2010年10月14日木曜日

なんといっても正宗白鳥




苦労したって拙いものは拙いし、気楽に書き流してもいい者はいい。
                   正宗白鳥『明治文壇総評』


 批評家なら、なんといっても正宗白鳥である。文学作品の値打ちの在る無しを、ずけずけと判ずる。まさに、ずけずけであって、切れ味は名刀正宗そのもの。褒めたその手で、同じ相手をザッと切り捨てる。数ある批評家のなかで、あれほどの毀誉褒貶を散りばめて批評文を物する人は、そうはいない。批評家とはなにか。正宗白鳥のことであって、小林秀雄ではないし、吉本隆明でもない。なるほど、花田清輝はなかなかの批評家ではある。しかし、正宗白鳥、やっぱり、正宗白鳥。
 とはいえ、白鳥に出会うにはずいぶんと時間がかかった。

日ごろから、頭を柔軟に、しかし、きびきびと保つ助けになってくれるような文章こそが読みたいタチで、知識渉猟や研究といったことはまったく眼中にないし、筆者が意図的に仕組んでくる、わざとらしい味わいなどというものも、どうでもよい。いつも、こんな我がままな読者として本に付き合おうとしてきたが、さいわいなことには、欲求に適うものもけっして少なくはない。それでも、あれも読み、これも読みなどしていくうちには、うってつけの本もさすがに払底してくるわけで、突き抜けた感を与えてくれるよい本に出会えずに鬱々としているなぞというのは、もう、年中のことである。

 購入して仕舞い込んであった正宗白鳥の作家論集を手にしたのは、読み直しにかかっていたある作家についての評論を見る必要があった時だったのだが、少し読み出してみて、すばらしい本に逢着したのに気づいた。
もちろん、小林秀雄との論争の元になった有名な『トルストイについて』他、白鳥のものは以前、いくつかは読んでいる。だが、若気の至りというべきか、見る目がないというのはまことに恐ろしいもので、多くの評論家の文章のなかで、ことに傑出しているというふうには感じないで来てしまった。
高校時代、小林秀雄や花田清輝への没頭から始まった批評文好きは、唐木順三や磯田光一、平野謙、宮川淳、江藤淳、吉田健一などといった個性派を経つつ、大学に至って、ちょうど全盛期だった蓮実重彦や柄谷行人の仕事をリアルタイムで追うところに極まった。蓮実重彦には、教室でフランス文学や映画の先生として出会ってもいたので、格段の親近感を以て、その広範な仕事ぶりを網羅しようと努めた。おかげで、ずいぶん生意気な学生になったが、まずかったのは、一時、あの強烈な文体に完全にやられてしまったことだ。模範的な、それまでのあれこれの文章の逆毛を執拗に撫で上げようとでもするかのような、長い、無用の形容の羅列からなる、意味と調子の円環性を持った批評文体。クロード・シモン、プルーストやムジールに、デリダやジャン・ピエール=リシャールを融合させて編み出したかのような、日本のあらゆる先行文体を馬鹿にしきったあの文体は、当時の文科の大学生たちには否応ない浸透力を発揮し、いったんかぶれたが最後、今度はなかなか抜けないほどに、その魅力は強烈だった。あの文体には、蓮実重彦のあらゆる読書体験が混入しているのは確かだが、いま挙げたような作家批評家たちの他に、案外と強く内向の世代たちの文体が影響していたのかもしれないと思うこともある。いったいどのような文体に向けて、彼はあんな文体をぶつけていたのだろう。やはり、まずは三島由紀夫、次には、同時代の大江健三郎だったのだろうか。

吉本隆明も、ちょうど角川文庫に主著が入った頃でもあり、当然のこと、視野にあった。しかし、他の批評家よりも根源的と見えもする批評の仕事を行おうとしていた吉本は、なぜか、蓮実や柄谷に伴走した世代には、歯がゆく見えて仕方なかった。問題設定はわかるが、展開のしかたに納得がいかない。「問題」と書かずに、わざわざ「もんだい」と表記するところなどに、根源的とも言える時代の差を感じ取ってもいたかもしれない。廣松渉のあの独特の表記法にも苦笑を禁じえなかったものだが、文字選択の一字一句にまでこだわる文学青年には、哲学徒や学生運動の成れの果ての年長者たちの、無骨というよりも無粋というべき感性は、外国の風俗よりも遠い不快なものに感じられていた。こうした違和感が薄れたのはそう遠くないことで、詩人たちと関わるようになってみて、多くは、全共闘世代から団塊の世代までということになろうが、上の世代にもまともな人たちはいるのだ、と知るようになってからのことである。個人的な一例に過ぎないとはいえ、高度成長期の一世代に属する私のような人間が、どれほどの反感を、奇妙にも上の世代に向けて生きてきたかがよくわかる挿話と言えるかもしれない。個人的な批評読書史を辿ってもしかたがないが、とにかくも、こんな経過を辿ってきたのでは、白鳥になかなか出会えなかったのも当然だと言えよう。

だが、いま思うに、なかなか白鳥に出会わなかったというのも、意味のないことではなかったかもしれない。白鳥を読む以前と以後では、人間は変わる。小林秀雄以下、名立たる批評家の魅力がスッと消えてしまった経験には、まことに忘れがたいものがあるのだ。早く読みすぎていたら、それはそれで時間の節約にはなったかもしれないが、どんな批評家も馬鹿らしくて読まない、そんなことにならなかったとも言えない。少し遅れて出会うべきものというのは、やはり、厳然と人生には存在するものなのである。 

          *   *   *

すぐれた批評の裏には、当然ながら、すぐれた揺るぎない文学観、人間観がなければならない。目に狂いがあってはもちろんいけないが、無用の傾きを自分に許すのもいけない。ひとりの作家の傑出した面も愚鈍な面も、さらには計算高い面も、醜い面も、すべて、同時に見る。どれかだけを語って、他の面を隠すのではいけないのだ。
作品の出来というものを離れてまで、贔屓してやるべき作家などというものも、この世にはいない。逆に、作品が悪くても、心を惹かれる作家というものもいる。つまらないか、面白いか。誠実な探求があるか、あっても、不出来か。傑作を書いたといっても、品性下劣ではないのか。
たとえば、白鳥は、読売新聞主筆に頼まれて、漱石に入社を頼みに行った際のことを、このように書く。少し、長く引く。

当時の読売新聞主筆であった竹越三叉氏は、漱石招聘を企てて、自分で交渉に出掛けたようであったが、私も一度主筆の命を奉じて駒込の邸宅に漱石を訪問した。新聞記者として訪問ずれのしていた当時の私は、学生時代に鏡花訪問を試みた時のような純な気持ちは失っていて、「お役目に訪ねて来た」という感じを、露骨に現したらしかった。部屋の様子も、主人の態度も話し振りも、陰鬱で冴えなかった。『草枕』を発表して名声嘖々たる時であったのに関らず、得意の色は見えなかった。(…)読売入社の件は無論駄目であったが、間もなく日曜の文芸附録へ、一篇の評論を寄稿されたのが、漱石が読売に対する寸志と見るべきであった。
例の畔柳氏にこの話をすると、「漱石が新聞社なんかへ入るものか」と、頼みに行く方が馬鹿だといわぬばかりにいって、笑った。私はなるほどと同感した。
ところが、それから、半年も経たぬ間に、夏目漱石先生は、堂々と朝日新聞社に入社した。私は意外に感じた。人は、処世上の利害によってどうにでも動くものである。あの人に限ってそんなことはないと断言するのは浅墓な考えである。漱石先生といえども例外であるはずがない。竹越氏は私に向かって、「漱石は、読売入社については不安を感じているらしいが、社では約束は確実に守る。本野一郎君に僕からそういって、将来の地位の安全は保証する」といったが、そういう言葉をそのまま受け入れるべく漱石は、あまりに聡明であった。読売では前途に不安を感じて、乗り気にならなかった彼れが、朝日ならと乗り出したところに、彼れの人生観察の目の動きが見られる。*(1)

人間に対する批評とはなにか、ということを思う時、よくこの一節を思い出す。まことにあっさりと言ってのけていて、漱石とはどのような男だったかを描き出して、比類がない。芥川龍之介は、芭蕉の臨終を扱った短編『枯野抄』の中で、芭蕉の門弟たちの純粋ならざる心のうちを描きつつ、漱石臨終をめぐる弟子たちの心のうちを仄めかしたものだが、肝心の先生自身がこのような人であったことまでは、あの慧眼を以てしても、見抜いていたものかどうか。

よく知られるように、明治からの文学を見てきた人々は、概して漱石の文学には厳しいもので、白鳥の漱石評も、褒めるところは褒めつつも、全般的には情け容赦もないといっていい。いま引用した一節は『夏目漱石論』からのものだが、この評論の冒頭で触れられる『虞美人草』などは、惨憺たるものである。が、その惨憺に至るまでが面白い。

想いを構うること慎重に、プロットの上からいっても一糸乱れず、文章からいっても実に絢爛と精緻を極めたものである*(2)

という森田草平の賛辞を引用しながら、「この批評は当たっている」と引き取るものの、こう続けていく。

プロットが整然としていて、文章も絢爛と精緻を極めていることは、誰にでも認められる。この一篇だけを例に取っても、漱石が近代無比の名文家であることは、充分に証拠立てられる。それでは、「虞美人草は読んで面白かったか」と訊かれると、私は、言下に否と答える。「私にはちっとも面白くなかった。読んでいるうちは退屈の連続を感じた」と、私は躊躇するところなく答える。

(…)才に任せて、詰まらないことを喋舌りちらしているようにも思われる。それに、近代化した馬琴といったような物知り振りと、どのページにも頑張っている理窟に、私はうんざりした。

(…)余計なものを取り去ってしまって、小説のエッセンスだけを残すと、藤尾と彼女の母、甲野、小野、宗近など、数人の男女の錯綜した世相が、明確ではあるが、しかし概念的に読者の心に映ずるだけである。女性に対する観察はある。人生に対する作者の考察も膚浅ではない。しかし、この一篇には、生き生きとした人間は決して活躍していないのである。思慮の浅い虚栄に富んだ近代ぶりの女性藤尾の描写は、作者の最も苦心したところであろうが、要するに説明に留まっている。

(…)むしろ、菊池君などのほうが傑れているのである。わが仏尊しと見る偏見を離れて見るがいい。『虞美人草』の小説的部分は、通俗小説の型を追って、しかも至らざるものである。

 こういう白鳥でも、『猫』、『草枕』、『坊ちゃん』などは評価している。してはいるものの、

『坊ちゃん』は、(…)、いやみがなくって、いい通俗小説である。しかし、ここに現れている作者の正義観は卑近である。こういう風に世の中を見て安んじていられればお目出たいものだと思われる。

と、ちゃんと釘を刺す。その後、『心』、『行人』、『道草』等、あらかた駄目と見て、『門』の場合はせっ
くよかったのに、最後の宗助の参禅でぶち壊し。

鎌倉の禅寺へ行くなんか少し巫山戯(ふざけ)ている。……作者はどの小説にもなぜこんな筆法を用いるのであろうか。腰便宗助の平凡生活だけでいいではないか。

「運びがまどろっこしく退屈」な最後の『明暗』については、「はじめて、漱石も女がわかるようになっ
たと思った」と言い、お延やお秀といった女性の描写を評価して「意義のある作品」と認めながらも、
『心』、『行人』などと纏めて、

漱石晩年の作品に、私は、彼れの心の惑いを見、暗さを見、悩みをこそ見るが、超脱した悟性の光りが輝いているとは思わない。 

と漱石論を終えるのだ。まったく、漱石センセイもなにも、タマッタものではない。相手が誰であろう
と、文学であるならば面白い読み物を提供するのでなければならないし、単に面白いだけならば通
俗小説にすぎない。読者というのは、つねに勝手な要求をしてくるものだし、好悪は激しく、評価を
つけるにあたって情け容赦はない。白鳥はこういった読者の側をまったく離れずに批評しており、万
事に渡って、人の目を気にするということがない。ここに白鳥を読む快楽がある。言いたいことをた
だずけずけと言う人間が、一見溢れているようでいながら、実は払底している現代に、白鳥はまさ
に、古きよき時代の権化のように映る。

       *   *   *

 白鳥は、自分が生まれた明治という特殊な時代の限界性と矛盾を、いかなる時にも忘れなかった。その時代に開花した文学は、たしかに、西欧の新しい文芸の移入によって、過去の日本の文芸とすっかり袂を分かち、刷新されたかのように見える面もあるとはいうものの、彼にとっては、「徳川末期の溝泥文学」を引き摺り続けていると見え、同時に、欧米のものをあくせくと取り込むばかりの「植民地文学」とも見えていた。明治文学のこういう面についての彼の認識には、冷静、透徹、という以上に、ほとんど冷酷といっていいものがある。

   思えば、新日本の文壇は、種々雑多な思想によって刺激されたものである。徳川時代には、異端邪説といったところで概して孔孟の教えの範囲をうろついていただけであった。勧善懲悪は、芝居の作者にでも草双紙の作者にでも、確固不動の憲法とされていた。明治になってからは、基督教の博愛主義も入ってきた。「消極的な利他的な道徳を家畜の群の道徳だ」として侮蔑したニーチェの超人哲学も入って来た。スチルネルの自我主義も、ゾライズムも、社会主義も、「凡てか、皆無か」主義も、皆んな大なり小なり、やたらに文壇に刺激を与え、評論家に問題を提供し、作家の態度を動揺させたことを思うと、日本は欧米思想の植民地のようにも思われる。過去の王朝文学や元禄享保の文学、文化文政期の文学に比べると、明治文壇は色さまざまの百花繚乱の趣があるが、それとともに植民地文学の感じがする。そして、私などはその植民地文学を喜んで、自己の思想、感情を培って来た。今日のマルクス主義、共産主義の文学にしたって、今のところ、私には植民地文学に過ぎないように思われる。*(3)

 私は、日本はいつまでも翻訳国なのではないかと思う。*(4)

   時代時代の流行の変遷は世上の常であるが、新しい舶来者に対して敏捷に魅惑され、気ぜわしく動かされるのは、明治以来の日本の特有性である。悠然と構えたどっしりした文学芸術の起るに相応しくない国柄であり時代であるといっていい。しかし、人間には古えを尚ぶという性癖がある。また、いくら前代を卑んでも、前代の子孫である人間は、過去から全く絶縁した新たなるものを樹立することは出来ないのだ。*(5)

   明治文学中に見られるような個性の煩悶苦悶は、舶来物なのだ。西洋の過去の文学には、それが激しく現れていて、明治文学のは、その影を希薄にうつしたに過ぎないぐらいだ。旧時の日本が非常な感化を受けていた支那文学についていっても、私などは、支那の詩を読むと、李太白をはじめ、有名な詩人の多くが、枯淡な無欲な悟り澄ました口吻を洩らすか、磊落な豪傑気取りを見せつけるかした詩作を残しているのに、嫌悪を覚えることがあるが、日本の漢詩人は、最近までその支那の詩人の真似をしてきたのである。……明治文学中の懐疑苦悶の影も要するに、西洋文学の真似で、附け焼刃なのではないだろうか。明治の雰囲気に育った私は、過去を回顧して、多少そういう疑いが起こらないでもない。*(6)

   鴎外逍遥紅葉露伴が、自然主義勃興前までの新日本の文壇の代表的巨匠として、重んぜられていたのであるが、どれも皆根底には武士道儒者道の名残りを濃厚に留めていた。内村鑑三の基督教だって武士道的基督教であった。彼らの生れた時代が時代であったためではあるが、そればかりではあるまい。それが日本人の特質ではあるまいか。自然主義後の花袋藤村だってその主唱するところに徹し得なかった。*(7)

 批評は、明治文学に止まらず、ひろく日本文学全体や、日本そのものの本質にまで伸びていると言っていいだろう。舶来物の真似に終始し、付け焼刃で繚乱たる「植民地文学」を支え続ける日本という風土への批判である。
 こういう風土に育った彼自身も、当然ながら、甚だしい限界を持っていると見なければ嘘になる。批評家白鳥は、自分の足元を晒し、ある意味では、自分の批評の根をも、次のように、切って捨てる。

「偶然に生を享けたる国土の如きは、我故郷とするに足らず」と傲語した内村鑑三氏でも、幕末の日本に生れ明治初期の雰囲気に育ったために、武士道と基督教をチャンポンにしたような愛国心を有して、故郷とするに足らぬ故郷から心を脱却させることが出来なかったように、私も、明治の日本の風潮に、一から十まで支配されながら微々たる生を営み脆弱な心魂を養って来たことが、まざまざと回顧される。*(8)

 切り捨てられたのは、白鳥自身の批評の根だけではないだろう。彼以後のあらゆる日本人の根が、じつは、ここに見透かされている。内村のように、「偶然に生を享けたる国土の如きは、我故郷とするに足らず」と傲語しながら、日本人はひとりの例外もなしに、迷走し続けてきただけのことではないのか。し続けていくだけのことなのではないか。「植民地文学」の風潮に「一から十まで支配されながら微々たる生を営み脆弱な心魂を」いつまでも、いつまでも、養っていくに過ぎないのではないか。
 明治文学のなかで、奮闘して討ち死にしていったかのような作家や文学者たち、死後、名声の急落していく人々にも、白鳥は、手加減もせず、じつに辛辣な批評を浴びせているが、それでも、彼らに寄せるまなざしに不思議な温かさの感じられるのは、こうした「植民地文学」を強いられた戦友たちへの共感と慰撫とから来るものなのかもしれない。
 たとえば二葉亭四迷について、

   翻訳では文章が、ぴちぴち跳ねるように生きているのに、創作では、筆が著しくいじけている。原作の束縛を受けるべき翻訳において、自己の才気が随分に働いて、自由自在に書けるはずの創作が、かえって窮屈そうに見えるのは、いたましく思われる。*(9)

『浮雲』も第一篇と第二篇とが、今日なお読み応えのするものであるが、その続きはガタ落ちする。読むには耐えぬほどだらしのないものである。(…)
   第三作『平凡』では、二葉亭も、思い切って自分を投げ出したので、『其面影』ほど陳腐平凡ではなかったが、さしたる深みも厚みも、鋭さも、あるいは軽快な味いも見られなかった。*10

このように、翻訳の素晴らしさを讃えながらも、創作についてはまことに「見栄えがしない」と断言して憚らないのだが、しかしながら、彼が「人生とは何ぞや」ということをしきりに考えていたらしいと推測し、人生や生死について「真正直」に考えていたと語る時、白鳥の言は、一体、批判なのか、称揚なのか、区別がつかないところに達している。

   今日の目で見ると、何でそんな取り留めのないことに心を痛めていたかと陳腐に感ぜられるだろうが、そこに、明治二十年代の悩みが見られて、二葉亭の存在に興味が感ぜられる。彼れはその小説の主人公の如く、少し愚図で頭が冴えていなかったらしいが、正直であった。今日のある種の青年のように狡猾なところ、軽薄なところは少しもなかった。あの三つの小説は芸術として幼稚ではあるが、人間の正直さは現れている。*11

「こんなまずい物を書いて原稿料を取っては相済まん」という自責の念、自己の才能に対する過分の否定は、周囲の甘い賞賛によってもぐらつく時がなかった。これは、他に例のないことで、私などは、自己の創作については、常に不足を感じ続けて来たのに関らず、世間に推賞されると、うかといい気になるのである。夏目漱石でも、世間のおだてに乗せられて、自分を一ぱしえらいものになった気でいたらしい。芸術家で名誉の快感を覚えないのは、芸術家としての特権を失う訳であるが、ただ二葉亭にだけはそれがなかった。その点では不思議な人であり、また不幸な人であった。自作の世に認められないのを憤って、たまに悪評を下されると、親の敵のように深く記憶に留める文学者気質は、二葉亭の気持とは正反対である。*12

 作品については切って捨て、人物については讃える。文学者としての息の根を絶ちながら、同時に、人間としての面にこれだけの賛辞を送る。そんな手腕をこのように目の前で見せられると、やはり、白鳥以降、批評は落ちたものだと思える。たんなる温かいまなざしと、辛辣な批判の共存などといったものではない。文学における人間の扱いの、最低限の作法とでもいったものが、ここには模範的に展開されていると見るべきなのだ。日常の中でなら、だれもが他人について、批判いっぽうにも賛辞いっぽうにも傾きはしない。しかし、そうしたバランスを批評に持ち込むのは、なかなかに容易ではないのだ。言葉でなにかを対象とし、学術論文のようなもったいぶった迂路を事とせずに、簡明に短く多面性を提示するというのは、並大抵のことではない。白鳥の批評は、文芸批評でありつつ、そのまま、人間を語る秘訣を教えるものでもある。
坪内逍遥の死後に、逍遥に対して起こった批判に抗して、白鳥はこのように書いている。

「坪内博士には叛逆性がなかった。叛逆性のない所に真の芸術はない」などと、勿体振って説く者があるが、時世に対する反逆とは如何なる意味であろうか。博士は、旧文学に反抗して、『小説神髄』を草した。当代の演劇に反抗して、文芸協会の演劇事業に努力されたではないか。「叛逆」とは、そういう単純な芸術方面の意味ではなく、時代の道徳宗教、あるいは政治問題社会問題などに関していうので、坪内博士はそこに何らの反逆精神を持っていなかったと、非難者はいうのであろうか。しかし、そういう意味での反逆精神を発揮した文学者は明治時代にあったであろうか。明治以前にもあったであろうか。鴎外漱石紅葉露伴に無かった如く、西鶴にも芭蕉にも近松にも無かったのである。彼ら元禄時代の三傑も、徳川封建政治に従順に服従し、圧制の下に何の疑いも抱かず、ニーチェのいわゆる奴隷道徳に安んじ、家畜の群れの一員たるに甘んじていたのではないか。文学に反逆性の乏しいのは、古来の日本文学の特色なのである。坪内博士にのみケチをつけるのは当を得ないのだ。
   そうはいうものの、私も日本文学の諸先輩が、自己の生存に対して、晏如として悟道の域に達したらしいのを不思議に思っている。本当にそうであったのかと疑われないこともない。みんなが「則天去私」なのだが、これを、晩年のトルストイの苦悶、イプセンの凄惨たる孤独感、チェホフの氷の如き心境に比べると如何に相違していたことか。*13

 美しい文章で、やはり明治の、いや、日本の「植民地文学」という風土に苛まれ、足を取られ、奮闘して去っていった逍遥の生の意義を、白鳥自身、内面で生きてみた上での、生きてみたからこその、見事な追悼の文にもなっていると言えよう。
 もちろん、それだけではない。文学上の逍遥の反逆について評価し、弁護しながら、返す刀で、逍遥を含めての日本文学全体における「叛逆」の不在を語りつつ、しかしながら、「叛逆」が欠如しているからといって、日本の文学者たちが悟道の域に達していたのを意味するとは思えない、と白鳥は語っている。
これはすなわち、日本文学の大きな特色でもある「則天去私」性をまったく信じていないということだ。日本の文学者は、むしろ「則天去私」を強いられてきたのであり、そうした身振りの裏にある陰惨な演劇性の本質へ直ちに読者たちの考察を向かわせる態の、文学論上の見事なショートカットがここには提示されている。日本の近代文学の開始点に立つ逍遥を論じながら、ともすれば日本文学の達成と見えがちな核心部分を、容赦なく丸ごと疑え、と白鳥は言っているのである。
                                        (2003.12.18~21

(註)
*(1)『夏目漱石論』正宗白鳥著『新編 作家論』(高橋英夫編、岩波文庫、二〇〇二年)所収。以下の引用はどれも岩波文庫版による。
*(2)同『夏目漱石論』。以下、漱石作品についての八篇の引用は、どれもこの評論より引用。
*(3)『明治文壇総評』。
*(4)『二葉亭について』。
*(5)『明治文壇総評』
*(6)『明治文壇総評』
*(7)『明治文壇総評』
*(8)『明治文壇総評』
*(9)『二葉亭について』。
*10)『二葉亭について』。
*11)『二葉亭について』。なお、『内村鑑三』等によれば、白鳥自身にとっても「いかに生くべきか」は重要な問題であった。小林秀雄は未完の『正宗白鳥の作について』(昭和五十六年)でこの点に触れている。小林の絶筆となったこの論考は、『白鳥・宣長・言葉』(新潮社、一九八三)所収。
*12)『二葉亭について』。
*13)『文学者としての逍遥先生』。 


◆この文章は駿河昌樹文葉『トロワテ』4号(2004年1月)に掲載された。

2010年10月9日土曜日

高畑の志賀直哉旧居



明らかに道だとわかる道は、ほとんどいつも愚か者が通る。真ん中の道、つまり中庸、良識、慎重な計画という道には注意するがいい。          
(ウイリアム・S・バロウズ『ウエスタン・ランド』)


 十一月の半ば、ひさしぶりに高畑の志賀直哉旧居を訪ねた折、書斎から若草山が見えるのに気づいた。
以前に来た時、いちいちの部屋を覗いたり、廊下から身を乗り入れて雰囲気が染込んでくるのに任せたりして、その時はその時でのんびりと見させてもらったと思ったが、山が見えることまでは気づかなかった。九月も早い頃で、まだ庭木が盛んだったからだろう。
今回はたまたま植木屋が入っていて、木々の枝を払っているところだった。庭に突き出すように作られた書斎から、若草山がすっきりと望まれた。
書斎の中の志賀の机は、庭側の角に置かれている。この机に向かえば、どちらの壁の窓からも少し離れてしまうから、仕事中、原稿用紙や本に向かったまま、ふと山を望む、ということはできなかっただろう。しかし、休息の折など、椅子を窓際に寄せたりして、ぼうっと山を眺めることはできたに違いない。秋も更ける頃なら、木々に遮られずに、なだらかな若草山の山頂が望まれたことだろう。 
もっとも、志賀が此処に住んだ時に、今あるように机が置かれていたとも知れず、庭木にしてもずっと若く、低かったかもしれない。そもそも、木じたいが代替わりしているかもしれない。
現実に作家がどのように山と対したか、それに拘泥するつもりもなく、山を眺め、書斎を何度も覗き、植木屋の働いている庭を見ていた。
書斎から、このようにすっきりと山が望まれるということが、快い憧れとして、すっと心に入ってきた。

じつを言えば、これに少し驚かされた。
中学時代から志賀は好きな作家だったが、作家としての質とはべつに、志賀のあの裕福さが、彼の作品に触れるたび、こちらの心に抵抗を生んだ。親掛かりだった十代には全く気にならなかったが、いちいちのことが金の問題と絡まって身に被さってくる二十代三十代になってから、はっきり軋みとなって感じられるようになった。文芸趣味は私の今生のありようの核心まで染みたものなので、人生の時々にあたって志賀の作品を読み返すのを避けるわけにはいかない。読み返せば、そのつど教えられるし、感銘も受ける。しかし、やはり作品を通じて親しんだバルザックやスタンダール、ボードレールや、日本に限っても、たとえば太宰や秋成など、生活ではずいぶんと苦労した他の作家たちとくらべて、経済面や物質面での志賀のあの安楽ぶりはどうか、と訝られるところがあった。彼自身での収入では、あれだけの余裕ある生活はとても送れなかったにちがいないし、逆に、もしあれだけの経済的なゆとりがあれば、今あげた作家たちなど、どれだけ落ち着いて、いっそうも二層もよいものを書けただろうと想像される。当然、私自身の不如意も、おのれの能力の貧しさは棚に上げて、この想像には読み込まれていた。
いつか、志賀の生活上の幸運と作品とは切り離して読む癖がつき、冷静怜悧を気取る文学鑑賞の常道でもあることから、それはそれで、若かった私の自尊心を満たしたところがある。文学や芸術における読解や受容の冷静さ気取りは、いつも逃避や脆弱を隠しているものだ。まだロラン・バルトや他の構造主義的批評やロシア・フォルマリスムなどが十分に盛名を保っていた頃で、文芸作品を重力場や磁場のように扱って犀利な解析の真似事をして見せようとしている者が少なくなかった。それをそのまま真似てついていこうと思ったわけでもないが、私も、著名な批評家たちが扱っていない作家や作品についての分析成果を著してみたいとは思った。そのための読書や勉強に割いた時間は、少ないとはいえない。

考え方はいろいろあろうが、ある作家の作品の文学的価値と、彼の生活面に対するこちらの心の反応とを切り離して読むというのは、公平を旨とする科学者ふうの振る舞いのようでいながら、実際には、一種のニヒリズムを心のうちに固定化してしまうような危険なところがある、と今は思っている。
志賀の父親直温は、よく知られるように、銀行家から実業家に転じて巨富を成した人物であり、直哉は、そういう父に反抗しながらも経済的な恩恵を拒否することはなかった。高畑の旧居の作りを見ても、必要とあれば直哉がふんだんに資金を調達できたのがわかる。自分自身の働きのみでなんとか生き延びているような人間なら、志賀直哉のこうした幸運というものを前にして、多かれ少なかれ、羨望や不快の思いが湧いてくるのを禁じるのは難しいだろう。こんな思いにいちいち心を乱されていたのでは、せっかくの名品の鑑賞はもちろん、批評も研究も覚束ない。ここに、生活と作品の切り離しだの科学的批評だのという手管の捻出されてくる必要性が生じるわけで、周知の通り、文学研究の世界では常識的な態度としてずいぶんと重宝されている。
だが、こんな態度ばかりが常道とされてしまっては、実際には、粗暴から繊細の極みまでを一様に収めるべき道楽の場としての文芸は、粗相なくひたすら適度に振舞うだけが能の院生上がりに占められて、メスやピンセットのような冷たい言葉づかいの先に干上がっていってしまうばかりではないか。志賀のような恵まれた作家の、その恵まれた面に不公平を感じたり、父への反抗を言いながら経済的な恩恵を拒否しない態度を偽善と思ったり、そうした中で創作されていった日本語の名品をどう扱うかと迷ったりし続けるというのは、人心とはかけ離れた科学的現象のフィールドのように作品を扱うこと以上に、はるかに重要なことである。自分の心からも他人の心からも逃げられず、刻々の喜怒哀楽や悪心や羨望や劣心に足を奪われながら、読んだり、認識したり、判断したり、書いたりし続ける他ないということこそ文芸に関わる者の第一の覚悟であるべきで、これは時代の変遷には影響されようがない。作品であれ作家であれ、科学におけるようなかたちで対象化することは不可能であり、いかなる場合にも、もどかしさに痺れを切らして擬似科学へ逃げ込もうとしたりせずに、曖昧模糊とも見える無限の人間通への道に、また、幻術そのものというべき言語表現の掴み難さや、対象とこちら側との境界の定めがたさというものに、ずっと踏み止まり続ける必要があるはずなのだ。

志賀直哉という作家本人の生活上の幸福を、見ないように、見ないように、と努めつつ読んできた二十代三十代の頃の気持ちは、今でも忘れられない。あの頃には、高畑の旧宅をまだ訪ねたことはなかったが、数寄屋造りを改造したような、モダンで風雅な家だということは聞き知っていた。それを不快に思ったのを覚えている。書斎から若草山が望めるなどということを知ったら、どんなに嫌な思いを募らせたか、想像に難くない。今と違って、作家の生活への感情と作品そのものとをきれいに切り離して扱っているつもりになっていた頃だというのに、皮肉なことに、切り離したはずの感情が目の裏に張り付いて、さまざまなものを見るまなざしを歪ませていた。冷静に、客観的に作品を見る努力はしていたのかもしれないが、自分にないものを持っている作家の幸福のいちいちにピリピリと傷つき、見ないように、見ないように、と心に蓋をしてまわるような人間による客観視とはなにか。なにほどのものか。ものを見、考える秘訣というのは、冷静さなどというものがいかに怪しいものかを悟り、客観性というカドワカシにももはや乗らずに、今の自分の限界ある能力と条件とを以て、とにかくよく考えようと頭を絞ってみる、ただそれだけのことでいいというのに、たったこれほどのことに、なかなか思い至ることができなかった。
志賀の書斎からすっきりと山が望まれる、それを気持ちよく思い、快い憧れとして、すっと心に入ってくる。こんなことは、つい数年前には、考えられないことだった。

これが志賀直哉の書斎のことであったというのは、人生上のちょっとした符号のようにも思え、いくらか感じるところがある。
自分なりに志賀直哉を発見した時をよく覚えている。中学生の時で、図書館で短編や中編小説を見つけては、好んで読み漁っていた。書架の並ぶ中で、サキやモーパッサンとはまた違った面白さの予感を抱きながら、志賀直哉という名前をくりかえし眺めた記憶がある。
小学生時代からの長い疾患のさなかだった。平気で学生生活を送っているようでも、今から思えば、かなり人生を捨てて生きていた、そう言えるように思う。五年以上に及んだ慢性の病の中で、少年ながらに、他の小中学生が抱くようなさまざまな夢や希望を静かに捨てていくすべを、身につけていかざるを得なかった。捨てなければ、心が焼かれる。夢や希望というのは、そういう危険な両刃の剣なのだ。なにかの折、私にどこか悟ったところがあると言う人もあるが、おそらく、心の準備の仕様もない少年期にあれだけの病を負わされ、そうして生き延びてしまった者がおのずと身に帯びてしまう雰囲気が、未だに抜けないというだけのことだろう。ともかくも、元来、科学や歴史にしか興味がなかったのを文学に向かわせたのは、あらゆるスポーツや運動、生活上のちょっとした無理さえをも私に禁じてきたあの長い闘病生活だった。
お話や物語の書かれている本をたんに読む、という程度のところから、はっきりと、文学を読む、というところへの意識の移行地点に、私の場合、志賀直哉の名が入り込んできた。
そういう志賀直哉の、作品はあれほど認め尊敬しながらも、彼の生活上の幸福を、見まい、見まい、としてきた、もう三十年にも及ぶ長い時期が、たぶん今年、彼の書斎からの若草山の眺めへの気づきとともに、終わった。
心の健常者、というものがあるのかどうか。
少なくとも、自分にとっての〈いい心〉というべきものはあって、もう、そちらへ自分が向かおうとするのを隠しもしなければ、そちらへ進んでいく邪魔もさせない、と思う。
他人の、また、他人にとっての〈いい心〉は、もう、どうでもいい、ということだ。
                                                   (2003.11.30)

◆この文章は駿河昌樹文葉『トロワテ』2号(2003年12月)にも掲載された。