2012年2月28日火曜日

意識を落とす



      「私は薔薇の上に寝ているのか?」
(スペイン人による処刑時、アズテク帝国最後の王ガティモジンが灼熱の炭火の上に寝かされた際の言葉)



危篤の報を受けてHの入院する病院に駆けつけた時、すでに彼女は逝った後だった。
日曜日で、その日担当の若い医師は、午前4時頃から、異状を告げるべく数回私の携帯電話に電話してきていたが、就寝時、私は携帯電話を書斎に置いているので気づかなかった。書斎は寝室からは少し離れていて、深く寝入っていれば携帯電話の音は聞こえない。病院には家の固定電話の番号も教えていたので、病院側はまずそのほうに電話するべきはずだったが、どういう手違いでか、携帯電話にのみ医師はかけ続けた。
問題含みの臨終だったが、それでも死の床に横たわるHを見ながら、私にとって最悪と思われる事態は回避できたと感じた。「意識を落とす」ということをHには施さずに済んだと思い、まだ温かい遺体の頬や額に手を差し伸べた。
死後三十分が経っていたが、顔を見つめるうち、Hの眦から涙が滲んだ。こういうことがあると話には聞くが、本当にあるのだと思った。
この涙については、様々な感情や思いがある。それらについては別の場所で書くかもしれない。ここでは「意識を落とす」ということの周囲に話を絞り、幾らかごつごつした粗い考察メモを記すことにしたい。


 2010年の春から夏にかけ、卵巣ガンおよびガン性腹膜炎で闘病中だったHの腹水や浮腫は極度にひどくなった。自宅での生活は不可能になり、駒沢にある独立行政法人の大病院に四カ月入院し続けることになった。
穿刺して毎日3000CCほどの腹水を排出していた頃、担当医師としばしば話しあったのは、今後発生しかねない痛みへの対処のことだった。
卵巣や腹膜のガンということもあってか、発症以来、本人はまったく痛みを感じないできていた。幸いなことというべきだったが、この先、ガンの進行や転移のぐあいによっては、患部が神経近くに触れるような場合、痛みが出てくる可能性はありうる。鎮痛剤で緩和できる程度の痛みならばいいが、継続的に激痛を覚えるような事態になったらどうするか、ということが話題の中心だった。
その場合には意識を落していくことになります、と医師は言っていた。
意識を落とす、と言われると、医学的にしっかり管理された措置を冷静に表現したように聞こえるが、要するに、故意に意識を朦朧とさせたり、失わせたりする、ということである。強力な鎮痛剤と睡眠剤、あるいは麻酔を使用し、強制的に意識を失わせて肉体のみを維持しようとする意思の、冷静かつ機能主義的な言表である。
医学は、病気を含む身体的異状をよりよい状態に向かわせるための知の集積であり体系であるはずだから、その立場から発せられる言葉は、ふつう、希望の方向を向いているべきである。「意識を落とす」という言葉も、もちろん、耐えがたい痛みを緩和するという希望の方向を向いている。しかし、この場合の希望は、人間にとって生命そのものを意味するともいえる意識活動を低下させ、場合によっては停止させることと引き換えに得られる希望で、「意識を落とす」という表現を反芻し、実際に起こるはずのことを想像すればするほど、この措置の重大さが思われた。
こういう措置が選択肢として目前に迫ったことは辛かったが、冷たさや怒りを覚えたわけではない。医学は、身体を扱う際の再現可能な人類の経験知と普遍的技術の総体であり、そういう知的・技術的体系がHの末期ガンを前にして「意識を落とす」措置に言及したということは、現在の人類にとって、あらゆる可能性を考慮した結果として、ほぼ、他の方法はないと判断されるということを意味する。
末期ガンという病気の性質上、これは回復を見越した一時的な措置というわけではない。肉体の死の前に、あらかじめ「意識を落とす」措置を採り、意図的に植物人間化し、ガンの進展により肉体が機能不全に陥って死に到るのを待とう、ということである。
人は日常生活の中で、思いもよらぬ瞬間、ふと、人類の能力的限界に直面することがあるが、Hの病状の見通しを考える中で医師の口をついて出た「意識を落とす」という措置は、今の人類が直面している知的技術的限界のひとつに、Hも私も医師も逢着したということだった。病んでいる個体はHではあるが、ここでは、個体Hは患者側の立場に立つ際の人類を代表しており、一方、治療者側の人類を代表する医師が、人類としての自らの知的・技術的限界に突き当たっている。
人により見解の相違はあるものの、知的生物である人間にとって生命そのものとも言える意識、感覚したり感じたり考えたりする主体としての意識活動、それを「落とす」ことまでして、ここでは苦痛を避けさせようと企てられ、肉体の生命を守り、維持しようとしている。
この肉体の生命と意識活動との関係、価値のあり方などを、どのように考えたらいいか、と私は思った。より正しく考えようとするならば、身体的苦痛の扱い、その意味や価値の捉え方(たとえば、宗教的修行のある種の見地からは、身体的苦痛には独自の価値があり、単に軽減すればいいものではない)、さらには生命の終焉についての認識や扱い方などの諸論も、ここでは読み込んで考察されなければならないと思われた。これらを総合的に視野に収めつつ考察しようとするならば、私という思考主体は、医学知という人類知のうちの限定知内部に立ってはならず、その外部に立って、歴史学や文化人類学、古今東西の思想史を含む、より広大な人類知を総動員させなければならないと思われた。
「意識を落とす」ことまでして痛みを軽減させ、肉体の生命を維持しようと医学知が試みるというのは、医学知において、意識活動の価値が、肉体の生命の価値の中に包含され回収されることを示す。あるいは、意識活動の価値が、肉体の生命の価値を基盤としてのみ成立するという見解を示している。私としては、末期ガンの苦痛緩和が問題となるような場面において、このように明瞭に発現してくる思想、意識よりも肉体の生命を優先して保持しようとする思想の是非を考えねばならぬと思ったわけではない。こういう思想を支えている思考構造が、古代エジプトのミイラ作りのみならず、現代にも続く墓所の維持行為、遺体や遺骨祭祀行為をも支える思考構造に、大枠では一致していると思われ、私たちがいると思っているこの物質界、現実界、現世との接点としての物質的・肉体的ベースを、無意識にも、かくも重視してしまう人類の根深い思考様式とはなにか、と考えさせられた。


末期ガンだったHの闘病中に、病の側から提起され続けたこうした問題群は、彼女が逝って一年数か月経った今も、いわばオープンなまま、私の思考領野に残されている。これらについて少しでも正しく―というのは、問題にふさわしく、ということだが―考えようとするには、厖大な関連知識や思考、周辺概念の見直しや整理が必要になる。納得がいくかたちで、これらの問題解決に一定の成果を出すのは、おそらく、私の生の残り時間の中では不可能だろうが、思考上の正しさやふさわしさのレベルを「落とす」のを受け入れるならば、ある程度の解決には到れるだろうか、とは思う。
病気に関わる他のすべてと同様、この「意識を落とす」措置についても、私は、H自身と率直に語りあい続けた。医学的見地から意図的に「落とす」ことになるかもしれないHの意識そのものがつねに目の前にあり、そういう彼女の意識そのものと語りあった。「落と」されるかもしれないHの意識に向かって、あらゆる状況データを示し、想定される事態を示す。その上で最善と思われる「今」という時間の過ごし方を作り出そうとする。こうした時間には、普通の日常生活では感じることの少ない生の臨場感があった。木下順二の戯曲のどこだったか、「あゝ今おれは彼と会ってる、確かに会ってる、今は」というセリフがあったが、こうしたリアルな「今」が発生していた。


強烈な覚醒のような瞬間こそ生や人生のクライマックスであるとするならば、来るべき近未来の時間の中、どう病気に対処するか、耐えがたい痛みが襲ってきた場合にどうするか、「意識を落とす」前の心をどう整えるか、整え得るか等などを、H自身の「意識」とともに検討し続けた二〇一〇年の春から夏は、私にとっては最高度の覚醒の継続の日々のようだった。
Hが入院していた病棟では、午後六時から七時の夕食の後、九時には消灯時間となった。部屋全体の明かりの消えた病室で、ベッドの小さな個人用ライトだけを灯し続けながら、身体について、病について、生死について、霊について、あらゆる価値と価値論について、ひそひそと語り続けた私たちだけの時間があった。
決死の軍事作戦を前にしたレジスタンスの兵士やテロリストたち、処刑を控えた処刑囚たちにも、しばしば暗がりの中で、こういう時間は訪れるのではないか… 大げさな比喩ではあるまい。当然のようにやってくる明日が、何カ月後、何週間後、あるいは数日後には停止するかもしれないという状況に直面した者は、普通の人間が当たり前のものとして受けとっている意識の継続性を、たったひとりで、または、わずかな対話者のみを交えて、まるごとカッコに括らざるを得なくなるのだ。
死の覚悟をする暇もない突発的な死を迎える者以外、これは誰もがいずれ迎えざるをえない事態であるはずなのだが、個別にこういう時を迎えるまでは、どうやら、これを絵空事やフィクションのようなものとして捉えようとするのが現代人の流儀になっている。いや、現代だけではあるまい。兼好は「人はたゞ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり」(『徒然草』第四十九段)と書いたが、彼の時代も同じだったのだろう。そうでなければ、彼がこのように強調する必要もなかった。


人間の生死の問題は、現実にはつねに、「意識を落とす」措置を含めた「意識」の管理との関連の上で考察されねばならない。意識というものが、通常の活動状態にあるかぎりにおいて、とかく自らの存続は恒常的なものであり永遠であると信じ込みやすいのを思えば、この考察課題にたいしては、なかなか適切なアプローチをとり続けることさえ容易ではないと見込んでおかねばならない。


病気に関わるすべて、病状も、そのさまざまな進行の可能性も、治療法も、治療法の限界も、物理的・社会的・経済的生活の今後も、私はHに対し、Hの意識に対し、隠そうとせずに話題に乗せ、俎上に載せ続けた。知識や状況把握も「意識」の一部分であるため、もしなにかを彼女に隠せば、それはすでに「意識を落とす」措置を部分的に施すに等しいと思われた。
意識至上主義だったろうか?
人間=意識活動そのものであるといった人間観のみに洗脳されていただろうか?
意識範囲の維持・拡張の方向にのみ人間を進ませるイデオロギーに与していたか?
通常意識なき人体、部分的に機能停止した脳を抱える人体、それらをさえ十全な生の状態にあるものとして回収できる生命観こそを夢見ている私は、今さらながら、いっそう強く、こうした反省に傾きがちになっている。





2012年2月24日金曜日

パレストリーナと禅

    

 遅ればせながら、パレストリーナ没後400年を記念したタリス・スカラーズのローマ・ライヴコンサートDVDLive in Rome  Celebrating Palestrina’s 400th Anniversary  The Tallis Scholars, Gimell2004)を見て、彼らのパフォーマンスに接するのに相応しい鑑賞形態だと感じた。
 彼らの歌唱は、CDでは何度も聴いている。
美しいのは言うまでもない。
しかし、CDだけで聴く場合、気分によっては乗れなくなる時があった。気晴らしのための音楽ではなく、心から魂に通じる部分を澄み通らし得るよう、静かに集中して聴くことをこちらに要求してくる音楽なので、鑑賞の途中で心の力や静けさが欠けると、進行していくパフォーマンスとこちらの意識の側のあいだに噛み合わなさが生じるのだ。音楽を聞く際、日常の些事や煩事が強く意識に蘇って気分を乱されることは多いが、タリス・スカラーズの歌唱はそういう心的な妨害の影響を被りやすい。
 DVDの映像を見ながら聴いていると、CDだけで聴いている時よりもはるかに容易に、無理なく集中を保てるのがわかった。『スターバト・マーテル』他のパレストリーナの有名な曲やアレグリの曲を、これほど自然に深く聴けた気持ちになれたことはない。
パレストリーナ自身が聖歌隊員として、また楽長として活躍したサンタ・マリア・マッジョーレ教会内部の比類ない美しさや、撮影の見事さ、女性歌手たちのドレスの色の配色の妙などが、強い効果を生み出していることに疑いはない。しかし、理由はそれだけではないと思われた。
 やはり、目を、まなざしを、視線を、美しく緻密に撮られた映像に委ねておけるがための効果なのだろう。見ることは、聴くことや感じること、嗅ぐことなどを損なうばかりとは言えない。適切な対象に適切な度合いでまなざしを委ねられれば、他の感覚の安定的な高レベルの能力発揮を可能にする。これらは、見ること以外の感官にも発生することで、日常のどの瞬間でも、繊細な感性でいられる時には、感官相互のこうした関わりあいや干渉の様子は知覚される。
 感官というと、情報の受容のみの器官と思い間違いやすいが、表現器官でもあると見たほうがよいだろう。音楽を集中して聴きながら、演奏者やなんらかの映像を見たりするのは、聴くことで得られている感動や気づきなどを簡易に表現している場合もあり得る。見ることは、視野が捉えている世界の情報受容行為ではあるが、いっぽう、こちらからの精神の照射行為でもある。精神と呼んで曖昧に聞こえるならば、少なくとも、見方や認識の仕方の枠組みの照射行為であると言ってもよかろう。大げさにいえば、対世界態度の表出行為でもある。見ることは、つねに双方向性の運動を合わせ持つ行為であり、古来、多くの神秘主義が、見るということを、エネルギーや霊の照射手段として捉えてさえいる。
 

 歌手たちの歌唱を、美しい教会の中で歌う彼らの映像を見ながら聴くと、このように、パレストリーナらの曲が非常に効果的にこちらの意識に入ってくる―、こういうことを実感したわけだが、これがおそらく、視覚の適切な扱いがなされた結果であろうと考えてみるうち、禅で勧められる半眼の難しさに思いが及んだ。
 もともと寝落ちするのを嫌ったためなのだろうが、座禅の最中に目をすべて閉じるのはよくない、魔界に通じる、とされている。半分ほど瞼を開けたままにしておき、畳の少し向こうに視線を置いておくぐらいがよいとされる。見つめるのではなく、視線を放り出すのである。
 四六時中この業をしている禅僧なら慣れていようが、一般の生活者にとっては、これがなかなか難しい。禅一般が難しいというようなものとは違い、瞼を半眼にし、さらに視線を適当なところに放り出しておくためには、目の周辺において、予想外に微妙で困難な力の入れ具合と緩め具合を要するという、ごく肉体的な困難さから来ている。
 慣れないうちは、こうした半眼の維持のためだけでも、多大の注意力が費やされることになる。当然、半眼から覗かれる畳の目や縁などの景物に意識が向かい、すぐ、それらについて認識しようと意識は動きはじめるが、もちろん、それをも脱落させなければならない。座禅の大きな目的は、肉体と意識の自然で自動的な運動性を反省し直し、その上で、こうした自動的な認識の動きから自我の活動を外し、さらに自我なき純粋意識のみを自律展開させようとするところにあるので、半眼維持による瞼や視線の扱いに純身体的に手こずる経験をしてみること自体、貴重なものであるのは論を待たない。しかし、現実には、半眼でのこんな視線の扱いひとつも、なかなか乗り越えがたい困難としてあり続けるのが禅の現場といえる。
 そもそも、自我を外したり、意識に備わる自動的な認識運動から意識核を剥がしたりするためなら、身体や精神に、意識をつよく集めるような一定の負荷を加えたほうが楽である。座禅よりは、秋の厖大な数の落葉を掃き集める作業のほうが効果的だし、高野山で行われてきたような山の上り下りの修行のほうがよい。職人がある作業に集中するような場合も効果的である。気を散らすと危ないほどのスピードで運転したり、単純なものから複雑なものまで含めてゲームに熱中することも効果がある。世の中の、多くの人が熱狂するような対象というのは、じつは、複数の感官を使用しつつ、精神の集中を容易に実現させるものや、自我の希薄化を可能にして純粋意識の活動を顕著にさせるものと決まっている。遊興というのは、誤解されやすいが、自我のルーティーン的活動からの逃避であり、いつも通りの決まった認識行為にすぐに取り掛かる意識活動パターンからの離脱であり、そうした表層的自我に対してフェイントをかけて、いっそう真と感じられる自我に会おうとする試みである。したがって、遊興とはすべて、媒介物による瞑想行為だともいえる。ニューエイジの強大な影響力を誇った霊的な師のひとりで、のちにオショーと改名したラージニーシは、踊ったり走ったり、あるいは日常の身体的活動すべてを含ませたダイナミック・メディテーションなるものを編み出したことがあるが、これも同種の目的に立つ方法だった。これは彼の独創ではない。もともと禅にある方法であるし、真言密教にもある。意識が飛ぶほどに身体をぐるぐると回転させ続けるグルジェフのダンス瞑想も有名だが、これも狙いは同じとみてよい。真言立川流ばかりか、インドの古い瞑想術は、セックスも瞑想手段としている。
 ものに頼り、作業に頼り、身体を日常と異なる運動状態に置けば、瞑想は、じつは、このように容易に達成されるということなど、禅者たちは知り尽くしていた。ただ、彼らは、媒介物を用いた瞑想については、掃除や料理、農耕などの場で行い、座禅においては、媒介物なきより高度な方法を採ろうとしたのである。
座禅における半眼では、視線を放って畳を見ながらも通常の認識作業を意識に行わせないという微妙な方法をとることで、まず、意識が自動的にとろうとする通常の動きから逃げずにそれを反省しようとする。そうしながら、意識のそうした運動性部位から離れる試みをし、さらに、このような反省と試みをする主体である自我を浮き彫りにし、明瞭に枠づけし、それを丸ごと捨て去り、この上で、捨て去るメタ主体をも落とす、というところまで行こうとする。こうした一連の試みにおいて、座禅の際に放たれ続ける視線というのは、すでに「まなざし」ではなく、視野に入るものを見ていない空虚な視線であり、この場合の視線は瞑想を助ける杖や媒介物ではありえない。禅の実践における核心部分を象徴するものが、まさにここにある。
もちろん、「座る」ということ自体を媒介物とみなすべしとの見地もあろうが、私にはそうは思われない。禅者は立ったままでも禅をするであろうし、必要なら登った木にしがみついたままでも禅をするだろう。座るのは、その姿勢こそが、自我と意識という荷物の困難さをいちばんくっきりと突きつけて来やすいものだったからで、禅は、一見すると最もありふれて容易なようでありながら、実のところは最も困難な姿勢を採用したと見たほうがよい。
只管打座とはよく言ったもので、なにも考えないようにしつつ、悟ろうとせず、ただ座れ、座っていろ、と言われれば、否応なく、意識は逆に、あらゆる記憶や妄想や価値観の乱舞などの場となる。座る姿勢は、それらから気を逸らすための媒介物の役には立ってくれない。それらの乱舞の恰好の舞台となるのみだ。
禅が、このように、困難かつ微妙な厳しい行程の採用と設置を意図的に行ったことについては、私たちのように自我や意識の実践的研究において禅の外に身を置き続ける者にとって、つねに最高度の観察をし続ける価値がやはりあるといえる。


寺や修行場を外し、座禅の姿勢や時間を除き、瞑目せず、精神集中さえせずに、普通の生活人の日常の生活そのものの中で常時悟っていることができる方法が確立されねば、万人を瞬時に救いうる宗教的方法とは言えない。この火急の一点において、禅ばかりか、仏教全般、キリスト教、イスラム教、その他のあらゆる新興宗教は厳しく全否定されるべきであるが、それらの中に散在する古人の努力や知恵、企みの数々を逸するわけにはいかない。

2012年2月13日月曜日

島木赤彦、短歌革命の開始



生活精神の統一から我々の歌は生れて来る。簡単な生活は統一されやすく、複雑な生活は統一されがたい。統一に難きほどの生活を統一し得る多力者が歌人に現れ来たらんことを私は望んでいる。
『随見録』




 二月は、島木赤彦が胃ガン手術不可能と診断され、余命わずかであるのを観念せざるをえなかった月である。
一九二六年一月に胃ガン宣告をされ、三月二十七日に亡くなることになる。
 古い話ではある。
しかし、五十一歳で亡くなった赤彦が残した歌の数々には、私はたびたび立ち返り、そのたび、詩的瞑想とでもいう境に入るのを楽しんできた。得がたい詩境を開き、残してくれた先達のひとりであった。
 近代に入ってからの歌人は、若くして歌集を出すことが多い。赤彦は、一九〇五年に大田水穂と合著の詩歌集『山上湖上』を出したが、そこでは彼は詩を発表している。一九一三年に中村憲吉と出した合著『馬鈴薯の花』こそが、彼の第一歌集だった。
三十八歳であるから、短歌形式一本で立つ歌人としては早いとはいえない。彼はそれまで、長野県での教職経験をすでに積んでおり、明治の終わりには小学校長や視学も勤めている。養鶏を業としていた時期もあった。歌集刊行の翌年、一九一四年に諏訪郡視学を退職し、上京して「アララギ」の編集に当たることになる。淑徳高等女学校で国語・漢文を教えながらではあるが、彼の中ではむろん、歌人としての自分を宗としていただろう。亡くなるまで、実質的な活動期間はあと十一年ほどしか残されていなかったが、いわゆるアララギ歌風の確立をこの短期間に遂げてしまうことになる。
 『馬鈴薯の花』を編むにあたって、赤彦は、十首ほどを例外とし、明治四十二年(一九〇九年)以降の歌のみを掲載した。それ以前に作った一千首ほどはすべて棄てたという。生活も思い切って改めたが、創作上でも革命を断行したものといえる。作歌や詩作をする者なら、ある時期以前の多くの自作を棄てる困難がわかるだろう。三十代も後半になってからのこうした決断は、今後いっそうの質量の作歌ができるとの確信や作る覚悟がなければ難しい。同時に、自らの青春とそこでの産物を捨て去る覚悟も必要とされる。昔取った杵柄の中に埋没して老いていく詩人や歌人は多いが、赤彦の行動はこうした轍を踏むまいとするものだった。これは、近代以降、ともすれば青年期のすさびと限定されやすい詩歌行為を、全年齢の人間が関わるべき行為として、ことに、人生経験を積んだ壮年老年の人間たちこそ関わるべき知的活動として再生させ直そうとする個人的な戦いでもあった。
 このような経緯は、『馬鈴薯の花』の歌に触れる時、特に知っていなくてもよい。赤彦自身の詩的革命遂行の衝撃は、作品そのものから直に来るからである。赤彦の歌境は、彼より後、現代に到るまでの幾多の若い青年歌人たちが作り、発刊して世に問い、当然ながら程なく忘れ去られることになった、浅い詩境から成る無数の若書き短歌をあらかじめ超克し、否定し去っている。彼の歌は、時流に流されず、数世代の偏った趣味にも汚されずに詩歌の泉に立ち続けようと求める者にとって、たえず立ち返るべきものとして、騒ぎ立てることなく、静かながら強烈な発光を続けている。たとえば、この歌。

森深く鳥鳴きやみてたそがるる木の間の水のほの明りかも

 歌以前に、自然や生活に対する態度において、じつに要求の多い作品といえる。黄昏時、鳥の声も止んだ森深くの水のほのかな明るさを見続け、それを意識のなかに引きとどめ、そうして歌のかたちで表現しようとする。心をこのイメージに留め、言葉をさまざまに集めながらそこに沈潜しなければならないので、作歌にはもちろんかなりの時間がかかっていくが、それ以前に、他の対象を棄ててあえてこれを選び、ここに留まり続ける精神が形成されていなければならない。たった一行の歌、たった数行の詩が成るには、このように、土壌というべき精神のあらかじめの形成がつねに必要で、そこにはしばしば何十年の歳月が費やされねばならない。若干の天才を除き、多くは流行りの小手先の理知で拵えられがちな若者の詩歌なるものが、つねに、ほぼ全否定されねばならない所以である。
 使用された文字数や音数、文字づらのあり方、韻律との兼ねあい、そしてなによりも、自我という雑音の削ぎ落しのさまの見事さにおいて、赤彦のこの歌は、世界の古今東西の詩歌の中でも最上位に位置する傑作である。これが一九〇九年に日本語で作られてしまっている。その後を引き受けた二十世紀の詩歌人たちの創作が苦しくなっていくのも当然だっただろう。
 
花原の道はきはまる森の中の静けさ思へば鴨鳴くきこゆ

げんげ田に寝ころぶしつつ行く雲のとほちの人を思ひたのしむ

妻子らを遠くおき来ていとまある心さびしく花ふみてあそぶ

げんげんの花原めぐるいくすぢの水遠くあふ夕映も見ゆ

夕日さすげんげの色にかへるべき野の家思へばさびしくありけり

 最初の歌と同じく、これらはすべて明治四十二年の歌だが、ここには、当時の赤彦の歌の特徴のひとつである距離感の導入と、それが意識にもたらす効果についての検討が顕著である。「思へば」や「思ひ」は、心的対象の現時点での不在と、しかしながらの心的な実在、それへ向かっている意識状態を同時に表わす。そのため、「遠く」や「とほちの」などと同等の機能を持つ表現であるが、いわば、〝離れ〟にこだわる歌が、『馬鈴薯の花』に採られた明治四十二年の作品としてこれだけ並ぶのも興味深い。ここには明らかに赤彦の精神構造と詩法が露呈しており、一首ずつの作歌の都合上でたまたま採用された演出法ではなかった。離れること、離れたものを思うことからしか、三十代後半の赤彦の心にかなう歌は生まれ得なかったか、と思われる。ちなみに、「妻子ら」や「野の家」が離れた対象とされているのを見れば、「とほちの人」もおそらく家族を指すのであろうし、「森の中の静けさ」や「いくすぢの水」なども、家族と同じように心を安らがせる対象として捉えられているものだろう。
 明治四十三年にも、

   冬野吹く風をはげしみ戸をとぢて夕灯をともす妻遠く在り

という歌があり、現在自分のいる「冬野」を「吹く風」の激しさの中で、遠い「妻」への思いを募らせ、そこに歌の発生を図っている。
しかしながら、ぐっと〝離れ〟の導入を後退させた次のような歌も増えてくる。

草枯の野のへにみつる昼すぎの光の下に動くものなし

冬枯の野に向く窓や夕ぐれの寒さ早かり日は照しつつ

ところどころ野のくぼたみにたたへたる雪解のにごり静かなるかも

かかる国に生れし民ら起き出でて花野の川に水を汲むかも

さ夜ふかき霧の奥べに照らふもの月の下びに水かあるらし

小夜ふかく炬燵にゐつつ庭つづき原なることをさびしみにけり

 いま現在の視野の内に発生するような物と物相互の間の距離、〝離れ〟は別としても、作歌において、過去と現在の時間差に象徴されるような、意識内部に発生する距離の削除が行われるようになってきている。現在視野の中のみの物象だけを扱い、それらが作者と読者の意識に生じさせうるものを歌の発生源とし始めている。
「草枯の野のへにみつる昼すぎの光の下に動くものなし」は、この点、象徴的な歌ともなっていて、「光の下に動くものなし」というのは、現在視野にある以外の意識内部のものは無視する、すべきである、との宣言にもなっているかのように見える。
もちろん、起き出てきた「民」を形容する「かかる国に生れし」などは、現在視野の外の知識と思考から来る不純な表現のままであり、「さびしみにけり」という自己の感情状態の断定も無用のもので、赤彦は以後、これらの表現の厳しい削除に立つ作歌に向かっていくことになるだろう。
赤彦の短歌革命はこのように始まった。過去と現在というものの関係の比較的安易な扱いは、それまでの文芸にたびたび見られるものであり、ことに前時代のロマン主義文学の特徴であったが、赤彦はここに根本的な反省を導入したといえる。抒情の器とのみ見誤られることも多くなってきた近代短歌だが、一九〇九年以降の赤彦の作歌は、世界文学の中での詩歌の傾向のひとつとしてのみならず、言語表現をよすがとしながらの精神性探求のあり方のひとつとして、くり返し再考されるべき価値を有しているのは疑うべくもない。



2012年2月12日日曜日

桐壺への情




桐壺をひさしぶりに読み直し、桐壺更衣に対する父帝の情の深さが泌みてくるようだった。
かつては、さほど思いにも残らなかったところだが、過ぎた歳月にこちらの心の反射角が変わったかもしれない。あまた目にしてきた世間や周囲の愛憎の劇が、人の情や愛欲へのこちらの間口を広げたかもしれない。

さるべき御遊びのをりをり、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづまうのぼらせたまふ。ある時には大殿籠りすぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひし…

夜をともにさせた後も、ひきつづき傍に置いておく。作者自身、「おのづから軽きかたにも見えしを」と書いているものの、ここでの父帝の振舞いは、むしろ、桐壺を並みの女房に見えるようにするという方便さえ使いながら、とにかく桐壺を少しでも長く傍に置いておこうとしているもののように見える。
愛しているのだ。
執している。溺れている。ひとときも、遠くに置いておきたくない。父帝の、こういう自身の情に対する態度は誠実で、気づき直して眺めれば、恋の目を洗われるようである。


 「すぐれて時めきたまふ」という桐壺が、本当に魅力的だったのかどうかはわからない。「すぐれて時めきたまふ」は、うっかりすると、きらめくような美しさと受けとめがちにもなるが、これは寵愛を受けて栄えているというほどの意味だから、桐壺の美しさや魅力を保証しているわけではない。さほど美しいというほどでもなかった人か。過分すぎるほどの愛情を、なぜか帝は桐壺に覚え、人目も憚らぬ振舞いに出た。そういうことはないか。
そんなふうにも思いながら読み直すと、冒頭のあの文、

いずれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

これは、格別に美しいわけでもなかった桐壺、として読んだほうが、帝の情愛がいっそう身に泌みてくるようで、味がある。もちろん、生まれてきた光源氏が「世になくきよらなる玉の男御子」というのだから、もとより、無理にこだわるべき見解でもない。しかし、絶世の美女からでなくとも美男は生まれるだろう。その逆もある。
 たとえ一時さえも、肌身離さず、というほどの、帝からの桐壺への扱い、情の深さ、情の氾濫のさまは、それにしても、愛おしい。
帝とあるので、これもうっかり壮年以上と思い込んで読んでしまいがちだが、けっして、老いた老獪な男でなどあるまい。まだまだ若い男であろう。若い男の体であろう。その体に溢れる素直な情欲、そのままに動こうとする一途さが愛らしい。冬の朝など、肌の若々しい冷たさが桐壺を求めるのだろう。汗には、切り取ったばかりの菖蒲の香が立つだろう。
昔、ごく若い頃に読んだ桐壺の巻は、帝権のままに幾多の女たちを集め、夜々、気の向くままに選んで伴をさせている王者の我欲からはじまる物語と見え、むしろ不愉快であった。そうでなくともこの巻では、源氏自身の出生の物語、寵愛を受けた桐壺更衣の命の衰えの物語などの縒り合わさりの様を追うのに忙しい。父帝の情の真摯さ、隠しようのなさについては、わざとのように見逃し、見落として、昭和の戦後の急ごしらえの市民倫理に都合のいいように読み進めていこうとしがちであった。


私の揺籃たる戦後昭和の男女観や人間観、社会観や世界観、そればかりか、平成のここまでの日本の感性や常識のすべてが愚かであった――とまでは思わぬものの、桐壺の巻ひとつでさえ、読み直して、父帝の情欲の真摯な温かさと若さを汲み直すにも、なんと多くのものを脱ぎ捨てねばならないか、と思う。
むろん、第二次大戦までの日本の人間観が良くばかり見えるはずもなく、ましてや中古の倫理観に今さら首肯できるはずもないが、とりあえず、戦後の感性や思潮の風土は一巡し、旧来のイデオロギーのひとつとみなすべき対象となった。
先の原発事故とその後の日本社会の対応のあり方が、それを明らかにしたのである。
日本人は、自らの高度成長期とそれに続くバブル期、そして平成の精神的崩壊期という、それなりに長かったある自家戦争のようなものに敗北し、自爆したのではないか。
いわゆる311なるものは、第二次大戦後どころか、近代の日本人の、大がかりな完膚無き敗戦であった。

  

「愛す」「愛している」など




 日常の言語表現がいかに慣用的なとりあえずの表象にすぎないとはいえ、現代日本語の「愛している」がどれほど滑稽でナンセンスかは論を待たないだろう。
 とても大事に思っている、とでも言うに留めておけばいいところをあえて「愛している」と言うのは、相手に性愛対象としての魅力ばかりか、生死や身体的限界をも超えた永遠の魅力を感じている、との含みを十分に持たせたいからに他ならないのだろうし、こと若い時期においては性欲の発動から(性を冷徹に見つめ続けた吉行淳之介は、性欲ばかりか愛なるものの強度など、溜まった精子量に比例するノボセにすぎないといった内容の話をどこかでしていたものだが…)そうした安手の「愛」の形而上学が発想されてしまうこともよくあることではあるのだから、この点についての理解もできないわけではないが、ワーグナー世界がつねに強度を以て展開されているのならともかく、さほどの熱情や自己犠牲が振り向けられているともいえない対象に向かって、当面の一度か数度の射精程度のさもしい逸楽と将来的な性愛的かつ慣れ合い的関係における安穏のために「愛している」と発話される場合、この表現は、羊頭狗肉も極まったといえるほど空虚で冷笑に満ちた形式に堕している、と、まずは見なしておくのが最低限理性的というものであろう。


 そもそも、古語に遡って見直した場合、誰もが知るように、「愛する」の大本にあった「愛す」の基本にあるのは、上から下へ、優位にあるものから下位にあるものへの好意や愛情、愛着という語義構造である。親から子へ、人間から動植物へ、事物へという高低差のある情を表わし、類似構造を持つ「あはれぶ」「かなしぶ」「うつくしぶ」などに通じることになる。
 もともと漢語の「愛」がサ変動詞になったものだが、漢語が日本語になっていく際には、漢籍系と仏教系のふたつの系統が存在していた。「愛」の場合、漢籍系ではプラスの意味を持ち、恵、親、寵、慕、好、仁などに通じる。しかし、これが仏教系ではマイナスの意味になる。十二因縁のひとつの「愛」であって、貪、執、染に通じる。悟りを妨げ、成仏の障害となるものが「愛」である。親が子を「愛す」場合でさえ、それは親を迷わせて、成仏できなくする要因として働く。『方丈記』で鴨長明が「今、さびしき住ひ、一間の庵、みづからこれを愛す」と書きながら、すぐに「仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、閑寂に著するも、さばかりなるべし」と追い書きしているのも、「愛す」という言葉の仏教系の語義に忠実だったからだろう。絶対に優先すべき仏道に照らせば、庵への愛など限定された一時の愛好にすぎず、これを手放す覚悟はむろんできている、そう言っておく必要を長明は感じていたのである。
 古文における「愛す」の多義性は、漢籍系と仏教系の二系統を一語で引き受けたところから来たというべきなのだろう。
 使用場面から見れば、「愛す」は具体的な事物に即しながらの感情の表現である場合が多かった。長明のように庵を「愛し」たり、有名な虫めずる姫君のように「この虫どもを朝夕べにあいし」たり、「六条殿をば愛しまうさせたへりけり」という『大鏡』における村上天皇の描写のように、子供を可愛がる時に使われたり、『徒然草』にあるように「家に蓮を植ゑて愛せし」と使われたりするのは、そうした例に当たる。『今昔物語集』には、「こよひ正しく女の彼のもとに行きて、二人臥して愛しつる顔よ」という用例があるが、これはまさに性愛を語っている箇所で、ここでは、抽象的精神的な「愛」ではなく、肉体的な「愛」にこそ焦点が当たっている。多少とも精神的、内的な「愛」を語るためには、古語では恋情表現として用いられる場合の「思ふ」を用いなければならない。「思ふ」は、愛情の誓いを下敷きにしているからである。
 とはいえ、『保元物語』の「八郎返す返す見て、わが弓勢の程ぞ愛しける」、『徒然草』の「誉れを愛するは、人の聞きを喜ぶなり」などを見ると、「愛す」の対象は、中世の使用例において、はやくも抽象的なものへ広がり始めている。一直線に来たわけでもなかろうが、こうした抽象化の流れが、可愛がったり、執したり、大事にしたり、慈しんだりするという意味合いにおける上下差の希薄化、さらにはその構造性の脱落を伴いつつ、近代以降の日本語の「愛する」を準備したとは言いうるだろう。


 現代の恋情表現の「愛している」を見る時、『今昔物語集』にあるような性行為への使用例が幾時代を飛び越えて生き伸びつつ、さらにそれを朧化していく日本特有の傾向が発揮されているような印象を受けるが、善良なる市民たちの健全なる家庭や巷においてあえて「愛している」とはっきり発話する人々は、もちろん、自分が口にする表現が、実のところは巧妙にソフィスティケートされた単なる性欲の主張に過ぎないとは認めたがらないであろう。自己犠牲の準備もある全的な受け入れ態勢のプレゼンテーションとしての「愛している」なのだと思い込みたい、信じ込ませたい、という邪欲がここにはあり、「大事に思っている」では洩れ落ちてしまう奇妙なセンチメンタリズムが、―もちろん、よりお好みならば、芸術的なまでの虚構化が、さらには形而上学的含意がここにはある。
「大事に思う」と「愛している」の間に存在するこの何か、この形而上学的含意は、現代日本の「愛」なるものを考える際には第一に考究すべきものだろう。いきなり「愛」から考え始めれば、間違う。「愛」から始めれば、「愛」という単語の発話行為に巧妙に仕掛けられている姦計に最初から取り込まれてしまうことになるし、刷り込みをされてしまう。なぜ「大事に思う」や「とても大事に思う」だけではいけないのか。そういう、いわば策略的な「愛」の発話行為やそれの許容への否定疑問から入っていかなければ、現代日本の「愛」は対象化することさえできない。
漢籍系や仏教系の意味を引き摺り、いろいろと展開されてきた語義の歴史を持つ日本語の「愛す」の直系の子孫たる「愛する」を、それにしても、なんとまあ非論理的に、軽々しく、ほとんど政治家の演説なみに意味をがらんどうにしながら用いたものか、と思ってしまう。恋情表現の場面では、せいぜいが「大事に思っているヨ」ぐらいの表現を採っておけばいいものを、なにをトチ狂ったか、「あなたを愛しています」などと真顔で言ったりするからいろいろなことがおかしくなるのであって、「大事に思っているヨ」とか「あなたを(とても)大事に思っています」ぐらいに言っておけば、よほど正確であろうし、「愛しています」に含まれている奇妙な形而上学性に触れないで済ませられるはずだ。


「愛している」や「愛す」についていろいろ考えさせられたのも、たまたま与謝蕪村のこんな一句を読んだからだった。おや、と思ったのである。

   二もとの梅に遅速を愛すかな

 蕪村らしからぬ、といっては失礼にあたろうが、「愛す」という言葉の使用に、少し驚かされたのだった。
 古文の現実の読書の現場では、「愛す」は、かわいがる、愛情を注ぐ、気に入る、好む、気にかける、執着する、などといった意味あいで読んでおけば、当座の役には立つことになっている。蕪村のこの句の場合、気に入る、好む、気にかける、などの意味あいを見ておけばいいのだろう。梅の花の、こちらが咲き、あちらが咲かず、といった開花の遅速のさまを、気に入っている、気にかけている、好んでいる、と洩らす蕪村の声を聞いておけばよい。
 むずかしいことはなにもないのだ。二もとのこの梅の遅速がいいんだよ、いいんだよなあ、という程度の気分を蕪村は言いたかっただけのことで、読者として、「愛す」という表現にそれ以上のこだわりを示すのは野暮というものであろう。句作というのは、日常口語でもよいが、古語以来のあらゆる言葉を用いてよい舞台であり、律の問題もあるから、ここでは「愛す」が採用されただけのことだったろう。
 江戸期の口語の個々のヴォキャブラリー実情に詳しくないので、あまり断定的なことは言えないものの、日々の実生活の中では、蕪村はそう年中「愛す」と口にしたわけではなかったに違いない。梅の花の開きの、こちらが早い、あちらが遅い、などの妙味を言う際には、「いいね」、「いい感じだ」、「好きだ」、「気に入る」などに類した表現を使い、まず、「愛す」などとは言わなかったのではないか。かりに日常でこれを用いれば、どこか調子が狂ってしまったはずだろう。言葉が通常の使用から離れて走り出し、ある種の形而上性のなかで思考せねばならなくなる。
 そういう言葉を、句作の舞台上という言語表現の演劇の場においてであれ、蕪村が使っている。これに驚かされ、面白く思ったのだ。
 梅の咲きぐあいの遅速という現実的かつ日常的なこと、しかしながら、生活そのものとは少し違う美の世界に通じていく物事、これに対して、いわば、ちょっと違和感の出る「愛す」を用いて、「いいね」、「いい感じだ」、「好きだ」というだけでは含意できないものを、あの蕪村にして、導入しようとしたのか、と思う。
 この蕪村の表現態度からそのまま現代の「愛している」の使用に飛べば、あたかも、現代日本人が、この表現の使用によって、生活そのものと接しつつも遊離した美的世界に「愛」を開き、その懸隔を維持しようとしているかにも思える。考え続ければきりもない文化論に入り込んでいくが、そうか、日本人は「愛している」と言うことで、独特の形而上学に支えられた虚構の詩幻の世界を、ともすれば心を鈍化させるばかりの日常と、本来は情も魅力もなにもない生理的いっぽうの性欲の衝動の上に、落ちてきてはまた叩き上げる紙風船さながら、たえず開こうとし続けたものでもあったか、と思い到らされもする。


 そういえば、こういう近代日本語の恋情表現の問題所在に敏感だった与謝野晶子は、中期から後期にかけ、いまから思えば早過ぎるともみえる六十四歳という死去の年に到るまで、「ラヴ」という表現を用いて、わかりやすいとはいえない作歌をときおり行い続けている。

その昔ラヴの流れし日の熱を水は思はず余りに冷えて (『瑠璃光』)

軽井沢昨日のラヴは朱に乾き藍むらさきす新らしき霾(よな) (『緑階春雨』)

  ラヴの路たとへて云へば沙弥達の麻のころもの荒き手ざわり(『草と月光』)

  ラヴの洲が投げられしごとあるに添ひ草の紅葉が染むる湖

  ラヴの上樹海曇れば何ごとぞ野焼のあとの蓬生と見ゆ         

ときおり、なにを歌おうとしているのかわからないような作歌をあえて続けても来た与謝野晶子のこれらの歌においては、「ラブ」なるものがLoveのことなのかどうかさえ決めづらい。
しかし、他の歌人たちと比べても格段に多くのエネルギーを割いて「愛」の周辺で作歌を行おうとしたこの特筆すべき巨才の歌人が、「愛」と書かずに「ラヴ」と表現することで、自分に起こっている恋情やそれ以上のひろがりを持つ心情の問題を捉え直そうとしていたことは確かだろう。これらの歌において、彼女が「愛」も「恋」も「恋愛」も「愛情」も採用せずに「ラヴ」と記し続けたことは、日本語の限界点に近代最大の歌人のひとりが彷徨わねばならなかった大事件であるはずだが、今の日本人はこのような大事件の余波の中で、浮薄にも水母のようにも、やすやすと「愛」を語り、能天気に「愛している」などと言い続けている。