2016年1月5日火曜日

一本針の腕時計

     「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な事件」
                        フリードリヒ・ニーチェ
         

 深夜、しばらく湯に浸かろうと浴槽に入ると、脇の桶の中にカード会社の情報誌があったので、温まりながらページを繰った。いつも、妻は雑誌を見ながら入浴する。それが置かれたままになっていたのだ。
 たいていの記事には興味が持てないが、高価な商品の広告は入浴時の暇つぶしには悪くない。カード会社の雑誌にはけっこうな高級品の広告が並んでいるものだし、商品が鮮明な写真や気取ったミニエッセーとともに紹介されているのはなかなか楽しく、場合によっては小さな充実感さえ味わえる。時計にしても、バッグにしても、ハーレー級のバイクにしても、高級品を買う嗜好は私にはないので、自分のための実地の役には全く立たないのだが、仮に買うとするならば…という視点を仮想して眺め続ける。このページのものより、むこうのページのもののほうが自分にはいいようだとか、質はどうだとか、ウィンドウ・ショッピングよりもいい気な誇大妄想ショッピングを脳中で展開するわけで、時計の値段など、数十万円などというのは安いほうで、数百万円はざら、一千万円を超えるものさえ範疇に入れて、ああでもない、こうでもないなどと考えてみるのだから、お気楽この上ない。
 そんなふうに見るうちに、アントワーヌ・プレジウソというデザイナーが作った《シエナ》という時計に目が止まった。デザインはシンプルで、一見、地味である。高級時計としては値段も安く、74万8000円しかしない。はじめは、実は、つまらない時計と感じて、飛ばして次のページに進んだのだが、しばらくしてから戻って見直したくなった。「世界一優雅な時計」とコピーにある。74万程度の値段の癖に、なに言ってんだか、と思ったが、広告文を読み、写真をよく見直してみて、どこが「世界一優雅」なのかわかった。
 針が一本しかないのだ。
時針しかない。分針がない。もちろん、秒針などない。今、何分何秒かなど、この時計ではわからない。はじめから、「大体の時間しかわからない」ようにできていて、さらに広告文に従えば、「この時計を所有できる人は、もはや分刻みのスケジュールから解放された人である。そして、古の時計に夢を馳せ、優雅な時間を楽しめる人」だということになるらしい。
もちろん、この広告文は間違っていて、書き手が、ヨーロッパの有閑階級がどれほど腕時計をしないものか、実地で見知っていないことがすぐにわかる。時計そのものを付けたがらないのだから、いくら時針だけのものを拵えたところで腕に巻きたくなるわけがない。有閑階級ばかりでなく、ふつうの庶民階級であっても、ヴァカンスなどの際、フランス人たちなどは腕時計を捨て去る。それどころか、日常生活の中でも、腕時計などしない人たちが多い。時間など、知りたい時には、街ですれ違う人に聞けばよい。
こんなふうだから、欧米の商品を日本人に紹介するのはなかなか難しい。ちょっと気取った宣伝文句を書こうとすると、すぐに経験の浅さが露呈する。発想が日本人ふうだということなど、すぐに臭う。だいたい、腕時計など、喜んで付けるのは日本人かアングロ・サクソン系ぐらいの隷属趣味の染み込んだ人種なので、この書き手、どうやら、ラテン系の恐ろしいまでのいい加減さを知らないらしい、とすぐにわかる。フランス人など、毎晩、ベッドに入る時には男女とも全裸になることが多いが、とにかく、なるべく体になにも付けたくないというそんな連中が、ちょっとやそっとのデザイン的な小細工を施した程度で腕時計を喜ぶわけもない。
ヨーロッパはフランスばかりではあるまい、などと反論が出るかもしれないが、そういう反論そのものが、実はヨーロッパについての最大の無知を露呈することになる。ヨーロッパとはフランスのことであって、さらに言えばパリのことである。乱暴な話のようだが、パリやフランスを除いてヨーロッパを語り得るかと考えてみれば、すぐにわかる。そんな概算も含めて、外国についての知というものは成立してくるのだ。
この《シエナ》という商品は、神の手を持つ時計師と言われるアントワーヌ・プレジウソが、シエナのカンポ広場に聳えるマンジャの塔の時計に感動して成ったものだという。14世紀、ヨーロッパに機械式時計が広まっていったが、そのうちのひとつで、当時はほとんどが一本針だった。《シエナ》という腕時計は、それを再現しようとしたものらしい。それとともに、一本針で足りていた時代の精神やゆとりをも再現しようとしている、と広告文の書き手は導いていきたいらしく、最古の時計である日時計も針に当たる部分は一本だったし、昔はそれで十分だった、などと書き続けていく。広告文だから、世界に高級腕時計は無数にあるとはいえ、時針一本の格調高い腕時計はこの商品ぐらいですよ、という結論が読み手の頭の中で響くようにできている。
湯船に浸って、いい加減な頭で眺めていると、なるほど、そんな時計はこの商品ぐらいしかないかもしれない、と思えてくる。そういう意味では貴重な一品で、それゆえに欲しがる腕時計マニアも居たりするものなのか、と…

とはいえ、私は以前、これとは別の一本針の腕時計を見たことがある。自分の腕に付けたことはないが、手に取って見たことはあった。今、湯に浸かりながら見ている時計の写真よりよほど繊細な作りだったのを覚えている。時計の持ち主によれば、それは唯一の試作品とのことだったが、中のムーブメントはしっかり作られていて、量産はできないものの、その現物一本だけはずっと使えるはずとのことだった。

懐かしい遠い話である。
青春のみぎり、勤め先を次々替えて生き延びていた頃、ようやく落ち着いた勤め先で奇妙な仕事を頼まれたことがあった。会社に入って数か月後、本業とは全く違うことなのだが…という話で、社長室に呼ばれた。大男で精悍な体躯の社長は、私が文科出身で、しかも殊のほか文芸趣味の強いらしいのを見込んでのお願いなのだ、と言い置いてから、奇妙な頼みを切り出した。
蓼科高原に別荘があり、そこにひとりの老人がいる。元気そうだが、じつは末期ガンに罹っていて、長く保ったとしても数年ほどの余命だろう。その老人の世話を引き受けてはもらえないか。月々の給与はちゃんと出す。それどころか、社で普通に働いてもらうよりも遙かに多めに支払う。おそらく、一年もせずに亡くなることになろうが、そうしたら、また社に戻ってきて、普通の業務に就いてもらいたい。
こういった内容の話だったが、もちろん私は、看護師免許など持っていないし、病気のお年寄りの世話のできるような心得は全く持っていない、と答えた。すると社長は、そんなことは気にしないでいい、ちゃんと看護師が付いているから、身体的な看護はそちらに任せればいい。君に頼みたいのは、精神的な世話とでもいうか、秘書的な仕事とでもいうか、そんなことのほうで、なにも心配するには及ばない。ただ、我儘な老人なので、昼夜を問わず、なるべく頼みを聞き入れて世話をしてやってほしい。睡眠や食事の時間は、もちろん、ちゃんと取ってもらってかまわないが、老人がもし夜中に君を必要とするような場合には、悪いが、うまく生活を合わせて付き合ってやってもらいたい…
頼みのかたちで切り出されたとはいえ、入社して数か月の新入社員にとっては社長命令に等しいもので、私はすぐに受け入れて、その週のうちに下宿を引き払い、蓼科高原に赴いた。
待っていたのは93歳の温和な老人で、私に任された仕事の内の主なものは、彼のために本や新聞の朗読をしたり、彼が執筆するのを補助したり、資料探しをしたり、時には代筆したりという作業だった。老人は作家だったのだ。しかし、全く無名の。彼は一冊も出版していなかったし、仮にどこかの出版社に原稿を持っていったところで、本になるはずもなかっただろう。日本の文芸界の抜きがたい感傷性好みは、世界文学を好む者なら誰でも知っているが、そんな文芸風土には全く向かない作風だった。彼の作品は、しかも、19世紀風の小説の型には収まらないもので、ジョイスやプルースト、フォークナーなどの後で書いているのを強く意識したもので、散文から詩になったり、論文ふうに変わったり、断章が並んだかと思うと、また散文になって、延々数十ページも風景描写が続くといった塩梅で、若かったとはいえ、様々な文学作品を見てきていた私には、現代文学の最前線に果敢に挑んでいる作品と見えた。少なく見積もっても、クロード・シモンの凄みには拮抗しているように感じられた。幾つかを平行して創作していたが、私が到着した時点で、すでにどの作品もドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』より長かったし、一作などはプルーストの『失われた時を求めて』より長いのではないかと見えた。日本のこんな高原で、友もなく、読者もなく、批評もされず、たったひとりの頭脳だけでこんなに大量に書き続けているという事実に私は圧倒され、敬意や脅威を持つというより、壮絶な哀れさを豪雨のように浴びた気持ちになった。彼の書き継いでいるこれらが、どうしようもない下らないものだったら、私はかえって楽だっただろう。その場合、自分の能力の無さや執着の異常さに自ら気付けない老人が、老いの日常を創作という夢に縋って書き継いでいるというだけのことになり、ひとつの症例として見続けていけばいいからである。しかし、すぐに全容を見通すことはできなかったとはいえ、私が目のあたりにした部分だけを見ても、彼の執筆しているものは、決して軽んじ得るようなものではなかった。すぐに惹き込まれるとか、感動するとか、感心するとか、そういった文章ではないが、これは私などを遙かに凌駕した精神から出てきている言葉の奔流だということぐらいはわかった。
老人が、若過ぎた私では到底太刀打ちできないようなレベルの文学者であるということはそれでいいとしても、全く発表もされない厖大なこれらの紙束の増加を、いったいどうしていけばいいのか。社長が言ったように、本当にこの人が数年以内に、あるいは一年以内に亡くなっていくのだとしたら、彼が書き溜めたこれらの言葉はどうなるのか、どう扱われるべきなのか。他人事ながら、それを思うと、ひどく心細い気持ちになり、眩暈がするようだった。
しかも、これはさらに私の能力を超えた話になるが、老人が執筆に用いる言語は日本語だけではなかった。リヒティエン・ムーキェイという名のこの老人がどこの人なのか、じつは私はとうとう聞き出せないで終わってしまったのだが、ヨーロッパ生まれで、長くフランス語で暮らし、英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、ロシア語で物を書き、ラテン語やギリシャ語を理解していたのは、身近にいながら見てとれた。韜晦趣味の深く染み込んだ文学者だったので、「私は何人でもない。私には国籍はない」などと嘯いていて、とうとう最後まで詳しいことは教えてもらえなかったが、ドイツ語の趣のある姓名や、そのわりにはドイツ人らしくない雰囲気、どちらかといえばフランス中心の教養のあり方などから、複雑な背景が想像された。
彼はよく詩も書いたが、日本語だけでなく、フランス語や英語、イタリア語でも書いたので、朗読してくれながら、
「マサキ、君に日本語しかわからないのが残念だ。今日書いたこの詩の響きを君に確かめてもらえたらと思うんだよ」
 そんなふうに、よく私に言ったものだった。私が各国語の習得に強い興味を、というより、衝動を、義務感を、切迫感を持つようになったのは、この人のそばにいたからだった。
 
 私が以前に見た一本針の腕時計というのは、この老人作家、リヒティエン・ムーキェイが持っていたものだった。普段は腕にはしていなかったが、散歩に出る際に腕につけた。
 珍しい一本針なのを自分でも楽しんでいたし、私にもよく見せてくれた。彼の従妹のひとりが、20世紀前半、女だてらに時計職人を志し、変わったデザインの時計をいろいろと試作したうちのひとつだということで、世界にたった一本しかない一本針の腕時計なのだ、と彼は言っていた。
「その従妹は、どうなったんです?」
 こう聞いたことがあったが、
「ああ、彼女はね、マサキ、彼女は…」
 そう言ってリヒティエンは、白樺の林の上のほうを仰いで、言葉に詰まってしまった。話しづらいことも、いろいろあるのだろう。私はその後、それ以上、彼の従妹について聞くことはなかった。
散歩の時、高原の林や、草原の脇を歩きながら、彼は時々、この時計を覗いた。なるほど、リヒティエンは分刻みの生活を強いられていたわけではなく、だいたいの時間さえわかればいい生き方をこの頃はしていたので、持ち主としてはうってつけだったかもしれない。時計など見なくても、空や風景の光の移り行きを見ていれば、だいたいの時間はわかったほどなのだ。時計の文字盤を見る時、リヒティエンは、周囲の雰囲気との一致を確かめるようにしていたのではないかと思う。
アントワーヌ・プレジウソの《シエナ》の広告文には、「実はこの時計では、大体の時刻しかわからない」とあるのだが、実際に何度もリヒティエンの腕の時計で時間を読み取った私の経験によれば、これは全くの嘘であり、大きな間違い、完全な錯誤である。時針一本だけの時計でも、何分かはかなり正確に読み取れる。
文字板には1から12までの時刻表示の間に、たいてい、30分を示す表示が付けられている。そうであれば、時の表示と30分の表示の間の空間の真ん中は15分ということになる。15分の表示となる点や線がなくとも、それを目算するのは容易である。あるいは、時の表示から30分の表示までの間を目算で三等分するのも存外に容易で、現在時が0分から30分の間のどのあたりかを知るのは、実はそう困難なことではない。見慣れてくれば、分単位でかなり正確な時間が直感的に把握できるのだ。

 リヒティエン・ムーキェイのことや、当時の私の生活のことについては、いわば、一本針の時計のような趣で、ここで私は中途半端に語りを止めるつもりである。もののわかりやすさや、ある対象についての最低限の把握を重視するかぎり、これはもちろん好ましからぬ文章姿勢なのだが、一本針の時計について語り出したかぎりにおいては、個人的な人生上の情報について、十分な開示を行ったものと感じる。
しかも、語りを形成するとりあえずの筋の役割を担った一本針の時計に倣って、話の分針に当たるものも秒針に当たるものも意図的に抜いておくというのは、実用文や論文の類を逸れようとする散文行為においては、なにより推奨されるべきものと言われるべきでもあろう。「論文は、書かない」というニーチェの宣言をここでうっかり思い出したりするのは不遜の極みであろうが、ボルヘスやレイモン・クノーの味わいを呼び起こしながら、「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な事件」である『ツァラトゥストラ』を、世間が「一種の高級な文体練習」としか受け止めなかったとニーチェが苦く感じていたことぐらいは思い出しておいてもよいかもしれない。
私は「一種の高級な文体練習」を装いながら、リヒティエン・ムーキェイとの出会いと日々という、あの「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な事件」の片鱗を、今、はじめて言葉に落とし、…そうして、ここでは猶、片鱗以上のことは言うまいと努めなければならないと感じているのだが、それでも、なぜあの会社の社長が、リヒティエン・ムーキェイの世話をしていたのかについてだけは、少し記しておかねばならない。社長の「魂(ゼーレ)の、最も深い、まさに決定的な」恋人がリヒティエンの姪だったためであり、このことは社に帰ることになった後に、社長自身の口から聞いた。
もちろん、それ以上のことを今の私は知っているが、それらについて語るには、珍しい時針のみの腕時計をめぐって、たいした準備もせずに不用意に書き出してしまったこの小文とは別の、もっと長い周到な散文を器として準備し直す必要が、どうしてもある。

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