2012年6月23日土曜日

佐佐木信綱の「秋風の家」

――大伯皇女や人麻呂に遡りつつ



 佐佐木信綱が妻雪子に死に別れたのは、昭和23年、77歳のことである。家事はもちろん、その他の雑事や、信綱が主宰していた短歌結社雑誌《心の花》の作業も担ってきた長い連れ添いの死だった。
連作「秋風の家」に、次のような歌がある。

人いづら吾がかげ一つのこりをりこの山峡の秋かぜの家
呼べど呼べど遠山彦のかそかなる声はこたへて人かへりこず
山かひのさ霧が中に入りけらしさぎりよ晴れよ妹が姿見む
ちさき椅子にちひさき身体よせゐたり部屋をふとあけておこる錯覚
この秋や暮れゆく秋の寂しさの身にしみじみとしみとほるかも
あはれとのみ思ひて読みきエマニエルをうしなひし後のジイドが日記
まさやかに見えつつもとな夢人の影追ひ()くとよろぼひあゆむ
人いゆき日ゆき月ゆく門庭の山茶花の花もちりつくしたり

 もともと露骨に感情の起伏を表出させるような歌人ではないが、すでに高齢であったためもあろう、歌ぶりは静かで、自分や自分の感情を収めるべき風景のフレームも見失われておらず、安定している。

「この秋や暮れゆく秋の寂しさの身にしみじみとしみとほるかも」では、長年連れ添った格別の存在を失った老夫の歌としてのそぶりを全く見せていない。歌人として、すなわち心身をめぐる一切の物事の移りゆきの受けとめ手として、全方位感覚者として、単に、秋がとりわけ痛切に感じられた際の心象の造形かと思わされる。全生涯の歌から順不同に選歌した集の中にこれを雑ぜれば、感覚の研ぎ澄まされた或る秋の歌としか見えないだろう。妻との死別は、この歌の中で、秋そのものが沁み出させうる情感の中にすっかり紛れ込んでしまっている。これは逆に言えば、これから、あらゆる秋というものが亡妻と分かちがたいものになるということであり、大げさにいえば、過去現在未来のあらゆる秋が亡妻そのものとなるということでさえある。誰もが普通に使う「秋」という語、信綱自身も何度となく作歌に用いた「秋」が、この歌においては、なんらあからさまな手管の弄されることなく、これ見よがしな表示も伴わせずに、変容させられている。

 信綱の歌には、概して、読者が理解しづらいようなものは少ないが、「ちさき椅子にちひさき身体よせゐたりし部屋をふとあけておこる錯覚」も、とりあえずは、とてもわかりやすい歌である。老妻の自室であろうか、居間であろうか、日頃、小さな身体をよせて座っていることの多いお気に入りの椅子があったのだろう。亡くなった後も、なにか言おうとして、ふと、その椅子のある部屋に向かい、戸や襖をあけてみる。椅子に妻の姿がないのを確かめる前に、ああ、そういえば亡くなってしまっていたのだったな、と気づく。ときには、からっぽの椅子を見て、ようやく気づくというような時もあるかもしれない。「錯覚」は、亡妻がまだ生きているかのような気持ちになったことを「錯覚」と言っているのだろうが、あるいは、からっぽのはずの椅子に妻の姿がありありと見えるような思いのことも言っているのかもしれない。
 若い歌だ、という気がする。老いた心の成す歌ではない。「錯覚」という言葉づかいから、心の若さが来る。妻を失ってからの自分の心や意識の動きのすべてを、自然なものとして受け入れてしまってはいない。「錯覚」と言うのは、腑に落ちないところ、違和感などがあってのことなのである。違和感を持ち、腑に落ちないと感じ続け、現象や物象をあくまで自我にとっての異物として認識し続けるのは、精神の若さから来る。こんなところまで考えさせるのが、信綱の歌の面白いところでもある。

 若いといえば、77歳にしてジイドの日記を読んでいるのも若いだろうし、(ジイドは1869年生まれ、信綱は1872年生まれでほぼ同世代だが、翻訳を通して接する外国文学としてのジイドの受容ということを考えれば、77歳というのは驚くべき柔軟さであろう)、「人いづら吾がかげ一つのこりをりこの山峡の秋かぜの家」において、「吾がかげ一つのこりをり」と自己イメージを切り出して浮き上がらせる点も若い。これは若者が無意識に行いがちな詩作の方法である。
この点については、いろいろなことを考えさせられる。77歳の信綱に残る若さが、自我をなおもこのように捉えさせるのか。それとも、自我の扱いにおいて、信綱には意外に未発達な部分があったのか。世界文学においては、周知のごとく、自我の大家たるシャトーブリアンが70代になっても自我にこだわって語り続けたが、彼から始まった自我学としてのロマン主義が信綱にまで流れ込み、そればかりか、老齢に達してもなお自我へのこだわりを捨てないシャトーブリアン流の思索術、文芸術が、戦後日本の信綱にまで、やはり自我の大家だったジイドを経て、脈々と継承されでもしたのか。

若いということに関して見てみれば、歌の中に作者の動きが詠み込まれている場合の多いのも注目される。「呼べど呼べど」もそうだが、「山かひのさ霧が中に入りけらし」、「部屋をふとあけておこる錯覚」、「影追ひ及くとよろぼひあゆむ」などでも、作者がしっかり自分の身を動かしていて、しかも、作歌に向かう場でそれを意識し、描き込んでいる。これらの行為が作者によってなされなければ発生しない心境や詩境が表現されており、それが狙われている。文芸表現においては、現実の作者が動いていようがいまいが、それは問題にならない。文芸的身体は意識なので、動いたという意識を種子として作歌されているかどうかが肝要であり、その意味で信綱は確かに動いている。身体イメージの移動、身体イメージにおける行動、それを設定することで、詩を作り出す思いと感情とイメージのうねりを引き出そうとする。そういう作り方を選んでいるということである。
もちろん、詩の始原となる運動を置く作歌法がそれ以外のものより優位に立つべきだと言いたいわけではない。また、そうした運動イメージの使用を「若い」とばかり呼び続けるのも安易にすぎるだろう。しかし、1872年(明治5年)に生まれた歌人にして、正真正銘の国文学者であり、正六位勲六等文学博士でもあったこの人物の77歳時点の歌に、「若い」という形容を与えてしまう軽薄さと安易さの快楽には、やはり多少なりとも身を委ねたい思いになる。晩年のハイデガーならば、「若さ」を哲学用語に鍛え直さんとして思索していったかもしれない。

悲しみや喪失感の生々しさの欠如――、そういうものをそこに見る読者もいるかもしれない信綱の亡妻の歌は、やはり、自他および古今の短歌というものの総体的な場にむけて作られており、歌の発火点としての運動イメージについての方法的な問題意識という筋も通されていたのだろう。それらは、少なくとも作歌の時点において、凭れかかるものなき感情そのものの燃焼を阻み、多様な心層と思層の併行運用を強いられ続ける人間生活において、作者をむしろ救ったともいえるだろう。
しかし、一方、悲しみにせよ寂しさにせよ喪失感にせよ、それらに近い言葉を、筆先に記してみようとするそばから、あるいは記してみたそばから形骸化するのを、おそらく彼は味わったに違いない。それらにあまりに近い古典的なイメージの描出の試みも、同じ思いを彼に与えただろう。どうすれば、悲しみは、寂しさは、喪失感は表出されうるのか。まるで初めてのように、根源的な、原初的な、しかし、いかにも初歩的な作歌のそうした問題の前に立たされ、これが挽歌における古来の全問題でもあることから、創作を担う大脳分野を愉しく震えさせつつ、今を生きるうつそみとしては途方にくれながら、疑うまでもなく、万葉学者として、たとえば大津皇子を失った大伯皇女の歌を思い出し、かつてなかったほどに深く、しみじみと味到したに違いない。
その大伯皇女の歌を振り返ってみる。


大津皇子の薨ぜし後に、大伯(おほくの)皇女(ひめみこ)、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌二首*

() 神風の伊勢の国にもあらましを何しか来ける君もあらなくに
(厳しい神風の吹く伊勢にいたほうがよかったのに、なんで帰ってきてしまった   のかしら。弟よ、もうあなたもこの世にいないのに)


見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来ける馬疲るるに
(弟よ、会いたいと願うあなたももういないのに、どうして私は帰ってきてしまったのか。馬が疲れるばかりというのに)


大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首

うつそみの人にある我や明日よりは二上山を(いろ)()と我れ見む
(私だけは、まだ、この世の人。明日からは、あの二上山を弟として見続ける私)

磯の上に生ふる馬酔木(あしび)()()らめど見すべき君が在りと言はなくに
(磯の上に生えている馬酔木を手折りたく思うけれど、それを見せたく思うあなたはもういないんだわ。まだ生きているよ、どこそこで出会ったよ、とは、誰も言ってくれない…)



 あるいは、柿本人麻呂の「妻死にし後に泣血哀慟して作る歌」の長歌と短歌のほうに、よけいに信綱は惹かれたものか。人麻呂の長歌には、信綱の「呼べど呼べど」の原型となる「妹が名呼びて袖ぞ振りつる」という表現も見られる。短歌も、大伯皇女よりも控え目な哀傷の表現を採っている。
人麻呂の長歌、短歌も振り返ってみよう。長歌のほうは、名編とはいえ、さすがに現代では調子が掴みづらいので、思い切って、現代語での自由勝手な翻案を以下に掲げてみる。短歌のほうは伊藤博氏による読み下しの原文を出し、とりあえずの軽い訳をあててみる。


柿本朝臣人麻呂、妻の死んだ後、ひどく悲しんで作った長歌二首と短歌**


軽の市
いとしいあの娘がいるところ
通っていって
何度でも
会いたかったが
たびたび行けば
人目にはつくし
知られるし
やがては会おうと
未来を頼み
岩囲いされた淵さながら
ひっそり秘めて
恋うていたのに――

渡る陽の
暮れゆくように
照る月の
雲隠れするように
沖の藻の
ように靡いて
親しくも
纏わりついた
あの娘
もみじ葉の落ちゆくように
逝ったよと
使いの者が言うのだよ

言葉も出ず
動きもならず
知らせにも
納得もいかず
わが恋の千の一つも
慰めようと
走り出て行く
軽の市
あの娘がいつも
外に出て
立っていた市
そこに立ち
耳を澄ませば
畝傍山に
啼く鳥の声も
あの娘の声も
ともに聞こえず
道を行く
人ひとりさえ
あの娘には
似ても似つかず
しかたなく
名を呼んで
あの娘を呼んで
いつまでも
袖を振り振りし続けた


短歌二首

秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも
(秋山の黄葉の茂みに惑い行ってしまったあの娘、探したいけれど、ああ、その山の道がわからない)

黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ
(黄葉の散る頃、よその人へ愛の使いを届ける者が通っていくのを見ると思い出すのだ、会っていたあの頃を)




いつまでも
世にあるものと疑わず
あの娘が
この世にあった頃
ふたりして
とりかざし見た
槻の木は
突き出た池の堤にあって
あちこちの
枝には春の葉が茂り
その茂るさまさながらに
ふかく思った
大事な娘
ずいぶんと
頼りにもしていた娘

世の中の
むなしさ
無常のさだめには
しかし背けず
陽炎の
燃えたつ荒野に
純白の領巾(ひれ)に被われ
鳥のように
朝はやく発ち
夕暮れの
入り日さながら
隠れ去り

形見に残る幼子が
慕って泣けば
与えてやれる
ものさえもなく
男というに
子を抱え
かつてふたり寝た
離れ屋に
昼はうつうつ寂しんで
夜は嘆息しつつ明かし
歎きつづけ
しかたもなしに
慕っても
逢えるわけでもないものを

大鳥の羽の
合わさるように見える
山にあの娘がいるのだと
人に言われて
岩よじ登り
難儀を忍んで来てみたが
生きていた
あの娘の姿かたちなど
ほのかにも見えず
このように
歌うほかなき
わが思い


短歌二首

去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども(あひ)見し妹はいや(とし)(さか)
(去年見た秋の月はあいかわらず照っているが、これをいっしょに見ていたあの娘は年々離れていってしまう…)

(ふすま)()引手(ひきで)の山に妹を置きて山道(やまぢ)を行けば生けりともなし
[天理市南の]衾田の地の引手の山に、あの娘は本当に生きているというのか?山道をたどり続けているが、そんな気配さえないではないか…)



 万葉集のこれらの歌の後では、信綱の歌に戻る必要もあるまい。これらの歌に信綱がいるのである。信綱の本意でもあろう。彼の歌はどれも、万葉集のほうを見よと指挿し続けてもいたのだから。






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*伊藤博訳注・角川文庫版『万葉集 一』(2009)、118ページから119ページ。巻第二、挽歌、一六三番から一六六番歌。
**伊藤博訳注・角川文庫版『万葉集 一』(2009)、141ページから146ページ。巻第二、挽歌、一六三番から一六六番歌。

☆訳は、伊藤博氏他の訳を参考にしつつ、大きく変更した翻案である。ことに長歌については、現代の自由詩ふうの形式で訳せばじつは親しみやすいものになるだろうとの実感から、古典注釈書にありがちな文章ふうの訳し方を採らず、改行の多い分かち書きの形式を採った。
☆佐佐木信綱の短歌に関わる文章なので、万葉集のテキストは岩波文庫版の佐佐木信綱編『万葉集 上巻』(1927)から引用すべきかもしれないが、現代では伊藤博氏によるテキストのほうがより一般的であろうと考え、こちらのほうを採った。




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