2015年12月12日土曜日

国立劇場十二月公演『東海道四谷怪談』

この頃、歌舞伎はつまらなくなった気がして、少し足が遠のいていた。それでも、鶴屋南北のものが掛かると、やはり落ち着かなくなる。お岩に引き寄せられたか、国立劇場十二月公演『東海道四谷怪談』に、するすると出かけていってしまった。大好きな狂言、どうせ見るからには、間近で見る他ない。前から二列目に陣取り、じっくりと。南北は昔、舞台際の席をかぶりつきと呼んだが、それは一列目だけを云うのか。二列目あたりも加えていいのか。

冒頭、染五郎が鶴屋南北となってせり上がって来て、導入の口上をするところからして楽しかった。工夫横溢。お岩のお化け姿もたっぷり何度も出てくれて、怪異好きにはうれしい。怪談としては、ずいぶんこってり作ってくれている。せっかく怪談を見に行っても、お化けの出どころが今ひとつ足りないと、がっかりさせられる。2015年の世の中、百鬼夜行の世間に負けないよう演出が頑張ったらしい。
今回のは染五郎歌舞伎というべきで、ひとり三役、早がわりも宙釣りも提灯抜けもあって、くるくるとよく動き、頑張っている。彼のお岩に、父幸四郎の民谷伊右衛門が合わせてくるのが、全編の軸になっている。

とはいうものの、染五郎のお岩、いいのか、悪いのか。
脚本を読む時に自ずとこちらの脳中に動き出すお岩というのは、なかなか簡単な女ではなく、たゞ従順に忍んで伊右衛門を支えるような性格ではない。複雑な意思も覚悟もあっての、伊右衛門との貧困生活を耐える女である。軀がちゃんとあり、江戸の女の肉がある。そういうお岩の顔が爛れ、髪がズルッと抜け落ちるからこその凄みや哀れがこの作品にはあるのだが、染五郎のお岩はどこか抽象的で、生身とはいまひとつ違う空虚な女のまゝ、面倒なほどの生活観もわずらわしくなるような人格も、今ひとつ十分に滲み出ては来ない薄っぺらさがある。
 しかし、これは染五郎だけのせいではない。
我儘に舞台を想像しながら、ひとりで脚本を読む時に立ち現れてくるお岩を超え得るようなお岩など、いろいろ見てきた舞台上の『東海道四谷怪談』において、誰ひとり見せてくれたことはなかった。今は昔、シアター・コクーンでの勘三郎の『東海道四谷怪談』など滅法楽しかったが、お岩のリアルさはどうかといえば、そこは不問に付すのが嗜みというものだった。
こんなふうに舞台を重ねて見ていくうち、不満というのはどんどん溜まっていくもので、いつか、歌舞伎は脚本を我儘に読んで、思うさま舞台を想像していくことこそが最高のつきあい方と思うようになった。役者たちがいけないというのではない。歌舞伎というものに内蔵されている、本質的な欠陥のようなものが気になる。そんなところかもしれない。

うちの母や祖母あたりは四代目雀右衛門や六代目歌右衛門のお岩が怖くて怖くて、夢に見たと言っていた。下谷小学校第一期生だったという曾祖母ともなれば、これはもう、くっきりと明治の女で、江戸時代より下谷にあった大きな筆屋の池田屋のお嬢さんだったが、彼女あたりは、五代目菊五郎の凄いお岩を見ていたかもしれない。
そういう往時のお岩と比べると、1970年代終わりより私が見続けてきた昭和平成のお岩は、どうもペラペラ感が強いような気がする。『四谷怪談』のような劇にどうしても必要なのようなもの、貧しさと不遇に喘ぐ人間たちから取り除けないはずのくたれ具合、ヨレヨレ感が、バブルの泡沫を通過するあたりでか、それとも平成のコンビニ文化や表層的接客マニュアル文化によってか、やさしく拭いとられてしまった気がする。

とはいえ、今回の『東海道四谷怪談』では、幸四郎演じる民谷伊右衛門とお岩のやりとりの場で、双方のいろいろな思惑や感情が混じりあったまゝ、自然な暗い沈黙がしばらく領する場面が何度かあって、よかった。あゝ、これぞまさに芝居、いい時間を醸し出してくれた、と感じた。架空を超えるどころか、こちら側の生の現実をもしばし超える劇のリアルさが出現する時間で、こういう時間がちょっとでも得られれば、芝居は成功なのである。小説であれ劇であれ、いいもの、成功した瞬間というものは、こちら側の日常の生も、じつはたゞの一片のフィクション程度のものに過ぎない、と思わせる。創作物の功徳は、古来、ここにこそある。
 大詰第四場、「鎌倉高師直館夜討の場」もよかった。雪の降り続ける中での斬り合い、格闘、乱闘の素晴らしさ。こんなに紙の雪をふんだんに降らせる長い演出は、最近では珍しいのではないか。今回の公演では、これこそが最大の成果というべきで、『東海道四谷怪談』という狂言さえ、しばらくどこかに飛んでしまうほどの夢幻境であった。劇の中心軸をなす筋や、人物たちのもつれ合いさえ、どうでもよくなって後景に退いてしまうような瞬間が、歌舞伎の上演中にはしばしば降臨する。あれはいったい、なんであろうか。観客はすでに自分の人生など離れ、かといって、劇中の人生たちからさえも離れ、舞い乱れる紙吹雪ばかりを世界とするのだ。歌舞伎の醍醐味というのは、あらゆる意味や物語のほつれた場所に、こんなふうに連れて行かれてしまうところにこそ、あるのではないか。      
前の方の一列目はもちろんのこと、二列目あたりに座っていてさえ、あの四角い小さな紙の雪は乱れ落ちてくる。舞台上の人物たちと同じ雪を、同時にこちらも受ける時の印象は、ほとんど衝撃といってもよい。夢が、フィクションが、肩に、腕に、降りかかり続けるのである。