東京メトロの何線でだったか。吹き出し続ける夏の昼下がりの汗をそのままに乗り込んで座り、しばらくボオッとしていたら、千代田線云々、というアナウンスが入る。乗り換え案内だとはすぐわかったが、「千代田」線を知らない自分がふいにいて、驚いた。
「千代田」線?
そんな線、あったかな?
もう何十年も東京の地下鉄には馴染んでいる。しかし、「千代田」線なんていうのは、なかったなあ。奇妙なことながら、そんなふうに思考が動いたのである。
さいわいなことに、この後、わたしは脳梗塞で倒れたわけでもなく、認知症の発作に襲われ続けたわけでもなかったが、たまたま、東京メトロ路線図を見つめて「千代田」線なるものの存在を確認するような閑暇が数日にわたってとれないほどの忙しさに追い詰められ続けた結果、この「千代田」線ナンテアッタカナ?状態は数日にわたって持続したのであった。
じつを言えば、賃仕事の必要上、わたしは「千代田線」を毎週利用している。他の地下鉄から乗り換えて車内に入った場合に、な、な、なんだこれは?、という、あのくたびれた感じ、鄙びたというか、やつれたというか、東京の田舎さ向かうんだべ、とでもいうあの感じは、ともにとんでもなくわびしい感じに浸されている東西線と双璧の、東京メトロというより、東京地下電車とでも言っておくほうがよさそうな、さらには東京アングラとでも呼んでおくほうがさらによさそうな、やけに座席に汗の染み込んだ雰囲気とともに生活感覚のなかに刻印されている。だから、わたしはもちろん、「千代田線」をよぉく知っているのである。
忙しさにようやく小康が来て、数日してから、そういえば、あの「千代田」線とやら、そんなのあったっけ?と思い出し、メトロの路線図を見てみた。緑の線のわきに「千代田線」と書かれているのを見出して、な~んだ、と思ったわけである。もちろん。もちろんだとも。乗り換えの際に、方々の駅であの緑の色を見ながら、千代田線かぁ、千代田線にのるのかぁ、乗らなきゃいかんのかぁ、とひそかに嘆息し、そうしてなんとか過ぎ越しの時間を凌ぐことにしているアレではないか。なぁんだ、まったく。なのであった。
「千代田線」不存在疑惑はこれでケリがついたとして、そうなってみると、すぐに浮上してくるのは、こんなにも慣れ親しんだ路線の名前がどうしてこうも見事に忘却されたのか、ということである。自分にいくらも思考上の欠陥があるのは承知しているものの、さすがにこんな劇的な盲点の発生はこれまでなかったので、これにはすこぶる興味をそそられた。メトロのなかで聞いたチヨダセン云々というアナウンス、あれを聞いた時に、どんな印象が頭に浮かんだのだったか…
そう辿り直すうち、気づいたのは、チヨダセンという音から、わたしの脳は茫漠と千代田区の地図を思い描き、さらには皇居のミジンコみたいなあのかたちを思い描いた、ということだった。チヨダセンという音から、皇居のまわりを走る電車、内堀通りや外堀通りのあいだあたりの地下をまわっている電車…というふうに思考が走り、んんん、東京駅から中央線にそって四谷あたりまでの地下を走り、そうして永田町や霞が関を通って有楽町に向っていく電車かぁ、と勝手にイメージが完結して、いわば、「千代田線」ならぬ「千代田」線が脳内に成立してしまったわけである。わけである、というほどきっちり跡づけができたわけでもないが、どうもそんなところではないか、なぁ。
もちろん、千代田線には、ちゃんと「千代田」線としての部分がある。赤坂あたりから大手町までの政財界ゾーンは、まさに千代田線の「千代田」線としての面目躍如たるゾーン。名にし負はばいざ言問はむ千代田線、と切り出しても、しっかり千代田線なりに答えてくれるゾーンだろう。
ところが千代田線のやつ、新お茶の水を過ぎたあたりから怪しくなるのである。湯島、根津、千駄木と来る。ほらほら、寂しくなってきたぞ。さらに西日暮里を過ぎると町屋。次はもう、北千住だ。いったい、これらのどこが「千代田」線なのか。ヘンじゃないか。
根津なんて、風流でいいじゃないのと言う人があるだろうが、あそこはもとは遊里なのである。わたしも田中優子の『江戸を歩く』*を読むまで知らなかったが、明治十五年には六八八人の遊女がいたそうで、「吉原よりは少ないが品川遊廓より多い数」だったらしい。東京帝国大学が近くにできた時に、あんなに遊里が近いのではまずいだろうということで、明治二十一年に国家政策で深川州崎に移されたのだという。
政財界ゾーンと根津遊廓を結ぶというのは、時空を超えた利用者のイマジネーション旅行の便宜までをも大切にするべき交通機関の心得としては、すこぶる正しく行き届いているという気もするが、そこに政財界エリート養成校の開成中学・高校のある西日暮里をさらに繋ぐというのも、なかなか理屈にあうという感じもする。そもそも、開成の初代校長は、蔵相などを経て2・26事件で殺された高橋是清でもあったはずだろう。寄り道しておくと、この人物がまた面白い経歴を持っている。多摩霊園に眠っているそうだが、そこの人物紹介によれば、「幕府御用絵師川村庄右衛門の不義の子として生まれ、仙台藩士高橋是忠の養子となる。 1867(慶応3)藩留学生として渡米、意味も分からずサインをし奴隷となる。翌年脱出し帰国。本場仕込みの語学力が認められ16歳で開成学校(東大)の教師。しかし、酒と芸者遊びに溺れ教師クビ、たいこもちになる。その後87(M20)初代特許局長に就任。 89一攫千金を狙いペルーの銀山開発にのりだしたが失敗し失意の底に沈んだ。92才覚を認められ日本銀行へ。日露戦争中13億円の外債募集成功。05貴院議員。07男爵。11日銀総裁を経て、7度の大蔵大臣・農商務大臣・内閣総理大臣などを歴任。2・26事件で暗殺された」などとあって、たんなるつまらぬ大臣かと思いきや、2・26事件でちゃんと射殺されるだけの度量のあるとんでもない人生冒険家なのであった。「酒と芸者遊びに溺れ教師クビ、たいこもちになる」なんていうクダリ、うっかり畏敬の念を抱いてしまいかねない。教師たるもの、酒と女に溺れない者には、まずロクな奴はいないと言っていいものだが、クビになって、さらに幇間にまでなるなんざ、ちったぁ、そこらにゃいねえタイプのお兄さんだぜ。大物だったんだねぇ。なるほど、「千代田」線によって、ちゃんと霞が関や大手町や根津や西日暮里が繋がることになるわけだ。っていうか、千代田線って、ひょっとして、高橋是清線だったんじゃないのかね、ほんとは?
というわけで、ふだんは「千代田線」であるべきチヨダセンが、どうしたわけか、ふと「千代田」線として受け取られてしまったがために脳中に展開するはめになった、高橋是清線発見の東京の旅なのであった。
ついでに言っておけば、千代田線が北千住をも結んでいることで、高橋是清の冒険人生は、芭蕉が『おくのほそ道』の風狂の発端とした千住宿に繋がっていって冒険の味が増して来ることになるし、千代田線的には、微妙なところで現南千住の小塚原刑場跡を故意に素通りしようという意思を仄見せているあたり、なかなかみごとに政財界ゾーン人種の心性を露呈させているかもなぁ、と思わされる。いかなる時代にあっても、刑死者たちというのは権力秩序への意識的無意識的な抵抗者であることに疑いないわけだが、総計20万という厖大な数をもってそうした人間たちを処刑した場所でたくみに目かくしして通過しおおせようとするしぐさというのは、なるほど、さすがに「千代田」線であるよのう、と思わされる。そういえば、現代の牢屋敷である小菅を千代田線はしっかりと眺めながら通っていくが、今度あのあたりを通る時にはよく眺めてみてください。小菅ジャンクションから北に向かう三郷線の間近、ちょっと木立が見えるところ、あそこが死刑場なのらしいですよ。東京拘置所わきを三郷線で通過する車両は、それとなく念仏でも唱えて通ったほうがいいかもしれないですな。
政財界ゾーンの人種となるか、小塚原の露と消えるか、乱世にあってその違いを生来させるのは、じつに、わずかの運や才覚の差に過ぎまい。時代が時代ならば、いまの与党の面々もそろそろ、とりあえず小伝馬町に収監、そこで吉田松陰のように斬首か、あるいは小塚原にまわされて切られるか、さらには街のどこかで天誅にあうか、といったことになるのである。
小伝馬町といえば、現在は日比谷線の駅になっており、それはそのまま日比谷線を伝って南千住駅に繋がることで小塚原に連結している。日比谷線の南端はぜひ、南の刑場であった鈴が森にすべきだと個人的には思ってきたが、東京メトロさん、いつかやってくれますかしら。
*田中優子『江戸を歩く』(写真・石山貴美子、集英社新書ヴィジュアル版、二〇〇五年)
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