな顔をしてもいる。さらに、どう答えたものだろう。あなたの決断、あなたの人生そのものが、答えの一瞬に賭けられているような気になる。
おだやかな声で、静かにもう一度、あなたは言う。「そんなこと、あるはずがありませんもの」。
あなたはそうして、静かに目を閉じ、瞑想に入る。さびしそうだった顔から、影が消えていくようにみえる。こころのなかに、尊師のイメージが浮かぶ。そのイメージから、エネルギーがくるのがわかる。こころに平安が戻ってくる。外の喧騒と混乱に惑わされず、こころの奥ふかくに、ふかく、ふかく入っていく… そして、そこで尊師と一体になる、尊師は愛、尊師は世界そのもの、尊師は宇宙、いまふたたび、尊師と溶け合う…
そうして、あなたはふたたび去っていく。あなたは、あなたを苦しめ、理解せず、あなたにふさわしい位置も愛も慰めも与えてくれなかった者たちの場から、去っていく。
あなたはなにがほしかったのだろう? あなたはあなたを探していたのだろうか? 平安をもとめてきたのだろうか? こころの充実がほしかったのか? よろこびに溢れて、自然の恵みを素直に受け入れて、こどもの純真さを取り戻したいのだろうか? 不安に満ちた、頼りないじぶんの枠を出て、より大きな力といっしょになりたいのだろうか? なぜじぶんが生まれたのか、なぜじぶんの人生はあのように過ぎてきたのか、なぜじぶんはあんな苦しみを耐えねばならなかったのか、そして、これからどうなっていくのか知りたいのだろうか? 苦しみとむなしさとさびしさのこの生のしくみを、その意味を知りたいのだろうか? おなじ興味をもつ多くのひとびととともに、すでに若くないこころとからだにふたたび力をえて、世の中でけっして知りえない生命と運命の秘密に参入したいのだろうか?
あなたがひとを害するようなことをしていないのを、わたしは知っている。あなたが、かつてのじぶんのように世の中で苦しんでいるひとたちを救いたいと思っているのを、知っている。あなたが執着と煩悩を断つために、すべてをお布施として投げ出したのを知っている。あなたの財産を尊師が世の中のひとびとを救うためにかならずお役立てになるだろうと、あなたが信じているのも知っている。
知っていることは他にもある。あなたがこころから拝むシバ神像は発砲スチロール製で、それ自体はどうでもいいことだが、あなたと同じ信仰を持たないひとびとには美しく見えない。あなたが出したお布施はたぶん、ひとの意識を朦朧とさせるための薬品の購入にあてられた。ひとを拉致するための車のガソリン代になった。場合によっては、毒ガスをつくるための研究費にあてられたかもしれず、サリンの包みをもったひとびとが事件の当日に購入した地下鉄の切符にかたちを変えたかもしれない。
それらは失礼な推測である可能性があるとしても、あなたの財産は少なくとも、尊師の食べるメロンに日々あてられていたかもしれない。それは光栄なことだと、あなたは言うだろうか。尊師は神であり、世界であり、宇宙だから。神にあなたはすべてを委ねたことになるのだから。
 しかし、神とはなんだろうか? 師とはなんだろうか? 神や師にすべてを委ねて、宇宙との表現しようのない一体感を求めることとは、いったいどういうことだろうか? 生の苦しみを越えるとはどういうことか? 死の恐怖を越えるとはどういうことなのか? それらを越えようと望み、わざわざすべてを捨てて、身ひとつで富士のふもとの道場にきて、瞑想に励み、こころを静めようとし、精進するとは、ほんとうは、どういうことを意味するのだろうか?
あなたを動かしたもの、決断させたもの、すべてを捨てさせたもの、毎日の瞑想に導くものとは、ほんとうはなんだったのだろうか? あなたが捨てたという俗世での、苦しみやむなしさの連続でしかなかったと見えたあれらの年月は、なんだったのだろうか? 捨てるとはどういうことだろうか? ほんとうに、捨てることができたのだろうか? 捨てられたとすれば、あなたのあれらの日々はどうなったのだろうか? 完全に消滅したのだろうか? それとも、こころの隠し戸に、巧妙に隠蔽するすべを知ったということだろうか?
さまざまなものを捨てる一方で、なぜ、こころの平安は捨てないのだろうか? なぜ、ひかりや、よろこびや、真理を捨てないのだろうか? なぜ、人生の充実を捨てないのか? なぜ、瞑想に執着するのか? なぜ極楽を捨てないのか? なぜ、尊師を捨てないのか?
あなたにかぎらないが、わたしたちはなぜ、こころの混乱や、さびしさや、孤立や、日々の底無しのむなしさや、迷いを逃げるのだろうか? 修行をして、たましいの段階をあげるという煩悩に、なぜ、執着し続けるのだろう? 仏をなぜ捨てないのか? 神への執着を、どうして断ち切れないのか?
 あなたがたを導くマイトレーヤーの名を持つ人物が、テレビに出演して、ある元信者に説教していた。尊師はわたしたちの修行となるように、さまざまな仕事をお与えになる。それは尊師がわたしたちのたましいを導かれようとして、くださる仕事なのだから、いっけん修行と見えないことでも、しっかり遂行しなければならない。ちょうど、チベットの覚者ミラレパが、師のマルバから何度も何度も石で家をつくらされたようなものなのだ。ミラレパは、その修行を通して、尊師と一体となることを、完全に師に帰依することを体得していったのだ、と。
たしかにそうでもあっただろう。しかし、ミラレバはやがて師を捨てる。師を捨てること、師を殺すこと、師のイメージにも観念にも執着しないこと。それを学ぶ段階が彼には訪れたはずだ。そして、師のもとを去って、世界へまた歩み出していく。すでに弟子でもなく、修行者というアイデンティティーにも執着せず、仏教も真理も捨てて、ただ、からだとこころとたましいとを裸にさらして、歩み出していく。
あなたがたの師によってマイトレーヤー (弥勒菩薩)と名付けられ、じぶんでもそう自称する以上、かれはおそらくマイトレーヤーなのだろう。ブッダにも菩薩にも帰依しないわたしには、かれがだれなのかわからないが、しかし、かれはなぜ、ミラレパの伝説を最後まで語らなかったのだろうか。最後には、師もなく、弟子もなく、教えもなく、平安もないのだと、なぜかれは語らないのだろうか。
気にかかるのだが、多くのひとの俗世の平安を乱すためにあなたの財産が使われたのならば、あなたはじぶんの平安を、ひとの不幸で買ったことになりはしないだろうか? これは詭弁だろうか? 誤った見方をしているだろうか?
あるひとをたましいの師と呼んで服従すること。ある言説を真理と呼び、真理であるその言説と他の言説とを差別し、そしてその真理に服従すること。ほんとうに正しいわたしたちの道とは、これなのだろうか? これは、わたしたち以外のひとびとを害さないだろうか? 関係ないとあなたは言うだろうか? それでは、じぶんのこころの平安はどうしたらいいのだと、あなたは言うだろうか?
あなたに答えを聞きたく思うのだ。あれだけのさまざまな事件を平気で起こしたひとびとの集まりのなかで、その修行の場所で、あなたはいま、静かに目を閉じて、こころの底をぬけて、尊師と一体になろうとする。あなたのこころに力が満ちはじめてきているのだろう。やすらぎが来る。問題はすべて消える。こころが純白になる。かぎりなく、清められていく気がする…
あなたに答えを聞きたく思うのだ。瞑想するあなたに、いままた訪れてきた平安は、なにか? たましいの平安とは、それなのだろうか? それが、ほんとうにあなたを救ったのだろうか? その方向に進めばいいのだろうか? それこそ、全世界的に混乱し、方途を失い、日々新たな苦しみと悲劇に直面している人類を救いうるものなのだろうか? ほんとうにそれなのだろうか? それだと、あなたはいうのだろうか?
答えを出すためには、あなたはたぶんその平安から出て、ふたたび世界を見、世界を救うと自称する者たちを見、あなたたちの師を見、教団を見なければならない。こころの平安が失われるのを受け入れなければならない。むなしさにこころを晒し、孤立し、理解されず、愛されず、からだもこころも疲れ、努力はほとんど水泡に帰する…
答えとはなんだろうか? そもそも問題とはなんだろうか? わたしたちは、ほんとうはなにを求めているのだろうか?
わたしはまったくわからないのだ。あなたは教えてくれないのだろうか? あなただけの平安のなかに行ってしまわないで、わたしの問いに答えてくれることはできないだろうか? わたしにも瞑想するよう、勧めてくれるばかりなのだろうか?
あなたはますます深く瞑想に入っていく。こころのやすらぎが、顔にもからだにも染み出てくるようにみえる。いまのあなたを見て、からだのまわりに美しくオーラが輝いているというひともいるのかもしれない。
あなたの顔を見つづける。
あなたのこころの平安は目では見えないが、それを想像する。わたしのこころに、それを想いえがく努力をしてみる。
その平安はなにか考えつづける。
あなたの顔を見つづける。
あなたのまわりにある空気が、ふと、見えるような気がする。
見つづける。
あなたはわたしを見ない。
あなたは目を開かない。
空気が見えるような気がしたことは、あなたはあるだろうか。
ふと、そんなことを思う。
あなたがそこにいる。
じぶんがなにを見ているのか、また、ふいにわからなくなったような気になる。
見つづける。




日本破壊への無限の欲望 1995年5月14日


 Nouveau Frisson 37号(1995年5月17日発行)所収
(20世紀終わりに作っていた個人誌の古い文章であるが、 当時の知的感情的状況をなかなかよく伝えており、現在でも大筋で見解の変わっていない内容であるため、ここに採録する。先頃の幹部処刑に際して、オウム真理教がたんなる反社会的集団やテロ集団であるに過ぎなかったかのような貧しい受けとめ方が蔓延していることに衝撃を受けたことが、この採録の理由である)


オウム事件について友人と話していて、世代の違いという言葉が出た。どちらが口にしたものか忘れたが、「世代」という便利な、しかしかなり眉唾ものの言葉が出た瞬間から、ふたりともなにか、了解がいくような気になったのを覚えている。ともに同世代だが、オウム真理教にたいする学者やジャーナリスト、コメンテイターたちの対応について、どちらもどうも引っ掛かるものを感じていたのだった。
 テレビや雑誌などで自分の言説を披露する機会のあるそうしたひとびとは、だいたい四十代から五十、六十代までが多いようだが、かれらの多様な意見の根底には、どうやら共通した見解、というか、印象とでもいうものが必ずあるように感じられてならない。それは、オウム真理教のひとびとのこころが、とにかくわからない、不可解だ、奇妙な連中が出てくるようになったものだ、といった印象で、どのような意見も考察も、みな一様にその印象のうえに作り上げられているように見える。わたしたちが引っ掛かっていたのは、そうした学者やジャーナリスト、コメンテイターたちのオウムにたいする基本的な不理解だった。なぜかれらがオウムをわからないというのか、それが逆に、わたしたちにはわからないのだ。むろん、かれらの意見の論理も理解できるし、社会問題や刑事問題として見た場合のポイントの指摘のしかたも理解できる。理知的にはすべて理解できるのだが、オウム的な現象にたいしてかれらの抱いている心情的な違和感が、こちらから見るとふしぎに思えるのだ。おおげさにいえば、かれらこそ異常にも不気味にも見える。
 わたしたちにとっても、むろんオウム真理教の教義、しくみ、影の実行部隊なるものの活動、一般信者の純一な信仰などは、人間としてあきらかに異常に近いものと映る。かれらのそうした面については、理解も共感もできない。しかし他ならぬ現代の日本に、こういうものへの「信仰」によってしか救われない(もちろん、実際はこれによっても救われないのだが)極度に追い詰められた多くの若いたましいがあるのは、なによりも、自分のこころを覗き込めばあまりに明白だし、まわりの友人知人たちを見ても疑いようのないことなのだ。オウム真理教自体には共感も興味も湧かないとしても、また、他の新宗教にたいしてもそのようであるとしても、そうしたものへの「信仰」に傾く可能性としての、現代日本にたいする激越といってよいほどの敵愾心があるのを、一時として忘れたことはない。わたしがいま、わたしのこころのなかにあるそうしたものを、たんにこころの空虚さとか、むなしさとか、孤独とか表現せずに、あえて現代日本への敵愾心とよぶのには理由がある。それが、わたし個人の心的、精神的な努力では解決できないものであることが明白だからだ。具体的にいえば、金の崇拝、会社信仰、学歴信仰、核家族信仰、同質性の強要、かつてコジェーヴが指摘したような内容空疎な形式の繰り返しの無間地獄的なオートマティスム、成人の下品さと傲慢さ、念の入った嫉妬深さ、実生活における合理性の徹底した欠落、長期的な文化形成の精神の皆無、家や都市をつくるうえでの美意識のむごたらしいまでの欠如(屋台のような家屋を住居とし、みにくいというよりは下品というべき日本の都市に平気で住んでいられるひとびとが、上九一色村のあの「サティアン」群のみにくさを笑うことほど滑稽でもあり、さびしいことはない)等々、枚挙に暇がないほどだが、戦後五十年のあいだに、経済のうえでの発展にともなって、これらはおぞましいまでに肥大化の一途をたどってきたのである。ひとりで、これらとどう戦えというのか。こころのうちに取り込まれ、当然じぶんの一部ともなったこれらを、どう克服しろというのか。わたしの場合も友人の場合も、おそらく資質によるのだろうが、おのおの完全に孤独な戦いを選んだ結果、いかなる新宗教にも騙されることなく済んできた。しかし、ひとによっては、オウムのような集団に、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように傾いていく場合もあるだろうと、わたしたちには我が事のように理解できる。理解でき過ぎる。
こういうわたしたちから見れば、かりにオウムが日本社会にたいしてテロ行為を行うに至ったという事実があったとしても、その事情はわかり過ぎるほどわかる。日本社会は、たんにかれらの外にある物質的生活の場ではない。そんなマルクス主義的な社会観にもとづいていては、かれらを理解することも、わたしたちの世代を理解することもできない。日本社会は、かれらの内部の病巣でもあるのだ。かれらの内部の苦悩そのものなのだ。テロ行為が「救済計画」と呼ばれるのは、じつにきわめて論理的な表現というべきなのである。わたしたちの世代にとって、現代日本の破壊は比喩でも冗談でもなく、まさに「救済」そのものを意味しうるのだ。
 むろん、現代日本の破壊についてこのように考えても、それを主張したり実行したりする前に、当然反省して思い止まるのがふつうである。ひとは肉体的に生きなければならず、そのためには共同体の施設や制度を簡単に破壊するわけにはいかず、考えや感性のちがう他人の存在を無視するわけにはいかず、さらに、違う世代のなかにも同じような苦しみをひそかに抱えているひとびとがいることにも目を向けなければならないわけで、そうすることの結果、かならず、忍耐づよく穏当な方法を試行錯誤しつつ、世代から世代へと長期的に努力していくほかないことに思い至る。オウム真理教の失敗は、同質の感性や考え方、さらに同質の苦しみを抱えたひとびとが閉鎖的な精神空間を作り上げることで、こうした現実主義的な方法論の模索を可能にするような平衡感覚が完全に失われた点にこそある。閉鎖空間ができあがるのを、あらかじめ極力避けるように努めるべきであったのだ。これはひとつの集団にとって、ひとつの社会にとって、また、ひとつの「国家」にとってはなおさらのこと、明々白々たる方法論上の誤りであったといわねばならない。化学者も生物学者も物理学者も医学者も擁して優遇しながら、ついに政治学者も哲学者も文学者も顕職につかせることのなかったオウム国の政策上の過ちなのだ。しかし、この政策は、わたしたちの現代日本のそれになんと酷似していることか。
わたしも友人もいま三十五歳前後であり、わたしたちの世代という場合、当然その周辺の年令を指すわけだが、オウム問題を考えるうえでは、いまの二十代後半から四十代はじめくらいのひとまでを広義の同世代と呼べそうな気が、わたしとしてはしている。この広義の同世代のひとびとには、わたしがここで述べたような気持ちや思いというのは、かなりわかってもらえるのではないかと感じるのだが、どうだろうか。わたしは、もちろん世代論に執着するつもりはないし、はじめにも書いたように、世代という尺度のよくよく眉に唾すべき性質にも気づいていないわけではない。が、いまの日本を支えている、というよりは、いまの日本の状況に固執して、無事に老後を迎えようとしている年代のひとびとと、わたしたちの世代のあいだには、感性においても考え方においても、どうにも埋めようのない亀裂が今後、ますます急速に広がっていくのではないかという思いを持つ。オウム真理教に走った息子や娘たちが親をどう扱ったか、それがまだまだ生温い発端にすぎなかったという事態の到来が大いにありうると考える。
 日本がオウム真理教に翻弄されているあいだに、オウムと関わりの深いロシアでは、四月、チェチェン共和国内のある村の村民たちにたいして、大量の麻薬を常用しているというロシア内務省軍による無差別虐殺が行われていた。八千人の村民のうち、約二千人だけが生き残った。赤十字国際委員会がロシア軍の許可をどうにか取り付けて数日後に村に入った際、実際に確認された村民の死者は三千人であったというが、国際問題化を防ごうとしてロシア軍は相当の隠蔽工作を試みたようである。
 いまのところ、日本におけるオウム事件は、物理的にはこのチェチェンでの無差別虐殺の比ではない。しかし、オウム事件で表面化してきたわが国の病巣の大きさと進行の程度はすでに侮りがたい状態にまで至っていると考えておくべきでないか。今回の事件によって、病巣への手術が行われることになるといった楽観的な状況にあるのではなく、オウムはただの発端にすぎないという予感が、どうにもおさまらない。手を替え品を替えといった調子で、わたしたちの世代の日本破壊への無限の欲望は現実化され続け、いつかかならず、この国を完全な廃墟にしていくに到るような気がする。
 わたしたちの世代の日本破壊への無限の欲望は、たぶんわたしたち自身のものというより、たとえば掃滅された縄文人のそれであり、三光政策で虐殺された大陸のひとびとのそれであり、隠微にに苦しめられ続けてきた国内の底辺のひとびとのそれであるのかもしれない。そうだとすれば、日本がこの先生きのびるすべなどないはずだろう。麻原氏の「予言」のように、滅亡の後にのみ日本の再生はありうるとする考え方も、こんな空想をしてみれば、それなりに理解できる気もしてくるのだ。



(註1) オウム真理教内部の幹部たちの間に見られる世代の違いを、わたしは知らないわけではない。オウムの関係者をみなわたしの世代と見ているわけではないことは、断わっておきたい。わたしがオウムを同世代と考える時は、科学研究や法律問題や外報部門に関わったひとびとを念頭に置いている。いわゆる影の実行部隊に四十代後半の人間や二十代の人間が目立つのは興味深いことで、今後、幹部や主要メンバーたちの教団内部での仕事と実質権力と年令等の関係については、ひとりひとり綿密に調査される価値があると思う。

(
2)  この文章は、最近の報道内容が真実にそう隔たっていないとの仮説に立って書いた。具体的には、化学班キャップ土谷正実容疑者が、警察の取り調べにたいしサリン製造を供述したとの報道をいちおう信じることで、これは書かれている。しかし、捏造や誤報の錯綜する今回の事件において、情報操作や情報売人たちの活動も考慮すれば、土谷氏の「供述」はいまなお一情報としてのみ扱われなければならない。現に、五月十四日の「サンデー・プロジェクト」において、上祐史浩氏はこの土谷氏「供述」の事実を否定している。上祐氏の発言にはつねに疑わしい点があるのも事実だが、土谷氏の弁護人からの情報では、報道されたようなサリン関連の供述はまったくなされていないとのことであり、そのかぎりでは看過しえない発言である。この文章では、土谷氏のサリン製造供述を、現時点での仮説としてしか扱っていないことを明記しておきたい。



「危機管理」思想をどう管理するか  1995年5月13日


 Nouveau Frisson 37号(1995年5月17日発行)所収
(20世紀終わりに作っていた個人誌の古い文章であるが、 当時の知的感情的状況をなかなかよく伝えており、現在でも大筋で見解の変わっていない内容であるため、ここに採録する。先頃の幹部処刑に際して、オウム真理教がたんなる反社会的集団やテロ集団であるに過ぎなかったかのような貧しい受けとめ方が蔓延していることに衝撃を受けたことが、この採録の理由である)


危機という言葉が流行り始めてきた。震災や毒ガス事件に見舞われたうえに、だれもが同質であると思い込まれがちであった日本人のなかに、かなり異質な思考・行動をするひとびとの集団がすでに現われていたのが明らかになるにつれ、日本人たちは、あたかも敵襲を告げあうプレーリードックの鳴き声のように、キキ、キキと発声し始めている。それが「サリン」だとか「オウム」だとかいった固有名詞に取って代られることもあるにしても、意味するところはそう変わらないように見える。けっきょくは、少女たちの「ウッソー」や、若者たちの「シャレンナンネー」などとほぼ同じ機能を持つ言葉だろう。ようするに言葉の発し手が受け手にたいして、他の連中はともかく、自分たちだけはあくまで同質だよネ、立場おなじだよネとせつなく確かめようとしている、そういう言葉なのだ。
 日本人のなかに身を置きながら、職場やさまざまな場で日本人特有の同質信仰を強要されるのを苦々しく思い、日常生活自体のなかに個人的カモフラージュを意識的に組織して来ざるをえなかったひとりとしては、今回のオウム真理教事件の発生は、少なくともひとつの快挙のごときものとして受け止めざるをえなかった。誤解のないように言っておかねばならないが、わたしはこの教団の教義にも信仰にも、また、次々と発覚しつつある救団の違法的かつ非人間的な行動にも、個人的にはなんら共鳴していない。むしろ強い不快の念とさびしさを覚えるといってよい。違法捜査の疑いあるといわれる公安の仕事についても、今回はやはりやむを得ないところがあるのではないかと考えている。近代国家の一員には、公安警察の行動の是非をつねに監視する義務があるとわたしは考えるが、その義務とは、この国家認定スパイ組織にたいし批判や方法的疑念をつねに向けるとともに、その活動の適切な理解にも努めようとするものであるべきだろう。
この事件が快挙であったというのは、だから、オウム真理教を肯定するとか、それに共感するとかいったことのためではまったくない。そうではなくて、この集団のあまりにも輪郭明瞭な信仰と言動が、マスメディアを通じこれほどまでに日本の津々浦々に知れ渡って、とにかくも日本人の同質信仰に決定的な亀裂が入り得る状況が近づいたと思うからである。日本人の同質性というものが、どの程度実体的でどの程度架空のものか、どの程度維持すべきものでどの程度破壊すべきものか、これらについてはさまざまな考察が可能なのだが、わたしがいま問題にしている同質信仰の強要というのは、そうした学問的なレベルでの問題ではなく、ごくごく実際的な、実生活の対人関係レベルでの問題なのである。わかりやすく端的にいえば、この国では自分を他人と同質であるように見せなければいけない、というあの暗黙の戒律のことなのである。
同質信仰というよりは、同質性維持の義務とか、同質性を装う義務、あるいは、同質であれ、という脅迫とさえいうべきかもしれないが、東京サリン事件以後、オウム真理教がマスメディアを通じて行った広報活動が、この陰湿な日本的義務にたいする敢然たる反抗であったことだけは、反オウムの立場をとる者であっても認めておくべきだと考える。むろん、それがオウム真理教内部において、教祖とシステムへの絶対服従、および個我の放棄といった内実を持つ「信仰」によって支えられていた行為であることを見逃してよいというわけではない。実際のところ、マスメディアによる報道の周辺にじつに微妙なかたちで出現した境界線のこちら側(日本社会)にも、むこう側(オウム社会)にも、個人を社会の完全な歯車に落としめるための脅迫と侵食があったとみるべきであろう。わたしが注目したいのは、こうしたふたつの社会が正面から衝突した瞬間に、とにかくもオウム的強要システムの確固たる存在によって、日本的強要システムに亀裂が入ったということである。上祐外報部長の数多い発言は、サリン事件やオウム真理教が引き起こした多くの問題を方法的に捨象して考えれば、日本社会が隠微なかたちで個人に強要してくる同質性への敢然たる否定に貫かれていた。日本的同質性の共有など少しも受け入れる様子を見せなかった彼の発言が、マスメディアの場において横柄と見なされたのも当然である。というのも、マスメディアは現在、この同質性の核をなしているとともに、これへのマインド・コントロール機関でもあるのだから。OLたちの上祐・青山フィーバーにも、おそらくはっきりした理由がある。上祐外報部長と青山弁護士は、マスメディアの前面に出て、ほとんど一斉射撃を受けるかたちで現代日本の同質性強要システムとも切り結んでいたわけで、そんな戦いぶりのできる男など、彼女たちのまわりにはこれはでひとりもいなかったからである。同質性強要の被害者から、やがては加害者になっていくことでのみ達成される日本社会における出世のからくりは、彼女たちのまわりの男たちを、みな同質性システムの犬にしてしまった。そこへはじめて犬でない男たちが現われた(とみえた)のだから、たしかに花束のひとつも贈りたくなるわけである。もちろん上祐外報部長と青山弁護士は麻原システムの忠実な犬であったわけで、もし、そうした向こう側の事情が読めていれば、彼女たちでさえ花束を贈るというようなことはしなかったはずではあるが。
社会内部の強要システムに亀裂が入る危機に見まわれたのは、こちら側の日本社会ばかりではなかった。ふたつの世界の衝突は、オウム真理教の社会にも亀裂を生んだ。それは、各地のオウム施設への強制捜査以降の信者たちの脱会や、上祐外報部長の言説の変化と矛盾、五月十二日発表の組織改編などから明らかである。
ふたつの社会が正面からぶつかり合うと、最終的にはいずれの社会の内部においても、個人を社会の完全な歯車に落としめるための脅迫と侵食の機能は崩壊を始めることになるのではないか。日本社会の同質性強要体質に、骨の髄まで苦しめられてきたわたしには、オウム真理教をめぐるこの二ヵ月ほどの騒動は、なによりもこうした仮説のひとつの実地検証例として映っていた。仮説の真偽をさらに考察するためには、おそらくさらに数か月にも数年にもわたって推移を見定めなければならないとはいえ、直観的にはすでに、この仮説は正しいという気がしている。
危機という言葉が流行っていると冒頭に書いたが、日本社会の同質性強要体質が体質改善されるということをよしとするならば、今後、少なくともオウム真理教程度には手強い集団の出現によってもたらされるであろう危機を、さらに待ち望むべきであるということになるかもしれない。それはたぶん、たとえばアメリカ合衆国が貿易問題等において徹底的な対日政策を次々打ち出してくるようなかたちでもよいのだが、やはり最適なかたちは、同じ日本国籍の所有者同士でありながら、互いに存在さえ認め合うまいとするまでの、完全に交渉不能な多くの集団の出現と形成とであろう。世界的に袋小路に陥ってしまった自由と平等の方程式研究の解へは、いったん、こういった多くの集団が出現する、絶望的でもあり悲劇的でもあるはずの時期を経ないかぎりは、辿り着けないのではないかという気がしてならない。そこを通過しないかぎりは、集団形成時における根深い個人抑圧傾向は、けっしてわたしたちの思考構造から払拭されないのではないだろうか。
集団形成時における個人抑圧傾向は、社会が各個人に同質性を強要することで、社会自らのアイデンティティーを維持しようとすることの表れといえるが、これまで日本人は、こうした社会側の方法を、必要悪として結局は認める方向で進んできた。べつの方法の模索はいくらもあったが、日本においてはいつも、中途半端に観念的なレベルにどれも留まってきたといえる。しかしながら、この点で、まったくべつの進み方を試みるべき好機に、わたしたちは差し掛りつつあるのではないか。べつの進み方とは、すなわち、異質とみえる他者の内に同質性を見出だし、それを通じて他者を脱他者化することによって辛うじて交通しようとするのではすでになく、他者の異質性をそのままに、直接、なんの媒介もなく交通することである。あるいは、不気味さを、恐怖を、不安を、不可解さをなんら変質させることなく、それらと交通すること。日本社会にかぎらず、現代の人類全体が、いまこういった直接的交通能力への挑戦の時期に差し掛っているのではないだろうか。
いうまでもなくこれは、強度に「宗教的」とみえる性質のものである。方法や修行を媒介として現在の自己をありうべき未来の自己へと交通させようとしたオウム真理教は、じつはきわめて間接的な宗教なのだが、これはオウムにかぎらないことで、もともと宗教はすべて間接的なものだ。世界的に多発しはじめた宗教問題は、かなりの数の批評家たちや学者たちが誤って語っているように、人間にとっての宗教の重要さが増してきたことを意味するわけではけっしてない。シンボルを使用し、言葉を使用し、儀式を使用するものとしての宗教は、すべて間接的であり、そうであるがために例外なく、これからの時代において、人類に本質的な寄与は為しえないにちがいない。宗教は人類の結晶化した失敗にすぎない。ときにはなるほど、宗教の名においてひとを慰めたり、なにかを解決するかにみえたとしても、じつは、後にかならず大きな災いを生み出すような巧妙な詐術が行われたにすぎないのである。
これからの時代におけるこうした宗教の無益さは、コンピューターによって象徴されるような情報システムの繁茂の無益さに類似している。おそらく、わたしたちが現時点で想像するよりはるかにはやく、コンピューターも通信システムも廃れるだろう。情報網が不要になる時代が来る。必要な情報は即座に直接に意識化されるような時代が来る。これは、麻原氏の得意な例の予言の類ではなくて、端的にいえば欲望の類である。未来は、わたしたちが自己の内なる欲望に、適切にまた精妙に問い掛けるすべを知っていさえすれば、かならず見えてくるものなのだ。外にはなにもないし、なにも見えない。外になにかあり、見えるという場合は、外が自分である時だけである。コンピューターや、現時点で展望されるような未来通信システムについては、わたしたちの欲望の奥底にはすでに、それへの不快感と憎悪がはっきりとかたちをとりつつあると思われるのだ。わたしたちが望むコミュニケーションや知の形態はあんなものではないのではないか。あんなさびしい、つめたい、そして独特のきたなさを持った、まさに「サティアン」群そのものの唖然とする他ないほど美的感性の欠如した電気機器群の管理人ふうの生活ではない。こういった方向修正の欲望が、すでにわたしたちの奥底につよく動き出していないだろうか。
 危機という言葉について考えようとするうちに話がズレたが、近ごろ公安のスポークスマンさながらに危機管理の必要を説いている元内閣安全保障室室長·佐々淳行氏のような危機概念をわたしが持ち合わせようがないのは、これまでのズレた話からも明らかなところである。これから起こるさまざまな危機に備えて、そこから生じうる死傷程度を可能なかぎり抑えようとすることには、わたしはむろん異論はない。しかし、現在の社会体制を極力維持することまでを、いわゆる「危機管理」のなかに含めることには正面から反対するつもりである。歴史的にみて、公安部門はこうした意味での「危機管理」に力を注ぎすぎる傾向があったのだが、公安は今回の戦後体制の崩壊期到来にあたって、人命保護や公共設備への被害の軽減以外の「危機管理」を厳に自戒すべきである。政界・財界・産業界等の現制度を維持することにつながるような「危機管理」活動は、断じて行ってはならない。理由は簡単で、これからわたしたちが突入する数十年間は、長く厳しい革命の時代となると思われるからである。いわば赤十字的な、最低限の「危機管理」をすることに飽き足らずに、もし公安が最大限の活動をする方向に一歩でも踏み出せば、公安自体のアイデンティティーの崩壊の道もそこから始まることになる。なにを守るかということ自体が時々刻々変化する時代に、公安が活動を拡大したりすれば、手のつけられない新選組ふうの殺集団が誕生する。時代が必要とする才能や人材は、かならず社会のその時点での制度や慣習や感性を逸脱しているものであるが、かれらを次々に闇に葬っていくのがかならず公安の「危機管理」の主眼になるにちがいない。国や民族がこれによって蒙る被害は大変なものになろうが、二十一世紀においては、それはすなわち全世界的な損失をも意味することになるはずである
オウム真理教をめぐる事件群の報道や識者の論評を見ていると、いっそうの「危機管理」が必要であるという点では、どのような人々の意見もほぼ一致している。しかし、数年後にオウム真理教問題がほぼ一段落する時点で、ほんとうに巨大な問題として出現してくるもののうちのひとつが、こんどは「危機管理」思想をどのように管理するか、という問題であることは疑いえないところであろう。もともと、管理できる「危機」が危機であるはずはなく、こちらの管理能力などはるかに越えた事態が生じて、はじめて危機の到来と呼びうるわけで、そんなほんとうの危機を管理できるように限りなく準備しようとすれば、行きつく先は、先手を打ってサリンをこちらから撒くというような事態に必ずなる。「危機管理」の精神は、必ずべつのレベルの危機を捏造する構造を持つと見ておいたほうがよい。
オウム真理教が時代錯誤的に起こそうとした革命とはべつの、はるかに巨大な、地球と全人類の存在を賭けた革命は、恐ろしいことながら、すでに、ほんとうに始まってしまったらしい。人類の自己変革能力もその革命のなかでは絶えず試されるはずだが、そういう時代に、避けることのできない、どうしても必要な崩壊や破壊や逸脱などの「危機」を、適切なかたちで起こるがままにしておけるような「危機管理」の精神のすみやかな形成がいま必要なのだ。管理しないことも、革命の時代の「危機管理」の方法のひとつであるばかりか、時には進んで、自らが本来防衛、維持すべきものを破壊することも、この時代の「危機管理」の方法のひとつに入ることになるだろう。こういう融通無碍な「危機管理」を可能にするためには、なにをほんとうに守るべきか、なにを価値あるものと見なすべきかという無限の問題群自体を、自らのアイデンティティーそのものとする他はない。すなわち、ふたたび人間的な、あまりに人間的な問題を全的に引き受ける他にはない。革命はつねに原人間へ回帰することなのだが、ふたたび人間の源へはだかで(というのも、無数にある方法のすべてが無効化するからだが)直接的に回帰する使命を、人類のこの時期にたまたま居合わせて幸か不幸かすでに仰せつかってしまっていたということに、もうそろそろわたしたちは気づくべきではないだろうか。



2018年7月15日日曜日

第四次産業体としてのオウム真理教 1995年5月15日



Nouveau Frisson 37号(1995年5月17日発行)所収
(20世紀終わりに作っていた個人誌の古い文章であるが、 当時の知的感情的状況をなかなかよく伝えており、現在でも大筋で見解の変わっていない内容であるため、ここに採録する。先頃の幹部処刑に際して、オウム真理教がたんなる反社会的集団やテロ集団であるに過ぎなかったかのような貧しい受けとめ方が蔓延していることに衝撃を受けたことが、この採録の理由である)



   私はまた前にすでに、霊魂の中にはひとつのカがあると言った。
   時間も肉体もそれに触れはしない、精神から流れ出で、
   精神の中にとどまり、徹頭徹尾精神的な力なのである。
   この力の中にこそ神は全きものとして、己れの内にもち給うあらゆる喜び、
   あらゆる栄光をもって初々しく照り映え給いつつ在すのである。
      マイスター・エックハルト
      『ルカ伝第十章第三十八節についての説教』 (相原信作訳)


  オウム真理教の教義や組織、幹部たちの活動の実体がどれほど異様に映ろうとも、結局のところそれらは、程度の差こそあれ、他のさまざまな新々宗教にも見出されうる事柄であるにすぎない。この集団において真に注目されるべきは、それよりも、ここに集結されつつあった驚くべき多様な能力であり、また実行力である。
この集団はあきらかに、現代日本において希少な、文字通りの総合能力集団を形成する意志に突き動かされていた。この活動自体は、日本の将来を考えるうえで、きわめて重要な現象であったと考える必要がある。わたしたちがいま注意すべきことは、オウム真理教をたんなる犯罪集団や反社会的狂信集団とみなして葬り去ろうとするような言動を、厳しく自制することである。現代日本の個々人の能力開発を可能なかぎり行いつつ、社会の新たな全体性の獲得に努めるための実験例として、この集団の研究に取りかかるべきなのだ。サリン製造と地下鉄サリン事件を中心とする犯罪行為の実行者たちにたいして、法秩序の側も世論も当然死刑や無期懲役刑を望むだろうが、そうした方法を以て解決とするのは、将来の日本にとって必ずしも得策であるとはいえない。日本社会の構造的な停滞を破る秘密がこの集団にはあるからで、絶対にこの秘密の検討は試みられねばならず、そのためには、いま、この集団にたいする超法規的な特殊対応がすみやかに構想される必要がある。一般の日本人とちがう異質なひとびとの集まった、異質な犯罪・狂信組織ではなく、たとえ不幸な結果を生んでしまったとはいえ、現代日本のひとつの実験だったと考えるべきなのだ。
 オウム真理教事件から読み取るべき最も重要なことは、第四次産業への社会的な移行が本格的に始まりつつあるという事実であろう。かつてC=クラークは、産業を次のように分類した。
 [第一次産業農業·林業·水産業など、原材料·食料等の最も基礎的な、必須の生産物の生産にかかわる産業
[第二次産業製造業・建築業・鉱工業・ガス・電気・水道業(日本では、ガス、電気・水道業は第三次産業に分類)
[第三次産業]商業・通信・運輸・金融・公務・サービス業(日本では、これにガス・電気・水道業を加える)
第四次産業という用語はまだ十分に一般的ではないかと思われるが、これらの三つの産業を基盤にして形成される。無形物の販売・サービスにかかわる産業である。無形物とは、精神といってもいいし、霊的なものといってもいいし、こころの安らぎといってもいいが、そういった目に見えない、物質レベルや社会レベルを超える価値を持つと考えられるものである。それの供給によって、社会的でもあり、物質的でもある収益を獲得しようとする産業であるというのが、第四次産業のとりあえずの定義である。
 この産業に現代の多くの新宗教が含まれることは明らかだろう。非物質の供給の見返りとして多額の財を獲得するのが新々宗教の基本性質であるからだが、この行為は、商品が非物質であることを除けば完全な営利行為にあたり、これにたいして宗教法人法に見られるような税制上の特別対応を続けることは、不合理であり社会的に公正を欠く対応でもあるはずである。
 むろん、こうした無形物、非物質の販売・サービスにかかわる産業を、第三次産業のなかのサービス業の一種として整理しておけばよいという考えもありうるだろう。同じような分類上の問題を持つ産業でありながら、こちらの場合はサービス業の一種とほぼ見なしうるかと思われるもののひとつに、近ごろ都市圏ではあたりまえに見られるようになった、新しいかたちのセックス産業(娼婦の宅配サービス、テレフォン・セックス、テレフォン・クラブ、イメージ性戯等)があるが、これにしたところで、無形物·非物質の販売にきわめて近い形態をとるものがある。性交を目的とするものの場合は、たしかに身体が一定時間売られているか、貸し出しされているといえるため、物質的・有形的なものにもとづく営利行為といえるかもしれない。だが、客に電話で、店員でない他の異性客との交際交渉をさせ、電話料金や会費というかたちで収益をあげようとするものなどは、物質的・有形的な性質がより希薄になっていると考えられよう。女性に看護婦やスチュワーデスや女学生などの服装をさせ、さまざまな性的遊戯をしながらも性交そのものは行わないというコスチューム・プレイなどは、なるほど、その女性の身体と時間とエネルギーが一定時間ある限定のうえで貸し出され、消費されるとはいえ、ここで真の商品となっているものはあくまで客の意識内部のイメージレベルに生起するのであり、物質的・有形的のものはすべて、そのための媒体であるにすぎないと考えるほうが正しいように思われる。そうであるとすれば、コスチューム・プレイというセックス産業は、すでにきわめて新々宗教の商品に近いものを扱っているということになる。
 たしかに第三次産業としてのサービス業に、新々宗教等の無形物・非物質の販売・サービスにかかわる産業も含めておいてもそう問題はないのだが、現在すでに見られるように、いわゆる「精神」的・「霊」的なものを扱った事業の多様化や増加があきらかである以上、「精神」的・「霊」的な無形物・非物質の販売・サービスを業とする事業者や団体を、第四次産業として特定するのは、こうした産業の性質の研究・開発・管理に益するところが少なくないのではないかと考える。
 第四次産業の定義としてはさらに、第一次から第三次までの産業をすべて取り込んだうえで、それらを「霊」的なものや「精神」的なものによって秩序立てようという基本構造を持つ産業形態というのも妥当かと思われる。これは、言い方を変えれば、「精神」的・「霊」的なもの自体の産業資源化段階を第四次産業として認識することであり、もともと物質的利益のシステムには関わらない性質を持つとみえた「精神」的・「霊」的なものを、明確に営利の回路に取り込んだ新産業システムとして第四次産業を見なすことでもある。
オウム真理教がはじめに農業を試み、その後、食品生産や、薬品・農薬等の製造、出版、コンピューター産業などと、偏りはあっても第一次産業から第三次産業までをともかくも試みた事実には興味深いものがある。それらの産業がすべて、第四次産業の核である「精神」的・「霊」的なものの成就と発展のために結びつけられて、これまでの第三次産業段階社会において見られなかったような意味をその核より与えられた点にこそ、オウム真理教という現象の社会史的な意義があるのだといえる。
とはいえ、この第四次産業の時代は、霊的なものや精神的なものを、個の人生における個人的な価値づけにおいて、そのひとなりの納得のうちに追求しようとするひとびとにとっては、必ずしも好ましい時代とはなりえないだろう。というのも、この段階の社会において、霊的なものや精神的なものはあくまで商品として扱われることになり、必ずや規格化もなされ、価値判断上の差別化が導入されるはずだからである。個のたましいの居場所などなくなり、どのたましいにも、なんらかの明らかな商品価値が要求される。麻原彰晃氏が空中浮遊やクンバカや予言などの誇示に傾いたのも、まさにこの見えない商品の商品価値の顕示が必要とされたからである。霊的なものや精神的なものは、留保をつけて「精神」的・「霊」的なものとでも表現するしかなくなるといってよいだろう。つまり、霊やたましいのレベルで、この時代にほんとうに起こることは、偽りの「霊」や「たましい」による、霊やたましいの抑圧なのである。「神」が神を抑圧し、支配しようとする。シモーヌ・ヴェーユの言葉ではないが、こういう時代にあっては、神はまさに不在としてのみ、真に現われうることになろう。
 オウム真理教事件は、第四次産業の時代の幕開けを告げるものだと思われるが、こういう新たな産業の時代のはじまりにあたっては、当然それ以前の各産業とのあいだに摩擦が生じることになる。各産業はすでに社会のなかに市場を分け合っており、新たな第四の勢力を、それも、他の先行産業のすべてを支配統合しようとする勢力を、けっして受け入れようとはしない。このため、第四次産業の組織体には、第一次から第三次までの産業のなかに、旧産業の形態をとった関連企業や集団を潜り込ませる必要が生じる。そうして、それらの産業のなかに侵入しながら、しだいに懐柔策を進めるということになる。長期的な
展望と計画に立って、時間をかけて進めれば、これは社会に次第に生じる自然な変化というかたちをとり、うまくすれば社会学的分析さえも躱すことができるかもしれない。しかし、急いだ場合には、各先行産業および、それらを基盤とする当該社会自体を敵にまわすことになろう。この衝突を有利に乗り越えようとして、当該社会において犯罪とみなされる行為に再三及ばざるをえなくなる可能性も生じる。これらは現にオウム真理教において生じたわけだが、これはオウム真理教や教祖の体質というより、第四次産業そのものの避けがたい性質であると考えるべきであろう

以上、出版物やマスメディアにおいて十分に提出されているとはいえないオウム真理教事件の意味と、こういうかたちをとって日本に出現しつつある第四次産業の時代というものについて、簡単な指摘を行った。ここに述べた見解にもとづいて若干なりとも主張しておきたいのは、被告となるオウム真理教幹部たちの扱いには、きわめて特殊な配慮が必要とされるということであり、その配慮の有無によっては、未来的に日本は少なからぬ損失を負うことになりかねないということである。また、他方、宗教団体にたいしては厳格な税制上の義務を負わせ、宗教そのものを第四次産業として、つまり、営利事業として明確に位置付けることの必要も主張しておきたい。これは宗教の弾圧ではなく、むしろ、個人的なものとしての霊性や精神、たましいを守ろうとするためである。それらを社会のシステムに組み込むことは、是が非でも避けられなければならない。霊や精神やたましいなるものに社会的な場がないことは、じつはそれらにとって最高の状態であるということが理解される必要がある。
(一九九五年五月十五日)