2012年2月13日月曜日

島木赤彦、短歌革命の開始



生活精神の統一から我々の歌は生れて来る。簡単な生活は統一されやすく、複雑な生活は統一されがたい。統一に難きほどの生活を統一し得る多力者が歌人に現れ来たらんことを私は望んでいる。
『随見録』




 二月は、島木赤彦が胃ガン手術不可能と診断され、余命わずかであるのを観念せざるをえなかった月である。
一九二六年一月に胃ガン宣告をされ、三月二十七日に亡くなることになる。
 古い話ではある。
しかし、五十一歳で亡くなった赤彦が残した歌の数々には、私はたびたび立ち返り、そのたび、詩的瞑想とでもいう境に入るのを楽しんできた。得がたい詩境を開き、残してくれた先達のひとりであった。
 近代に入ってからの歌人は、若くして歌集を出すことが多い。赤彦は、一九〇五年に大田水穂と合著の詩歌集『山上湖上』を出したが、そこでは彼は詩を発表している。一九一三年に中村憲吉と出した合著『馬鈴薯の花』こそが、彼の第一歌集だった。
三十八歳であるから、短歌形式一本で立つ歌人としては早いとはいえない。彼はそれまで、長野県での教職経験をすでに積んでおり、明治の終わりには小学校長や視学も勤めている。養鶏を業としていた時期もあった。歌集刊行の翌年、一九一四年に諏訪郡視学を退職し、上京して「アララギ」の編集に当たることになる。淑徳高等女学校で国語・漢文を教えながらではあるが、彼の中ではむろん、歌人としての自分を宗としていただろう。亡くなるまで、実質的な活動期間はあと十一年ほどしか残されていなかったが、いわゆるアララギ歌風の確立をこの短期間に遂げてしまうことになる。
 『馬鈴薯の花』を編むにあたって、赤彦は、十首ほどを例外とし、明治四十二年(一九〇九年)以降の歌のみを掲載した。それ以前に作った一千首ほどはすべて棄てたという。生活も思い切って改めたが、創作上でも革命を断行したものといえる。作歌や詩作をする者なら、ある時期以前の多くの自作を棄てる困難がわかるだろう。三十代も後半になってからのこうした決断は、今後いっそうの質量の作歌ができるとの確信や作る覚悟がなければ難しい。同時に、自らの青春とそこでの産物を捨て去る覚悟も必要とされる。昔取った杵柄の中に埋没して老いていく詩人や歌人は多いが、赤彦の行動はこうした轍を踏むまいとするものだった。これは、近代以降、ともすれば青年期のすさびと限定されやすい詩歌行為を、全年齢の人間が関わるべき行為として、ことに、人生経験を積んだ壮年老年の人間たちこそ関わるべき知的活動として再生させ直そうとする個人的な戦いでもあった。
 このような経緯は、『馬鈴薯の花』の歌に触れる時、特に知っていなくてもよい。赤彦自身の詩的革命遂行の衝撃は、作品そのものから直に来るからである。赤彦の歌境は、彼より後、現代に到るまでの幾多の若い青年歌人たちが作り、発刊して世に問い、当然ながら程なく忘れ去られることになった、浅い詩境から成る無数の若書き短歌をあらかじめ超克し、否定し去っている。彼の歌は、時流に流されず、数世代の偏った趣味にも汚されずに詩歌の泉に立ち続けようと求める者にとって、たえず立ち返るべきものとして、騒ぎ立てることなく、静かながら強烈な発光を続けている。たとえば、この歌。

森深く鳥鳴きやみてたそがるる木の間の水のほの明りかも

 歌以前に、自然や生活に対する態度において、じつに要求の多い作品といえる。黄昏時、鳥の声も止んだ森深くの水のほのかな明るさを見続け、それを意識のなかに引きとどめ、そうして歌のかたちで表現しようとする。心をこのイメージに留め、言葉をさまざまに集めながらそこに沈潜しなければならないので、作歌にはもちろんかなりの時間がかかっていくが、それ以前に、他の対象を棄ててあえてこれを選び、ここに留まり続ける精神が形成されていなければならない。たった一行の歌、たった数行の詩が成るには、このように、土壌というべき精神のあらかじめの形成がつねに必要で、そこにはしばしば何十年の歳月が費やされねばならない。若干の天才を除き、多くは流行りの小手先の理知で拵えられがちな若者の詩歌なるものが、つねに、ほぼ全否定されねばならない所以である。
 使用された文字数や音数、文字づらのあり方、韻律との兼ねあい、そしてなによりも、自我という雑音の削ぎ落しのさまの見事さにおいて、赤彦のこの歌は、世界の古今東西の詩歌の中でも最上位に位置する傑作である。これが一九〇九年に日本語で作られてしまっている。その後を引き受けた二十世紀の詩歌人たちの創作が苦しくなっていくのも当然だっただろう。
 
花原の道はきはまる森の中の静けさ思へば鴨鳴くきこゆ

げんげ田に寝ころぶしつつ行く雲のとほちの人を思ひたのしむ

妻子らを遠くおき来ていとまある心さびしく花ふみてあそぶ

げんげんの花原めぐるいくすぢの水遠くあふ夕映も見ゆ

夕日さすげんげの色にかへるべき野の家思へばさびしくありけり

 最初の歌と同じく、これらはすべて明治四十二年の歌だが、ここには、当時の赤彦の歌の特徴のひとつである距離感の導入と、それが意識にもたらす効果についての検討が顕著である。「思へば」や「思ひ」は、心的対象の現時点での不在と、しかしながらの心的な実在、それへ向かっている意識状態を同時に表わす。そのため、「遠く」や「とほちの」などと同等の機能を持つ表現であるが、いわば、〝離れ〟にこだわる歌が、『馬鈴薯の花』に採られた明治四十二年の作品としてこれだけ並ぶのも興味深い。ここには明らかに赤彦の精神構造と詩法が露呈しており、一首ずつの作歌の都合上でたまたま採用された演出法ではなかった。離れること、離れたものを思うことからしか、三十代後半の赤彦の心にかなう歌は生まれ得なかったか、と思われる。ちなみに、「妻子ら」や「野の家」が離れた対象とされているのを見れば、「とほちの人」もおそらく家族を指すのであろうし、「森の中の静けさ」や「いくすぢの水」なども、家族と同じように心を安らがせる対象として捉えられているものだろう。
 明治四十三年にも、

   冬野吹く風をはげしみ戸をとぢて夕灯をともす妻遠く在り

という歌があり、現在自分のいる「冬野」を「吹く風」の激しさの中で、遠い「妻」への思いを募らせ、そこに歌の発生を図っている。
しかしながら、ぐっと〝離れ〟の導入を後退させた次のような歌も増えてくる。

草枯の野のへにみつる昼すぎの光の下に動くものなし

冬枯の野に向く窓や夕ぐれの寒さ早かり日は照しつつ

ところどころ野のくぼたみにたたへたる雪解のにごり静かなるかも

かかる国に生れし民ら起き出でて花野の川に水を汲むかも

さ夜ふかき霧の奥べに照らふもの月の下びに水かあるらし

小夜ふかく炬燵にゐつつ庭つづき原なることをさびしみにけり

 いま現在の視野の内に発生するような物と物相互の間の距離、〝離れ〟は別としても、作歌において、過去と現在の時間差に象徴されるような、意識内部に発生する距離の削除が行われるようになってきている。現在視野の中のみの物象だけを扱い、それらが作者と読者の意識に生じさせうるものを歌の発生源とし始めている。
「草枯の野のへにみつる昼すぎの光の下に動くものなし」は、この点、象徴的な歌ともなっていて、「光の下に動くものなし」というのは、現在視野にある以外の意識内部のものは無視する、すべきである、との宣言にもなっているかのように見える。
もちろん、起き出てきた「民」を形容する「かかる国に生れし」などは、現在視野の外の知識と思考から来る不純な表現のままであり、「さびしみにけり」という自己の感情状態の断定も無用のもので、赤彦は以後、これらの表現の厳しい削除に立つ作歌に向かっていくことになるだろう。
赤彦の短歌革命はこのように始まった。過去と現在というものの関係の比較的安易な扱いは、それまでの文芸にたびたび見られるものであり、ことに前時代のロマン主義文学の特徴であったが、赤彦はここに根本的な反省を導入したといえる。抒情の器とのみ見誤られることも多くなってきた近代短歌だが、一九〇九年以降の赤彦の作歌は、世界文学の中での詩歌の傾向のひとつとしてのみならず、言語表現をよすがとしながらの精神性探求のあり方のひとつとして、くり返し再考されるべき価値を有しているのは疑うべくもない。



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